【5】1日2分が限界だそうです。
あっという間に一か月が過ぎ――すっかり春本番の、四月某日。
とうとう、私がレナス家に輿入れする日が来た。ちなみに婚姻届は数日前に提出済みなので、戸籍の上では私はすでにレナス家の人間ということになっている。
私は馬車に揺られて、からりころりと響く車輪の音を聞いていた。マグラス伯爵領から輿入れ先への五日間の旅程も、今日でとうとう終わり。まもなく、ジェド様の住むお屋敷へと到着する。
余談だが、侍女は連れてきていない。レナス家側の意向で、侍女などの同行を認めないと言われたからだ。事情はよく分からないけれど、家格が上であるレナス家の意向に従うのが道理なので、私は単身で輿入れすることになった。
密かに楽しみにしていた輿入れだったけれど、今はちょっぴり憂鬱な気分である。なぜかというと――。
「あぁ……せっかく『魔境』に行けると思ってたのに。まさか輿入れ先が、王都だったなんて」
私は少し落胆しながら、そう呟いた。
ジェド様が暮らしているのはレナス辺境伯領ではなく、王都に構えたタウンハウスなのだそうだ。馬車の窓から、石畳の瀟洒な街並みが見える。
個人的には都会より田舎のほうが好きなんだけどなぁ……などと心の中でボヤいているうちに、都会的だった街並みがさらに洗練されたものへと変わった。
ここはおそらく、王都の中心付近に位置する『貴族街』。国内各地に領地を持つ貴族たちの
「うわぁ……。なんてお洒落なお屋敷の数々」
場違い感が尋常ではありませんが。私、本当にこんなところで暮らすんでしょうか……?
「こんなにお洒落な邸宅街じゃあ、畑なんか用意できる訳がないわ……」
ジェド様は本当に、私に土いじりをさせてくれるのだろうか? 嘘だったら、どうしよう。
などと考えていたら、唐突に『かりかりかりかり……』という獣の爪研ぎのような音が聞こえた。
「んにゃぁ」
え……今の可愛いネコ
「猫ちゃん!?」
はっきりと姿が見えた――あの黒い仔猫が馬車の壁面にくっついて、爪で壁を引っ掻いているのだ。私は大慌てで御者に馬車を止めさせ、扉を開けた。
「にゃぁ」
と可愛くひと鳴きして、仔猫が私の胸に飛び込んできた。
「やっぱり猫ちゃん……! どうしてここに?」
にゃぁにゃぁ鳴くばかりで、もちろん答えは返ってこない。でも、私を見つけて大喜びしているのが伝わってきた。
「もしかして、私を迎えに来てくれたの?」
「にー」
私は馬車の外を見まわしたけれど、仔猫のほかにはレナス家の関係者と思しき人はいなかった。たった
「ありがとう。優しい子ね」
きゅっと抱きしめると、甘く鳴いて私の頬を舐めてきた――本当にすてきな子。
「でも、ひとりでお出かけしちゃダメよ。きっとレナス家の皆さんが、すごく心配してると思う」
「にゃぁ」
御者に再び声を掛け、仔猫と一緒にレナス家のタウンハウスへと向かった。
……案の定、レナス家の屋敷は騒然としていた。
この前マグラス伯爵邸で出会った黒衣の騎士――ディクスター・リンデル卿が青ざめた顔で私の馬車を出迎える。馬車の扉が開くのを待つ時間さえ惜しいと言わんばかりに、リンデル卿は慌てた様子でしゃべりはじめた。
「クララ様! よくぞお越しくださいました。が、すみませんが少々お待ちください。またあの猫がいなくなってしまいまして!」
馬車の窓から、たくさんのメイドや召使いが虫取り網を持ってうろうろしているのが見える。……たぶん、猫ちゃんを捜索しているんだと思う。
御者台から降りた御者が、馬車の扉を開いた。私はひょっこり顔をのぞかせ、胸に抱いていた仔猫をリンデル卿に見せた。
「あの。猫ちゃん、ここにいます」
「えっ!?」
リンデル卿が目を剥いている。
「どうしてクララ様のところに!?」
「よく分かりませんが、こちらに向かう途中で会いました。……迎えに来てくれたみたいです」
はいっ!? と、リンデル卿は素っ頓狂な声を上げていた。
「そ、そうですか、クララ様のお出迎えを……。まさか、そこまで楽しみにしていたとは」
ともかく見つかって良かったです! と言うと、リンデル卿は仔猫を掴んで屋敷に全力疾走していった。怒った仔猫が猛烈な勢いでリンデル卿の手を引っ掻いているけれど、リンデル卿は気にも留めずにひた走っている。
「あ、あのっ? リンデル卿、猫ちゃんをどこへ……!?」
「すぐに家令が来てご案内しますんで、ちょっと待っていてください! ともかく私は、猫に準備をさせなければならないので!!」
猫の準備って……?
