(3)
家庭訪問からおよそ一週間が過ぎた。
五月十八日は敬太の誕生日だ。その日の夜は父の提案で焼肉を食べに行くことになった。家から車を十分ほど走らせたところにその店はあった。「安くて、美味い」で有名な全国的なチェーン店だったが、敬太にとっては肉が食べられればどこでもよかった。幸い、彼の舌は肥えていない。当然、文句のひとつも出てくるはずがなかった。
二時間の食べ放題コースを三人分頼んだ。敬太と母はソフトドリンクの飲み放題をつけ、父はアルコールの飲み放題をつけた。帰りの車は母が運転してくれるらしい。その代わり店のお会計はあなたが持ってね、と行きの車中で母が父にこっそりと耳打ちしていた声は、敬太の耳にもしっかりと聞こえていた。敬太はそのあいだ目をつむり、寝たふりをして聞こえていない演技を貫いた。
店内奥のボックス席に案内された三人は、ビールとウーロン茶とカルピスをそれぞれ頼んで乾杯にうつった。「敬太、十一歳の誕生日おめでとうっ」と父は嬉しそうな声で音頭をとった。にこやかな笑みを浮かべて「おめでとう敬太」と母も言った。三人のグラスは軽やかなハイタッチを見せるかのように触れ合い、小気味のいい音を鳴らした。
店員が注文をとりにやってくると、敬太はカルビとロース、豚バラ、大ライスを注文した。母は足りないものを補足するみたいにタン塩とキムチ、それからシーザーサラダを頼んだ。そして最後に父が枝豆とタコわさを追加した。いつもあれほど食べている父が細々としたおつまみしか頼まなかったのは意外だったが、母が小声で「お酒を飲むときはいつもこうなのよ」と教えてくれたおかげで敬太は安心した。てっきり食事が控えめなのは、健康診断の結果が悪かったのではないかと心配していたからだ。
注文した料理がひととおり運ばれてくると、何も言わずとも母が率先して肉を焼いてくれた。網の上に牛脂を塗り、まずは脂の少ないタンをバランスよく配置し、しばらくして肉を反対側へ裏返す。できるだけトングは肉にはつけず、半焼けの部分を作らないように十分に火を通した。焼きあがったタンはそれぞれの取り皿に配られ、それから彼女はすぐに次の肉を網に載せた。今度はロース、その次はカルビ、豚バラ、そしてまた再びタンに戻った。できるだけ敬太が飽きないようにローテーションを組んでくれていたのかもしれない。彼はただ一心不乱に、休む暇もなく次々に運ばれてくる肉を大ライスと一緒に口の中へかきこんでいるだけでよかった。
ふと目の前の席を見たとき、母の取り皿には山のように肉が積み上がっていた。さっきから母は焼くことばかりに専念して、一切肉に箸をつけていなかったのだ。下敷きになっている最初の方に焼いたタンはきっと冷めているだろうなと敬太は思い、母に向かって「代わるよ」と申し出た。しかし彼女は首を振って「主役はじっとしておきなさい」と断った。
父は相変わらずのんきに、母の隣でビールを片手にキムチと枝豆をつまんでいた。いつになく早いペースでグラスを空けていた。そして彼が店員に三杯目のビールを頼んだとき、手持ち無沙汰になった父はいきなり敬太に向かって欲しいものを尋ねた。「そういえば誕生日プレゼントは何がいい?」と。
当日になって欲しいものを訊くのは少しばかり準備不足なような気がしたが、それでも誕生日プレゼントを買ってくれると言ってくれているだけも敬太はありがたく思った。「何もいらないよ。いま欲しいものはとくにないから」と敬太は首を振って質問に答えた。
「あら、せっかくならバトルエンピツでも買ってもらえばいいのに」と母は言ってその会話に加わった。「集めてるんでしょう?」
「バトルエンピツ?」と父は復唱した。どうやら母は家庭訪問の詳細を父に告げていなかったらしい。彼は初めてその言葉を聞いたかのような顔で小首を傾げていた。「なんだそれは」
「いま、敬太のクラスで流行ってるみたいなの。ほら、よく受験とかでエンピツを転がして選択問題埋めてたでしょう? あの要領で、エンピツの側面にそれぞれ技の名前とかダメージみたいなのが書かれてたりしてて、それで戦うんだって。知らない?」、いつの間にかバトルエンピツについて調べ上げていた母は、頭上にハテナを浮かべる父にわかりやすく説明していた。
