第2話 母の異変
原田と藤堂、そして斎藤の3人は店を出た。足の悪い永倉は店に残って少年と共に過ごすことになった。
少年の話が終わってからほんの数分で行動は開始された。必要最小限の言葉が交わされた。それだけで、役割分担は決まった。
交錯する各々の目が、動揺と恐怖に打ちのめされていた。
3人は商店街を抜ける。吹雪は少しだけ、おさまっていた。せめてもの救いだった。
悪あがきのような風が、老人たちに吹き付ける。除雪車が路肩に寄せた雪壁から、崩れた雪粉が舞う。3人の頬、耳、首筋を、冷たくなぞる。
「
斎藤が呟いた。
その言葉の矛先は、今日の天気なのか。それとも荒唐無稽な少年の話なのか。
判別はつかないまま、しかし、原田と藤堂もうなずいていた。
原田の手には、日本刀が握られている。
先程まで手入れしていた、菊一文字の銘刀だ。
刀袋に入れて、杖のように雪道を突き刺す。
同行する二人はその古美術品に、すがるような眼差しを向けていた。剣の収集家が、剣の達人である確証など、どこにもないとわかっていながら。
藤堂はふところに手を差し入れると、銀色のスキットルを取り出した。一口、呑んで、原田の眼前に突きつける。
原田はそれを無言のまま受け取り、中身も聞かないまま一気に煽った。
ウイスキーだった。
質は、あまりよくない。
つん、とアルコールの刺激がのどを突き刺して、むせた。
その咳がおさまらないままスキットルを藤堂に突き返し、原田は積雪で狭まった歩道を歩み始めた。
真後ろを、二人が追従する。
雪が邪魔をして道幅は大人ひとりが通るので精一杯なほど、狭まっていた。
三人は一列に並んで歩く。
滑らないよう、そわそわ、と。
雪の下に、凍った地面が隠れているからだ。
歩きながら、三人はそれぞれに、先程の少年の話を回想していた。
少年が母の異変を気にし始めたのは、数ヶ月前だった。
宿題をさらっと済ませ、バトルロワイヤルゲームのオンライン対戦に熱中していた。画面越しに級友を罵倒していた。
建物の影から急襲した弾丸に頭を撃ち抜かれたその瞬間、玄関から物音が聞こえた。
仕事を終えて、母が帰宅したのだろう。
「おかえり」
反射的に言葉を放る。
そしてまた、ゲームに熱中した。壁越しにライフルを撃ち荒らす。当たった。ヘッドショットだ。
小さくガッツポーズする。と、同時に。
ガラスの割れる音が響いた。
階下からだった。
音は一度で、止まない。
がしゃ。
がしゃ。
ぱり。
ぱり。
粉々に砕けるガラスの悲鳴が、がしゃがしゃぱりぱり。
階をまたいで、少年の心臓を不安が掴んだ。
コントローラーを置く。そして、ゆっくり、おそるおそる、階段をおりた。音もなく、廊下を進む。
半開きになっていたリビングのドアをそっ、と開く。
数ミリの隙間。目を当てて、中を覗く。
破片の海、だった。
白と透明の、食器の破片で象られた海が、広がっていた。
その真ん中に、母が、身を細めて立っていた。
食器棚は空っぽだ。
「何なのよ」
細いからだから、細く、ヒステリックな声が奏でられる。
母は、震えていた。
声も、手も。
ガラスで切ったのか、手の甲から血が滴っていた。
「何なのよ何なのよ何なのよ」
血のついた手で、髪をかきむしる。
お気に入りの三つ編みが、荒々しく揺れる。四十代に突入しても、自分のトレードマークだと言って譲らなかった、三つ編みが。授業参観のたびに悪目立ちしていた三つ編みが。
ぱら、ぱらと、長く黒い髪の毛が、一本ずつ別離して破片の海に舞い落ちる。
「何なのよ何なのよ何なのよ馬鹿に馬鹿に馬鹿にして馬鹿に馬鹿に馬鹿にどいつこいつも馬鹿に馬鹿に馬鹿にして何なのよ何なのよ何なのよ何なのよ」
悲痛な叫び声。
揺れる三つ編み。
金切り声を上げながら振り乱す母の髪束が、蛇のようにうねっているのを、少年は見た。
信号が青に変わる。
三人の老人たちは横断歩道を渡り始める。
白線が凍って、やけに滑った。足の小指側をアスファルトに食い込ませるように、斜めに踏み出す。
仕事場の人と上手くいってなかったみたい。
小学校高学年の少年はそう語った。職場での人間関係の亀裂を我が子にすら、隠しきれずに、母は限界を迎えていたのだった。
横断歩道を渡り終える。
雪壁の内側を、再び一列に並んで歩いた。
足取りを緩めながら、藤堂がスキットルを取り出す。飲み口を顔に近づける。手袋ごしの握力は、銀色の酒入を支えきれない。
銀色の容器が、雪に突き刺さる。
藤堂は立ち止まり、屈んで、拾う。
「おい」
急に屈み込んだ藤堂に、すぐ後ろを歩いていた斎藤がぶつかった。
2人そろって倒れ込む。凍った歩道の上を、転がる。雪壁に、衝突して、粉雪が舞う。二人の顔にぱらぱら、と落ちる。
互いに互いを罵倒しながら、2人の老人たちは、ゆっくりと起き上がった。
原田はそんな滑稽な様子を、だまって見つめていた。
いつものように2人を笑い飛ばしながら叱責するだけの余裕は、すでに失われかけていた。
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