閑話:ある男の悔悟の情
男には妹がいた。2歳下のお下げの似合う可愛らしい少女だった。妹は兄がバイトをして買った少し高いヘアゴムをいつもつけていた。
兄は妹をいたく溺愛しており、しばしば周囲からそのことを揶揄されたが、意に介さず可愛がり続けた。
妹も、そんな優しい兄が大好きだった。
兄が高校に入った頃、妹の様子がいつもと違うことに兄は気づいた。
どこか暗く、元気がない。
トレードマークのお下げも左右でバランスが違っているし、帰ってきてただいまの一言もなく部屋に入っていく。
おかしいと思った兄は、妹の部屋に行き事情を聞こうとした。
妹は扉を頑なに開こうとはせず、何もない、疲れた、しか言わず、ひとまずそっとしておくことにした兄はその場から去った。
夕食時になると、妹の様子はいつもと変わらないものになっていて、兄はやはり杞憂だったのだと、安心した。
しかし、その日だけの話ではなかった。
次の日も、その次の日も、妹は元気がない。
最初の日は夕食時には元気になっていたが、日を重ねる毎に元気がない時間の方が長くなっていった。
兄がどれだけ聞いても、妹はその理由を話そうとはしない。
しばらく経ったある日の休日、妹が豹変した。
兄はいつものように朝食を作ったが、妹は一つも口にせず、兄に対して作らなくていい、と言い出した。
心配した兄はいろいろと話を聞こうとしたが、妹から出た言葉は、暴言だった。
いちいち聞いてくるな。キモイ。シスコン。もう話しかけるな。死ね。
その言葉は、兄の心に深く突き刺さった。
共働きだったその家庭は、ほとんど兄と妹が家事全般を担っており、一緒に過ごす時間の大半を占めているため、兄にとって妹の存在はとても大きいものだった。
兄としての責任感を原動力として、これまで頑張ってきた兄にとって、その妹の一言はナイフよりも鋭利に尖ったものとなり、兄の心臓を貫いた。
そこから兄は、妹に遠慮するようになった。
妹の顔色を窺い、極力彼女の望むように努めた。
話しかけるな、と言われれば話しかけず、お弁当を作るな、と言われればお金を渡す。
そんな兄の様子を見て、妹はさらに拒絶の態度を示す。
ある日、兄のスマホに1件のラインの通知がきた。
それは妹からで、やたらと長い文章だった。
ごめんなさい、から始まり、内容は今まで兄にしてきた酷い行いを謝罪するものだった。
今まで妹は学校でいじめにあっており、心配させてしまうからと、どうしてもそのことを兄には言えず、結果的に辛く当たってしまった。
本当は兄のことが大好きで、甘えたかったのに、そんな心の余裕がなかったのだと。
それは、まるで遺書のようだった。
教室で授業を受けていた兄は一人震えた。
兄の心は妹による暴言で、弱りに弱り切っていたからだ。
今すぐにでも妹の元へ向かうべきだと頭ではわかっていても、また暴言を、冷たい言葉を吐かれるのではないか、と恐怖が勝ってしまい、そのラインを見ても彼は動き出せなかった。
そこから少しして、スマホが再度震えた。
珍しく父親からの電話だったが、授業中とのこともあり、普段であれば絶対に出たりしないが、先ほどのラインの件もあって兄はすぐに電話に出た。
内容は、妹が学校の屋上から飛び降りて意識不明の重体だ、といったものだった。
兄は頭が真っ白になり、スマホをそのまま床に落とした。
クラスは突然電話に出た兄にざわついており、授業をしている先生が兄の名前を繰り返し呼んでいる。
兄は周りの声など全く耳に入らず、気づいたら学校から飛び出した。
走りながら、兄の頭に浮かぶのは後悔の念。
もっと、ちゃんと話を聞いてやれば良かった。どれだけ相手が暴言を吐こうが拒絶をしようが、好きな人ならば、大切な人ならば、強引にでも聞き出すべきだった。
学校での嫌なことなど忘れてしまうくらい、妹のことを幸せにするべきだった。甘やかしてあげるべきだった。
両親ともに、ほとんど家にいないのだから、妹にとっての拠り所は兄しかいない。
全部、全部、自分の心の弱さが招いたものだ。
どこに向かっているかもわからず、兄はただ走っていた。
交差点に差し掛かったとき、歩行者信号は赤になっていた。
そんなこと、今の兄に気付ける余裕もなく、彼は横断歩道に飛び出した。
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