彼女じゃなくて、彼のこと。

オカザキコージ

彼女じゃなくて、彼のこと。

 僕は、デパートへ出かけた。最近、百貨店へ行くなんてこと、その存在自体、意識の外にあったけど、さすがにこういう時はと、彼に付き合ってもらった。彼と言っても、いわゆる特別な彼でなく、たんに第三人称の彼なんだけど、一人で買い物するのが苦手だったし、送る相手が相手だったので、どんなものを買えばいいのか、さっぱり見当がつかなくて、少し無理言って、こうして久方ぶりにデパートへ向かった。

 「この階かな? 女性小物のところだろうから、きっと…」。彼はそう言いながら先へ進んでいく。「いや違う、ここじゃないか」。彼は立ち止まり、ばつが悪そうに、少し顔を引き攣らせて、こちらへ振り向いた。僕は気にしていないよ、というふうに柔らかな笑みを彼へ返した。

 エスカレーターの方へ向かっていく、彼の背中を追いながら、僕はあることを思い出していた。こういうときに思い浮かべそうな、子供の頃のことでなくて、比較的最近の出来事、そう、もう一人の彼のことだった。同じように特別の彼ではなかったけど、いまとなっては遠い第三者でもない、僕の中では定まりにくい微妙な“彼”だった。いまとなっては、もう気持を上げたり下げたりするものではなく、ただ内側をぐるぐる巡るイメージに過ぎなかった。

 けっきょく、女性小物のフロアにはなくて、もう一つ上の、ブランド品を取り扱うショップに、あるのではないかと、僕と彼はエスカレーターに乗った。ぶらぶら歩いていると、目的のアクセサリーを置いていそうなショップを見つけたのか、彼が小走りに離れて行く。そのあとを追うのがけっこう大変だったが、彼は振り返って、得意げに手招きをした。

 彼は三、四点、手に取ってショーケースの上に並べ、反応をうかがうように顔をのぞき込んできた。僕は期待に応えようと、アクセサリーに顔を近づけて見比べたが、どれがいいのか、なかなか決まらない。正直、どれも同じように見えたし、ましてやそれが“彼”に似合うかどうか、そんな高度な判断を下せる能力を持ち合わせていなかった。

 彼は、そうした僕の様子を見て、黙って前に立っている販売員のお姉さんに、相談を持ち掛けるように話しかけた。「けっこう痩せてて、ぱっと見は地味な感じで、三十すぎぐらいかな、でも顔立ちはきれいで…」。“彼”に会ったことはないはずなのに、だいたいのところは合っていた。

 横で、二人のやり取りをぼんやり眺めていた僕は、またほかのところへ、異次元というには仰々しいけれど、次々に浮かんでくる想念の断片をたどっていた。きっと夢で見たことを、性懲りもなく、自分に都合よく、あったことのように、思い出しているに過ぎないのに、きっと。ここで、これに頼らなくてはならないのか、そう思うと萎えてきそうだったが、ぐっとこらえて彼の横にいた。

 「これなんてどう? いいと思うけど」。早く処理したい、片づけたい、そんな気持ちを抑えてうなずくお姉さんが、そばで微笑んでいた。僕は、同じように笑顔をつくって、事を終えようと、彼女より分かりやすくうなずいてみせた。彼の表情が、パッと明るくなって、お姉さんが、手際よく、それでいて丁寧に、それを取り上げて、奥へ退いていった。

 僕と彼は、意味もなく顔を見合わせて、する必要もないのに、背筋を伸ばして姿勢を正した。ショーケースの上に広げられた、けっきょく選ばれなかったアイテムへ目をやった。もちろん、それらに哀れみを感じることも、蔑むこともなかったけど、さっきから執拗に広がってくる断片が、それに相乗するというか、いっしょになって、僕のイメージを震わせた。

 お姉さんが戻ってきた。「ありがとうございました」。そう言って、プラスチックのようなテカリのある、小さな紙の手提げを差し出した。「どうも」。僕は、声にならない単音をつぶやくだけで、無表情に受け取った。その代わりに、横の彼がまるで自分のことのように、笑顔でお姉さんに向き直り、ペコリと頭を下げた。僕は“彼”へ渡すプレゼントを、胸の辺りで抱えるように持ち、ほっとした表情でやり取りする二人の様子を眺めていた。

 僕と彼は、百貨店を出るとすぐに別れた。こちらからカフェかどこかへ誘ってもよかったし、最初からそう決めていたわけでもなかったが、もう用事が済んだわけだから、彼にしても自分の用事ではないわけだから、それこそ“彼”でなく第三者的な彼に過ぎないのだから、これ以上いっしょにいる理由はなかった。このお礼は別の機会にするつもりだった。

                   ◆

 その日曜日、いつもにもまして気分が晴れなかった。この一週間、家事を疎かにしていて洗濯がたまっているのでも、テーブルに薄っすらと埃が積もっているとか、月曜日の朝から嫌な仕事が待っているわけでもないのに。いつもの悪い癖で、ぼんやりと何もしていない時に出てくる、捉えどころのない不安感というか、得体の知れない焦燥感とか、いやそんな重いものでなく、ちょっとした負の感情に過ぎないのだろうけど、またそれが思いのほか厄介で、この内側にどんよりとしたものが滞っていた。

 ここ数日間の出来事をたどって、その原因の一端を探し出そうと思えばできただろうが、しようとは思わなかったし、しても仕方ない、したら少し後悔するかもしれない、その程度の構え方だった。この日常の中で、それを取り除く必要がないから、それぐらい些細なことだから、今回のもきっと、僕にとって取るに足らないことなんだろう、と。このままソファーに座っていれば、じきに収まる、消えていく、そうしたたぐいの気持ちの移り行きにすぎない、そう思って目をつむった。

 休日は、スマホから距離を置いた。それを使って気を紛らわす場面が少なかっただけでなく、ラインにしろ、通話にしても相手は限られていたし、放っておいてあとで大変なことになる恐れはほとんどなかった。だから、朝にチェックしてそのまま寝室に起きっ放しのときもあったし、気になって不安になるどころか、面倒なことから解き放たれたような感じがして、その一日リラックスして過ごせた。

 そもそもスマホであっても、人と交わるのが苦手だっただけでなく、そうしたツールでかんたんに関係性がつくられ、けっきょく縛られていくのに違和感を覚えたし、こうして囚われること自体、精神衛生上、問題のあるプロセスだと考えていた。ネットワーク社会だから仕方ない、便利だし役にたつし、これなしには…とキャピタリズムに思い込まされているだけで、そんなモノ、本当はないほうがいいと、多くの人が薄々感じているはずなのに、ただ精神と肉体の分離へ行き着くだけなのに、どうして…。社会に順応できない自分を、こうして慰めていた。

 底の浅い評論めいたことをやって暇をつぶすのも、一興だけれども、もっと心身を癒すことをしなければ、と前のめりになるのも、逆にストレスがかかるし、要するに難しいけど、無の境地になるってこと、そこなんだと分かっているんだけど…。修行僧だって、そこへ至るには大変な行いと思いをしなければならないのだから、哲学者なんて、それを考えて堂々巡りした挙句に、精神に異常をきたすこともあるわけだから、このふやけて伸びきった、陳腐な心身ではどうしようもなくて、ただ稚拙な思いに耽るのがせいぜいのところだった。

 でも、こうしてぼんやりと、何もかもさぼって、虚ろに漂っている、別の言い方をすれば、脱力している状態―。こんな安易で自堕落な身の置き方が、無につながるわけはないけれど、そのとき内心をめぐるイメージとか、頼りない感じとか、捉えどころのない思いとか、そんなモノどもコトどもが何となく信用できるような気がして。気分を上げるほどでなくても、少なくとも、なんとか保つのに寄与していたし、そうして不確かなところでたゆたっている、その感じが鬱屈としたものを多少、和らげる作用があるように思えた。

 よく言う、時間がゆっくりと流れる、という状(情)況―。併せて、取り立てて隔たりが感じられない、そう意識するとき、すでにもう、日常に絡めとられている、もう済んでいる、終っているのかもしれない、けど。そこを超えて、解脱とか、トランスとか、あっちの世界へ、やばい感じのするパラレルワールドへ踏み込むのは、それなりの心構えがいるし、病んでも構わない覚悟でないとうまくいかないだろう、けど。それよりデイリーで感じる、ちょっとしたズレとか、軋みとか、隔たりとかで間に合わせる方が、そこでただよい、さまようほうが、融通無碍で無難に違いない、けど。

 めそめそと、つかみどころのない、内側の、精神の、それこそ魂に関わることに、こだわってみたところで、気慰めの域を出ないことくらい、わかっていて。だから、外側を覆う、外殻というか、サーフェイス、表層から逃げずに、しっかり向き合っていくべきだってことも。でもまだ、心構えができていない、それ以前にもともと、そんな度胸は備わっていなくて。だからもういい加減、心身を乖離させて遊んでいる場合じゃないと、無駄骨を折ってでも合一を図らないと、どうにもこうにもならないってこと、それもわかっていたのだけど。

 まず、心をどこかへ放して身を養うこと、それでいて、しっかり目に見えるものに、いわゆる客観的で物質的なものに、目を背けることなく、内側がついて来てなくても、嫌でも苦でもとにかく、アウトラインに沿っていく。具体的には一つひとつ、こまごまとした家事をこなしていく、冷蔵庫の中をのぞいて、食材を取り出して、洗って切って火にかけて、スパイス効かせて味調えて、カタチにしていく。かすみをくって生きていくわけにもいかず、古い細胞をお払い箱に、新たに細胞を生成していく。否が応でも更新していく、自同律のリアルを感じながら。

 欲望を満たすことに罪悪感を覚えず、必当然なこととしてナチュラルに処理できれば、あらためて乖離を感じずに、心身の合一へ向かえるはず、と。媒介を排して、直接的なものに、特に思惟とか思考とか、そんなもの当てにせずに、退化が止まらなくとも、心もとないセンスに、頼りないフィーリングに、そう感覚に、すべてを委ねるぐらいでない、と。けっきょく脳髄の話に、そこから神経系統に、さらに感知機能へ、いわゆる五感へ、そういうプロセスでないと、すべてはそこから始まる、と。

 何処に、何に信を置くかで、アプリオリな、生まれながらの、ナチュラルなものに、基づかないかぎりは。ヒト以外の構造とか出来合いのシステムとか、そんな二次的なものでなくて、それこそ人の手で、アポステリオリに作られたもの、そんな恣意的なものとは、本質的に違うわけで。だから、食欲とか性欲とか情動とか、ダイレクトに自然へつながる欲求が尊ばれ、生の原動力になるのも生の理なりかと。寄って立つものを、見定める力を、育むことから始めないと、まずそこからでないと。

 ダイニングテーブル上の、一部加工品も含めた数々の料理を、口蓋から消化器系へ流し込む、咀嚼するのも煩わしく、ただ栄養を摂るために、細胞の劣化を遅らせるために、肝心な欲望を横において。流動しているものを嗜好する、たとえばクリームシチューとか、とろみを効かせた中華料理など、嚥下障害ではないにせよ、喉をスムーズに通っていく、心地よくて広く身体に行き渡るような、染み入るような感じを覚えるときは。

 固形物をかみ砕いて、唾液に絡めて、胃の腑で消化し、小腸で吸収する、そうした一連の過程を、信用してないわけではないけれど。オーガニックなエッセンスは、体液や血液を介して、もしくはそれと一体になって、無数に点在する細胞へ供され、身体の維持・活性化に役立てられて。でも、そうしたプロセスを実感することも、それによる表面的な変化に気づくこともなく、潜在するモノどもを少し引き上げられる程度で。無力を感じるというより、これ幸いと思わない、と。

 キャッチした信号を、一つひとつ細胞が把握し、認識して脳へ報告し出したら、とんでもないことに、収拾がつかなくなって、あたふたするしかなくて。津波のように押し寄せる信号の渦に、入出力が混乱を来たし、神経系統がシステム不全に陥って、身体の組成そのものが成り立たなくなって。こうしてリビングでゆっくりと、食後のコーヒーを前にして、そこへ精神がかかわってくる、得体のしれない魂なんかが介入してくると、厄介になって、心身の乖離は言うに及ばず、カオスへと、延いては死の扉を開けてしまって。


 ヒトよりモノの方がまだしも、関係性を取り結ぶって、いずれにしても神経に障り、身体へのダメージは程度の差こそあれ、不快が押し寄せてくるもので。一歩外へ出ると、電車やバスに乗るとか、会社で仕事するとか、帰りにコンビニやスーパーへ寄るとか、軽重・浅深はともかく、いろんなモノどもコトどもに囲まれて。それがデイリーだと、プロセスの一環だと、思い込ませようとしても、やっぱり生理に反しているし、いくらこの身を養うためとは言え、そんな過酷なこと、神が人に与えし試練とは言っても、耐えられなくて。

