第二章 混沌の魔女、事件の容疑者になる

第62話 夢を見ると、泣いている時がある


 目を覚ますと、たまに泣いている時がある。

 自宅の大きなソファの上でアリス・フラルエヴァンが目を覚ますと、目元から涙が流れていた。


「本当……馬鹿ね。まだ怖がってる」


 心底呆れたと失笑しながら、彼女の親指が零れた涙を拭う。


 もうこの世界に生まれてから20年も経つというのに……あの日々ことを夢に見ることがある。


 忘れたくても忘れられない前世の記憶。

 決して忘れさせないと、この魂が訴えているのだろうか。

 嫌なことほど脳に焼き付く。あのくだらない生涯を。


 あの夢を見る度に何度も思う。あの人生は、本当に辛かったことしかない一生だったと。


 その命に価値も、生きる意味すら見出せず、ただ強いられるままに生かされただけの無価値な生涯。


 両親から褒められたことなど一度もなかった。

 なにをしても、罵倒され、殴られたことしかない。


 子供から大人になって、死ぬ最後の時まで。


 一番最初の記憶は、怒り狂った両親の顔だった。


 家で一人で遊んでいれば、無駄だと殴られて。

 外で遊びたいと言っても、我儘だと殴られる。

 欲しいモノがあると言えば、贅沢だと殴られた。


 だから気がつけば、自然となにも言わなくなっていた。


 ペンを握り、ただ勉学に励むこと。それがあの両親の許した唯一の行動だった。

 寝具と机、そして勉強道具だけしかない子供部屋とはとても呼べない殺風景な部屋で、ひらすら紙にペンを走らせる。


 脳に知識を無理矢理詰め込む作業だけに、ただ没頭する毎日。


 学業の成績が悪ければ、顔の形が変わるまで殴られた。

 呼吸するだけで精一杯になるまで殴られて、身体中が動かせないくらい痛めつられる。


 誰のおかげで生きているのか問われ、子なら育てた親の為に生きろと壊れた機械のように同じことを宣う。


 だから知識を詰め込むしかなかった。

 そうしなければ自分は生きていけない。

 全ては自身を産んだ親の為に尽くさなければならない。

 そう思うよう意識を刷り込まれてしまった。


 今思えば、アレはどう考えても異常だった。だが当時の自分には、それが普通のことだと思ってしまったのだから……救いようのない馬鹿だったのだろう。


 誰かに助けを求めたこともあった。

 だけど、誰も自分を助けてくれる人間はいなかった。


 それもそうだろう。


 外面は極めて良い、まるで絵に描いたような理想的な家族に、そんなことが起きていると他人が聞かされても信じられるはずもない。


 模範的な家庭で、もし子供が怪我をしても事故や本人の不注意と思われる。


 怪我をすれば治るまで家から出ることは許されなかった。

 隠されれば、本当のことなど分からない。


 だから誰かに助けを求めることは、無駄な抵抗だった。

 仮に抵抗しても、それによる報復の方が恐ろしかった。


 痛みもなく殺されるのであれば、素直に受け入れただろう。

 しかし痛みというのは、どんな人間も容易く拘束する力を持っている。

 心が死んでも、痛みは蓄積する。積み重なれば、その数だけ心を縛る。


 痛いのは、誰だって嫌に決まっている。


 だからもう生き方は決まっていた。

 従順に、あの両親の望む生き方を遵守する。

 その方が痛い思いをしなかったから、それだけの話だった。


 これは愛だと語り、愛しているから厳しくしていると宣いながら彼等は拳を振り上げる。


 愛している。全てはお前の為だ。厳しくするのはお前のことを愛しているから。


 何度も拳を振り下ろして、顔を真っ赤にして怒鳴る。


 まるで愛があれば何をしても良いのだと。それが血の繋がった家族であれば許されると。


 そんなふざけた持論を振りかざして、殴られる。

 大人になり、多忙な仕事の過労で倒れた時でさえ、彼等は愛を語って拳を振り下ろした。

 死ぬ最後の時まで、必死に喚きながら。


 所詮、血の繋がった家族でも他人は他人なのに。

 愛という言葉で自分達を正当化させたヒトの形をした化物。

 私利私欲の為に子供を利用した大人。それが彼等の正体だった。


