(2)

「すごっ。ほんとにアロエヨーグルトの匂いがする!」

「まじまじ? 次おれにも貸して。うわ、まじだ。めっちゃいい匂いっ」

 敬太はクラスメイト二人のいい反応を見てつい口元が緩んだ。そしてすぐさま、そのほくそ笑んだ表情を彼らに悟られないよう早口に喋った。「近くの文房具屋はほとんどまわったんだけど、なかなか見つけられなくてさ。隣町にある本屋に立ち寄ったときにたまたま見つけたんだよね。だから多分、持ってるのはおれだけなんじゃないかな」

「いいなあ」、二人のクラスメイトのうち女子生徒の方がそう言った。「あたしアロエヨーグルトがこの世で一番好きなんだよね」

「なんだそれ」ともう一人の男子生徒は笑った。

「そこまで言うなら、今日の放課後に隣町まで一緒に探しに行ってみる?」と敬太は女子生徒に言った。「バスで行けばそんなに遠くないから」

「行く行くっ。絶対に行くっ」、彼女はそう言って激しく首を縦に振って同意した。

 近頃、教室内では匂い付きの水性ペンと鉛筆を転がして遊ぶバトルエンピツがとくに流行っていた。ちなみに敬太はそのどちらも網羅していた。その数は多ければ多いほどいい。また、種類が豊富であることも非常に重要だった。その二つの要件を満たすことができれば、意外にも簡単に人は集まった。

 流行というものは作った人が偉いのではなく、その波にうまく乗った人の方が偉くなれるのだと彼は理解していた。とりわけ学校という狭い範囲でできた社会において、その優位性はより権威のある価値──人望や影響力──へと形を変えた。考えてもみれば、これと同じようなことは過去にもあった。ただ、そのときは敬太のやり方があまりにずさんだったこともあり、道半ばで断念せざるを得なかったのだが。

 ようは敬太はこれを機にはじめてクラスの人気者になったのだ。まさか自分でもこんなに立ち位置が変わるものだとは思ってもみなかった。最初は単にクラスメイトたちと話すきっかけが欲しかっただけだった。

 先月の頭から小学五年生へと進級した敬太は、新しい教室の中で足の踏み場を見失っていた。去年から同じクラスだった生徒も何人かは在籍していたが、彼らのほとんどは学校のクラブ活動に参加してたため、そのつながりで早々とグループを形成していった。決して嫌われていたわけではなかったが、敬太はその地味でパッとしない見た目のせいで、衣料品店の不人気商品みたいに誰にも手を伸ばされず、やがて売れ残った商品たちは、売れ残ったという事実だけで乱暴に同じワゴンへと放り投げられ、他のしっかりとカテゴリー分けされたグループとは一線を画す形で(「その他」といっしょくたに分類される形で)教室の隅に追いやられた。とはいえ追いやられた集団も元々はジャンルの異なる売れ残りたちだったわけで、互いにそりが合うはずもなかった。敬太はできるだけ早くその中から抜け出す方法を日々模索していた。

 匂い付きの水性ペンが女子の間で流行り始めているという情報を嗅ぎつけたのは、先月末のことだった。その週末にたまたま両親と一緒に街まで出かける機会があり、新しくできたという大きな本屋にふらっと一人で立ち寄ったとき、敬太は文房具コーナーに匂い付きの水性ペンが数多く並んでいる光景を目にして、その日の直前に教室内で女子がそれについて楽しそうに会話していたことをふと思い出した。そのときの所持金は、母に漫画を買いたいからと頼み、もらっていた六百円のみ。ペンは一本で百二十円だから最大五本まで買える。とはいえ漫画を口実にもらったお小遣いを他のものに使うのは、なんだか結果的に母を騙すことになるような気がして罪の意識に苛まれた。彼は仕方なく漫画コーナーに移動し、集めている漫画の最新刊を探した。しかし本棚にはすでに発売されているはずの最新刊が一冊も見当たらなかった。敬太はそこに運命的なものを感じた。これはもう神様が「ペンを買え」と言っているのだと思った。迷いを断ち切った途端、あたり一帯を覆っていた霧が一気に晴れたように頭が冴え渡り、やるべきことが明瞭になり、ゴールまでの道筋が手に取るように見えた。