 電車から降りるときに押し返される、下を向いててすれ違いざま肩が当たる、うっかり人に気を取られて足を滑らす、振り返りざまに視線を感じる―。そんなこんなも、些細な関係性に過ぎないけど、気にも留めないことも、思いのほかダメージを受けることもあるし。一歩踏み込んで言葉を返したり、面倒がらずにレスポンスするとか、反射のように相手の動きに合わせるのも、成り行きから仕方ないとして。それもこれも、気になると言えばそうだけど、ぐっと引き寄せられるほどでもないし、けっきょく意識に残るものはないけれど。

 「やあ」と言えば「どうしたの?」と、「元気にしてた?」と継げば「変わりないけど」と。「別に」と突き放せば「………」。こうしたやり取りのなかで、どこかに引っかかるものが、襞をかすめるものが、モノどもコトどもを起動させるものが、精神に触れて、つい姿を現すことも。たいして意味のないプロセスであっても、何を動かすでもなく、ただ表に出てくるだけで、でもどこかに触れて、内側をかすめて超えていく、精神を呼び込む、そういう…。

 二つのあいだに漂っている、二項のまわりを流れている、二者を介して融通している、カタチにならない、双方向で感じるものに。相乗するも一体とならず、いわば細胞分裂のごとく、ランダムに増殖していく、プロセスを多様化・重層化していく、それもかぎりなくシンプルに。リアルな媒体を排して、スマホはじめテレビ・ラジオ、新聞・雑誌の類を遠ざけて、自身の構造に、潜在する組成に耳を傾ける、そこから取り出す、引き出す、流れの一部を、そのまま顕在化させて。

 心身をつなぐ、それら媒介するモノどもコトどもを、漂っている奥底から引き揚げる、革新のプロセスに乗せて、内心と外殻の融合を、その滑らかな流動体を、放縦に散逸させる、自由を呼び込むがごとく、そう剰余を誘い込んで。目に見えないからと、もやのようにつかみどころがないと言っても、引きつける、結びつける力能が、潜み備わっているのに励まされて。鳥の群れのように、飛翔していく、伸びやかに軽やかに、カタチを成して、カタチを壊して、思いのままに、渡っていく、空中を変幻自在に、自由にトランスポートして。

 タッチ・アンド・リリースという、レギュラーな響きよりも、不規則に軽く接する程度で、しぜんな動きのなかで、変態していく、これまで見たことのない、存在しなかった表象を、内面の充溢を反映させて。真と言わずとも、その近似値へぐっと上らせて、二項を、二者を、二人を、そう心身を相乗させて、融合させて、余剰を産出させて。サンダルをつっかけて外界へ出る、鉛色の空が広がっている、隔てる暇もなしに、浸潤していく、浮き上がる感覚を抑えて。

 息を殺して水面下で、意識が遠のくのを、穏やかに待つのも、ただ無様な肉体を残すだけで、踏ん切りがつかず、バスタブの底を見つめて。リキッドへの憧れだけで、この身を処そうにも、心との隔たりが、解消しないことには、流動が肌に馴染むだけで。おのれを溶解していく、流れと相乗して、理想の姿へと、だからと言って、硫酸をあおって、表面だけ溶かしてみたところで、醜悪なモンスターが誕生するのを、ただ。どんどん温度を上げていくも、ゆでタコになるわけにもいかず、せいぜいお湯に囲まれて、身動きせずにいることで。

 やっと一日の終わりに、身体を横たえて、夢を引き込もうと、無意識のなかへ、リアルから解き放たれて、何度も寝返りを打って。頃合いを見計らって、仰向けになって、腕を組んで脚を伸ばす、しぜん硬直してきて、身体の一部が痺れてくる、あえて緊張を誘って、ほどよく険しい表情を浮かべて。いっきに力を解き放つ、全身を脱力させて、細胞の一つひとつに、ガイストを、プシュケーを、四肢の隅々まで行き渡らせようと、再生を期して。心身の合一を、夢のなかで実現するしか。


 先に来て待っていると、外で人の話声が聞こえた。これ見よがしにこちらへ聞かせようとか、僕の存在を意識して話しているわけではないようだった。向こうからたんに見えないというだけでなく、その近くに、いやこの街に僕がいるはずはない、という安心きった感じで会話が盛り上がっている、そんな感じに見えた。少し間をおいて辺りを見渡せば、いやそこまででなくても、話の区切りにちょっと目をそらして横を見れば、僕が見えるかもしれないのに。

 立ち話をする、二人の中年女性をぼんやりと眺めていた。窓越しに見える彼女らは、片方が買い物の途中で、もう一方が会社からの帰りなのか、偶然道端で出くわしたという感じだった。喫茶店の窓越しだったし、十㍍ほど距離があったし、それに西日の照り返しで見ずらかったし、確信は持てなかったが、そんなふうに見えた。買い物途中の方が一方的にしゃべり、昔の同級生は控えめな様子で調子を合わせていた。

 どのくらい経つだろうか。僕が喫茶店に入って、ホットコーヒーを注文して、文庫本へ目を落として、ふと窓へ顔を向けてからだから、かれこれ三十分以上はそうしているのか。彼女らにしてみれば、いや買い物途中の女にとっては時の経過は問題でなく、話に夢中で意識すらしていなかったに違いない。それに合わせてその場からなかなか離れられない彼女が、昔どこかですれ違ったかもしれないと思うと、気の毒に見えた。

 この街に戻ってまだ半日も経っていなかった。小学二年生から高校卒業までいた、地方都市のベッドタウン。出生地より思い出が多く、愛着のある街には違いなかったが、こうして久しぶりに帰ってくると、妙にしっくりこない、一度も訪れたことのない街のようで、内側にざらついたものを感じた。それは双方に、僕の側にも、この地にも、拒むものがあるからだろうか。知らぬ間に文庫本を閉じていた。昭和の古い時代にできただろう喫茶店の店内をあらためて見まわした。たしか二、三度しか利用してないはずなのに、正面の壁にかかった、たいそうな額縁に収まった油絵に強い既視感を覚えた。

 当時もたいして豊かではなかったが、両親が健在だったし、多くを望まなければ、普通に過ごせた。今ほどではないにせよ、当時も家庭環境によって貧富の差はあったし、山の手に住んでいるとか、下町で小さな商いをしているとか、それこそ片親とか、親の懐事情でけっこうな差はあったろうけど、たいていの子どもはそれほど意識することなく、各々それなりに楽しくやっていた。そんなことより、草野球でヒットを打って、投げてストライクを取るとか、学校からの帰り道、野良犬に出会わなかったらラッキーとか、休みの日に自転車で遠出して少し大人になったような気がしたり…。そういうことで、僕らの世界は穏やかに成り立っていた。

 出窓へ目を戻すと、すでに二人の女の姿はなかった。帆船の模型が置いてある窓枠の下に肘をやって見回したが、踏切の信号機が点滅しているだけで、無機質な風景に戻っていた。駅前の商店街はすでに、薄暗がりに包まれていた。喫茶店を出るタイミングを逸し、漫然と窓際の席にとどまっていた。コーヒーのお替りを頼もうか、腰を上げて出て行こうか。実家へ寄ろうにも、すでにもうなかったし、辺りを懐かしんでウロウロしてみたところで、気分が上がったり、この内側が浄化されたりすることもないだろう。でもこのままでは、気持ちが塞いでいくのが容易に想像できたし、だからと言ってそれに合わせて、この身を動かしてみたところでたいして変わらないってこと、十分わかっていた。

 数時間前に降りた駅へ戻って、どこか見知らぬ街へ行く手もあった。きっとそれが正解なのかもしれなかったが、そう急ぐ必要はなかったし、どこへ行ってもこれもたいして変り映えしないだろうし。僕はとりあえず喫茶店を出て、駅前のロータリーから延びる広い道路にそって南へ下っていった。住宅街とは反対の海辺の方へ、子どものころに何度か遊んだ砂浜へ向かった。海はグレーに沈んでいて、目を凝らさないと空との境がわからないほどだった。駅から浜辺へ行くには、バスに乗って行くのが普通だったが、僕は三十分ほどかけて歩いた。穏やかとは言え、下り坂なのでしだいに足先が圧迫されて、行程の半分あたりで痛み出した。

 海岸に沿って延びる国道へ出ていた。夜の海へ来るのは、一度の例外を除いて一人では初めてだった。信号のない横断歩道を渡り、背丈の三倍以上もありそうな防潮堤の前に立って、浜辺へ出る階段を探した。右回りで歩いていると、手を使わないと上れない鉄製のはしごに行きあたった。楽に出られる階段はもっと先にあるのか、どのくらい歩けば至りつくのか、そんなことを考える前に、錆びたU字型のはしごをつかんでいた。思いのほか身体が重く感じて少し後悔したが、そのままよじ登った。真っ黒な海を見るのは初めてのような気がした。

 この海に、浜辺に、思い出がないわけではなかった。日ごろから愛想のない父が一度だけ、気まぐれに誘ってくれたことがあった。二人して駅前の商店街で買い物した後、どういうわけか、海へ行こうと言う。いまに思えば、あの父がと、不自然だと、もっと言えばあり得ないと、訝しげになってもおかしくなかったが、当時は海へいっしょに行けることがたんにうれしくて、そんなネガティブなこと思いもしなかった。別になんのこともない、夕暮れの海を二人して眺めただけだったが、しだいに身体が冷えてきて、心細く感じたのを覚えている。その数か月後、父は母と離婚した。

 湿っているせいか、砂浜はひんやりとしていた。おしりの辺りが濡れている感じさえした。不思議と波の音は耳に届かなかった。ただ、漆黒とまでゆかない濃いグレーの海と空を前に、僕はついさっきまで感じていた澱のようなつかえがしだいに取れていくような、そんな浸潤感というか、内側に染みわたる何かを感じ取っていた。浮足立ったところや、理由のはっきりしない焦りがおさまり、周りのモノどもコトどもに、少し気を回せるようになっていた。

 このままここで一夜を明かしても、この季節なら風邪をひいたりしないだろうし、まだどこに泊るかも決めていないのだから、この機会に潮の香りを感じながら寝転がって星でも眺めて、と思ったけど、そういう情緒も続きそうになかったので、すっと立ち上がった。でも少し名残惜しい思いもあって、一度波打ち際まで行って海に別れを告げるかたちをとった。こんどはそそくさと、防潮堤に設えられたコンクリートの階段を使って、再び国道へ出た。

 駅前へ戻って近くのビジネスホテルへ入った。チェーン展開されているようなものでなく、古びた三階建ての客室三十室にも満たないホテルだった。予想していた通り、室内は狭いだけでなく空気が澱んで湿っている感じがして、閉口した。キャンバス地のショルダーバッグをベッドの脇に置き、ほうぼう傷のある年季の入った椅子に腰かけた。液晶だが分厚いテレビが窓際の奥にあり、古びたローチェストがベッドと平行して設えてあった。

 夕食の時間はとうに過ぎていた。高校生の時に何度か行ったファミリーレストランは、広い駐車場のコンビニエンスストアに変わっていたし、居酒屋の数も減って、わずかに二、三軒が明かりを灯している程度だった。駅前商店街の廃れ具合はけっこうなものだった。いまの自分の心象風景に合っていたが、昔の住民にしてみればやはり寂しいものがあった。あらかじめコンビニで買っていた弁当を、鏡の前の狭いカウンターテーブルに広げて缶ビールを開けた。

 なかなか眠れなかった。さすがにシーツと枕に湿った感はなかったが、ベッドのスプリングがゆるくて必要以上に身体が沈むのと、目をつむると瞼の裏に、得も知れぬものがぐるぐると回り出して、眠るどころか心身ともに疲弊させた。けっきょく四時ごろまで眠れず、朝方に二時間ほど眠りにつけただけだった。チェックアウトは午前十時だったので、まだ十分時間があった。とりあえずユニットバスにお湯を入れて、テレビをつけた。地方局ごとにやっている朝のワイドショーを流しながら、洗面台に広げていたサニタリー類をひとところに集めたり、使ったばかりの電気シェーバーをカバンの底へしまい込んだりと、なにも急ぐ必要はないのに、チェックアウトの支度をはじめる始末だった。

