三つ編み、愛で、憂さ
二晩占二
第1話 将棋サロン『棋円』
窓のむこうにも窓がある。
二重窓だ。
円筒ストーブの力強いぬくもりを室内に留め、結露を防ぐ。雪国には必需といえる設備だ。特に、今日のような吹雪の日には。
指先のしなりが、駒が伝わった。小気味の良い音が爆ぜる。
藤堂は、今年で72歳になる。後期高齢者のラインが目前に迫った。アルコールに溺れる日々を送っている。
将棋の感覚は、まだ衰えない。
盤の挟んだ向こう側、
長考。
真っ白の短髪をかきむしる。
沈黙の合間に、吹雪が外壁を叩いた。
『棋円(きえん)』は古びた商店街の端にある、古びた将棋サロンだ。両隣をシャッターに挟まれた、死にかけの店だった。
つまり、定年後の前期高齢者たちが手持ち無沙汰に憩う場に、うってつけといえる。
老人であることを認めきれない頑固者たち。指先から放たれる駒音。
店内の時間は、緩やかに流れている。
藤堂と斎藤がにらみつける盤面を、横から見物する男がいた。
つるっと輝く剃髪に、糸を引いたような細い目つき。小学生でも容易に似顔が描ける相貌だ。
その残りの人生を末永く楽しもう、などというつもりは微塵もない。今日のような大雪の日でも、永倉は凍りついた地面にバギーの小さな車輪を滑らせ、はるばる棋円を訪問している。
店の常連客にはもうひとり、
この寒さで体調を崩したか。
緊急で入院したか。
おっ
酒を煽りながら放たれた藤堂の気の利かない冗談に、悪友たちは声を上げて笑った。
店長の原田は、いつも入口付近のカウンターに陣取っている。サロンの主だというのに、最近はめっきり将棋を指さなくなった。いつも、古びたレジスターと向かい合いながら黙々、日本刀の手入れをしている。
三十歳を過ぎた孫娘が刀剣の擬人化ゲームに熱中している様に触発されて、彼は日本刀の収集に熱中しはじめた。
惚れ惚れする芸術的な刃肌と見つめある日々だ。
相反して、将棋への熱意は冷めていった。
店内に飾られた無数の賞状の中には全国クラスのアマチュアタイトルも含まれている。が、今ではトイレで用を足すついでに詰将棋を解く程度まで関心がなくなってしまった。
「げろっふ、げろっふ」
溺れるように、斉藤が咳をした。そのついでに、飛車のうしろに香車を足す。
口角から吹き出た飛沫が盤面に飛び散る。
藤堂は露骨にいやな顔をした。
「手ぇぐらい当てろや」
「すまん、んん、ん、げろっふ」
「だから、手」
再び注意を口にしかけたそのとき、痛い音と共に古めかしいガラス戸が押し開けられた。
冬の空気が
寒風に背を押されてよろめきながら、ひとりの少年が店に入ってきた。原田は日本刀を脇に置く。
この2ヶ月くらい、よく見かける子どもだった。きっかけは忘れた。いつも隠れ場所を探すように、おどおどした顔つきでやってくる。
大人に混じって将棋を指す日もあれば、空いた机に向かって黙々と宿題だけこなして帰っていく日もあった。
開店以来、常連客以外はほとんど顔も出さない商売っ気のない地元の小さなサロンだ。原田は別段、文句を言うつもりはない。席料を払うのであれば。そして法律に反しない範囲であれば。
時折、敗局にむしゃくしゃした老人が、頭の体操とばかりに宿題に付き合う様子は、同年代から見ても悪くない光景だった。
風が、強い。
少年は力いっぱい、という風に両腕を突っ張って、ガラス戸を押し返す。
原田はその頭の上を横切る形で腕を伸ばし、力を貸した。
戸が閉まる。
雪が忍び込んで床に溶けた。最後のひと欠片もすぐ水になる。
「千円」
原田はカウンターに座りなおしながら、席料を告げる。
呆けた表情で扉の外を眺めて硬直していた少年は、遅れて声が聞こえてきたかのようにはっと振り返り、ポケットからしわくちゃの千円札を取り出した。
野口英世に巻き付くように、髪の毛が数本ついていた。原田はレジにしまう前に軽く手で払って除けた。
少年はカウンター前から動かない。うつむいた顔に、青ざめた表情を貼り付けている。
「永倉さん、ちょっと相手してやってよ」
原田が気を利かせて、足の悪い常連客に声をかける。
1、2秒、間があって、永倉が相棒のバギーカーから腰をあげた。ゆっくりと。
更に1、2秒、間があって、少年は我に返ったように上ずった声を上げた。
「ち、ちがうんです。ちがうんです。今日は、ちがうんです」
弁解めいた口調。
原田と永倉は、同時に小首を傾げた。
「なんだい、宿題かい。なら、そっちのテーブル使いな。入り口近くは寒いから、早くストーブの近くにいって暖まるといい」
促す。が、少年は動かない。ニット帽も被ったまま。毛糸と髪の毛の間で溶けた雪が、額、頬、首筋と滑り落ちていく。
「たすけてください」
少年は振り絞る。泣きそうな声だった。
「お母さんに叱られたのかい」
藤堂が対局の手を止めて、振り返った。彼は棋円の外でも少年と顔なじみだった。何度か、将棋の大会で遭遇したことがある。
そのとき、少年の母も見かけていた。いい印象はなかった。細い声で、しかしヒステリックに喋る女性だった。
一回戦で少年が負けると、会場中に響き渡る金切り声で叱責した。
長くて黒い髪を、ふたつ結びの三つ編みにまとめていた。印象に残っていた。あまり似合っていない、という意味で。
ここ数ヶ月、少年が逃げ込むように棋円を訪ねるようになったのは、母の攻撃性がエスカレートしたせいではないか。
藤堂は、ふとそう思ったのだった。
「お母さんに……いえ、叱られていはいないんです。叱られてはいないんですけど、ああ、でも、でも。お願いします、聞いてください。信じられない話かもしれないけど、聞いてください。最後まで、最後まで」
きょど、きょど、と視線を左右に転がしながら、もつれた舌で唇を舐めて、少年は話しはじめた。
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