「へえ、そんなものが流行ってるなんて意外だな」と父は言って感心したように肯いた。「てっきりテレビゲームとかが流行ってるのかと思ってたよ」
「テレビゲームももちろん流行ってるよ」と敬太は二人の会話に割り込んだ。これ以上二人だけで会話させるのはあまり得策ではないような気がした。いつ母がそのバトルエンピツとやらを敬太が大量に集めているらしい、と父に密告してもおかしくはなかった。父は母以上にお金の無駄遣いを嫌う人だった。たかが文房具にこれまで何千、何万円と金を費やしてきた敬太の素行が父にすべてバレてしまえば、きっと彼は息子のことをタダじゃおかないだろうことを予感していた。誕生日なんて関係ない。家に帰ってからこっぴどく怒られるに決まっていた。
しかし結局、誕生日プレゼントの会話はこれといった区切りもなくいつの間にかふんわりと終わり、敬太が心配していたようなことは一切起こらなかった。そしてそのままラストオーダーの時間が過ぎ、店員は伝票と一緒に温かいお茶をテーブルに運んだ。
それから三人は、それまでずっと慌ただしかった店内に束の間の平穏がおとずれたことを見計らい、席を立ってレジへ向かった。
父はすっかり顔全体を真っ赤に染めていた。足元がおぼつかず、目が血走っていた。彼は結局ビールとハイボールをそれぞれ四杯ずつ飲み、酔い覚ましのウーロン茶を一杯飲んでいた。巨大な睡魔に襲われていたのか、レジへ向かう途中に父は何度も大きな欠伸を披露した。帰りの車中ではきっと爆睡だろうな、とその様子を見守りながら敬太はそう思っていた。
当初の打ち合わせの通り、会計は父が持つことになった。敬太はそれを知らないことになっている。父はポケットから折財布を取り出し、二部屋に分けられたお札用のポケットを目一杯に広げた。そして彼はその中身を見て、たちまち軽く眉をひそめた。ん、と唸るような低い声が喉仏のあたりから漏れ、小首を傾げた。敬太はそんな父の様子を後ろからじっと見ていた。なにか予定外のことでもあったのだろうか。敬太の隣で母は「大丈夫かしら」と眉間に力を入れながら父のことを心配していた。
その後、父は結局クレジットカードで会計を済ませ、レシートは受け取らずにレジを離れ、折財布は穿いていたブルージーンズのポケットにしまった。それから店を出て、駐車場に停めていた軽自動車の助手席に乗り込んだ彼は、運転席の母がエンジンをかけたあたりで何の前触れもなくいきなり母に声をかけた。
「お前さ」
母は夫のそのぶっきらぼうな呼び方にすかさず顔をしかめた。母は「お前」呼ばわりされることを何より嫌っていた。父もそれを知っていたから、普段は彼女のことを「ママ」と呼んでいた。つまり父が母のことを「お前」と呼ぶのには、それなりの理由がなければ説明がつかなかった。
一瞬のうちに車内に緊迫感が走った。ついさっきまで息子の誕生日会をしていたのが嘘だったかのように、いつの間にかお祝いムードは物陰に隠れてしまったように消え失せていた。
敬太は前の席の二人が異様な空気感を発していることを察し、巻き込まれないように息を潜めた。そして二人から目を逸らすように窓の外に目を向け、何にも気付いていないふりをしながら、二人の会話を聞き漏らすまいと耳を傾けていた。
父は淡々とした声で続けた。「おれの財布になにもしてないよな?」
「どういうこと?」と母は言った。まだサイドブレーキは外していない。エンジンをかけた車体は小刻みに上下動を繰り返していた。数秒のあいだ二人の間には重たい沈黙が流れた。それをステレオから流れる地元局のラジオが引きとるように
「別になにもしてないならいいんだ、変なことを訊いて悪かった」と父はハッと我に返ったように謝った。母に鋭い眼差しを向けられ、すっかり酔いが覚めてしまったのかもしれない。
「さっきから一体なんの話をしてるのよ」、母はいまだ不信感を募らせた顔でそう言った。その声色には珍しく棘が含まれていた。
