第3話 暗い部屋・曇った声
少年が母のヒステリーを目の当たりにしてから、2日後。
学校から帰宅し、玄関のドアに鍵を差し入れて、違和感を感じた。
手応えが、軽い。
鍵が、かかっていなかった。ドアは開放されている。
かけ忘れだろうか? それとも泥棒?
ルーチンワークの当たり前が崩れ、小さな恐怖を感じる少年。ゆっくり、戸をあける。
がちん、と隠しきれない金属音が鳴った。
家の中に首を差し入れて、耳をすます。
物音と話し声が、聞こえた。
……テレビの、音?
リビングのほうから、聞こえる。
誰かがいる。泥棒ではなさそうだ。
母だろうか。少年は考えた。
こんなに早い時間に帰ってくるのは、珍しい。
靴を脱ぎ、静かに廊下を進む。
リビングのドアを、開けた。
途端に、漂う、異臭。
どこかで嗅いだ覚えのある、湿った臭いが、鼻を突いた。
部屋を見渡す。異様に暗い。
テレビの明かり以外に明かりを発するものはない。ご丁寧に、雨戸まで締めてある。
テレビ前の3人掛けソファに、母が座っていた。やはり母だった。
暗闇の中で、連続テレビ小説が淡い光を放ちながら垂れ流されていた。ドラマを眺めながら、母は髪を梳かしている。
ソファの上に、小山が積もっている。毛玉のような、ふわふわしたシルエット。櫛の先から落ちた、髪の毛が、その小山に集合していった。
少年は、気味の悪さに鳥肌を立てた。
「何、してるの」
不審がりながら、声を出す。リビングのドアを、後ろ手に閉めた。
「ちょっと、気分が、悪くてさ。早退しちゃった」
振り向かず、テレビを見つめたまま、母が答える。その声が、曇って聞こえた。
なにか食べているのだろうか。
「ねえ、お母さん。暗いよ。電気、つけてもいい?」
「だめよ」
母の声は曇ったまま、ヒステリックに返ってくる。
「暗く、しておいて」
拒否されるとは思わず、照明のスイッチに伸ばしかけた手が驚く。
テレビの青白い明かりが、リビングの狭い範囲を、直線的に照らしている。かろうじてその範囲に含まれたサイドテーブルには、雑誌が積まれていた。
テレビから離れたキッチンのほうは漆黒だ。これではおやつも探せない。
「なんでこんな暗くしてんの?」
「どこか、遊びに、いっておいで」
母は少年の質問に答えない。
曇った声で、言い放つ。2日前のヒステリーを思い出させる語調だった。
少年は逆らえず、
「お金ちょうだい」
とだけ催促した。
かさかさと財布からお金を抜き取る乾いた音。サイドテーブルの雑誌の頂上に、お札が置かれる。
置くとすぐに、母はさっと腕をひいた。わすかな時間、少年の目が捉えたその腕は、テレビの青い光の力も加わって、ひどく弱く、細く、邪悪に、見えた。蛇のように、しなやかに。
少年は大人しく従った。
家を出て、商店街に向かった。確か古びた将棋サロンがあったはずだ。
歩み始めて、ふと、思い出す。
あの異臭について。
去年の春、茂みで死んだ猫を見つけたときに、嗅いだ匂いだった。
3人の老人たちは少年の話を反芻しながら、雪道を歩む。
役所の駐車場を抜けると近道だ、と原田が言った。実際に直線距離は短くなったが、時間は稼げなかった。
藤堂が、3回も転んだせいだった。
自動車のタイヤで丁寧に拵えられた
還暦を過ぎて何年も経つ割に、藤堂の骨は丈夫なようだ。痛がりながらもケロリとした顔をしている。
「おい、いい加減にしろよ」
原田がしびれを切らして唸った。
ほんの駅の向こう側に、少年の家はある。目的地は目の前なのだ。
何時間も、何日も、かけてはいられない。
しかし、できるだけ先延ばししたくなる気持ちは、わからないでもなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます