エピローグ わたしの名前は

1 素顔


 水の流れる音にまじり、遠くから澄んだ声が聞こえる。

 その声は、どこか懐かしさを覚える歌を口ずさんでいる。


♪ソバ アワ ヒエの特産地

♪他領の水田ひかる

♪我らついに盗みけり


他生たしょうの恨みを今生こんじょう

♪晴らす我らは鬼の子か

♪我ら禁忌に触れにけり


♪ふうーふうー

死人しびとは炎で燃やそかな

死人しびとは炎で燃やそかな


 最後まで聞いてからゆっくり目を開ける。


 山の中。久瀬のすぐ右側にある苔むした岩の端で、長い黒髪の女が足をぶらさげて座っている。黒髪の一部だけ色が違っていて、血を思わせる赤い筋がひとつ流れている。


 木々の間から見える空を見上げていた彼女はやがて、久瀬の視線に気づくと微笑ほほえんだ。


「おはよう」


「誰だ……?」


「薄情。毎日門のところで会ってたのに」


「せ、戦闘人形、なのか?」


「そう」


「だってお前、どう見ても俺と同年代……数百年生きてるって……」


「あー。顔を見せたのは初めてか」


 今の彼女は黒い頭巾と熊の毛皮を脱ぎ去っていた。


 熊の毛皮は、隣に寝ている鈴李と久瀬の体に、かぶせられている。 


 鈴李の存在を見て気づく。


 ――鈴李と俺は、お目付け役人に殺されたはずだ!


 左胸に手を当てる。そこに傷跡はなかった。


「悪いけど、勝手に蘇生させてもらった」


「あ? え? は?」


「混乱してるね。どこから話そうか」


 久瀬は改めて周りを確認した。


 雨はもう上がったようだった。茜色の空は木々に覆われ遠くに見える。地面についている右手に泥がまとわりついて気持ちが悪い。寒さはない。なだらかな斜面に沿うように寝かせられていた久瀬のすぐ右上に、苔むした岩があり、そこに戦闘人形がいる。左には鈴李が眠っている。足元の方では、増水した川が、大きな音をたてながら濁った水を運んでいる。久瀬を殺したはずの、お目付け役人たちの姿はどこにもなかった。


「状況はよくわかんねえけど……ひとまず、助けてくれたんだな、お前が」


「そうなる」


「ありがとう」


「どういたしまして」


 戦闘人形の表情が、だいぶやわらかい。今まで見えていたのは目元だけだったとはいえ、だいぶ違う。

 久瀬は右手をついたまま上体を起こし続けていたが、体のけだるさに負け、再び斜面に横になった。


「そうそう。まだ体は完全じゃないから、大人しくしてなよ」


「なんか……元のお前って、そんな感じなんだな」


「久瀬のおかげで、色々ふっきれたみたい」


 言葉通り、彼女はつきものが落ちたような、どこかすがすがしい顔をしている。


「俺は、何もしてないよ。結局、俺一人の力じゃ、鈴李を守れなかった」


 言ってからまぶたを閉じる。


 向こうからやってくる4人のお目付け役人。少しの会話。刀を抜いた。そして……飛び道具のようなものを使われた。左胸が痛い。血が止まらない。死ぬ――。


 強く目をつぶってその残像を振り払おうとすると、人の動く気配がした。泥を蹴る音が少しした後、泥だらけの右手に、温かいものが触れた。


 目を開けると、地面に座り込んだ戦闘人形が、久瀬の右手を取り、両手で包み込んでいた。戦闘人形の瞳にじっと見つめられて、久瀬はさりげなく目を外す。数百歳の老婆だと思っていた時でさえ血迷って好ましく感じかけたのだ。彼女の姿が数百歳の老婆でなかったせいで……、それだけでなく久瀬にとってあまりに好ましいものだったせいで、どうしても意識してしまう。いままでその相手にひたすら自分のことを話してきたのが、いまさらになって、気恥ずかしかった。


「久瀬。お前はすごい」


 ぎゅっと、右手が握りしめられる。


「お前はすごいよ。お目付け役人の護衛官は、城下でも特にすぐれたものが選ばれる。それを8人も倒すのは並大抵のことじゃない。奇襲もいい場所で仕掛けた。石を落として相手を混乱させたのもいい。お前はあの時、自分ができることをすべてやった。

