夜のひととき(No.14)

ユザ

(1)

 食卓に軽快な金属音が響いた。大きめのスプーンは陶器でできた深皿の底に勢いよく潜り、ふちいっぱいにカレールーをすくった。甘口と中辛を半分ずつ混ぜた水分少なめのどろっとしたいつものカレー。専業主婦の母は毎回それを日が落ちる二時間くらい前から煮込んでいた。しゃばしゃばのカレーはただのスープだ、スープはご飯にかけるべきではない、というのが彼女の中で断固として確立していた謎理論だった。ときどき中から焦げた真っ黒い欠片が出現することもあったが、それはそれで不味いとは思わなかった。

 敬太はそこまで舌が肥えていなかった。ファミレスでハンバーグの付け合せとして出てくる、大きくカットされた人参とミックスベジタブル以外であれば、その他はなんでも美味しく感じた。そのおかげで周りからは、好き嫌いがなくて偉いねとよく褒められた。ピーマンを食べているだけで、すごいという感嘆の目を向けられた。そして敬太が周りから褒められるたびに、母は誇らしげな笑みを浮かべて喜んだ。

「今日のカレーも美味しいね」と敬太は母に向けて言った。

「あら、ほんと。それならよかった」、母はそう言って安堵の笑みを浮かべた。「おかわりもたくさんあるからね」

「敬太はほんとになんでも美味しそうに食べるよな」、母の隣に座っていた父は言った。

 彼は淡いブルーのワイシャツを着て、濃紺のスラックスを穿いていた。肘のあたりまで腕まくりをし、第三ボタンまで開いている。開放的な胸元からは白の肌着がちらっと見えていた。左手首に巻いたシルバーの腕時計は、一昨年の父の日に母が敬太を連れて街中のデパートに赴き、二人で一緒に選んだものだった。父はそれをもらったとき、泣いて喜んでいた。それくらい父は見ていて分かりやすい人だったし、仕事が終わるといつも職場からまっすぐ家に帰ってくるような家庭的な人だった。夕食は毎日欠かさず家族三人でとること、それがうちのルールだった。

 壁掛け時計の針が夜の八時をさすと、七時から放送されていたクイズ番組が終わり、世界中の衝撃的な映像を次々に紹介していくバラエティー番組に切り替わった。敬太はさほど興味はなかったが、父はその番組をいつもかじりつくように観ていた。何が面白いのかはさっぱり理解ができなかった。それでもその番組が流れているあいだは、父の朗らかな笑い声がリビング全体の空気感を和らげている気がして、敬太にとってもその空間は居心地がよかった。母もきっと同じことを感じていたに違いない。山の天気のようにコロコロと入れ替わる父の顔色を、彼女はいつもその隣で楽しげに見守っていた。

「そろそろお風呂入れよっか」、コマーシャルが流れだした頃に母はそう言っておもむろに席を立ち、空いている皿を流し台の方へ運び始めた。彼女は炊飯ジャーの中を確認し、ダイニングテーブルに座っていた敬太に向かって尋ねた。「まだ少しご飯残ってるけど、おかわりする?」

 敬太は首を振った。「もう大丈夫。お腹いっぱいだから」

「おっけい」と母は肯き、それから炊飯ジャーの保温機能をきった。

「もう食べないのか?」と父は敬太に尋ねた。「二杯くらいでギブアップしてたら、父さんみたいに大きくなれないぞ」

 敬太は返事をせずに父の膨らんだ腹部に目をやり、そのあと彼の口元に付着していたカレールーに視線を移した。わんぱくという言葉がよく似合う。

「そういうあなたは食べすぎなのよ。来週は人間ドックがあるんでしょう?」、母は流し台の前に立って手を洗いながらそう言った。流水はしばらくシンクの底を小刻みに叩き、やがてそれはきゅっと音をたてて止まった。「そろそろメタボって小馬鹿にされ始める頃なんじゃないかしら」

「んん……」と父は低くて鈍い声を漏らし、苦虫を噛んだようなしかめ面を浮かべた。「やっぱりそうなのかなあ。たしかに昨日も会社の人に『太ったでしょ』って指摘されたよ」