「いや、ただの勘違いなんだ」、父はそう言ってばつが悪そうに頭の後ろを掻いた。そして苦笑いを浮かべて続けた。「実は昨日、てっきり仕事終わりにコンビニでお金おろしたと思ってたんだ。でも、実際はおろすこと自体を忘れてたらしい」
「なにそれ」、母は呆れた顔をしてそう言った。「まさか、あたしのこと疑ったってこと?」、母は深いため息をついたあと、それ以上は何も言わずにサイドブレーキを外してシフトレバーを『R』に合わせた。途端に車のどこかからピーピーと危険信号のような音が鳴る。彼女はバックモニターを使わず、後ろを振り返って片手でハンドルを操作しながら、方向転換を行った。そして出発の合図も出さずにアクセルを踏んだ。
その過程で敬太は母とほんの一瞬だけ視線がかち合った。母は曇ったガラス窓のような目をしていた。内側をのぞき込もうとしてもなかなかその中に潜んでいる実体が見えてこない。母が何を考えているのかがまったく読み取れなかった。
父の提案で帰り道の途中にコンビニへ寄った。せっかくだからデザートでも買って帰ろうと言い出したのだ。車内の沈黙に耐えられなかったのかもしれない。あるいは、その責任を感じてその尻拭いをしようとしていたのかもしれない。とにかく、父は道中にコンビニを見つけるなり、母にそこへ寄るように必死に促していた。
「デザート代はおれが全部出すから」と父は言い残してポケットから財布をとって、それを母に渡した。そして自分は先にトイレしてくるからと言って颯爽と車から降り、そそくさと店内へ入っていった。
軽く尿意を催していた敬太も父の後ろを追いかけるように後部座席のドアを開け、車を降りた。
店内に入った敬太は父が一つしかない男性用トイレで用を足しているあいだ、コンビニの雑誌コーナーからフロントガラス越しに車中にいた母の動向を何気なく窺っていた。だが、母はなかなか車から降りてくる気配がなかった。それだけでなく、彼女は父に渡された財布をなんの躊躇いもなく広げ、中をじっと覗いていた。いったい何をしているのだろう。まるでそこには隠密行動をとる探偵のような、あるいは何かの偽装工作でもしているかのような真犯人のような雰囲気すら窺えた。
そしてようやく母が何かを終えると、彼女は平然とした様子で運転席のドアを開けて車から降りてきた。母は緊張感から解放されたかのような朗らかな表情を浮かべて自動扉をくぐり、まるで何かをやりきったかのような充足感と安堵を胸に抱えながら、軽快な足取りでアイスコーナーへと向かっているように見えた。
家に帰り着いたのは午後九時半を回ったあたりだった。
「お父さん、今日もマッサージしてあげようか?」
ソファーで寛いでいた父は「いいのか?」と言って、申し訳なさそうな顔をした。その頬はまだ赤く染まっていた。父の隣に座っていた母も「今日くらいゆっくりしてればいいのに」と苦笑いを浮かべながら、トイレから戻ってきた敬太の顔を振り返った。
「いいのいいの。今日も焼肉ご馳走になったから、そのお礼がしたいんだ。もちろんお小遣いはいらないよ」と敬太は言った。「今日はなんといっても、おれのことを産んでくれた二人へのお礼だからね。そのあとはお母さんにもマッサージしてあげるから」
二人は顔を見合わせ、嬉しそうに破顔していた。父の目には薄らと涙さえ浮かんでいる。まだ酔いが覚めてないのかもしれない。母はコンビニで父に買ってもらったハーゲンダッツを、コンビニでもらった木のスプーンでちまちまと食べていた。ローテーブルの隅の方には、先ほど敬太が食べ終わった分のハーゲンダッツの空の容器が残っていた。
「なに泣いてるのさ」と敬太は父の顔を見て言った。
「敬太がおかしなこと言うからだろ?」、父は涙ぐみながら笑みをこぼしていた。
「いいから早く横になってよ。あ、いつも通り服は脱いでね」
「はいはい、わかったよ。ちょっと待っててな」、父はそう言ってソファーから腰を持ち上げ、息子の指示通り何の疑いもなく服を脱ぎ始めた。
敬太は床に落ちた父の服を拾い上げ、それを腕に抱えて脱衣所へ持っていく。父が普段から財布をズボンのポケットにしまう習性は以前から知っていた。当然、いまもジーンズのポケットには予想通り折財布が入っている。