 敬太は週刊漫画雑誌を一冊と選りすぐりの匂い付きペンを一本買った。二つ合わせて四百円。両親は普段から漫画を手に取らないから、週刊漫画雑誌が一冊二八〇円だということは知らない。四〇〇円と嘘をついてもきっとバレないと思った。ペンをあえて一本しか買わなかったのは、よりリアルな状況を演出するためだった。一冊で五二〇円よりは四〇〇円の方がより信じやすい。漫画一冊の相場をすでに知っている者として、その微調整に一切の躊躇いはなかった。万が一にでも、両親に購入価格のことで引っかかりを覚えさせてはならない。「ワンコインじゃ買えないんだね」なんていう風に興味を持たれてしまえば、その流れで漫画雑誌の値段を実際に確認されるかもしれない。「レシートを見せて」と変に勘繰られるかもしれない。敬太は買ったペンをポケットに隠し、レシートはレジの前で捨てた。そしてお釣りの二百円は母に返した。

 街から家まで帰っている車中、敬太は人知れず心臓が飛び出てしまうほどの緊張感に耐えていた。いつもと変わらない様子で話しかけてくる母に応えるだけでも、背中にびっしょりと汗をかいた。バックミラー越しに運転席の父と目が合うたび、喉を潰されたみたいに息が詰まった。そしてそのうち敬太は自分のことがよくわからなくなった。大胆なことを実行しようとしている割に、実際はこれでもかと石橋を叩いていないと不安で仕方ないのだから。このような状態のことをおそらく「ムジュンしている」というのだと、敬太は去年の国語の授業で習ったことをふと思い出しながらそう思った。

 結局二人にはペンのことはバレなかった。敬太の中には若干の罪悪感がしこりのように残っていたが、それも次の日になれば跡形もなく消えてなくなった。女子の何人かが敬太の使っていた匂い付きペンに気付き、目を輝かせながら話しかけてきたからだ。どうやら、それはいまだ誰も見たことのない種類の匂い付きペンだったらしい。幸運だった。「なにそれっ」「どこで買ったの?」「いっかい私にも匂わせて」などと、まるでハエのように匂い付きペンのもとへたかる彼女たちの姿を見て、敬太は何か確信めいたものを掴んだ。ようやく抜け出せる。あの売れ残りワゴンの中からようやく抜け出せるんだ。敬太はいままさに目と鼻の先まで手を差し出してくれている彼女たちに、すがる思いで自分から向こう側へ手を伸ばした。

 そこからはまるでドラマでよく見るシンデレラストーリーでも辿るかのように、敬太はめきめきとクラスの中で頭角を現していった。クラブ活動をしていなかったことも功を奏したのかもしれない。放課後になると彼は毎日のように町中の文房具店をまわり、匂い付きペンをあるだけ買い集めるようになった。そしてその努力はすぐに報われた。日が経つにつれ、休み時間に机の周りに群がる女子の数が増えていったのだ。そうなればクラスの男子も無視はできなくなった。ある日の昼休み、なにごとかと事情を聞いてくる男子が敬太の席へ殺到した。敬太は彼らに事情を話した。すると週明けにはほとんどの男子生徒が匂い付きペンを筆箱の中に携えるようになった。そのとき敬太はてっきり自分が失敗したのだと思った。せっかく手に入れたアイデンティティを、自ら手放すような真似はしなければよかったと後悔していた。しかし彼はその煽り受けることはなかった。むしろ爆発的に匂い付きペンがクラス内に広まったことで、その流行の火付け役になった敬太は地盤の固い踏み場をたまたま見つけ、クラス内での絶対的な立ち位置を確保できた。