「こんなに色んな魔法が使えるようになっても……心に染みついたモノは簡単に取れないのね」


 ソファに寝転がったままのアリスが自身の手を見れば、ほんの少しだけ震えていた。


 もし今の自分が、あの両親と対峙しても一秒も掛からず殺せるだろう。


 今であれば恐れるまでもない非力な人間であるはずなのに、なぜか恐ろしいと思ってしまうのだから笑える話だった。


「愛なんて聞こえの良い言葉。本当、便利な言葉だわ」


 愛している。そんな陳腐な言葉で自分を縛っていたのだから、あの両親からすれば使い勝手の良い言葉だったんだろう。


 他人が何を考えているかなど、本人以外に分かるはずもない。

 どんな言葉を口にしても、本当かどうかなど本人だけにしか分からない。

 でも、誰かに考えを伝えるの為には言葉しかないのだから実に不便な生き物だと思わされる。


 家族でも、他人でも、思いを伝えるには言葉だけしない。


 信用するもしないも、言葉を向けられた者の気持ち次第。


 そんな上辺の言葉に感情を左右されるなと、アリスからすれば馬鹿げた話だった。


「血が繋がっても、繋がってなくても家族は所詮他人。それ以外も他人。自分以外は全員、他人。自分じゃない人間のことを信じるなんて本当馬鹿馬鹿しいわ」


 あの酷い前世から学ぶ教訓があるとすれば、他人に縋って生きるなということだけだろう。

 あのクソみたいな両親から逃げて、底辺の生活で泥水を啜って生きることになろうとも、その方がずっと幸せだったに違いない。


 誰かに縋って生きようと思ってしまったから、自分はあの生き方を強いられた。

 自分を信じて、他人の言葉も信じることなく生きていた方が楽だった。


 そう思ってしまう自分が、実に惨めだと思えて――笑えてしまう。


 果たして、今の自分の気持ちを“あの育て親”が聞いたら何と言うか。

 きっと自分のことを愛しているかと訊けば、愛していると笑顔で即答するだろう。


 幼い頃に出会ってから巣立つまで、ずっと変わらぬ愛を注いでくれた彼女をいまだに信じられずにいる。

 そんな彼女の言葉ですら、疑ってしまう自分が酷く惨めになってくる。


「信じたくても信じられないって辺りが変われない人間って感じがするわ。ままならないものね」


 人間は簡単には変われない。そんな言葉もある。

 今の自分が良い例だと、アリスは苦笑しながらソファの上で目を瞑っていた。


 まだ少しだけ眠い。周りに積み上げている魔導書を読み耽るだけで時間があっという間に過ぎていく。徹夜明けの睡眠ほど、熟睡できる機会はないのだ。


 今度は、もっと良い夢を見せてくれ。


 そう思いながら、アリスはゆっくりと意識を手放そうとした時だった。


「――ん?」


 パチンと、アリスの頭に警告音が鳴った。

 アリスに警告を知らせる魔法は、幾つか存在する。

 その中のひとつ。それはアリスの家に“鍵”を使って侵入した人間がいる知らせだった。


「またあの男は勝手に……」


 ガチャリと音を立てて、アリスの玄関の扉が開く音が響いた。

 少し前、勝手に来た時はこの空に浮かぶ家から叩き落したばかりだと言うのに……どうにもあの男は学習する気がないらしい。

 一ヵ月に一度だけと決めていた定期連絡の日でもない。余程大事なことでも起きたのだろうか。別に王都に展開している魔法障壁も、問題なく発動している。


「くだらないことだったら承知しないわよ」


 玄関の扉が閉まって、小さな物音を立てて誰かが入ってくる。

 とりあえず少しだけ見慣れた優男に《エアハンマー》を放っておこう。

 舌打ちを鳴らしながら指を弾けば、即座にアルディウスに向かって緑色の球体が飛翔していた。


「――ちょっと! 急に人に向かって《エアハンマー》を撃つ人がいますか!?」

「勝手にアンタが私の家に来るからよ。馬鹿男」


 放った《エアハンマー》がアルディウスに弾かれて、天井に大きな穴を開ける。

 思いのほか、彼にも咄嗟の対応ができるようになっているのがアリスには実に腹立たしかった。

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