第5話 する。する。する。する。

 形式ばかりのホームルームは滞りなく進行し、2学期が幕を閉じた。

 この瞬間から、少年は冬休みを迎えた。


 一日の大半を拠り所にしていた学校にとどまることができず、少年は途方にくれた。自然、棋円に居着く割合が多くなった。


 日に日に、帰宅の時間は遅くなっていった。いつの頃からか、井上の姿を見なくなった。少年はひとりで帰路を歩んだ。


 すっかり冬の空がすっかり暗くなってから帰宅しても、母は何も言わなかった。

 少年のほうでも、なるべく母の姿を見ないよう、隠れるように過ごすようになった。


 そんな生活が、5日ほど続いたある月の見えない夜。

 少年が帰宅すると、家の中の光がすべて死んでいた。


 化け物じみた三つ編みと引き換えに取り戻した灯りが、以前と同じように消えていた。


 する。

 する。

 する。

 する。


 家の中を、這いずりまわるような音が聞こえる。


 右から。

 左から。

 天井から。

 床下から。

 ドアの向こうから。


 あらゆる方向から、大蛇の蠢くような、するするという耳障りな音が聞こえた。

 母の髪の毛が這う音に、違いなかった。以前に見た時よりも数が増えているようだ。

 長くなっている、ようだ。


 音から想像できた。


 するする、の合間に、ぴちゃぴちゃ、と別の音が聞こえる。少年は耳をすます。


 恐怖が感覚を研いだ。

 これは、風呂場から、聴こえる。水音だ。


 暗闇の中、見えない壁を、手探りでつたった。途中、何度も縄のような感触に触れ、あわてて手を引っ込めた。


 記憶と照合した脱衣所の位置に、たどり着く。

 依然として、漆黒は続いている。

 風呂場に雨戸はないはずだ。なのに、一筋の光も差し込んでいなかった。屋外には街灯の生きた灯りが点っているはずなのに。


 鼻歌。

 水音。

 シャンプーの香り。


 風呂場の中から、聞こえてくる。母の、歌声だ。曇っている。曇った、歌声だ。


 少年は意を決して、脱衣所の照明を点けた。


 オレンジ色のやさしい光が、部屋に明かりを取り戻す。

 見渡す限り、髪の毛で覆われた部屋に。

 三つ編みに結われたアオダイショウのような太い髪の毛が、何束も何束も群がり、重なり、絡まって、這いずり回っていた。


 する。

 する。

 する。

 する。


 不気味な音を立てながら。


 右に。

 左に。

 天井に。

 床に。


 する。

 する。

 する。

 する。


 風呂場越しに、母が奇声を発した。


 内容の判別はできなかったが、照明を点けたことを咎められたのだ、と本能で感じた。

 身がすくんで、動けない。


 突然の大声に驚いたのか、洗濯機の隙間から一匹の蜘蛛が抜け出てきた。少年の小指の先くらいの小さな虫は、慌ただしく8本の手足を動かして、その場を去ろうとしていた。


 ひと束の三つ編みが、その蜘蛛を摘み取るように食べた。

 毛先の口を開いて、呑み込むのが、見えた。

 小さな咀嚼音が、聞こえた。


 母が、もう一度、叫ぶ。


 その途端、這い回っていた無数の毛束が、こちらを向いた。


 鋭い歯の並んだ口から、よだれが垂れていた。



 三人の老人たちは雪道の果てに居た。

 ようやく少年の家の前にたどり着いたのだった。


 二重のガラス扉の外側に表札が出ている。そこには間違いなく、少年の苗字が記されていた。


 震えが、原田を襲った。


 恐怖ではない。

 寒風が吹いたせいだ。

 自分を、そう言って騙すことにした。


 道中おもいだした少年の話は、とうてい信じられるものではない。この世のものではない。三つ編みの怪物など、いるはずがない。

 常識と理性で震えを抑え込む。


 冷え切った疑念は心の底に押し込んだ。


「藤堂さん」

 原田は刀袋を握っていないほうの手のひらを、常連客に差し出した。

「少しだけ、くれないか。ウイスキー」


 藤堂はふところのスキットルを無言で手渡した。

 礼も言わず、原田はそれに口をつけ、あおった。強いアルコールがのどを焼く。酔う気は、しない。


「本当に、行くのかい」


 斎藤が言った。三人の中で唯一、素直な怯えを表情に浮かべていた。


「あの子を、このまま怪物と一緒に棲まわせつづけるのか」


 原田は自分に言い聞かせるような強い語調で、スキットルを斎藤に突き出した。

 斎藤は「ううっ」と呻くように声を漏らして、ウイスキーをあおる。


「家出の理由をでっちあげてるだけかもしれんぜ。下手に関わらず、警察に任せたらどうだ」


 青い顔をにやつかせながら、藤堂が言う。本心ではない。震える声音で判る。


「確かめてみればいい。それでわかる話だ。それに」

 原田は言葉を切って、咳払いした。

「それに、確認しておきたいこともある」


 その先の説明を端折って、日本刀を袋から抜いた。左手で腰に添える。いつでも、鞘を走らせられるように。


 一息、細いため息を吐いて、ガラス戸をあける。むん、と異臭が鼻を突いた。腐った鶏肉のような臭いだった。


 原田は臆せず前進する。

 玄関ドア横のインターフォンを鳴らす。


 がたっ。

 ごたっ。

 どたたどたっ。


 家の中から、騒々しい音。眠っている猫を驚かしたかのような。

 物が倒れる音。

