第91話 猪瀬の危機
(しまった。完全に対応を間違えた!!)
洋子は焦っていた。まさかこんなことになるとは思ってもいなかったのである。
(まさか美紀が仕事終わってから会いに行ってたなんて……なんで私も誘わないのよ!!)
洋子は美紀の仕事に基本的についていく。その為、仕事が終わって自由になる時間もまた同じになるのだ。
(まずい。旦那様に仕事を辞められると猪瀬の信用も落ちる。それどころか旦那様に他と手を結ばれたら逆に猪瀬が落とされることになる……お母様に相談しないと)
武藤は基本的に自由である。嫁達の為にがんばっているのも洋子は良く知っている。それを嫁の立場である自分がないがしろにしたのだ。さすがに言い訳できない。これで美紀や真由も会っていないのなら、仕事が忙しいと思って等言い訳もできたのだが、そうだった場合、全員が武藤に切られていた可能性もある。首の皮一枚つながったと喜ぶべきか、そこまで危険な状態だと嘆くべきか洋子は判断に困った。
(違う学年だからって見ぬふりをしていた報いね。よく考えればこうなることはわかっていたのに)
武藤地味化計画については百合、香苗が主導だった為、洋子はあまり口を挟まなかった。これが学校では会わないが、いつも家でイチャイチャしているならなんの問題もなかっただろう。家ですら会っていないのならそれは完全にいじめと変わらない。地味な恰好をさせて交友関係を狭めさせ、自分達は自由に振る舞う。相手は自分たちの為に休日に働いてまでいるのにだ。完全に切られても文句は言えないだろう。
「はあ……貴方は何をやっているの?」
「申し訳ありません」
母親に報告した洋子は母の前で正座をして頭を下げていた。
「こうならないように貴方をつけたというのに……」
洋子の母である芳江は焦っていた。昨今の猪瀬の力は間違いなく武藤の力ありきであるからだ。病気や怪我というのは治したらそれで終わりというわけではない。いつ何時またどんな病気、怪我をすることになるのかわからないのだ。だからそれを治すことができる者とつながりがあるというのは非常に心強い。そして切られた場合の不安感も凄まじいのである。その為、一度武藤の患者として治してもらった家は、何としてでも武藤に便宜を図ってもらおうと猪瀬に対して全力で恩を売ろうとする。それが現在の猪瀬の躍動の源となっているのだ。その武藤との縁が切れるというのは、猪瀬にとって致命傷にも等しいことであった。
「美紀ちゃんが婿殿をしっかりと捕まえているからまだなんとかなりそうね……」
美紀は一応猪瀬のタレントである。美紀も猪瀬に恩があるし、ある程度武藤については話をつけてくれるだろう。
「貴方」
「うっ」
芳江に呼ばれ、剛三は肩を震わせた。
「毎週土日に仕事を入れるなんて、さすがにどうかと思いますが?」
「だ、だがな。世界中からせっつかれてるんだぞ? これでも抑えている方なんだ……」
晴明の評判は既にその界隈ではかなり有名になっていた。どんな病気でも怪我でも治る。古傷だろうが不治の病だろうがなんでも治ると聞けば、それはもう世界中の富豪たちから連絡がひっきりなしに飛んでくる。無下にもできない権力を持つそれらになんとか対応するだけでも猪瀬は手一杯なのだ。
「学生である婿殿から土日を奪ったら婿殿はいつ休めというのですか」
「そ、それは確かに悪いとは思っている。だが無下に断ることもできんのだ……」
「断らなくても間をあければいいでしょう。無理を言うなら受けないといえばいいのです。向こうも強くは出られないでしょうから」
あくまでこちらが立場は上なのだ。行くも行かないもこちらのさじ加減一つだと相手もわかっているはずなので、そうそう強くは言えないはずである。
「だから今は一刻を争うようなものだけ、優先的に受けているんだが……」
それでも案件が多いのである。結局いつ死ぬかわからない状態というのは、実際は後1年持つかもしれないが、明日死ぬかもしれないという状態なのである。そうなれば直ぐにでもと考えるのが普通である。
「それで婿殿が辞めてしまったらどうするのです」
「ぐっ確かに武藤のことを考えていなかったのはまずかった」
あまりに濡れ手で粟の状態だった為、武藤のことはかなりおざなりになっていたのは間違いない。
「百合さんがいたおかげでとれていた均衡が崩れました。これで洋子が正妻になる可能性もできたと同時に切られる可能性も出てきました。しかも状況は切られる方に傾いています」
「……まずいな」
「金でも女でも力でも縛られない存在なのです。もっと慎重に扱うべきでしょう」
「わかってはいるんだがな。あいつはそういった欲がないから何かを与えて機嫌を取るとかできんのだ」
武藤は何かを欲しいと強請ったこともなければ、報酬の割合で問題になったこともない。それは非常に扱いやすいと同時に扱いにくくもあった。全く恩が売れないのである。貸しや借りを作る一方なのは正常な関係とは言えない。武藤に対して借りを一方的に作っている以上、武藤はいつ辞めたところで猪瀬としては引き留める力がないのだ。
「魔法で体を戻して記憶消せるとなれば、洋子の楔としての力すら無いものと思った方がいいですね」
娘との肉体関係により武藤に対して楔を打ち込められていたという安心感が、今回の一件で脆くも崩れ去った。武藤はいつでもこちらを切ることができるとわかったのである。
「最終手段は子供ですが、魔法で避妊されている以上どうしようもありませんね」
完全に手詰まりであった。
「婿殿の家に住むというのはどう?」
「そちらの方が学校が近いのなら可能性はありましたが、遠くなるだけなので無理でしょう。旦那様は合理的なので利点がなければ受け入れません」
「ならば学校の近くに引っ越すというのは?」
「真由の弟がいますから無理でしょう。一家団欒のようなあの時間が旦那様は好きなようですから」
「真由さんの一家毎引っ越したら?」
「そうすると真由の弟君が転校する羽目になります。そういったことを旦那様は勧めないでしょう」
「……はあ、無理ね。手がないわ」
そういってさしもの芳江も天を仰いだ。
「せめて婿殿との絆だけは切れないように1人の女として婿殿に仕えなさい」
「わかりました」
芳江の言葉に洋子は素直に頷いた。
「貴方はどうやっても猪瀬の利益になるかどうかで判断してしまいます。そうなるように育てたのだから致し方ありません。ですが婿殿のようなタイプにとってそれは致命的な程にマイナス要因です。だから貴方はいざとなったら猪瀬を切るつもりで旦那様を1人の女として愛しなさい。それが結果猪瀬を救う道につながります」
「わかりました。誠心誠意旦那様にお仕えします」
そう答えた洋子の顔はいつになく真剣なものだった。
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