 男子生徒のうち、何人かが先駆けて休み時間に遊んでいたバトルエンピツについても、敬太は同じような要領で立ち回った。とにかく日が落ちるまで町中を歩き回り、文房具が置いてありそうな店を訪ね、あれば際限なくお金を使って大量のエンピツを買い漁った。翌日学校へ行くと、今度は男子が敬太の机の周りに群がった。「なにそれ面白そう」「どこで買ったの?」「おれもやってみたい」、敬太はバトルエンピツをまだひとつも持っていなかった生徒に、自分の手持ちから要らないものを選んで譲ってあげた。それを彼らは想像以上に喜んだ。バトルエンピツブームは瞬く間に教室内に広がった。休み時間になると、あちこちでエンピツの転がる音が聞こえるようになった。昼休みにはクラスのナンバーワンをかけて大会が開かれることもあった。敬太はその大会の審判を任された。彼は周りとは明らかに階級が違うとみなされていたのだ。誰も敬太に勝てるわけがない。誰よりも金をかけているのだからそれは当然だった。

 いつしか、敬太は匂い付きペン専用の筆箱とバトルエンピツ専用の筆箱、それから通常の筆記用具が収納された筆箱の三つを持ち歩くようになっていた。

 家の中でそのことは内緒にしていた。いくら新しいクラスに馴染むためとはいえ、常時筆箱を三つも持ち歩いているこの状態は自分でも異常だと自覚していたからだ。クラスメイトの人気を集められたことへの嬉しさの陰に隠れて、両親に対する後ろめたさは息を潜めてずっと生きながらえていた。彼らがこれを知ったら何と言うだろう。想像した途端に自分の行いがすべて間違っていることのように思えた。それでも翌日学校に登校すればその後ろめたさは全身を影に覆われ、跡形も見えなくなった。まるでその部分だけハサミできれいに丸く切り抜かれたみたいに、罪悪感だけが取り除かれた。そしてそれはいつしか癖のようになっていた。

 やがて心情にも徐々に変化が訪れた。この秘密がバレてしまえば一瞬にして積み上げてきたもの全てを失ってしまうという不安は、日が経つにつれて次第に薄れ、新たに、きっとバレないだろうという根拠のない自信のようなものが着実に身体の中を蝕んでいた。大丈夫、今回こそは失敗しない。敬太はその秘密をいまのうちから墓まで持っていけるものだと本気で信じていた。

「でもさ」と男子生徒は唐突に何かを思い出したように敬太の顔を見て言った。「そういえば今日ってお前、家庭訪問の日じゃなかったか?」

 敬太はそれを聞いてはっとした。そうだった。すっかり忘れていたが、今朝方、家を出る前に今日は放課後に担任の先生が自宅を訪ねてくるからどこにも遊びに行かないでね、とあらかじめ母に釘を刺されていた。

「じゃあ今度行こうよ」と女子生徒は言った。

「それでいいの?」と敬太は尋ねた。

 女子生徒は肯く。「別にあたしはいつでも大丈夫だから」

「ほんとごめんね、おれから誘ったのに」

「ううん、全然気にしないで」

 敬太は彼女の顔を見てもう一度謝った。彼女は笑いながら首を振ってそれを許してくれたが、それでも彼の胸の中でどこからか湧き出て、そのままくぼみに溜まった申し訳なさの泉は、水面に映る彼自身のことをまったく許してくれる気配がなかった。いまとなっては両親に嘘をつくのはもう容易いことなのに、友達を裏切ってしまうことにはまだ慣れていなかった。皮膚をつねるような鋭い痛みが、喉に詰まらせた魚の小骨みたいに頭の中にくどく残っていた。