 狭いユニットバスで疲れを癒せるはずもなく、ただ火照っただけの身体を持て余すようにベッドに座り込んだ。朝食はコンビニでパンでも買って、人通りの少ない公園で食べるつもりだった。居心地の悪いホテルなのだから、早く出るべきだったのかもしれない。でも、寝不足のせいもあってか、身体がいつもにもましてだるかったし、行く当てもないのだから、とかんたんに直したベッドの上に横になった。気がつくとリミットぎりぎりの十時前だった。寝込んでしまっていて一瞬焦ったが、あとは下のフロントへ行くだけだったので、気を取り直してゆっくりとした足取りで部屋を出た。

 梅雨の晴れ間というのか、外は初夏の日差しに包まれていた。コンビニはホテルのすぐそばにあったが、理由もなく計画を変更してそのまま通り過ぎて、山の手の方へ、以前住んでいた住宅街へ向かった。けっこうな勾配の坂道がつづく。たいていはバスで上っていくが、子どもの頃のように歩いて行った。前向きというほどではなかったが、能動的に何かをしたいと思うのは久しぶりだった。この程度の変化でも、いまの僕には何か意味のあることなのかもしれない。だからなのか、脚の疲れは感じなかった。

 けっこうな勾配で続く歩道は、片道二車線の幹線道の西側に沿って延びていた。挟んで東側の奥の方に、昔住んでいた家があるはずだった。でもなのか、だからなのか、西側の、日の当たらない陰になった歩道をそのまま上っていった。記憶に間違いがなければ、このまま行くと上り切ったところで、こじんまりした商店街が見えてくるだろう。それは商店街というより、東西両側に四、五店ほど軒を連ねているだけの、ちょっとした商店の集まりに過ぎなかった。この朝の時刻に一軒だけ、小さな回転灯とホワイトボードを掲げた喫茶店が営業していた。

 僕は、朝食を済ませていないのを思い出し、喫茶店の重い木の扉を押して中へ入った。思いのほか客がいて一瞬引きかけたが、そのまま出ていくのもどうかと思い、扉近くのカウンター席に腰を下ろした。店内には六、七十代の男性が五、六人、互いにここで知り合ったのか、リタイヤしてやることがないというふうに集っていた。モーニングセットには、分厚い食パン半枚に目玉焼きとハム、小さなサラダ鉢に飲み物がついていた。開店当初から変わらぬセット内容なのだろう、ワンプレートの皿は年季が入っていた。

 喫茶店に居たあいだじゅう、年嵩の男たちは朝刊やスポーツ紙を広げて、よもやま話に花を咲かせていた。いつもの朝にはいない、異分子の僕に気づいてないわけはなかったが、声をかけてくることも、好奇な視線を背中に浴びせることもなかった。そのお陰で長く居られたし、このあとどうするか、考える時間も与えてくれた。だからと言って、何か名案が出てきそうもなかったけど、訳もなく硬直していた心身が多少緩和させる効果があった。モーニングも残さず食べて、ゆうに一時間も喫茶店にいた。そのあいだも男たちのおしゃべりは続いた。

 自宅のあった辺りをめぐり歩くのが順当なところだし、ここまで来たのだから当然そのつもりだったけど、どうしても東の方へ足が向かない、幹線道を渡ろうという気にならなかった。一方で、まだ日が当たるには時間がかかりそうな、この西側に固執する理由はなかったし、たんに実家があったというだけで、心身を呪縛するような、飛び抜けて苦い思い出あるわけでもなかった。喫茶店を出てどのくらい経ったろうか、いまだ幹線道の西側沿いを歩いていた、すでに日差しが身体全体を覆っていた。

 下りに差しかかると、遠くにバスの営業所が見えた。何台もの大型バスが駐車場に収まり、出入り口付近に交通整理する人の姿があった。そのあとも道は続いていたが、少し谷間のようになっているそこが、バス路線の一つの終点のようだった。さらに北へ延びる道は車線が減少し、山の方へ向かっていた。営業所前の停留所に立ち止まり、路線図と時刻表を眺めていると、タイミングを見計らったようにバスが一台入って来て、前に止まった。それはそのまま山の方へ行くバスらしかった。

 乗ってみてわかったが、バスは少し小ぶりで狭い山道を走るのに適しているようだった。車内には二人ほど乗客がいたが、雰囲気からしてこの奥に暮らしている地元の人のように見えた。手前の新興住宅街の住民に比べて、控えめな奥ゆかしい感じがそう思わせた。バスはしばらくのあいだ、川沿いの山裾を穏やかに走っていたが、しだいに傾斜がきつくなり、ギアチェンジの振動が直接身体に伝わってきた。僕は車窓をぼんやり眺めながら先週立てつづけに起きた事どもに思いを馳せた。


 僕には付き合って三年ほどの彼女がいた。むかしで言う合コンとか、いまで言うアプリ経由とかでなく、もちろんドラマのような偶然の出会いとか、そんなのでもなくて、たんにルーティンから派生した、ちょっとした交わりのうちに、しだいにという、どこにでもありそうな、なりそめとなりゆきで、そうなった。こうしたどこにでもあるプロセスに、ハザードが生じるのは仕方のないことで、その原因はよくあるように時間の経過にあって、これもどこにでも転がっている、ちょっとしたズレや隔たり、軋みの類だった。

 多くの女性にとって三十歳は、ひと昔ほどではないにしろ、やはりターニングポイントに変わりはないらしい。二十九歳になり、あと一年を切ると微妙に当たりに変化が出てきて、注意を凝らすまでもなく、ときに表情が硬くなって、目が吊り上がったりと、おのずから魅力を減退させる悪循環に陥っていくようで、こちらはどうしても引いてしまう、目を背けてしまいがちになってしまう。負のサイクルに落ち込む前に、ある程度引き戻して、少しでも修正してくれれば、こちらも嫌気を起こさずに、白けずに、ぎこちない対応程度で済ませられるのに、と思った。このまま行けば、よくない結果を引き寄せかねない、それは神でなくてもそこいらの凡人にも容易に想像がついた。

 さらに首を絞め、追い打ちをかけたのが安易に始めた副業だった。一応、社員五十人前後の雑誌社に勤めていたが、いつ辞めても困らないように実入りのいい生業を探していた。最初の半年ほどはよかったが、ちょうど一年が経つころ、問題が生じた。いずれ持ち直すだろうと続けていくうちに案の定、泥沼に足を取られるようになった。このあと、どうにかなるだろうと、何の根拠もなくおざなりにして来たのだから、自業自得に違いなかった。アプリ経由の高額バイトはすでにマスコミで取り上げられ、警戒するよう言われていたが、けっこうな額の借金があったし、給与で返済していたらいつまでかかるのか、計算するのも面倒で、けっきょく応募してしまって、気づいたら首が回らなくなっていた。

 最初から特殊詐欺と分かって関わろうと思う奴は限られているだろう。もしかしたらそうではないかと疑いながらも、自分に限っては、まさか犯罪に手を染めるようなことになるとは、と都合よく構えていて、気づけば抜け出せなくなって、というよくあるパターンにはまり込んでいた。その泥沼の中でどの辺りにいるのか、周りをぐるりと取り囲まれていることすら、気づくのに時間がかかるのが、この生業の怖いところだった。まだ言葉による脅しで済んでいたが、このあとのことを考えると身震いを通り越して悪寒を覚えた。彼らから逃げおおせるかどうか、僕は途方に暮れていた。

 もう一つの不快要因は、カタチにならない、ぼんやりしたものだった。上の二つの心配事に起因しているのか、単独で心身に浸潤してきているのか判断がつきかねたが、日常に及ぼす影響は小さくなかった。これまでもちょっとした落ち込みはままあったが、しだいに訪れる周期が短くなり、しかもそのたびごとに深くなっていく。心療内科を受診すれば、それなりに診断が下されるのだろうが、たんに薬で神経を弛緩させるだけの処方は御免被りたかった。気のせいや考えすぎの域を超えているのはわかっていたが、どうにかセルフコントロールで事を収めたい、そのときはまだ安易に構えていて甘い認識を引きずっていた。

 そのほかに、自同律の不快という、精神分析的にどう解釈したらいいのか、もう一つわからない情況にも陥っていた。それはたんに、アプリオリな性癖に近いものかもしれないし、何か文学的で思想的な背景がある、アポステリオリに内側へ巣食ったものかもしれなかった。何の意識も意図もなしに、この内側と外殻が、心と身体が一致すれば、一体化してくれれば、こんなにじたばたしなくてもいいのにと、おのれを呪った。きっとそんな哲学的で高尚な話ではなくて、たんにうつ病とか、総合失調症とか、けっこう深刻な精神の病なのだろうけど、そう結論づける勇気がなかった。

 さらにもう一つ、懸念というほどではなかったが、ある有機的対象、ヒトに起因していることがあった。彼とはよく行くバーで知り合った。意気投合するほど趣味嗜好が合うわけでも、見た目が好みというわけでもなかったが、カウンターに並んで座っているだけで心地よく、なぜかじんわりとした温かいものを感じた。彼には彼女とかパートナーらしきものはいないようだった。僕は、デイリーな話の延長で彼女について話したり、それが愚痴になったり、結果意見を求めるカタチになったりと、取りに足らない話題も交えて、たいがい終電近くまでバーにいた。

 彼のアドバイスというか、僕へのレスポンスはいつも適切で、相手へのやさしい眼差しが感じられた。互いに利害を見つけるのが難しい関係だから、彼の女子力が思いのほか高くて穏やかな気分にさせてくれるから、いやすべては僕の彼への思いが強いから、こうして幸せな気分にさせるのだろう。もちろんこれも関係性な訳だから、互いに相乗して双方向に響き合っているから、いや答えや事の本質から遠く隔てられているから、思いのほか複雑に絡み合っているから、そうして内心の動きを追っているから。それがどういうことなのか、何に発しているのか、けっきょく分からなくて。


 彼女とは相も変わらず会っていたが、醸し出すサジェスチョンやニュアンスにあえて反応せず、旧態依然を決め込んでいた。わかりやすく抵抗するのは違うような気がしたし、思いや意に反してやさしい微笑みを浮かべるのもどうかと思った。ただ、とぼけた感じが出ないように、鈍感で気づかないふうを装って、寂しく空間を充たしていた。けっきょく互いの感情が行き着くところ、それが交差するのか、散逸してしまうのか、あとは成り行き任せでいくしかない、そう思うようにしていた。仕事以外でストレスをため込むのは避けたかったし、もともとその耐性が低いわが身としてはそうするほかなかった。

 “週末、どうするの?”。彼女からのラインだった。最近では週半ばまで放っておく無策・無気力ぶりに苛立ちを感じているようだった。スケジュールを立てづらいのはわかるが、こういう微妙に緩んだ状態なのだから、先約を優先すればいいと、それが会社関係のちょっとした付き合いであろうと、もちろん女友だち同士の飲み会でも、それこそ男子が混じっていようが構わない、と言ってやりたいほど、せっつかれるのに辟易としていた。どこにいようとSNSでつながっているわけだし、三十分もかからず車で駆けつけられるのだから、毎週会う必要はどこにもなく、二、三週間に一度でも、それこそ数カ月会わなくても、と思わず口をついて出そうだった。

 仕事以外は家にいたい僕にとって、何もない休日は傍から見るより大きな意味をもっていた。だから、極力何もしないように、ちょっとした家事のほかは肉体も精神も使いたくなかった。言葉にするなら、無為に過ごす、なんだろうけど、さらにいって仏教でいう無我の境地とか、哲学的な何かを希求しているとか、そんなじゃなくて、ただ漠然と怠け半分、穏やかな快楽を得ようとしているだけだった。どこかルーズで後ろめたいところがあるので、彼女に邪魔されても、はっきり拒めなかったし、ズルズルと付き合う要因になっていた。関係性の不具合を彼女ばかりに押し付けても仕方なかったし、こちらにも非があるのは十分わかっていたけど、けっきょく自分可愛さというか。

 機嫌よくキッチンに立って、料理を作ってくれるのは有難かったが、それで失っていくものを感じずにはいられなかった。こうして彼女の手料理を待っているあいだも、断続的にラインが入ってくる。例の怪しい生業からで、ここ二、三日は開かずにそのままにしていた。削除する度胸がないため、どんどん溜まっていき、脅しのワードが重なっていく、空恐ろしい悪循環だった。そのたびに脇に嫌な汗をかく程度ならよかったが、最近では胸の辺りが締め付けられるような症状が出てきたり、持病の神経性胃炎が悪化していくのがわかるほど、心身への負荷は相当なものだった。いまさら運転免許証のコピーを送ったことを後悔しても仕方なかったし、なかったことにする術も思い浮かばず、それならいっそのこと、奴らの前から、この世からわが身を消えてしまえば、と何度か頭をよぎった。