脱衣所の戸を閉めた敬太は周囲に気を張りながら、父のジーンズから財布を取り出し、抜け殻は洗濯機の中へ乱暴に放り投げた。そして手元に残った財布を迷わず開き、中身を覗いた。罪悪感なんてものは、とうの昔に置いてきてしまった。むしろ、今日は誕生日プレゼントすらもらっていないのだから、これくらいバレても許されるのではないかという自信さえあった。
敬太は慣れた手つきでお札入れのポケットを広げ、さっそく出迎えてくれた野口英世ににんまりと微笑みかけた。昨夜は福沢諭吉がそこにいたが、それはすでに敬太の財布の中でぐっすりと眠っている。明日の放課後にでもそのお金で新作の匂い付きペンとバトルエンピツを買いに行く予定だった。
今日のところは財布の中に千円札が一枚しか残っていなかったが、敬太は迷うことなくそれに手をかけた。さすがにバレてしまうのではないかという懸念はあったが、一度身体に染み付いてしまった癖はなかなか治らなかった。
敬太は抜き取ったそれを小さく折り畳んでポケットの中へ隠した。そのあと空になった財布を洗濯機の上に載せ、脱衣所をあとにしようと足を踏み出した。すると敬太は足の裏に何やらつるつるとした感覚があり、気になって目を落とすと、足元に横長の白い紙が落ちていることに気付いた。もしやそれは千円札を抜いたときに一緒に出てきた焼肉屋のレシートかもしれない、と敬太は思った。そんなものが床に落ちていれば、それを拾った父は息子に財布の中を覗かれたと勘繰るかもしれない。そう思った敬太はそれを拾い上げようと手を伸ばした。
しかしその折に、敬太は父があのときレシートをもらわなかったことを思い出した。じゃあこの紙は一体なんだろうか。敬太は床に落ちていた白い紙を拾い、そこに書いてあった文字に目を凝らした。殴り書きで記されていたような、規律の取れていない文字の羅列だったが、たしかにそこには何かを強く訴えかける力強さのようなものが孕んでいた。
次の瞬間、敬太はハッと息を呑んだ。古傷が疼くような懐かしい痛みが身体の隅々まで行き渡り、瞬く間に全身に寒気が走り、心臓の音が次第に激しさを増し、いつの間にか背中が汗でぐっしょり濡れていた。動悸が止まる気配はない。敬太にはそこにある言葉の意味がよく理解できた。
もう二度としないって約束したよね──。
敬太はポケットに入れた小さな千円札を元の大きさに広げ、父の財布の中へ戻した。そして足早にリビングへ戻った。敬太は二人の顔を直視できなかった。
「どうかしたのか?」
床に寝そべっていた父は、リビングに戻るなりずっと目を泳がせていた敬太の様子が気になったのか、その顔にしばらく怪訝そうな表情を浮かべていた。ソファーに座っていた母はまるでそれとは無関係を装うように無表情のまま状況を俯瞰し、ビー玉のような目で宙をじっと捉えていた。
敬太はひとしきり黙っていたのち、喉元で怯む後悔を外へ押し出すように、うつむいたまま誰に向けるともなく謝った。
「……ごめんなさい」、自分でも情けなくなるほど、あまりに細々としたか弱い声だった。
おそるおそる顔を上げてみると、母は息子の声に反応するようにピクリと眉を揺らし、それからビー玉のような目玉をゆっくりと敬太の顔に動かした。そして彼女が何かを言おうとしたその直後に、父は口を開いた。
「なんのことだよ」
あっけらかんとして笑っていた父に、敬太はつい小さく首を振って「なんでもない」と答えた。肝心なところで嘘をついてしまう癖は、どうしたって治らないらしい。途端に自分のことが恥ずかしくなった敬太は二人から顔を背けた。できることなら、たったいまこの瞬間、彼はなにもかもから目を逸らしたかった。
「それにしても、敬太はパパにはもったいないくらい良い息子だよなあ」と父は満足げな表情を浮かべながら言った。
そんなことないよ──と誰かの声がそう言った。
夜のひととき(No.14) ユザ @yuza____desu
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