 そして学校から下校するまで、その不快な感覚はずっと取れなかった。


 担任の先生が家を訪ねてきたのは、敬太が家に着いてから三十分以上が経った頃だった。一日に合計五軒ほど生徒の家をまわっている先生は、すでに二人の生徒の家庭訪問を終わらせていた。敬太の家は本日三軒目となる。母はそれを気遣ってか、先生を客間に通すと、冷蔵庫から違う種類のエナジードリンクをそれぞれ一本ずつ取り出し、それを市販のおにぎりやお菓子と一緒に紙袋に入れ、その紙袋ごと先生に渡した。その際、母は「連日の家庭訪問でお疲れでしょうから、休めるときにしっかり休んでくださいね」と先生に労いの言葉をかけた。

 申し訳ないですよ、と言いながらも結局はその紙袋を有り難そうに受け取る先生の姿を見て、敬太はなんだか母のことを誇らしく思った。そして同時に敬太自身もなぜか自然と胸を張っていた。よくヤンキー映画に出てくる、ある不良学校で喧嘩最強と謳われている番長の取り巻きたちが、自分たちはすぐにやられてしまうくせに最初はやたらと威張っているその時の気持ちが少しだけ理解できたような気がした。

「敬太くん、学校ではものすごく人気者なんですよ」と先生は母に言った。

「そうなんですか?」と母は言って驚いたように目を丸めた。それから隣に座っていた敬太の顔を見下ろし、嬉しそうに口元を緩ませた。「すごいじゃない。いったいどんな手を使ったのかしらっ」、冗談っぽく母はそう言った。

「いま、クラスの子供達のあいだでは様々な文房具が流行っているみたいなんですよ」と先生は言った。

 それを聞いて敬太ははっとした。もしかすると先生にはさっきの母の冗談が質問に聞こえてしまったのかもしれない。先生はその質問に実直に答えようとしていた。突然の耳鳴りのように敬太はたちまち嫌な予感がした。彼はすかさず話を変えようと声を発したが、先生はそれを許さなかった。

「甘い香りのするペンとか、鉛筆を転がして遊ぶバトルエンピツとよばれているものなんですけど。敬太くんはそれをみんなよりもたくさん持っているようで、休み時間になると生徒たちは男女問わず敬太くんの席に集まって、そのコレクションを見せてもらっているみたいです」

「なんですかそれは?」、母はそう言って一瞬だけ怪訝そうな顔を浮かべた。

 先生は母の表情の機微などまったく気付いていない様子で続けた。「この前なんて、バトルエンピツを一本も持っていなかった生徒ひとり一人にそれを漏れなく配ってたんです。聞けば、それは一本で百円もするんだ、って他の生徒たちは教えてくれました。だから親に買ってもらえない子はクラス内にもたくさんいたようです。『どうしてそんなことしてるの?』って、ある日敬太くんに聞いたんです。そしたら、『みんなでやった方が楽しいから』ってまっすぐな目で答えてくれました。そのとき、正直、私は感動を覚えました。一本で百円もする鉛筆なんて、大人の感覚からしてもかなり高価なものです。私だったらきっと誰にも譲ったりしないでしょう。しかし敬太くんはなんの躊躇いもなくみんなに配っていました。こんなに優しい子だったんだって、そのときに初めて敬太くんが周りから愛される理由を知った気がしました」

 顔から一気に血の気が引いた。本来であればその褒め言葉を素直に嬉しいと受け取ってよかったのかもしれないが、そんなことよりも敬太は、母に黙っていた秘密を呆気なく暴露されてしまったことについて、不吉なまでの動悸が止まらなかった。つい油断していた。まさかこんなところで暴露されるとは思ってもみなかった。

 今すぐにでも母がどんな反応をしているのかを確認したかったが、それをした瞬間になぜか後戻りができなくなりそうで、敬太はなかなか隣を振り向けなかった。自然と背筋が伸び、全身の筋肉は収縮し、背中いっぱいに嫌な汗をかいていた。