 これを機会に、ほかのモノどもコトどもからも、きれいさっぱり手を切って、できれば次元の異なる、どこかへ逃げ込めないか。いわゆる地下生活、都会の真ん中で、屋根裏部屋のようなスペースでひっそりと棲息するのもいいし、それこそ人里離れた山奥で仙人のような生活を送るとか、里山の廃屋などで外部との接触を断って、できれば自給自足で暮らすのもいいかも、と。だからと言って、畑を耕したり、猟へ出たり、魚とりができるわけはなく、けっきょく定期的に里へ下りて姿態をさらすことになるし、せいぜい怪しまれないように至極普通な感じで、間違っても挙動不審に見られないように、小さな食料品店で顔をこわばらせて買い物するぐらいしか…。

 このままずっと放置しているわけにもいかず、おそるおそるラインを開けるも、なかなか返信できず、スマホを前に硬直するだけだった。追っ手が迫っている、もう近くまで来ている、いまにもドアを叩く音が聞こえてきそうで。それ以前にGPSを使って捕捉され、知らぬ間に盗聴器を仕掛けられて、逐一見張られている? 疑心暗鬼になってひとり妄想を膨らませ、どうにもこうにも自縄自縛から抜け出せなくて、ただ神経をすり減らすばかりで。スマホを寝室に置き忘れたふうに、わざとらしくその場から離れるぐらいしかできなくて、無力感に苛まれて。ダイニングテーブル越しの彼女の声が、遠くから聞こえてくる、その姿態がゆっくりと無機質にずれ動く。僕はただ、その情景をぼんやりと眺めるしかなくて。

 心身を苛むこの現象と、どう折り合いをつければいいのか。きっとたんに、精神が病みつつあり、それが肉体に悪しく相乗しているのだろうけど、デイリーでその一つひとつに付き合っていくとなると、まさにデッドロック、途方に暮れるばかりだった。内心とか、精神とか、それこそ魂とか、それは細胞組織のような有機的な対象ではないのだから、かといってたんに無機質な、分析の網に一切かからない無的なものでもないのだから、どうしろというのか。苛立ちを覚えるとともに、得体のしれない、太刀打ちできない、掴みどころのない、不透明で不定形なモノどもコトどもに恐(畏)れを覚えるしかなかった。

 心と体、精神と肉体、内核と外殻が離れることなく寄り添っていれば、相乗しながら機能するならば、たとえ融け合わなくとも、一体化できなくても、少しは平安を得られるかも、と。だからと言って、脳髄と神経系統の仕業なのか、心安らかにそっとしておいてくれない、内心の襞に引っかかる、微妙にずれを生じさせる、けっきょく隔たりになってしまう、不可避な乖離のプロセスに抗しようとも、無駄な足掻きに終わるだけで。二方向のベクトルが平行に、けっして交わることなく、ただ延びていくだけで、多少引き合うことがあっても、すぐに引き戻されて、性懲りもなく、プロセスを充たしていくにすぎなくて。こちらから強いようにも、強靭な弾性に撥ね返されて、ずれや隔たり、ちょっとした隙間さえ埋められず、交わるどころか接点すら見つけられない、近づくことすらできない、そんな状(情)況に沈んで。

 自同律の不快に撞着するぐらいしか、そこへ意識をもっていく程度の、そんな体たらくに、それもぬかるみに足をとられて、バタバタするだけで。その辺りへ心身をもっていくしか、そんな麻痺した混濁を誘う、ごまかしの、けっきょく錯覚でしかないってことに、やっと気づいて。峻厳に本当らしきものを前にして、畏れ怯えるよりは、日常のフェノメノンを持て余し、デイリーの現象に苛まれるほうが、いやその程度じゃないと心身ともに崩壊してしまうってこと、薄々勘づいていたはずなのに。合一化や一体化なんてあるはずもないのに、自同律にたゆたおうと、幻影を抱きたいがために、生きながらえる余技として、ただ。


 どういうわけか、待ち合わせてもいないのに、彼はたいていカウンターの隅にいた。あたかも待ってくれていたかのように、やさしい笑みを浮かべて軽くうなずき、横に座るよう促してくる。僕は、指定席のように腰かけて、弱めの酒をオーダーする。彼はそのあいだも、心持ちこちらへ顔を傾けて、穏やかな表情をしている。僕は心身ともに弛緩していくのを、いつも感じる外圧をそっとかわして、穏やかなものだけを、この内側へ沁み込ませていく。彼女とのあいだで感じたことのない、心地よくも欲望を刺激する恍惚感に心身を委ねていく。

 彼とこうしていると、例のずれや隔たり、歪んだ感じがないのは不思議だった。心身が融合しているわけではないだろうし、一時的ではあろうけど、様々なハザードから、桎梏からも解き放たれて、次元の異なるところでたゆたっていられるようで。彼であっても、ピッタリと合わさって一体化するような、きれいに相乗するようなこと、そう期待できないだろうけど、少しはしっくり来るというか、普通に構えていられる、脱力して向き合っていられる、そんな経験はそうそうない、と。たんに異性でないから、同性だから気安くいられる、気張らずに居れる、そこで思考を止めればいいのだろうけど、それに伴って内側にざわつき感が、もっと言えば疼きのようなこの感覚がしぜん、もたげてくるのだから。

 そろそろバーを出ないと、終電に遅れてしまう、でもその夜はいつにも増して名残惜しくて、ずっとこうしていたかった。彼も帰る素振りを見せず、変わらず穏やかにグラスを傾けていた。僕と彼は、時や隔たりを取り払うかのようにカウンターで寄り添って漂っている、そんな感じだった。二人を引き離そうとする、邪魔しようとするものは何もなくて、そう思い込むにしっくり来るシチュエーションとはこのことだった。朝、電車が動き出すまで、こうしていようと、ただ現実の戸口に立つのを拒んで、彼と一緒にいるのを寿いでいようと。たとえバーであっても、夜のしじまに溶け込んでいれば、それこそこの身と魂が安らげるところにたゆたえていれば…。

 もう午前二時を過ぎていた。さすがに僕も彼も、疲れと眠気で言葉少なになって、現実へ引き戻されつつあった。マスターはカウンター内で丸椅子に座り、目をつむってビル・エバンスのトリオに耳を傾けていた。この二人が帰れば、閉めるつもりだろうけど、あるのかないのか閉店時間を告げることも、もちろん急き立てることもしなかった。それに甘えて、というわけでもなかったが、互い先に腰を上げる機会を逸して、ただ時間が過ぎていく。このまま朝まで、と思い始めたころ、たぶん三時はゆうに過ぎていただろう。彼がポツリとつぶやいた。「もしよかったら、うち(家)へ来ないか」。

 大きな場面転換だったためか、酔ってはいたが思いのほか冷静だった。これはどういう誘いなのか。近くに自宅があるから始発電車が動くまで、少し身体を休めてシャワーでも浴びて、少しでもさっぱりとした気分で仕事場へ、という優しい心遣いなのか。それだけのことなのではないか。気の合う会社の同僚とか、昔からの友達だったら、何の迷いも疑いもなく転がり込めただろうけど、このバーで三、四回会った程度で名前すらあやふやだったし、ましてやどういう性向があるのか。そのころはまだ、同性愛者かもしれないとか、そういう感じは抱いていなかったが、漠然と躊躇するものがあった。

 でも仮に、不測の事態が起こったとしても、次元の異なるセカイの戸口に立っているのだと、たいしたことはじゃないと、それよりこの滞留した状(情)況から、へばり付く澱んだ日常から解き放たれるのなら、ビヨンドできるのなら、と。ただちょっと立ち寄るだけなのに、なぜこうもさまざまな思いが頭をめぐるのか、自意識過剰もいいところ、深く感がる必要はないのに。でも、彼に対して何かを感じていたのは確かだった。気がつくと、バーを出て通りでタクシーを拾っていた。そのあいだも、彼の表情や素振りに変わりはなく、穏やかな表情と身のこなしで、彼は横に座っていた。

 彼の自宅は、雑居ビルに囲まれた狭い道に面していた。タクシーから降りて暗がりの中、彼は振り返りもせず、エントランスの明かりへ吸い込まれるように進んで行く。そのあとに僕も、靴音を立てないようにそっと続く。オートロックを解くあいだ、彼の後ろ姿を見ていて気付いた、思っていたより小柄で線の細いことに。エレベーターで三階まで上がり、薄暗い通路をつたって彼の部屋の前まで来た。「散らかっているけど、どうぞ。ゆっくりして」。彼はそう言って僕を迎え入れた。通された八畳ほどのリビングに突っ立ていると、キッチンからビール缶をもって戻ってきて、ソファーに座るよう促した。

 このあとのことは覚えていない、というわけじゃなかったが、ところどころ失念していた。都合の悪いところはしぜん、記憶から消し去って、という感じでなく、あらかじめ意識に上らないように、夢の中のことのように、起こらなかったことにしようと、そう強いているのがわかった。それこそ悪夢のような出来事だから、というのでなく、その反対だった。もっと夢の続きを見たい、あの感覚だった。心地よくて、気持ちよく過ぎて、融けていきそうで、 コンフォータブルでセクシュアリティ…。別次元に来ているのは確かだった。このままいけばリボーンできるかも、そんなことすら考えていた。


 こうして何もなかったように、パソコンの前に座り仕事をしているのが不思議というか、思いのほか平静に居られるのが驚きだった。ただこんど、バーへ訪れたとき彼にどんな顔を向ければいいのか、それこそ平静で居られそうになかった。続けて今夜も行くか、少しあいだを置いて顔を出すべきなのか。彼はこれまで通りあのカウンターにいるだろう、変わらずにあの穏やかな笑みを浮かべて。そして、これも変わらず僕を迎えてくれるだろう、きっと、でも…。「お昼いきませんか」。昼まで仕事が手に付かず、小さなため息ばかりついていた、らしい。めずらしく誘ってくれた隣の彼女からあとで知らされた。

 これまで彼女を意識したことはなかったが、こうして前にしていると多少構えるのは仕方ないにしても、たんなる好感以上の何か別のものを感じていた。僕らは会社から少し離れた洋食屋に入り、彼女は昔懐かしいナポリタンをオーダーし、スマホに目を落とした。「僕のこと、どう思う?」。どういうわけか唐突に、そう口をついていた。彼女は顔を上げて一瞬「?」という表情になって、微妙に顔を引きつらせた。「いやいや、そういう意味でなく…」。慌てて打ち消し、言い直そうとしたが適切な言葉が見つからず、同じように引きつった顔を向けた。誤解はすぐに解けたが、このあとの彼女の言葉にハッとさせられた。

 「かなり女子力高いと思いますよ」。彼女はスパゲッティを食べる手を止めて答えてくれた。「それは女性的ってことかな」。僕はすかさずそう聞き返したが、彼女はそれに対して言葉を選んでいるふうだった。沈黙が続きそうだったので、手を差し伸べなければならなかったが、こちらもフォローする言葉が見つからない。やっとの末に言ったのが「彼女とうまくいかないのは、そうだからなのかな」。さらにプライベートな深みへ、泥沼へ足を踏み入れていく。彼女は慌てたように、顔の前で軽く手を振って「そうじゃなくて、素振りが女性っぽいとか、なよっとしてるとかでなくて…」。彼女は不自然なほど、懸命に力説した。

 彼女に言われなくても、女々しいところがあるし、いわゆる男らしくないところを間々感じていたし、自分でも違和感を覚えること、ちょっとしたズレというか、男性としてきれいにピタリと収まっていない感じがどこかにあった。男子として揺るぎなく一体性を成しているか、と問われれば心もとなかった。だからと言って、自認している性と生理・医学的な人体構造が乖離しているか、いわゆる性同一性障害かというと、それにも違和感があったし、普通に女性に興味があったし、部活で男どもと居ても何か特別な感じを覚えることはなかった。

 でも、これまではそうであってもこの先どうなるか分からない。潜在していたものが徐々に頭をもたげてきて、顕在化しないとも限らないし、そもそもこの内側で流動しているモノどもコトどもを正確に把握したり、制御したりできないのではないか。女子力を超えてフェミニンな要素が表面化してきたり、それこそ高じて女装して道を歩くなんてこと、想像するに空恐ろしくなった。前に、コーヒーカップを手にしている同僚の彼女がいるのに、思わず頭を振る始末だった。

 午後からも案の定、集中力を欠いていた。彼のことが断続的に頭に浮かび、仕事が手につかなかった。そんな時は、ただパソコンの前に座って時が過ぎゆくのを漫然としていればいいのだろうけど、締め切りが迫る案件が二、三あった。少なくとも一件は今日中に、アウトラインだけでも固めておかないと後々厄介なことになりかねなかった。だから仕方なくも、雑念にとらわれながらも、一向に効率が上がらなくとも、パソコンをにらみ続け、企画案をひねり出すしかなかった。