取り残された私のもとに、本当にすぐ家令が使用人を伴ってやって来た。馬車の荷物を運び出し、私を屋敷へ案内してくれる。応接室に通された私は、緊張しながら応接イスに座っていた。
目の前のカップに注がれた紅茶が、上品な香りを立てている。カップを口につけ、紅茶を味わう。
どれくらいの時間待っていただろうか。あっという間とも数十分とも思える、緊張感のある静寂の後に、
「待たせたな。クララ嬢」
という、聞き覚えのある男性の声が響いた。
ジェド様が、家令や侍女とともに応接室に入ってきたのだ。
「ジェド様……」
私が席を立って淑女の礼をすると、彼は「楽にしてくれ」とだけ言った。真顔のまま、疲れた様子で私の向かいの椅子に座る。
「悪いが、俺は少々疲れている。輿入れ初日から、こんな態度で済まないな」
「いえ……」
やっぱり今日も、体調が悪いのかしら。服も髪もきちんと整っているけれど、慌てて整えたような『急ごしらえ』っぽい感じがする。
もしかしたら、私が到着するまでベッドで寝込んでいたのかもしれない。だとしたら、出迎えるために準備をさせてしまって、申し訳ないわ……。
「あの――ジェド様、私……」
「手短に話させてもらうが、この度は俺と結婚してくれてありがとう。改めて礼を言う」
ジェド様の顔は疲労の色が濃く、笑顔を作る余裕もない……といった感じだ。気だるそうな様子で、淡々と話を続けた。
「クララ嬢には今日からこの屋敷で暮らしてもらうことになるが、俺とは完全に別居だ。俺は居ないものとして扱ってくれ。好きに過ごして構わないし、欲しいものがあれば使用人に言うように。以上だ」
「ま、待ってください」
応接室から去ろうとしたジェド様のことを、私は引き留めていた。
「あの。私にできることは、何かありませんか……?」
「?」
たとえ契約上の妻とはいえ、体調の悪いジェド様のために出来ることがあれば、喜んでさせてもらいたい。
「こちらのお屋敷でお世話になるのですから、ジェド様のお役に立てることがあれば、やらせてください」
「――いや、特にない。どっちかというと、あまり俺に関わらないでくれるほうが助かる。俺は、他人と長時間一緒にいるのが苦痛なんだ。君と面会するとしても、まぁ……一日二分が限界だと思う」
じゃあ、これで。と言って、ジェド様は部屋から出て行ってしまった。本当に、二分くらいしか話していないと思う。
私が呆気に取られていると、控えていた家令と侍女が申し訳なさそうに声を掛けてきた。
「申し訳ございません。若旦那様は、常にああいう感じでして……」
「クララ様、輿入れ早々に不快な思いをさせてしまい、本当にすみません」
「いいえ、大丈夫です。私はまったく気にしていませんので」
マグラス伯爵家で結婚を申し入れてきたときは、もう少し丁寧な態度だった。たぶん彼なりに、『よそ行きの顔』をしていたのだろう。だとすると、今日の態度がジェド様の『素』なのだと思う。それならそれで、私は全然かまわない。契約妻だし。
(でもあの調子だと、私の畑のこともきっと忘れているんだろうな。契約書にまで書いてくれてたのに……)
なんだか裏切られた気がして、悲しくなってきた。――しかし、
「すまん。言い忘れていた」
がちゃり。と再びジェド様が入室してきた。
「君が畑を作る場所は、内庭の南側に用意しておいた。きっかり五十平米だ。苗やら肥料やらは俺には全然分からないから、必要なモノは使用人に言ってくれ。それじゃあ」
ぱたん。
ジェド様は、扉の向こうに消えた。
「もう、若旦那様ったら! ご結婚相手に向かって、いくら何でも失礼すぎます!!」
侍女が怒りも露わに、肩をワナワナさせている。
家令も嘆かわしそうな表情だ。
「重ね重ね、若旦那様の非礼をお許しください。まさかクララ様に畑仕事を命じるとは……」
侍女と家令はジェド様のことを怒っていたようだけれど、二人の非難の声は私の耳には届かなかった。胸がいっぱいで、何も耳に入らない。
そう、私はじ~んとしていたのだ。
「ジェド様って、すごく良い人……!」
レナス家に嫁いで良かった――と、私は心から幸せを噛みしめていた。
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