 敬太は二人の会話に黙って耳を傾けながら、自分の唇の端を人差し指でとんとんと軽く叩き、ひとりで勝手に落ち込んでいた父にカレールーが付着していることを教えた。父はテーブルの真ん中に置いてあったティッシュケースに手を伸ばし、そこから四、五枚取って口元を大雑把に拭った。そして使い終わった紙は小さく丸めてゴミ箱へ放り投げた。その様子をたまたま見ていた母が「ゴミを投げないでよ」と軽く注意すると、父は笑いながら「上手いだろ?」と誤魔化した。母は父のその反応にとっさに顔をむすっとさせていたが、それ以上そのことに関して母がとやかく文句を言い出すことはなかった。

 日頃から父が母の機嫌を損なうような光景はよく目にしていたが、母がその苛立ちを表に出すことはほとんどなかった。とはいえ、彼ら二人を纏う周辺の空気は瞬く間に宇宙空間のように酸素や温もりを失い、それと入れ替わるように辺りは息苦しさと居心地の悪さで充満した。彼らがそのことに気付いていたかどうかは定かではないが、敬太はその空気になるといつもひとりで知らん顔をした。まるで二人の険悪な雰囲気などまったく気付いていない──純粋無垢でコインに裏があることすら知りもしないような──勘の悪い子供みたいに。

 コマーシャルの尺は思っていたよりも長かった。「オユハリヲハジメマシタ」と給湯器のリモコンから機械的な声が聞こえ、ダイニングテーブルに居座っていた敬太と父はほとんど同時に席を立ち、それぞれ自分たちが使った食器を流し台まで運んだ。

 母は冷蔵庫の前に立ち、腰に手をあてながら真剣な顔つきで中身を点検していた。明日の献立でも考えていたのかもしれない。主婦に休んでいる暇なんてないのかもしれない、と敬太はその様子を見て思った。

 父は食器をシンクに置くと足早にリビングへ移動し、ソファーに腰を埋めた。ちょうどコマーシャルが明けた頃に敬太も父の隣に腰を下ろし、しばらくテレビをぼうっと眺めていた。やはり何が面白いのかはさっぱり理解ができない。それでも父はご機嫌に笑っていた。やがて流し台の方から食器を洗う流水の音が聞こえてくる。振り返ると、母はシンクに溜まった食器を泡の付いたスポンジで手際よく磨いていた。

「ん」、洗い物の途中でこちらの視線に気付いた母はふと顔を上げ、敬太に微笑みかけてから尋ねた。「どうかしたの?」

 敬太は首を振った。「ううん、なんでもない」

 それから彼は隣の父に目をやり、もっこりと不自然に膨れ上がるひざもとをひとしきり見つめた。そしてまたテレビでコマーシャルが流れ始めた頃に父に声をかけた。「お父さん、マッサージしてあげるよ」

「おっ。じゃあ、今日もひとつ頼もうかな」

 父はそう言って隣に座る息子の頭の上に優しく手を載せた。お父さんだけいいなあ、とキッチンから不服そうな母の声が聞こえてくる。それにすかさず敬太が「あとでお母さんにもたっぷりしてあげるから」と言うと、彼女は機嫌を戻したように「やったあ」と声を弾ませた。そこでようやく部屋の中に和らいだ空気が流れ込んでくる。ついさっきまでの若干重たかった雰囲気にひと区切りをつけるように、水流がきゅっと小気味いい音を鳴らして止まった。

「スーツにシワがついちゃうといけないから、シャツとズボンは脱いでね」と敬太はソファーから立ち上がる父に向かって言った。「脱いだ服はそのままにしておいていいよ。脱衣所に持っていくから」

 父は息子の指示に素直に従い、シャツとズボンを脱いでソファーの上にそれを載せた。敬太はその抜け殻を拾って足早に脱衣所へ向かった。

 脱衣所へ着くと敬太は腕に抱えていたシャツを洗濯機の中に放り投げ、ズボンは天井に伸びている突っ張り棒にハンガーで引っ掛けた。それからズボンのポケットに入っていたものをすべて取り出し、それを洗濯機の上に載せ、ハンガーに吊り下げたズボンには全体的にまんべんなく消臭剤を振った。あとは母がアイロンでシワを伸ばしてくれる。敬太の仕事はここまでだ。