 わたしがまだこの体になる前……戦いがあった。そのとき、自分と同じくらいの能力の8人を同時に相手にしろ、と言われたら、間違いなく逃げていた。お前はそこを踏みとどまったんだよ。自分のためじゃなく、そこにいる女の子のために。

 お前は城下の採用試験にも間違いなく合格できる実力があった。城下に入れれば将来は安泰あんたいだったはずだ。その未来を捨てて、たったひとりで、鈴李の命を救おうとした。普通の人間にはできない。

 お前が納得できるまで何度でも言う。お前がこの子の命を救った。わたしを評価してくれていた以上に、もっと自分を評価しろ」


 戦闘人形が、久瀬を元気づけるために、熱い言葉を綿々めんめんとつむぐ。


 久瀬は、その様子が、うれしいと思った。


 そしてそれ以上に、いとしいと思った。


 これまで生きてきた中で感じたことのない熱が、心にともり、久瀬は一筋、涙をこぼした。


 こんなふうに認めてくれる人間なんて、育てのじい以外にはいなかった。


「久瀬。お前はずっと死んでいたわたしの心に、火をともしてくれた。お前が8人を倒したのを知った時、わたしは、思い出したんだ。昔、人を助けるために必死に戦っていた自分を……。久瀬の命を助けたのは確かにわたしだけど、それを引き起こしたのは久瀬自身の行動の結果だよ。わたしは少し手伝っただけ」


 久瀬は右手を握られたまま、左手をうしろについて、もう一度体を起こした。


 地面に座っている戦闘人形の顔を、何も言わずに、真正面から見つめる。彼女は少し首を傾げた。


 久瀬は胸の奥から次々にあふれてくる言葉の奔流ほんりゅうを、うまく口にすることができなかった。


 だから久瀬は、泣きながら精いっぱいの笑顔を浮かべて、単純な言葉を使うしかなかった。


「俺、生きててよかった」


 戦闘人形が驚いたような顔をした。そのあとに、やわらかく微笑んだ。


「ありがとう、そう言ってくれて」


 なぜか礼で返してきた戦闘人形に、久瀬は衝動にあらがいながら、少しずつ体を近づけた。


「嫌だったら、身を引いてくれ」


 久瀬が精いっぱいの自制心で言うと、戦闘人形は目線を一度伏せ、またあげた。


 それから彼女は、包んでいた久瀬の右手を強くひき、自分から、久瀬を抱きしめてきた。


 久瀬は、まだ力の戻らない左手では体を支えられなくなり、また地面に横倒しになった。


律儀りちぎだね」


 横になった久瀬におおいかぶさったまま、戦闘人形が笑った。首元に抱きつかれながら話されると、息が当たってこそばゆい。


 おそるおそる、久瀬からも抱きしめ返す。


「俺……こういうの、よくわかんなくて」


「わたしが必死で慰めてあげてるのに、そういう目で見てたんだ」


 からかうように戦闘人形が言う。


「う、うるせーな……」


「いいんだよ。それで。あのとき素直になっておけばよかったって後悔するより。久瀬みたいに素直なほうが、ずっといい」


 遠い昔の誰かを思い出しているような、そんな言い方だった。戦闘人形は久瀬よりも完全に上手だった。


 胸が当たり足が絡み合う。戦闘人形の体のあたたかさとやわらかさに、一度灯った熱がどんどん高まってくる。


 けれどそこまでで戦闘人形は止めた。久瀬の首に回していた腕をするすると抜き、その流れで、抱きしめている久瀬の腕もほどいた。力比べでは勝てないのが分かっているので、久瀬は抵抗しなかった。


 行き所をなくした熱が、ぽっかりと宙に浮く。


「ふふ。不満そうだね。わたしも別に、続けてもよかったけど」


 微笑ほほえんだまま、戦闘人形は言った。


「そろそろ起きるよ」


 指をさされた先には、眠っている少女がいた。


「鈴李のことも忘れちゃうくらい、夢中だった?」


 この師匠には、とても敵いそうになかった。











 

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