 その日は三時間近く残業して、駅前のコンビニに寄って帰宅した。午後九時を過ぎていた。リビングのテーブルに割引シールの貼った弁当を置いて着替え始めた。上着の内ポケットからスマホを取り出すと、ラインが二件着信していた。彼女と彼からのものだった。スウェット姿になってソファーに身体を沈めてスマホを開いた。彼女の方から処理しようと思った。開くまでもなく、例の週末のスケジュール合わせに決まっていた。“遅れてしまって。とりあえず、いつものカフェで”と返した。すかさず“土曜日? 日曜日? 何時?” 苛立たしさが文面に浮かんでいた。“ごめん。土曜日はどう? 午後二時ごろで”と送信して、すかさず“行くところ考えておくよ、楽しみに”と付け加えた。

 このところ滅多にしない、ちょっとした配慮が奏功したのか、彼女は“了解”とだけ返してきて、めずらしく早期にラインから解放してくれた。僕にしてみれば、こんなことに時間を費やしている場合ではなかった、彼のラインを開けなければならない。かなり緊張していた、あのことがあって初めてのやり取りだった。“このあいだのことは…” 冒頭から本題へ入っていく。怖くてなかなか先を読めない。“…でも、これからも…” 悔いてはいないけど、雰囲気に乗じて、そちらの意に沿わないことをしたのではないか、身勝手な振る舞いをして…。少し落ち込んでいる様子と相手を気遣うやさしいニュアンスが伝わってきた。“…だから、君のことは…” 

 僕はすぐに返信した。率直に、いまの気持ちをそのまま伝えればいい、こんなストレートな感覚、思考と行為が一致するのは久しぶりだった。考えるまでもなく行動するなんてこと、これまで何度あったろうか、それだけでもこの状(情)況、信じるに足るものがあった。“いや、それほど重く…”。僕は、たいしたことじゃない、こちらは大丈夫、そんなこと気にしなくていい、というような意味のことをつらつらと書き連ねた。実際、彼は僕を軽く抱き寄せた程度で、ハグの域を出ていなかった。男同士であっても触れ合いの一形態と言えるのではないか。僕はそう解釈しようと努めた。

 彼がどういうつもりだったのか。推し測ってみたところで、かんたんに答えが出てくる類のものではなかったし、そこで時間を費やすよりも、自分が感じたこと、感情や思いの移り変わりに寄り添おうと思った。そのとき僕は、多少身体を硬くしたぐらいで、別に驚かなかったし、もちろん撥ね退けようともしなかった。何よりも嫌な感じがなかったし、しぜんに受け入れていた、心地よく享受していた。たしかに男性に触れられるのは初めてだったし、普通に考えればおかしなことに違いない。男色家からの初歩的なアプローチだったかもしれないし、たんに人間的な親愛から来る、一つの表現だったと解釈することもできた。

 でも、どこか引っかかるところがあって、言葉にできない、潜在に横たわっている、内側でカタチにならない、蠢くモノどもコトどもが頭をもたげて来ている、そんな感覚だった。 わかりやすく言えば、気づいていなかった本性の一端が暴き出された、彼を媒介にして僕の本来の姿が顕在化した、そういうことではないのか。その一方で、見たくない、自認したくない、それこそおぞましい、そっとしておいてほしかったモノどもコトどもが、もう抑え込めなくなって、という困ったことだったのかもしれない。いや、さらに反転して可能性を含んだ新たな一面が現れた、ここぞとばかりに、喜ぶべきことに、必然のプロセスに従って湧出し始めたのだろうか。


 直前まで忘れていた。この週末、計画を立てて彼女をどこかへ連れていかなければならなかった。午後二時の待ち合わせだから、遠くへは行けないのをいいことに、ターミナル駅へ出てショッピングやちょっとしたイベントに参加するとか、とりあえずクルマを出して近場をドライブするとか、その程度で済ませようと思っていた。その一方で、いつもと違う何か印象的なことを、ちょっとしたことでもいいから工夫をしなければ、と少し焦りを感じながらクルマを彼女の自宅まで走らせた。なかなか出てこないのでクルマから出て彼女を待っていると、エントランスから駆け出すように現れた。その流れに合わせてしぜん、柄にもなく、助手席のドアを開けて彼女をクルマへ乗せた。

 取って付けたような恥ずかしい振る舞いのお陰で彼女の機嫌はよかったが、それに乗じてか、彼女のテンションを不用意にも上げてしまった。「ちょっと行きたいところあるの、いい?」。高速道を使っても一時間は十分かかりそうなシーサイドのリゾートホテルへ行きたいという。気分転換にはよかったし、偶然きれいな夕日が見られるかもしれない。そう悪い思い付きではないと、気分を上げ気味にアクセルを踏み込んだ。高速道を下りると十分程度でホテルに着いた。彼女は焦ったふうに急ぎクルマから降り、小走りにエントランスへ向かう。僕は、何か嫌な予感を覚えながら彼女の後を付いて行った。彼女が足を止めた大広間では、結婚間近のカップルを招いてウエディングドレスのショーが開かれていた。

 勝手に予約していたようで、他のカップルに交じって二人分の席が用意されていた。ワクワク感を隠し切れない彼女の横で、僕はだまし討ちにあったように打ちひしがれた。周りの仲睦まじい恋人たちにとって、これも結婚へ向かう楽しいプロセスなんだろうけど、こっちははっきりと結婚が決まったわけでも、互いに両親へ正式に報告したわけでもなかった。でも、彼女が意識しているのはわかっていたし、そろそろ準備を始めないと二十代で結婚できない、そうした焦りも感じていた。だから、何ごとにも素っ気なく、真剣な話にならないように、真面目な雰囲気を極力避けようと、それこそ茶化すような素振りを見せたりして、結婚の話が出て来ないように、ごまかすのが常態化していた。

 帰りのクルマの中で、彼女はホテル側が用意した資料をずっと眺めていた。上がっているはずの気持ちを共有したいはずなのに、話しかけず静かにしていた。このわかりやすい陰謀、さすがに気が咎めているのか、黙りこくって運転している僕を刺激しないように、そんな感じに見えた。もちろんこっちは、華やかなショーについて感想を述べることも、あえて否定的な反応さえ示すつもりもなく、ただ黙殺しようと、そこいらで催されている、ちょっとしたイベントに参加したにすぎない、意地悪にもそう思っているふうを装おうと努めた。高速道を下りるころには、彼女は資料を膝の上に開いたまま眠っていた。

 僕は彼女を自宅前で降ろし、そのまま帰るつもりだった。「今日はお疲れ様。また来週…」と素っ気なく言って、クルマを止めた。彼女はじっと下を向いたまま降りようとしなかった。相談もなしにウェディングショーへ連れて行ったのは悪かったけど、無視という、ここまできつい対応をされるとは…。反省するというより、僕の振る舞いに、結婚への意識の低さにショックを受けているようだった。車内に微妙な空気が流れ、沈黙が続いた。僕の中ではしだいに、今回だけはけっしてフォローしないという固い気持ちが揺るぎ出していた。「気持ちはわかるけど、やっぱり事前に言ってもらわないと」。そう言うと、彼女はうなずくだけで言葉を返してこなかった。さすがにこのまま放っておくわけにもいかず、クルマを近くのコインパーキングに止めて、彼女を送り届けた。

 それと分かる、むっとした表情まま、彼女お気に入りの白のソファーに腰を下ろすと、どこか違う感じがした。部屋を模様替えしたのだろうかと思ったが、そのレベルというか、そんなことではないように見えた。久しぶりに足を踏み入れたのだから、知らぬうちにその時空間に違和感が募っていって、しっくり来ない雰囲気になっていた、たんにそうなのかもしれなかった。リラックスするどころか、しだいに身体が固くなっていくのを感じていた。それと引き換え、彼女はキッチンで小気味いい包丁の音を立て始めた。

 すぐに帰るから、と言っておけばよかった。部屋に上がれば彼女の手料理でゆっくり夕飯、という習慣をついうっかり忘れていた。「もう少し待ってね、すぐ出来るから…」。彼女はキッチンから、そう声をかけてチラッとこちらの様子をうかがうような仕草をした。ただやり過ごすだけだったが、僕の方はこれ以上、気分を立て直すのは無理なような気がしていた。腰を浮かしかけたが、いまさら帰る理由を考えるのも面倒になって、ふたたび目をつむってソファーに身を沈めた。彼女はいつもにもまして、手際よくリビングのテーブルに料理を並べていった。

 食後のコーヒーが出るころにはすっかりわだかまりも解かれて、というふうにはいかず、互いにスマホへ目を落としがちに夜は深まっていく。食事中も彼女の問いかけに対し、短く返すだけで、どの話題も盛り上がりに欠けた。彼女も途中から、あきらめた様子で話を振って来なり、漂う空気感がさらに重くなっていく。「そろそろ帰らないと。ちょっと疲れた」。そうつぶやいてテーブルに手をかけて立ち上がろうとした。「今日のことだけど…」。彼女は顔を上げて僕の動きを制するように言葉と続けた。「こうでもしない限り、前へ進まないと思って」。蛍光灯の明かりが精彩のない、少し怯えたような彼女の顔を浮かび上がらせていた。

 この状(情)況で相手から気の利いた言葉を期待してはいなかったけど、そのストレートな口ぶりに、内側からしぜん出て来たであろう言葉に、思わず動きが止まってしまった。「そろそろかなって。結婚するつもりでずっと…」。僕は中腰の姿勢をふたたびソファーへ戻すしかなかった。この機会に思いのたけをはき出そう、どっちに転ぶか分からないけど、ここは勝負に出て…。そうしたなかでも、けっこうな公算があって、まさかこんなことで壊れるはずはない、そう、二人の関係性を信じて…。そんな自信が垣間見えた。相手の思いを、こちらの気持ちを、正確に把握できるはずはないのに、底のところで楽観している、この関係性がずっと続くとでも思っているかのように。

 しゃくに障るも、彼女の思い通りにしたくなくとも、そこのところを曲げてしまうと、ストレートな彼女の感情や思いを無視してしまうと、この関係性以外をも、まわりのモノどもコトどもまでも、それこそ自分自身までをも、壊してしまう、なかったことになってしまう…。そんな強迫観念に近い、おのれを呪縛する感情が、彼女の動く口元を無表情に眺めながら、こみ上がってきた。「泊っていくよね、お湯張ろうか、シャワーにする?」。気がつくと、彼女はスッキリした表情で立ち上がり、浴室の方へ行こうとしていた。「シャワーでいいよ」。僕はやっとのことで、現実へ引き戻された。事は決したのだろうか。正面の、点いていないテレビ画面をただ眺めていた。


 例のバーから足が遠のいていた。もう二カ月近く、彼に会っていなかった。そのあいだも、彼はカウンターの隅で静かに飲んでいるのだろうか。となりの席を空けたままに? いや他の誰かと楽しそうに? もうそこで止めておいた、これ以上想像をめぐらすと、辛うじて保ってきたものが…。でも、ふと意識が途切れたとき、ぼんやりと不安がよぎったとき、いやこうして普通に、日常の中へいるときも、彼の面影が頭をよぎった。当初は時間が解決してくれるものと、しだいにこの内側から彼の痕跡が消えていくものと楽観していた。これほどしぶとく残り、気を抜くとすっと意識へ上ってくるものとは思っていなかった。

 でも、これ以上会うと、ろくなことにならない―。心身のバランスを保てるか、自信がなかったし、潜在している、得体の知れないモノどもコトどもが顔を出しそうで、これまで抑えてきた本当の姿を見てしまいそうで、怖かった。ことセクシュアリティに関しては、どうしてもアンタッチャブルになりがちで、しっかり向き合って突き詰めて考えるのは、やはり簡単ではなかった。どのような性向を持っているのか、それこそ細かい性癖について自覚するなんて、そう容易いものでなかったし、そんな度胸を持ち合わせていなかった。このまま内側に潜り込ませて表へ出ないように、少しでも顔をもたげてきそうなら、この日常の力を借りて抑え込むしか…。

 こんなことがあるのか、偶然にしては…。そう思わせる出来事だったし、何かの力が働いているとしか思えなかった。彼が道路を隔てて信号を待っていた。片側三車線もある道幅なので三十㍍ほどあるだろうか。彼は真っすぐ前を向いていた。僕に気づいているのか、表情がつかめる距離ではなかったし、濁った空気でぼんやりとかすんで見えた。青に変わって、このまま歩いて行けば、中央分離帯の辺りですれ違い合う。こんなときは、戸惑いとか、それこそ脚がすくむとか、そうなるものと思っていたが、あえて避けてきたからなのか、気持ちが高ぶって来て、どうにも抑えらなかった。それは、表情に出ていたのだろうか、彼は笑みを浮かべて小走りに近づいてきた。