 そのまましばらく敬太が脱衣所の中で立ち往生していると、やがて給湯器が「オフロガワキマシタ」と知らせてくれた。そのすぐあとにリビングの方から父の声が聞こえてくる。

「けいたー。まだかー?」

「ちょっと待っててー」と敬太は返事をし、手に持っていたものを小さく折り畳んでポケットにしまった。それから脱衣所をあとにする。「いま行きまーす」

 父は黄色いボクサーパンツに白い肌着姿でカーペットの上にうつ伏せになっていた。相変わらず表情豊かにテレビを見ている彼に敬太が「おまたせしました」と後ろから声をかけると、父は上体を反らすようにして振り返り、「なんだ、トイレでもしてるのかと思ったよ」と言った。

 敬太は父に全身の力を抜くように指示をし、父のお尻の上に座った。それから背骨のすぐ横のあたりにある筋肉のくぼみを左右の親指で力強く押し込んだ。首のあたりから骨盤にかけ、上から順番にピザの生地を引き伸ばしていくように筋肉をほぐしていった。

「お客さま、最近はずいぶんとお疲れになられているようですね」と敬太はこのあいだテレビで見たプロのマッサージ師の口調を真似してみた。「かなり筋肉が固まっていますよ」

 父の口元からふふっと空気が抜ける音がした。「そうですね。最近、上司に面倒な仕事ばかり押し付けられているせいかもしれません」

「それはご苦労様です。もしよろしければ、わたくしがその上司とやらをぶっ飛ばしてさしあげましょうか」

「ずいぶんと口が悪いマッサージ師さんなんですね」と父は笑いながら言った。

 その二人のやりとりをキッチンから眺めていた母は目を三日月のように細め、くすくすと口に手を当てて笑っていた。「二人してなんの話してるのよ」、食器洗いを終えた母はそう言って、キッチンペーパーで手を拭きながらリビングへやってきた。「ほら、そろそろ交代の時間ですよ。今度はあたしがしてもらう番なんだから」

「えー、でもまだ五分しか経ってないからなあ」と父は言い、駄々をこねるように軽く足を上下にバタバタさせた。

「とりあえずパパは先にお風呂入っておいでよ」と母は言ってソファーにちょこんと座った。「パパが行かないと、あとがつかえちゃうんだから」

「はい、じゃあここで交代ね」

 敬太はそう言ってキリのいいところで手を止め、父のお尻から降りた。

「はいはい、わかりましたよ。行けばいいんでしょ?」と父は不貞腐れたような声を漏らし、ゆっくりと身体を起こしてカーペットの上に胡座をかいた。そして今度はおもむろに何かを探すように部屋の中を見回し始めた。

「どうかしたの?」と母は父に尋ねた。

 父は首を振った。「いや、そういえば財布をどこにやったっけなと思って」

「それなら洗濯機の上に置いておいたよ」と敬太は言った。

「ああ、そっか」と父は思い出したように独り言を漏らして肯いた。「じゃあ、お小遣いは風呂上がったあとでもいいか?」

「もちろん」と敬太は言って肯いた。

「それにしてもほんとにいいのか?」と父はお風呂へ行く前に息子へ尋ねた。「マッサージ一回につき十円なんて、毎日パパとママの二人分をしたとしても、せいぜい毎月六百円が限界だろう。わざわざそんなことしなくたって、毎月五百円くらいのお小遣いはやる予定だったのに」

 敬太は首を振った。「ううん、それでいいんだよ。だってお父さんが家族のために必死で稼いでくれたお金を、何もしないでタダでもらうなんて、なんだか申し訳ないからさ」

 父は息子の言葉に目を丸くした。それから次第に氷が溶けていくように、徐々に口元が緩んでいった。彼は母の顔を見てこう言った。「ママ。いったいどんな教育を敬太に施したら、こんないい子に育つんだい? とてもおれの遺伝子を継いでいるとは思えないよ」

「そうね、とてもあなたの遺伝子を継いでいるとは思えないわ」と母は冗談を言った。「ほら、とりあえずいいからパパは早くお風呂に行っておいでよ」

 うん、と父は嬉しそうに首を縦に振り、リビングを出ていった。敬太はその背中を見送ったあと、ふとポケットの外に出てきていたものに気付き、慌ててそれを中へ押し込んだ。彼は息を殺し、恐る恐る母の顔を横目で盗み見た。

「さあ、今度はママの番だからねっ」

 そう言って軽く手を叩いてソファーを立ち上がった母の顔には、いつになく誇らしげな笑みが張り付いていた。

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