第4話 元通り

 少年は同じような日々を二週間、つづけた。


 家に帰ると、暗闇が待っている。

 休む間もなく、すぐに母から追い出されてしまう。


 少年は仕方なく、田舎町のあちらこちらに居場所を作ってまわった。


 駅向こうの将棋サロンは静かで居心地がよく、集う人々の人柄も気に入った。

 少年は幼い頃に父を亡くしており、祖父母とも縁が遠かったため、荒々しくも優しい棋円の老人たちに惹かれていった。将棋を教えてくれたし、宿題にも一緒に取り組んでくれた。


 遅い時間になると、同じ方向に帰る井上という常連客が、家まで送ってくれた。

 井上は耳がひどく遠くて、会話が成り立たないことも少なくなかったが、家路をひとりで歩かずに済むのは少年にわずかな安堵をもたらした。


 日を追うごとに、湿った不潔な腐臭は、家中を侵食していった。

 何度か窓を開けて、換気を試みた。が、そのたびに母はヒステリックに叫んで拒んだ。気づくと、家中の雨戸が閉ざされてしまっていた。


 家が、どんどん闇に染まっていく。

 その中で、母は、粛々と髪をいじるのだ。


 ざ、しいいいっ。

 ざ、しいいいっ。


 櫛を入れ、まっすぐに梳かす音が、漆黒の中を静かに奏でた。


 しばらくすると音が変わる。

 きっ、きっ、という小さな音に。

 梳かして整った髪を、三つ編みにしているのだ。


「ねえ、お母さん。なんで、そんなに、髪の毛ばっかりいじってるの」


 少年は何度も繰り返し訪ねた。

 母からの返答は、いつも無言だった。


 親子の会話なんてものは、とっくに成立しなくなっていた。


 家事の一切も、放棄された。

 少年は暗闇ごしに手渡される金を頼りに、それらを補わなければならなかった。


 大量のカップ麺を買い込み、普段着や体操服やパジャマをコインランドリーに運ぶ日々だった。

 家賃や光熱費の赤い請求書がポストの中で束になっているのを見つけて、慌てた。


 そんなときも母は無言のまま、キャッシュカードを少年に手渡した。少年は生涯ではじめて、銀行を訪れた。


 手渡されるお札にも、キャッシュカードにも、いつも髪の毛がまとわりついていた。

 少年は日光のもとへ出ると、すぐにそれを払い除けた。


 時にはお札に髪の毛が突き刺さっていることもあった。硬く、長い毛だった。


 人だって殺せるんじゃないか。


 少年は内心でそんな冗談を言い、家に漂う腐臭を思い出して青ざめるのだった。


 そんなある日。

 いつものように井上に送られながら帰宅すると、玄関のポーチライトが灯っていた。雨戸が開き、室内の灯りが漏れ出ていた。


 異変の前の、我が家だった。

 元通りの、我が家だった。


 少年はこころが明るくなった。時間はかかったけれど、母が元気になったのだ。光の下で暮らせるようになったのだ。


 いつも恐るおそる開いていた扉を、力強く開いた。遠慮なく響く金属音にかぶせて、


「ただいまーっ」


 と声を弾ませた。


「おかえりなさーい」


 同じように弾んだ母の声が、リビングから響いた。


 曇った、声が。


 口になにかを詰め込んでしゃべっているような声だった。

 不明瞭な音声。少年の耳には「もはいみまはーい」と聞こえた。


 リビングをと歩む母。お気に入りのワンピースを着ている。上品なモスグリーン。身を包んでいる。


 その布に覆いかぶさるように、黒く、長い、毛。すべて三つ編みに結われて。

 無数の三つ編みが、植物の蔦みたく母の細い体に絡みつき、床まで垂れ下がっていた。

 黒い、イソギンチャク。


「やっと戻ってきたわ、私のうつくしい髪」


 そういって、母はくるり、と一回まわる。ワンピースの裾に同調して、三つ編みたちがふわり、と宙を踊った。

 一本いっぽんの先端が少年のほうを向いてまわる。三つ編みたちとの、顔合わせになった。蛇に睨みつけられたような、寒気が全身を走る。


「すごい、ね」


 少年はどうにか、悪意をこめずに言葉を作った。取り繕う必要がある、と本能が告げていた。


「そうでしょ、そうでしょ。三つ編みは美しいわよね。何歳になっても、いいわよね。それをあの人達、きっと嫉妬ね。私の美しい三つ編みに。だからあんな嫌がらせして、あんなふうにむしり取ったんだわ、私の大事な髪を」


