10

 鷹峰 政虎が出てくる。背後で秘書が扉を閉じた。

 白髪を後ろに撫でつけた小柄な男は、体躯を倍に見せるほどのオーラを放つ。

「せんせい!」ベンケイの声が裏返る。「申し訳ない事をいたしました。大恩受けた身でありながら、お嬢サマと──」

「ストップ!」練習を重ねたらしいベンケイの口上を凪沙が遮った。「アンタなに言ってんの。なんで申し訳ないワケ? 何が大恩? ばっかみたい」

 キッ、と祖父ほどの歳の父親を睨む。

「アタシ、ツトムくんの子供産んだの。この子よ」抱いた子を誇示する。「何も言えないよね。アタシのママを売ったのだから」

 出世のために妻を離縁して中国闇社会の帝王に譲った。その事をなじっている。結果、凪沙の母は自死に至る。

 政虎は、孫と言われた幼児をじっと見つめた。

 ベンケイは低頭している。目を合わせられないというように。

「やめてよ!」凪沙が襟首を掴んで夫を引き起こした。

 政虎の唇が静かに動いた。「可愛い子だね。とても健康そうだ」

「センセイ、抱いてくれませんか」思いきったようにベンケイが言う。

 孫と祖父の間隔、数メートルに緊迫が充ちた。

「ばか言わないで。挨拶は済んだ。帰る」

 凪沙が背を向けかけたとき、子供が、だあ、と声をあげた。政虎に小さな手を伸ばす。

「ほら、わかるんだ、おじいちゃんが」ベンケイがささやく。

 父に目をやった凪沙の足が止まった。

 政虎の頬を涙が伝っている。

 事業拡張のため、この男はどれほどの人間を泣かせてきたろう。倒産に追い込まれ命を絶った者もいる。経営の鬼とさえ言われた男の、はがねのメンタルを、もみじの手が突き崩した。

  巨大企業のトップは、大切な忘れ物を思い出したように取り乱している。

 年の行った父が一層老いて見えた。

「ほら」ベンケイが促す。

 凪沙はキャリア紐を解いて子供を腕にかかえ、踏み出した。を脱いだ父の元へ。

 幼児はただ小さな手を祖父に伸ばす。

 だが、間近で、政虎は開いた両手を突き出した。娘の歩みを止めた。

「そこから先に来てはいけない」泣き笑いに顔が歪む。「ワタシに触れたら、その子がけがれる」

 凪沙は、置いてきぼりのように、父と夫の間で立ちつくした。

「娘は良い男を選んだ。かつらクン、凪沙をよろしく頼む」政虎が頭を下げた。

「はいッ。ありがとうございます!」大きな声が廊下に響いた。

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