 久しぶりの再会をじっくり喜び合うには処がまずく、彼とともに元の側の歩道へ引き返した。彼は、会社へ戻らず夕食の買い物をして帰るつもりだったという。僕は会社へ電話を入れ、直帰すると告げた。午後六時を少しまわったところで、夕日がビルのあいだから街の一部を照らしていた。こんな時間に彼と会うのは初めてだった。もちろんバーへ行くには早く、彼がよく行くという居酒屋へ向かった。その店は居酒屋というより、こじんまりした小料理屋といった趣で、よく使っているのか、すぐに奥の席へ案内された。掛け軸を背に少々緊張していると、彼はいつもの優しい眼差しでうなずくだけだった。僕の方はお決まりの引きつった笑顔を返すだけで、二人のあいだに余計な言葉は要らなかった。

 なぜ、バーへ行かなくなったのか―。話のどの辺りで切り出そうか、そればかり頭にあって落ち着きがなく、心地よいはずの会話がしっくりいかなかった。それに引きかえ、彼は何ごともなかったように、いつもと変わらず穏やかな表情で僕の前にいた。モダンジャズが響く薄暗いバーに比べて、ここでは話が日常へ寄っていくというか、どうしても身近なところへ及んでいく。彼は四十手前で独身の一人暮らし、そこまでは知っていたが、音楽が好きで大学時代はバンドを組んでいたという。休みの日は家事全般を、溜まった洗濯物と薄っすら積もった埃の掃除、それに、それほど面倒に感じないという料理を、けっこう楽しんでこなしているらしい。「女子力が高いみたい。それっていいことなのかどうか、わからないけど」。彼はめずらしく冗談をいい、照れた笑いを浮かべた。

 「彼女はいるの?」。ちょっとした話の流れから、思わず聞いてしまった。一番知りたかったことだったが、心安らぐ楽しい宴に気まずい空気が漂わないか、言ってすぐに後悔した。でも彼は、僕の心配をよそに事もなげに答えた。「もう別れてだいぶ経つけど、それからは…」。“彼女は…”って聞いたのだから、そうなのだろう。“彼”ではないのだろう、僕はそう思うしかなかった。でも、その点に関してはスッキリしないものが残ったし、彼女というワードをすっ飛ばして広くパートナーという意味で、ラフに答えたのかもしれない。でも、それ以上突っ込んで聞くことはできなった。僕はいつもより酔いのまわりが早いのを感じていた。

 けっきょく小料理屋では、バーへ行かなくなった理由に触れずじまいだった。このあと、黙っていても連れだってバーへ行くのがしぜんな流れなのだろうが、店を出たあと二人して立ち止まり、妙な間合いになった。どちらともなく“じゃあ…”って言い出しそうだったので、ここはこちらから切り出さなければ、と思った。「いつものバーへ行きますか。僕は久しぶりなんだけど…」。そう言うと、彼はここも変わらずあの笑みを浮かべてうなずくだけだった。大通りへ出てタクシーを拾った。互いに黙って車窓の移りゆく光の交差を眺めていた。ふいに、タイミングを見計らってというのではなく、でも唐突でもなく、自分の中ではしぜんに言っていた。「彼女と結婚することになって、いろいろ忙しかったので…」。やっと言えたと、すっきりした気持ちで彼の方へ向いた。彼はこちらへ振り向くことなく、車窓をじっと見つめていた。

 いつもより早かったからか、バーには三、四組の客がいた。幸いカウンターの端は空いていて、お互い指定席に収まった。好きなアート・ペッパーのアルトサックスが店内に響くなか、彼はいつも通りウイスキーのダブルだったが、僕はバーボンのロックをオーダーした、もっと酔いたい気分だった。結婚の話はあれっ切りで、彼は詳しく聞こうとしなかったし、僕も必要以上に話すつもりはなかった。小料理屋での些末な日常会話の続きをする気分ではなく、久しぶりにただカウンターに肩を並べて薄明かりの中を漂うだけだった。

 その夜は、彼を残して終電前にバーを後にした。最寄り駅の改札を出て、近くのコンビニへ入った。べつに買いたいものがあったわけでも、暇つぶしでもなかった。心身ともに、あまりに疲れていて、収まれるところが見つからないというか、自宅はもちろん、どこへ行ってもこの定めどころのない、哀しく切ない感じは解消されそうになかった。だから、コンビニでなくてもよかったが、ただ強い光の中に、過剰な何かに、身体を浸してまどろんでいたかった、のかもしれない。そうしたからと言って、何かが変わるわけではなかったし、身の回りのモノどもコトどもが親しく感じられるのでもなかった、けど。ただぼんやりと、雑誌売り場の前にたたずんでいたのを微かに覚えているだけで、この身と、その心がどこを漂い、どこまで彷徨っていくのか、時空の流れに任せるしかなかった。

 ラインが二件入っていた、彼女と、久しぶりに彼からだった。彼女は昨夕の八時すぎに、彼からはバーで別れてすぐの時刻だった。僕はベッドから起き上がり、二日酔いで重い頭を振ってラインを開いた。「よかったね、おめでとう。これからも…」。彼のラインはいつもより少し長めだった。だからと言って、僕の結婚について思いを吐露するとか、何かをアドバイスするとか、そんな感じではなく、彼らしく淡々としたフレーズで祝ってくれていた。でも、一つのセンテンスだけに、何気なく使ったのだろうけど、とくに次の二字に、感じるものがあった。彼の真意がそこにあるのではないだろうけど、どうしてもそこに…。

 “残念だけど…”。結婚したらそう再々バーに来られなくなって、いっしょに楽しく飲めなくなるね、そんな意味なんだろうけど、僕はどうしてもそこに引っかかった。深読みもいいところで、邪推の域に入っているのかもしれないし、彼の僕に対する思いでなく、独りよがりの僕の彼への思いが屈折して、その“残念”という言葉に特別な意味を与えていた、それが真相なのだろう。残念、たしかにそれは僕の気持ちだった。彼にハグされたときの、軽く抱かれたときの、あの心地よい感覚が、そう何とも言えない恍惚感が、もうこれっきりになってしまう、この結婚を機に…。それは、失うにはあまりに大きなもの、めったに触れられない、かけがえのないものだったに違いないのに。


 この半年余り、結婚へ向けて雑事に追われ、心身ともに疲弊していた。余ほどの事がないかぎり、このレールから外れたり、定まったプロセスから抜け出せないのはわかっていた。でも、ここまで拘束されるとは、これほど囚われの身になるとは、気恥ずかしい言い方だけど、結婚がこれほど愛から程遠いものとは、粗雑で無慈悲なリアルだとは、思ってもいなかった。現象面では刻々と、ただデイリーが積み上がっていくだけで、つねに心象は置き去りにされて、心身の乖離は広がるばかりだった。こんなもんだろうと諦めるほかなかった。ここに至ってジタバタしてみっともない姿態を晒すのは避けたかったし、たんに往生際が悪いと見なされるのも癪に障るし…。下らぬ体裁を整えるのがせいぜいのところだった。

 こんなときぐらい、仕事へ意識をそらして、たまには残業の実効性を上げようとしたが、これまで同様、ただぼんやりとパソコンの前に座って、取り止めのない思いや考えに頭をめぐらすだけだった。そこは意識して、これ以上妄想が広まらないように、ひとところに止まらないように、強い力で流し去ろうと、取り除こうと努めた。でも、彼のことが、いつもの優しい笑顔が、穏やかな身のこなしが、あのとき見せた哀切感ただよう表情が、この頭から、内側から離れてくれない。このままでは、どんなプロセスも前へ進められない、そう、生きていられない。僕は大仰でなくそう感じていた。

 ちょっとやそっとの気分転換ではやってられない、もっと強い何かを、この内心に流動しているものを、付かず離れず周りに浮遊していることを、それこそ不当にも負荷をかけて来るやつであっても、ぐっと引き寄せたい、不遜で悪辣なモノどもコトども、ヤツらでさえも招き入れたい、そんな感じだった。日ごろ鬱陶しいと遠ざけているのに、こんなときに舞い降りて来て欲しいと、都合のいいことばかり考えていた。この状(情)況から解き放たれようと手を尽くしたが、どれもこれも的を得ずに、空回りするばかりで、どうにもこうにも、為す術がなかった。

 カウンターの端に彼はいなかった。気がつくと、あのバーにいた。数カ月ぶりの店内には、コルトレーンのテナーサックスが力強くリズムを刻んでいる。僕は、いつもの席に腰を下ろした。彼はなぜいないのか、今夜だけなのか、それともだいぶ前から来なくなったのか。いまどこにいるのか、何をしているのか、どんな思いでいるのか。彼と偶然再会した、あの夜から水割りからロックへ変わっていた、彼は気づいていたろうか。僕は気づいていた、でも気づかぬふりをしていた、彼への思いを、あの優しい笑みの中の、穏やかな素振りの内の、僕に対するディザイア、いや清らかな欲望と言えるものを。このままもう彼と会わない方がいいのだろう、フェードアウトしてゆくべきなのだろう、だからと言って…。

 こんなことは初めてだった。カウンターに突っ伏して酔いつぶれ、意識をなくしていた。ハッとして頭を上げると、カウンターの中にマスターがいるだけで、めずらしくギターのフュージョンがかかっていた。僕は慌ててチェックして店を出た、きっと午前二時前後だったと思う、辺りがクリアになるにはまだ時間がかかりそうだった。とにかく大通りへ出てタクシーを拾おうと、重たい身体を前のめりに覚束なくも歩を進めた。迷うはずもない道なのに、どこまで行っても大通りへ出ない、迷路にはまったようにどこにも抜け出せない、ただ酔っているだけなのか、出口のない迷宮へ嵌まってしまったのだろうか。

 夜のしじまをさまよう―。そこいらの小説に出て来るようなお決まりのセンテンスを地で行っていた。不思議と怖さや不安、戸惑いはなく、これこそ求めてきた情(状)況なのかもしれないと、そこへ、この心身を沈めたい、陥りさせたい、それこそ湿った路面に突っ伏したい、そんな衝動にかられた。たんにアルコールの効果なのかもしれなかったが、脳髄から降りて来る、末しょう神経へ行き渡る、この感じるものは確かなものだった。この身を、その心を、ただ漂わす、時も隔たりも、そう次元を超えて。そんな境地というか、これがいわゆる“無”じゃないかと、モノやコト、カタチから、硬質な客観から、些末な現象から解放されて、漆黒のなかを浮遊する、もちろん心の痛みも感じずに、ただプロセスを充たしていく、そうした道行きなのか、と。

 僕は公園のベンチに座っていた。どこをどう辿ってここへ来たのか、なにをしようとしているのか。この僕を誘い導いたのは何なのか、答えの出ない、いや初めから決まっていた、この事象にどうかたをつければいいのか。ただここにいる、いた、それだけで十分なのだろうか。すべてが流動していた。公園に面して彼のマンションがあった。この時間でも何室かに明かりが点いていた。新聞配達のバイクが走る音が断続的に聞こえる程度で、朝の到来にはもう少し時間があるようだった。彼と、もう一度いっしょに飲みたいとか、それこそ近くに感じたいとか、そんな感傷的なものではなく、ただ心身を収める場所を、しっくり安らげる処を、ただ求めていただけだった、そうエゴイスティックに。僕はマンションを見上げることも、彼の部屋を探すこともなく、ただ下を向いて、彼に触れた、あの日のことを思った。 


 引き出しのなかのスマホに着信音がしたようだった。たいした仕事をしていなかったし、集中力を欠いていたけど残業中だったし、きっと彼女からだろうし、けっきょくどうでもいいことだろうし、だからいつものように、放っておいた。午後九時ごろ、机の上を整理しながらスマホを開くと、彼からだった。もう来ないものと思っていたし、送らないつもりでいた、だからこのまま終わってしまうのだろう、と。一瞬、動きが止まり、息が浅いのに気づいた、スマホを持つ手が震えていた、動悸に近い心拍音が聞こえてきた。通常の意識へ戻すのにどれほどかかるのか。明かりを落としたオフィスのなかで、ただ身体を固くするだけだった。