 ずるずると引きずる音。


 返事は、ない。


 再びインターフォンを鳴らした。

 今度は、落ち着かない物音すら返ってこない。


 無音、だ。


 当然、返事もない。


 三度、インターフォンを鳴らした。


「……っ、わいぃ」


 ようやくスピーカーから声が返ってくる。異様にくぐもった声だ。何かを口に含んだまま喋っているかのような。少年の回想が、脳裏をめぐる。


「将棋サロン『棋円』の原田ですが」


 動揺を見せず、原田は応える。後ろで斎藤が後退りする音が聞こえた。


「ふぁふぁ、ひぐぅぼ もどぅえぶぁでぃだってろりれあ」


 聞き取れない。原田は、あくまで冷静に、鳥肌を不安と同じ場所に押し込んだ。

 藤堂はウイスキーをあおった。

 斎藤はまた一歩、後ずさりする。


「お宅のお子さんがね、うちに駆け込んできたんですよ。とても怖い思いをしたといって。なんでもお宅に化け物がいる、だとか」


「うぉでずずずずずずあがぁぎぃっでえとぅいだっでええ。あぅがっでえぶおうがぅぐぅぇいぎぐぅあっどぅおっがっがっどぅあう。どぅおおおおおうどぅあぼっぎどっど……」


 スピーカーから異形の声が響く。藤堂は酒をあおり続ける。斎藤は臆病のままに後ずさりする。


 二人は、気づいていた。


 玄関ドアの隙間から、さらさらと這い出してくるものに。


 髪の毛、だ。

 細く、長い、黒い、髪の毛。


「彼はね、あんたの髪が蜘蛛を食うところを見たそうだ」


 髪の毛はとめどなく、次々に這い出てくる。

 室外へ開放されるなり、絡み合って、もつれあって、太縄のように。

 太く、丈夫な、三つ編みにまとまっていく。


 原田は、日本刀の柄に手をかけた。つばを親指で、くっ、と押し上げる。


「なあ、この臭いはなんだ」

 刀身を抜き払う。

「俺は、知ってるよ」

 鞘を捨てる。

「血の臭いだ」

 中段に、構える。

「生き物が腐った臭いだ」


 ふっ、と集中を込めて、息を吐く。


「あんた、虫以外にも何か喰ってるんじゃないかね」


 返事はない。

 さらさら、しゅるしゅる、と髪の毛が編み合わさる音だけが響く。


 三つ編みが増える。増えていく。無数の黒い蛇が生まれていくように。


 メデューサ。


 一向に酔いが来ない藤堂の脳に、ギリシア神話の怪物の名が浮かんだ。

 毛束はうごめく。うごめいて、標的を捜索する。

 先端が、開花するように、ふぁさ、と広がった。


 口だ。


 斎藤は見た。よだれが滴るのを見た。のこぎりみたいな小さな歯が鳴るのを見た。長い舌がちろちろと揺れるのを見た。


 見て、逃げた。

 恐怖が、仲間たちへの引け目を、上回った。


「返事をくれないかね」

 黒い蛇たちに囲まれながら、それでも原田は臆さない。

「もうことばを喋るだけの人間性も失くしたかね。でも、もうひとつだけ、聞くよ」


 がちり。

 玄関の鍵が、開く音。


 がちり。

 もうひとつ。


「最近、井上さんがサロンに来ないんだがね。あんた、知らんかい。耳の遠い爺さんなんだけどね」


 扉が、勢いよく開いた。

 真っ暗な室内から、女声と男声の混じり合った叫び声が、つんざく。


 それを合図に、三つ編みの蛇たちは一斉に原田むけて襲いかかる。


 原田は構わず、前方へ。

 大きく、踏み鳴らし、暗闇へ。

 雄々しい掛け声とともに、刀閃を落雷させながら。

 暗闇へ。飛び込んだ。


 藤堂が見たのは、そこまでだった。首に、黒い蛇が巻き付く。友に。斎藤に。助けを求めようと、振り返る。


 いない。

 逃げた。

 ようやく、気付き。

 手元のスキットルを、一口、あおった。


 斎藤は、逃げた。必死で。

 逃げた。逃げた。逃げた。


 走った。全力で。

 転んだ。何度も。


 駆け上がる、陸橋、手すりを、命がけで手繰り寄せる。


 信号が変わるのを待たず、横断歩道を走った。

 全力で。

 クラクション、無視する。渡り切る。振り返る。

 いない。蛇は、いない。


 いない?

 本当に?


 信じきれず、また走る。雪の積もる細い道を。さびれた商店街を。シャッターに挟まれた、死にかけの店めがけて。


 着いた、棋円だ。

 馴染みある古びた店の空気に安堵する。

 斎藤が戸を開くと、寒風が疲れた腕を助けた。


「斎藤!」


 少年とともに留守をまもっていた永倉が、よろよろと駆け寄って肩を抱いた。息が切れている。顔が赤い。どこかで転んだのか、手のひらが擦りむけていた。


「どうだった。何があった。店長と藤堂はどうした」


 矢継早の質問に、斎藤は、息が荒れて、まともに答えられない。


「……お母さんは?」


 少年が質問する。答えられない。

 どう答えて良いのか、わからない。

 斎藤は天井を仰ぎながら、開きっぱなしの戸を閉めようと、背中で押した。


 風の抵抗を受けながら緩やかに、戸は閉まりゆく。


 その隙間から、しゅるしゅる、と何かが這い寄る音が聞こえた、気がした。



《了》

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三つ編み、愛で、憂さ 二晩占二 @niban_senji

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