 そんな敬太の様子を、手放しで褒め終えた先生は不思議そうな目で見ていた。余計なことをしてくれたな、と敬太は目で訴えてみるが、それが向こうに届くはずもなかった。先生はその後も変わらない様子で、学校での敬太の様子について母に説明し、最後は母にもらった紙袋を手に提げながら満足げな笑みを浮かべて家を出て行った。「じゃあ、また明日学校でね」と去り際に手を振ってくる先生に、敬太は適当に会釈しながら心の中で舌打ちを鳴らした。なにしてくれてるんだよ、と。

 母と一緒に先生の車を見送ったあと、母は家の中に入る直前に敬太の顔を見下ろしてから言った。

「文房具なんて集めてたんだね」、その声はあまりに落ち着き払っており、かえって敬太に根深い恐怖心を植え付けた。「ママ、知らなかったよ。言ってくれればよかったのに」

「別にお母さんに言うほどのことじゃないから」、敬太は下腹部に力を入れ、不安で震えてしまいそうになる声を堪えながらそう言った。動揺を隠すのに必死だった。「それにさっき先生が言ってたことは全部大袈裟だよ」

「それより、最近の文房具って高いのね。鉛筆一本で百円もするの?」、母は敬太の言葉を無視するようにそう尋ねた。

 敬太はその質問には何も答えなかった。躊躇なくそれに「知らない」と首を振れるほど彼にはまだ肝が据わっていなかった。あるいは、母の声色にはそんなことをさせない威圧感が含まれていたのかもしれない。

「最近、精力的にマッサージをしてくれてたのも、それを買うため?」

「だ、だとしたら、それの何が悪いのさ」

 敬太がつい反論してしまうと、母は小さく首を振り、それから「そっかそっか」と独り言を呟きながら納得するように何度か肯いていた。そして彼女は息子の目の高さと同じになるように正面にしゃがみ、向かい合う息子の頭の上におもむろに手を伸ばし、髪の毛を優しく触り始めた。「マッサージ十回分で鉛筆一本しか買えないだなんて、ずいぶんと効率が悪いじゃない。しかもそれをクラスのみんなに配るなんて、大変だったでしょう。一体いくらかかったの?」

「別にそんな大した額じゃないよ」と敬太は言って母から目を逸らした。

「前にママと約束したことは覚えてる?」と母は言った。「うちはあなたが思ってるほど裕福じゃないの」

「もちろん覚えてる。だからお母さんが心配するようなことはしてないよ」、思わず声がうわずってしまった。母は表情を変えずに敬太を見つめている。心臓は胸を内側から蹴破って出てきそうな勢いで警鐘を鳴らしていた。一瞬でも沈黙が訪れてしまうのがこわかった。そうなればもう二度と口を開いて弁明することも、許しを乞うことすらもできなくなってしまう予感がした。敬太は思いつく限りの言葉を頭の中に並べ、それを何の躊躇いもなく口に出した。「それに、文房具はお年玉で買ったんだ。毎年貯めてたのがまだ結構残ってたから」

 母はしばらく何も言わずに敬太の顔をじっと見ていた。息子の言葉を何度も何度も推敲し、そこに違和感がないかを確かめているように。そしてそれが終わると、彼女はようやく息子に向かって優しく微笑んでみせた。

「そう。それなら安心したわ」、母はそう言ったあとに数秒間の沈黙を待ち、それから言葉を選ぶようにしてあとを紡いだ。「疑ってごめんね。ママ、ちゃんと敬太のことは信じてるから」

「ううん、おれの方こそ隠し事しててごめんなさい」と敬太は言った。

 そこで母の顔から不穏な雰囲気が静かに消えた。いつもの穏やかな母が戻ってきた。やがて彼女は安堵したように小さく肯き、敬太の頭に載せていた手を下ろし、腰を持ち上げ、それから軽快な足取りで家の中に入っていった。

 どうやら敬太はたったいま、人生最大の難を免れたようだ。彼はその場から遠ざかっていく母の背中を眺めながら、静かに深くて長い息をついた。

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