 遠く南米の方へ転勤するという、その報告だった。大手商社なら、そういうこともあるだろう、きっと栄転なのだろう、それならお祝いしないと、明るく見送ってあげないと…。動揺を抑えようと、つらつらと勝手な思いをめぐらしてやり過ごそうとした。あのバーで会う口実を、ずっと探していたのは明らかで、僕は何の躊躇もなかった。“ごめん、遅れて。まだ仕事してたので。それじゃ、例のバーで久しぶりに、ささやかな壮行会はどうかな” 彼はすぐに返してきた。“ありがとう。楽しみしてるよ。今週末、大丈夫かな?” 来週半ばに現地へ赴くという。“大丈夫。それじゃあ、せっかくだからその前に食事でもどう?” スムーズな流れで、バー近くの焼き肉店で落ち合うことになった。

 彼の話では、鉱物資源の調査が中心で、少なくとも三、四年は帰って来られないという。中南米も含めてレアメタル(希少金属)の争奪戦が繰り広げられているようで、その最前線へ一兵士として投入されるらしい。「こういう時は、家族がいない独り身は気楽でいい」と笑った。いつもの微笑みではなかった。柔らかな表情が影をひそめ、どこか生気がないように映った。地球の反対側へ行くのだから、それだけでも気重になって心細くなるのは仕方ないし、こういうときは励ましの言葉一つでもかけるべきなんだろうけど、なかなか口をついて来なかった。焼き肉の煙を吸い込むダクトの機能が高くなったとか、よくあるチェーン店に比べて肉の質がいいとか、この前行った店では…。限られた時間なのに、そんな他愛のない話に終始した。

 バーにはいつもより早く、午後九時前に着いた。ほとんど表情を崩さないマスターが、僕と彼を見て一瞬ポーカーフェースを崩し、おもむろにターンテーブルへ向かった。ビル・エバンスの肖像がフューチャーされたLP盤のジャケットをボトルのあいだに立てかけた。繊細なピアノトリオが滑らかに流れ出した。この透明感あるメロディーが、清らかな旋律が僕も彼も好きだった。ここで知り合って間もないころ、仲良くなるきっかけがこの曲だった。時間がぐっとさかのぼっていく、まだ余白があったころへ、ちょっとしたフリーハンドを持っていた時分へ、互いを連れ戻してくれるような気がした。

 普通に考えれば、これが最後になるかもしれない、彼とこうして居られるのは…。だからこれまで通りに、いつもの間合いで、心安らぐ時を刻んで…。いや、後悔しないように心残りを少しでも軽くするために、思いのたけを、しっかり伝えて…。べつに二者択一の話ではなかったが、僕はそんなことを考えて彼の横でたゆたっていた。けっきょく、この流れのなかに身を委ねるしか、穏やかに交差する時と隔たりに寄り添うしか、かけがえのない彼との関係性に漂い彷徨うことしかできないってこと、わかっているつもりだった。だからと言って、こうしているだけでいいのか、焦りのようなものを抑えられなかった。

 「それにしても、やっぱり寂しくなるね」。僕は、彼の気配をしっかり感じながら前を向いたまま言った。「もしかしたら十年、帰って来られないかもしれない。三、四年って言われてるけど」。彼は、自嘲気味に言って笑った。「待っている人がいないから。べつに構わないんだけど…」。小料理屋で言ったことを繰り返した。 “そんなことない、僕がいるじゃないか” もちろん口に出せるはずはなく、ほかの言葉を探していた。「ただ気になるのは、あのことだけで…」。そうしていたら意味深長なことを言い出すので、思わず彼の方へ向き直った。「いやいや、たいしたことでなくて…」。驚いたふうな僕の顔を見て、戸惑うように顔の前で軽く手を振った。

 なんの進展もなく時は過ぎていく―。こんな慣用イディオム、ここではそぐわないだけでなく、そもそも僕と彼とのあいだに“進展”なる言葉は存在しなかったし、期待してはならなかった。でも、何か爪あとを残したい、そこまでいかなくとも何か思い出になるようなコトを、それも無理ならたんにモノでも、カタチだけであっても…。どんどんレベルが下がっていくのを意識しながら、この関係性の落しどころを考えていた。「まあ、やっていくしかないってことだけど。どんな状況であっても…」。彼はそう言ってグラスをいっきに空けた。「そうだね…」。僕はそれ以上、返す言葉がなかった。


 彼女との関係性を整理する必要があった。だからと言って、事ここに至って引き返すことも、リセットできるはずもなかった。そう、三カ月後には例のイベントが、彼女の誕生日を前に予定されていた。でも、僕の気持ちは彼の方へ行っていて、この内側にあるものが、流動するものが、しっかりと襞をかすめるというか、彼に対する思いがはっきりと感じられて、そこから逃れられなかった。表層的に、現象面でごまかせたとしても、内心で嘘をつけない、ついても仕方のないことぐらい分かっていた。彼が遠くへ離れ去っていこうが、視界から大きく外れていようが、たんに物理的に隔たりに過ぎなかった。そんなことより、心の中で、頼りなくもけっきょく信じるに足る内心というのか、心とか魂とか、この精神の中で息づいている、根づいている、この真なるものを感じて、しっかり受け止めて…。

 偶然、彼が同性であっただけで、彼のようなマインドというか、雰囲気とか立ち振る舞いが、あの優しい表情も含めて、その内面に潜在していたのなら、異性でなくてもパートナーシップを結んで、ずっといっしょにいたい、できるかぎり感じていたい、そう思うのが本来の道行き、プロセスではないか。性向や性癖にかかわることを、カテゴライズしたり、何かに収斂させようとしても、それこそ倫理や論理の俎上に乗せたところで、意味なく不毛ではないか。すべては混ぜ合わされた、はっきりカタチを成さない、捉えようのない、曖昧模糊としたものではないか、ただ流動しているだけで…。

 「こんな感じでいいよね、もう決めないと…」。結婚式の打ち合わせは最終段階にさしかかっていた。決める、と言われても、一つひとつ細かいことまで、引き出物とか、ブーケの花とか、センターテーブルの飾りとか、そんなことまで頭がまわるわけも、関わろうとしたら吐き気がしてきて。だから肯いていれば、ぎこちなくも微妙な笑顔を向けていれば、この日常をクリアできると、デイリーからやり返されることなく、なんとかふつうにやっていけると。彼女との世界が、凡庸なるプロセスが、これからも避けられないならば、彼との関係性とパラレルに、けっして交わらせることなく、淡々と進めていけばいいだけで。その落差に、よく言えば多様性に、じっさいは内心と外殻の分離に、違和を感じずに、何事もなかったかのように、漂い続ければ何とかやっていけそうか、と思った。

 「だいぶ、埋まってきたね、あとはドレッサーと…」。新居は、互いの勤め先からほぼ等距離の、三十分前後の、2LDKの間取りで、築十二年のマンションと相成った。僕の方からは、たいして持っていくものがなくて、使っていた家具や家電の大半を処分して、それに合わせていろんなものを捨て去って、すっきりさっぱりと。できれば、これまでと違う、何か別のものとして、必ずしもヒトでなくても、人格ある何ものかである必要もなく、かろうじて生命を宿す有機体であればいいと、これから先は。日常に徹するのが無理でも、とにかく現象面に重きを置いていれば、ふつうに何ごともなかったように事は運んでいく、すべては表層をすべってスムーズに。これからは、内心の襞をかすめる程度で正確に沿う必要はなかった。

 「泊っていく? 帰るの、面倒になっちゃった」。デートの帰りに二人の愛の巣へ、日常を睦ぐ新居へ、ちょっと立ち寄った。いくらなんでも、いっしょに風呂に入ったり、ベッドで交わったり、面と向かって微笑みあったり、とそんなことまで…。でも、そのまま朝までいて、ハムエッグとトースト食べて、いっしょにエントランスを出て、並んで駅へ向かって、満員電車から降りて、笑顔を交わし別れて…。互いに意識し合って、よそよそしい感じを漂わせて、微妙に距離を置いて、会話もどこかぎこちなくて、でも穏やかに時間が流れていくなかで。こうして日常へ融け込んでいくことに、徐々に抵抗感を覚えなくなって、この関係性が固まっていく、ずれをそのまま放置して。忘れ去るのも厭わずに、ただデイリーを受け入れて、鈍磨をものともせずに、穏やかに生活して、老いていく。

 「久しぶりで楽しい。独身最後のいい思い出になるね」。結婚前のブルーな気分の転換に、ちょっと足を延ばして、郊外のテーマパークへクルマを走らせた。長い列の後に並んでぼんやりするのも、苦手な観覧車に乗ってそわそわするのも、両手上げてジェットコースターを下っていくのも、たいして変わりなく、この内側に何も起こらないってこと、わかっていたけど。アイスクリームの冷たさに、ぐっと引き寄せられて、もちろん覚醒するほどではないにしても、少しは頼りになりそうで、地面に落ちるクリームにリアルを感じて。帰り際の、華やかなパレードを横目に、手をつないで出口へ向かうも、しっかり足を踏み出せなくて、何度も後ろを振り返って、立ち止まった。

 「楽しかったね。結婚してもこうして…」。帰りのクルマのなかで、彼女の口の動きが滑らかに、うつらうつらする前に、これからのこと、近い将来のことまで、聞かされた。ハンドルを持つ手が妙に乾いて、しっくり絡まなくて、変に力が入って、身体まで固くなって。このままどこかへ、彼女を残して漆黒の海へ、ハンドルを切って遠ざかっていく、外界をはずれて。高速道で減速する、インターチェンジの出口を前に、スポイルされていく、制止バーに当たるまでもなく、ほぼ停止するように、リアルへ舞い戻って。ちょうど彼女目覚めるころに、ぐっと沈み込んで、暗い下道へ出て、減速の震えが身体全体に広がっていった。

 「えっ、帰るの? ゆっくりしようと思ってたのに」。このまま居れば、夕食のあとテレビを見て、風呂に入って、枕を並べて、寝ることになるだろう。でも、今夜はそんな気分になれそうになくて、いずれルーティンになるにしても猶予が欲しくて、とにかくここから逃げ出したくて。クルマから新居へ運び入れた、彼女の小物を奥の部屋へ移して、食後のコーヒーを飲んで、そのまま愛の巣を後にして。彼女を置いてけぼりにして、身軽になったのをいいことに、大通りでスピードを上げて、その勢いをかって、ふたたび高速道へ入った。


 僕は、彼と別れた日のことを、空港で見送った時のことを思い出していた。日曜の深夜、高速道は大型トラックが先を急ぐ程度で、流れは疎らだった。追い越し車線へ移ってだいぶ経っていたが、ただ走行車線へ戻る理由がなかっただけで、道なりを決め込んでいた。サービスエリアで休憩して気分が切り替わっても、そのまま出口へ進む選択はなかったし、次のインターチェンジで方面を変えようとも思わなかった。とにかくこのまま行こうと、何も考えないようにと、煩わしい日常から解き放たれようと、ただ流れに乗っていくだけだった。

 僕は、彼に餞別を手渡そうと、経由地の北米向け航空便の搭乗ゲートへ向かった。彼は、スーツケースなど大きな荷物をカウンターに預け終えて、搭乗口からやや離れたベンチにぽつりと座っていた。けっこう離れているにもかかわらず、歩いて来る僕を認めて、驚いたように立ち上がり、駆け寄ってきた。僕も思わず小走りになり、彼との距離を縮めていく。ドラマのように抱き合って、とまではいかなかったが、僕と彼はこれまでになく至近距離で笑顔を交わした。はなむけのつもりで贈り物を差し出すと、彼は少し驚いて戸惑ったふうだったが、何度もうなずいてうれしそうだった。

 僕と彼は並んで座っていた。バーのカウンターのようにはいかなかったし、肩が触れ合うこともなかったが、すべてがしっくりいって心地よかった。このまま時が止まって、周りの景色もそのままに、そのなかで僕と彼が漂い合って、相乗して、融合して…。互いに前を向いたまま、ワイドガラス越しに飛び立つ飛行機を眺めていた。足を組み替えたはずみに少しバランスを崩し、右肩が彼の左肩に当たってしまった。支えようと彼が手を伸ばした時だった、僕は彼の両腕の中へ落ちた。いつもの優しい微笑みのように温かく柔らかい感触だった。僕は、彼に身をまかせた。エクスタシーを感じていた。

 「そろそろだね。それじゃあ…」。搭乗アナウンスが鳴り響き、乗客が一斉にゲートの方へ動き出した。「着いたら連絡するよ」。僕はうなずいて彼の方へ向いた、きっと目が赤く染まっていただろうし、身体の微妙な震えも止められなかった。手を差し出すと、掌を包み込むようにしっかり両手で握った後、身体を引き寄せてもう一度抱きしめてくれた。必死で嗚咽を抑えていた。感情失禁に陥らないよう、コントロールできない情況にならないよう、こらえるのに懸命だった。彼からも小刻みな震えが感じられて、さらに相乗して気持ちの高ぶりが極まっていった。僕と彼は、融け合うように強く抱き合った。