 髪は、自分でかきむしったんじゃないか。ヒステリーになって。

 口には出さなかった。生唾を飲み込む。


 何十本もの三つ編みは、エアコンの風に揺られてか、時おり意思を持ったかのようにうねった。触手のような意思を感じさせる。


「ちょっと、増えすぎじゃないかな」

「元通りよ」


 ようやく振り絞った少年のなけなしの勇気は、食い気味に断たれた。

 母は、横分けにした髪の隙間から、歯をむき出しにして笑っている。歯間に何本もの髪の毛が挟まっていた。


「元通りでしょ、ね?」


 少し語気を荒げて。喉の奥から毛が迫り上がって、唾と一緒に吐きだされる。

 声を曇らせていたのは、毛か。


「あなたも馬鹿にするの? あいつらみたいに。馬鹿にするの? 三つ編みを。お母さんの三つ編みを。気持ち悪いって。ババアのくせにって。ブスのくせにって。馬鹿にして、引っ張って、引きちぎって、かきむしるの、そうなの、ねえ?」


 多量の毛を吐き散らかしながら、母のヒステリーは高まっていく。ずるずる、歩み寄る。声だけでなく、物理的にも迫ってくる。


 手が、少年に向かって伸びる。


 少年の首にめがけて。


 母の手に、数本の三つ編みが絡みついていた。

 少年に近づくにつれ、毛束がむくりと起き上がる。鎌首をもたげるように。ぐにぐにと、うねりながら、睨みつけてくる。


 手入れの行き届いた毛先が荒々しく開く。


 口だ。

 毛先に、口がある。

 牙がある。

 息を吐いている。

 死んだ猫のような、臭い息だ。


 少年の首筋に生暖かく。


「綺麗だよ、お母さん」


 少年は、嘘をついた。

 三つ編みに喰われてしまわないように。



 原田、藤堂、斎藤の3人は駅前の交差点にたどり着いた。

 横断歩道を渡って駅の向こう側にまわれば、少年の家にたどり着く。


 駅前には大きな温度計。デジタルの数字が、点滅している。


 氷点下2度、らしい。


 嘘をつけ。

 もっと寒いはずだろ。


 などと、文明の利器に毒づきながら、原田は黒いニット帽の下端を耳介にひっかけた。凍えた皮膚の痛みが、ほんの少しだけ和らぐ。


 雪と同じ色の息を吐き出しながら、3人の老人たちは揃って青信号を渡った。

 横断歩道の白線、滑りやすい場所を避けながら。


 少年の話をすべて信じきったわけではない。原田はそう、自分に言い聞かせる。

 怪談話は嫌いではない。むしろ好むほうだと言ってもいい。桂歌丸の真景累ヶ淵も6回すべて寄席で聴いた。

 かといって、幽霊や妖怪などの超常を信じているかというと、話は別だ。


 そんな可愛げは、若さと共に色褪せてしまっている。


 だが。

 真面目な少年の、あの眼差し。真に迫った、怯えた目。人智の及ばぬ驚異へ向けられた、あの目だ。

 それが嘘をついているようには、どうにも思えないのも事実だった。

 日本刀を握る手指に、自然と力がこもる。


 無事に横断歩道を渡り切る。駅の真横には陸橋がそびえ立っている。これを渡る。階段の端に踏み固められた雪が凍りついている。


「藤堂さん、滑って転げるなよ。階段は、洒落にならんぞ」


 足元の頼りない常連客に注意を喚起してから、原田は階段を上り始める。右手に触れた手すりが凍っていた。左手の刀を、杖のように突き刺しながら陸橋を登っていく。


「あの子が見たんは、本当に、母親だったんけ」


 後ろで、藤堂がつぶやいた。

 手すりに体ごとよりかかって、踊る足をどうにか階段にとどめている。頬が、うっすらと赤い。


「見たのがおめえだったら、酔っぱらいの幻覚に違いねえって言えたんだけどな」


 声を震わせながら、斎藤が最後尾から軽口を叩く。一番の臆病者が震えているのは、寒さのせいか、それとも。


 先頭の原田から順に、階段を登り切った。


 風。


 雪国には高い建物がない。山から吹きおりる風は、そのまま田舎町をすり抜けていく。

 純粋な寒さが、老人たちの頬を、辻斬りながら逃げていく。


 振り返ると、棋円のある商店街がかすかに見えた。陸橋の上から見下ろす商店街は、自分と同じくらいに老いぼれ始めている。


 クソくらえ。

 原田は唾を吐く。くだり階段だ。より、慎重に。


「滑って転げるなよ、洒落にならんぞ」

「聞いたよ、さっき」


 原田の二度目の忠告に、藤堂と斎藤が揃って、かろうじて笑った。

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