 搭乗ゲートを抜けて、ボーディング・ブリッジへ消えていく彼を見送った。茫然自失とはこのことだったが、不思議と涙は出なかったし、ぎりぎりのところで感情も制御できていた。悲しみより上気する何かに浸されていた。僕と彼とのあいだに、その関係性に、ネガティブな要素が微塵もなかっただけでなく、この内側の襞に沿って不安を取り除いてくれたからだし、醜悪な現実に左右されずに微妙にずらしてくれたからだし、異なるピュアな次元へ向けてくれたからだし、いつも心地よく慰めてくれたからだし…。僕はただ、彼と漂うだけで、気持ちよく彷徨うだけで、よかった。

 “本当にありがとう。大事にするよ”。Wi-Fiを機内モードに変えて、さっそくラインを送って来てくれた。“迷ったんだけど、それがいいのかなって思って” すごく気に入ってくれているのが伝わって来て素直にうれしかった。“アクセサリーはどうかと思ったけど、きれいだったし…” 深層心理を探れば、それを選んだ理由が他にも出てきそうだったが、それ以上は止めておいた。怖くて出来なかったし、今となってはしてはいけないことだった。“こうしてずっとラインしていたいけど、長くなるとよくないね。じゃあ、元気で” こっちもずっとこうしていたいけど、エターナルはないわけだから、そう僕と彼の関係性においても。“本当に身体に気を付けて。帰って来るの、楽しみに待っているよ”。そう言うのが精いっぱいだった。ただ、心の中でつぶやいた。“愛しているよ”。


                    ◆

 雨の日が憂鬱に感じるようになったのは、いつのころからだろうか。乾燥した気候が心地よくて気分が上がるようになって、どのぐらい経つのか。リビングでソファーに腰を下ろし、曇り空を眺めながら、ぼんやりそんなことを考えた。時が過ぎるにつれて、何かにつけ感度が下がっていくのは仕方なかったし、それが生のプロセスだってこと、十分わかっていたつもりだった。デイリーが、リアルが、これほど強く重たくのしかかってくるものかと、ある程度想像していたけど…。日常に漂うことが、ふつうに時を刻み、隔たりを侍らすことが、普通じゃなく自然でもないってこと、そんな感覚、もうどこかへ行ってしまっていて。のんべんだらりとただ、ソファーに身を沈めるしかなかった。

 こうして向き合って食卓を囲むのも、コーヒーを前にリビングに憩うのも、録りためたビデオを彼女と並んで観るのも、シャワーを浴びてさっぱりした気分になるのも、重い身体で寝返りを打つのも、目覚まし時計ですぐに起き上がるのも、朝が来るたびに目玉焼きに箸を入れるのも、三日のローテーションでジャケットを変えるのも、駆け足で最寄り駅へ向かうのも、満員電車で文庫本を読むのも、早く着いて会社の前の喫茶店で時を費やすのも、仕事の質でなく量で評価されるのも、昼休みに一人公園でサンドイッチ食べるのも、二時間ほど残業して七時過ぎに会社を出るのも、用もなく駅近くのコンビニに入るのも…。どれもこれも内側の襞に引っかかるものがなく、ただ日常に漂い、デイリーに彷徨っているだけで。

 「今夜、飲み会なんだけど、大丈夫? 何も作ってないけど」。「うん、適当にやるよ」「…それじゃあ、悪いけどよろしくね」「ああ」「今度の週末だけど、空気清浄機の新しいの、見に行かない?」「うん、そうだね」「また花粉症の時期来るし。最新のが…」「うん」「そうだ、早めに受診したほうがいいよね」「そうだね」「今年の花粉、キツイっていうから。薬を変えたほうがいいかなぁ」「どうだろう」「今年はしっかり旅行にいかないとね。できれば三泊くらいで」「そうだね」。「今夜何食べるの?」「うん、適当に…」。こんなプロセスがシークエンスに、途方もなく続いていくことに。

 もうこの歳だから、昼近くまで寝ていられなくて、一人起きて、一枚トースト焼いて、一杯のインスタントコーヒーをブラックで飲んで…。スマホを手にするのも違う気がして、だからと言ってパソコンに開くのもどうかと思って、でもやることなくて、でもネットとかSNSでもなくて、意味なくWordを開いて。ただ言葉を連ねてみるのも、かりに日記のレベルであっても、内側のカタチにならないモノどもコトどもを紡ぎ出すってのも、そこに嘘、偽りが混じっていようと。こうして上澄みの外界へ触れるのも、悪いことじゃない、意味のないことでないと、かったるい感じはあるにしても。デイリーにどっぷり漬かっている身なのだから、そんなことも許さるだろうと。

 それこそ日常を意識して、ごまかそうにも、言葉をひねくり回したところで、内と外がそぐわないかぎり、すっと入って来たり、しっくり来ることはないのに。思いのほかデイリーの中にエッセンスが、日常のうちにコトの本質が、信ずるに値する真髄が、垣間見えるかもと、哀れにも構えてみるのも。一周まわってとか、反転してとか、トランスするとか、そういう幻想なのか、見込みのないプロセスをたどっていくのも、たんに無駄骨と片づけるのではなくて。現実との境に、リアルからずれたところで、肌触りのいい、内心と外殻がはまるラインがあるってこと、そこだけで行こうと、それぐらいしか。

 「おはよう。休みなのに早いのね」。僕はパソコンに向ったまま、顔を上げて小さくうなずいた。「何か食べた? お腹すいちゃった」。彼女はしばらくのあいだ、冷蔵庫をのぞき込んでいた。「ええっと…。ヨーグルトあったかなぁ」。隔てられたチルド室の奥にあったのを探し出し、小躍りしてソファーに収まった。「今日の午後、どうする? どこかへ出かける?」。ヨーグルトの空の容器を置く音が思いのほかリビングに響いた。「顔、洗って来ようっと」。そう言って弾むように立ち上がり、浴室へ消えた。「お昼、外で食べない? 久しぶりだし…」。彼女が戻って来ると同時に、僕はパソコンを閉じてダイニングテーブルから離れた。

 ファミリータイプの新車で二十分ほど、大型ショッピングモールへ向かった。三連休明けの週末だったため、駐車場は空いていた。この分だと、人いきれに押されずに、ぶらぶらできそうで、ほんの少し気分が軽くなった。彼女は素顔にメガネとマスク、キャップを被ってカジュアルなワイドパンツに白のスニーカー、トップスはオーバーサイズの少し派手目のチュニックだった。僕は相変わらず、スキンカラーのスリムパンツに、心地よいコットンシャツ、短めのデニムジャケットをはおって、彼女から少し離れてショップを見てまわった。必要な日用品と、欲しかった小物を買って、彼女は少し値段の下がったアイテムを身体にあてて楽しそうだった。僕は店の入り口付近で、薄っすら笑みを浮かべて佇んでいた。

 残業が長引いて、食事を摂るタイミングを外していた。近くのコンビニで何か買って来ようか、この仕事、どこで切りをつけようか、いやそれより、帰りが遅くなると連絡しなければ…。いつも、どこでも日常が覆いかぶさり、些細で面倒なことが重なっていく、気分が下がっていく。どうもこうも心身の収まりがつかない、皮膚の裏側を地虫が這っている、まさにそんな感じだった。不快を通り越して、もう少しで吐き気をもよおしそうだった。気がつくと会社を出て大通りに立っていた。タクシーをつかまえてメルクマールのビル名を告げた。目的地に近づくにつれて、いつものぼんやりした不安感が和らいでいき、心なしか車窓の景色が穏やかに過ぎていく。降りた交差点から一本入った路地に、あのバーがあった。彼と別れて一度も来ていなかった。

 時間の経過を、空間の移ろいを、考えないように、感じないように、強いていたのかもしれない。あの時点で、空港で別れた時にすべてが止まっていた。だから、自分と向き合うのを、内側の襞に触れるのを、本質をつかむのを、避けてきた、諦めていた。この日常に埋没するために、あえてデイリーの細々したことに振り回されようと、この虚しい身を、幼気な心をさらして、ただ漂って、取り込まれて、解き放たれた気分になって。でもけっきょく、外れたり、はみ出したり、少なくともずれることの、贅沢を味わいたくて、異なる次元を引き寄せようと、ここに来たのか、ひとときの恍惚であっても。

 僕は、いつものカウンター席に腰を下ろした。マスターが表情を変えず、バーボンの水割りをつくってくれた。カウンターの端に目をやった、彼はいなかった、でも一人という感じはなかった。寂しさとか、悲しみとか、心細さとか、そうした思いや感情がこみ上げて来ないのが不思議だった。ただここに腰を落ち着かせているだけで、穏やかな気分に浸れた、内側が充たされていくような気がした。ちょうど、ジョン・コルトレーンからビル・エバンスへ、重低音のアルトサックスの響きから繊細で流れるようなピアノの旋律へ―。僕は右肩越しに彼を感じていた、その姿を見ていた。

 ここに至って現象や表象は必要なかったし、かといって本質や真理が舞い降りて来るとも思わなかったし、ましてや幻影を抱いているのでも、幻聴に翻弄されているのでもなかった。僕の中に彼がずっと棲みついて、離れない彼が、ただ感じられて、すべてをニュートラルに、さまざまな負荷を取り除いてくれた。こうして彼のガイストと、精神というか、気息なのか、魂の気配を感じながら、グラスを傾ける、それだけで時と隔たりが重なり合って、心と身体がしぜん、一体となっていくような、心安らぐ充足感というか、日常の穢れが浄化されていった。愚鈍で退屈なデイリーを置き去りにして…。

 でも、ずっとここにいるわけにはいかなかった、僕はバーを出るほかなかった。すべてを圧し潰し、引き戻し、重苦しいものを、ふたたび背負わせようと、躍起になって来るものに、ぐるりと取り囲まれて。湿気の多い暗闇の中をさまよい歩く、まさにそんな感じで漂うしかなくて。行き着く先がないだけでなく、ベクトルを定めることも、プロセスを刻んでいくことも、もうあり得ない、ただ円環をぐるぐる回るだけで。ちょっとした歪みとか、どうしても重ならないズレとか、どこから来たのかわからない違和感とか、心身に覚える微細な差異を後背にして。

 気の遠くなるような、どうにもこうにも埋め合わせられない、寂寞とした内的な疼きに、どう向き合っていけば。日常が醸し出す、このぼんやりとした狡猾なプロセスに、デイリーが投げかける、あの悪辣な甘い蜜に、惑わされず、陥らずにやっていけるとしたら。シークエンスに繰り返される、外的な光景にフィットしようと、内心を持っていこうにも、どうしてもはみ出すものに、左右されて、揺さぶられて。どこかで止まろうと、この日常のなかで、溶け込むように、しっかり地に足をつけて? ただ現象に沿って、対象に従って、プロセスをまっとうすることに、デイリーを抱え込むことに、しっかりと?

 リフレーンに耐え忍んで、差異から生み出される、些細な変わりように、そう進展がなくとも、そこに佇んでいれば、何らかの礎になれるかもと、期待を寄せるしか。静態を楽しみ、キープすることに、逸脱を免れたと、たとえ偽りの合一でも、心身の安定を寿いで、リビングのソファーに身体を沈ませるのも。目の前に広がる、次元を異にする奥行きへ、やさしく誘われようと、身体の力を抜いて、スポイルされようと、呪縛から解き放たれようと。 恐々にベランダへさまよい出るも、ただ足が震え尻込みするばかりで、この身もろとも内心を飛翔させられず、けっきょく臆病風に吹かれて、日常へ引き戻されて、うずくまるばかりで。

 「何してるの? さあ中へ入って」。彼女の声に気づいたけど、すぐには身体を動かせなくて。「出来たわよ、早く食べようよ」。ベランダの手すりに力を入れて身体を反転させて。「ああ、いま行くよ」。リビングへ戻れば、変わらぬ日常が続くってこと、シークエンスに円環を描いて。「早く座って、冷めちゃうでしょ」。アルミサッシの外と内が、この隔たりが途轍もなくも、些細に感じて。「……………」。ダイニングテーブルには休日のブランチが、いつものトーストと卵料理とサラダが用意されていて。「さあ食べよ、いただきます」。箸を持つ手は震えなかったけど。「午後からどうする?」。心と身体が乖離していく、併せて内と外の境界が曖昧に、融け合っていくのを感じて。「……………」。“彼”のイメージとともに…。(了)

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彼女じゃなくて、彼のこと。 オカザキコージ @sein1003

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