なんで

うもー

第1話

目を覚ますと、そこは夜の森だった。

僕の顔を覗き込んだ晴斗が、「大丈夫か?」と心配そうに尋ねる。仰向けで寝ていた体を起こそうとすると、後頭部に鈍い痛みを感じ、思わず声が出た。晴斗の助けを借りながら何とか上半身だけを起こすと、あちこちが歪んだ車と十メートル以上の断崖が視界に入る。


「晴斗、ここは...」

「覚えてないのか?落ちたんだよ、俺たち。この崖から」

晴斗が言うには、運転をしていた僕が舗装されていない凸凹の道にハンドルを取られて、車ごと崖から落ちたらしい。どうやら、僕は車内から外に投げ出されたようで、頭を強く打ったせいか、記憶が飛んでしまっていた。


「目え覚めたか」

声のした方を振り向くと、神谷先輩が立っていた。

そこで僕は思い出す。今日は晴斗と神谷先輩と肝試しに来たんだった。

といっても、僕と晴斗は全く乗り気ではなかったのだが...。


数時間前、僕らは大学が終わってから、神谷先輩にドライブに誘われた。神谷先輩は横暴な人で、後輩をおもちゃのように扱っており、そのメインターゲットになっていたのが僕と晴斗だった。


最初、先輩は僕にアクセルのべた踏みを強要し、怖がる晴斗を見て面白がっていた。先輩は大柄な体でボクシングもやっているらしく、僕らには逆らう勇気はなかった。そして、もっと晴斗を怖がらせたいと思った先輩は、閃いたように「心霊スポットに行こう」と言い出したのだ。

それで向かったのがこの森。正確には、この森の奥にある廃屋だった。昔、その廃屋で自殺した女性がいたらしく、地元では知る人ぞ知る心霊スポットなのだ。


神谷先輩は、電波が繋がらず助けが呼べないことと、崖の上にはとても登れそうにないことを淡々と説明する。

その間、晴斗はおびえたように下を向き、微かな声で「なんで」と繰り返していた。確かに、この状況は僕と晴斗にとって、嘆きたくなるほど最悪だ。こんな危機的状況の中で先輩が何をしてくるかわかったものじゃない。先輩には、いっそのこと死んでくれていた方が、僕らとしてはありがたかったかもしれない。


「ここにいても仕方がねえな、歩くぞ」

説明を終えた神谷先輩は、車の中にあった僕の鞄から懐中電灯を取り出し、使えることを確認すると、茂みをかき分けて歩き出した。僕も続こうとすると、晴斗に袖をつかまれる。

「ほんとに行くのかよ」

今にも泣きだしそうな声だった。

晴斗の不安な気持ちもわかるが、ここにいてもらちが明かないというのは、僕も先輩と同意見だ。

「早く来い!」と、先輩の怒鳴り声がする。

僕は、「大丈夫、必ず帰ろう」と言って、晴斗の手を引いた。


僕と晴斗は先輩の五メートルほど後ろを、ただ無言でついていく。

しばらくして晴斗が、囁くように話しかけてきた。

「なあ、お前、記憶が飛んでるんだよな? どこまで覚えてる?」

「えっと...この森に入るまでのことしか覚えてない」

「廃屋のことは?」

「廃屋...覚えてないな。僕たち、そこにに行ったのか?」

晴斗は一層顔をこわばらせて、頷く。

どうやら、僕らは目的地である廃屋にはすでに行っていて、帰りの道で事故を起こしたらしい。

「さっきからうるせえぞ、黙って歩け!」

僕らの声が聞こえていたらしく、先輩から怒号が飛んでくる。

晴斗はびくりと体を震わせ、さっと下を向く。

月明かりが淡く晴斗を照らすと、その額から汗がだらだらと流れているのが見えた。その様子は、先輩におびえているにしては過剰というか、少し異様に思えた。

晴斗は何か言いたげな様子だったが、先輩を気にして、仕方なく黙っているようだった。




夜がすっかりと更けた頃、先頭を歩く先輩が口を開く。

「着いたぞ」

目的地もなく歩いていたはずなのに、一体どこに着いたというのか。

その言葉に少し違和感を覚えながら、茂みの先に行くと、古びた小屋のような建物があった。

それを見た晴斗は、悲鳴をあげて僕の肩に抱きついてくる。

「は、廃屋...俺たちが行った...」

晴斗は恐怖に震えた声でそう言った。

なるほど、これが僕らが行った廃屋か。

確かに禍々しい雰囲気がある。

でも、今の僕は心霊的恐怖よりも、ようやく知っている場所に着いたという安心感の方が勝っていた。

「こっちに来い」

神谷先輩に言われ、小屋の裏側へ回ると、井戸があった。円形に積み上げられた石の側面には苔が生えており、何年も手入れがされていないことがわかる。

「お前ら、これで中を覗け」

神谷先輩はニヤニヤと笑いながら、懐中電灯を僕の足元に放り投げる。

さっきまでは比較的おとなしかったのに、事態が好転した瞬間、僕らを怖がらせて楽しむことに気持ちを切り替えている先輩は本当に狂っているなと軽蔑する。

殴られるのも嫌なので、仕方なく懐中電灯を手に取り、一歩ずつ井戸に近づく。


後ろでは、晴斗が僕の名前を悲鳴に似た声で叫んでいる。

何がそんなに怖いのか。

その時の僕は、異様なまでに怖がっている晴斗にすら少し腹立たしさを感じていた。






一歩。




また一歩。






井戸の手前で僕は足を止めた。

懐中電灯の光を井戸の中に向ける。


その時、何者かが僕の背中を強く押した。

前のめりになった僕は、視界が井戸の中に吸い込まれるように落ちる。



声にならない悲鳴をあげながら、頭から垂直に暗闇の中に入っていった。

それと同時に、抜け落ちていた記憶が脳裏に戻ってくる。



———数時間前、僕たちは目的地であるこの廃屋に着いた。そして、井戸を見つけた神谷先輩は、晴斗に井戸を覗くよう命令した。

先輩は、井戸の中を覗く晴斗の背中を押し、落ちまいと必死で耐える様子を面白がっていた。先輩は加減のわからない人で、井戸の縁を握って抵抗していた晴斗が、少しでも手の力を緩めていれば、そのまま落ちていただろう。

あるいは、僕が先輩を井戸に突き落とすのがもう少し遅ければ、晴斗は力尽きて手を離していたかもしれない。


井戸は想像よりもずっと深かった。

先輩が落ちてから少しの間を置いて、グチャリという音が響き、井戸の底に水がないことが分かった。


僕と晴斗は、暗黙のうちにその場から離れ、逃げるように山を下った。

その道中で、事故が起きたのだ。

本当に、ハンドルを取られての事故だったのだろうか。






意識が途切れる直前、井戸の底で、先輩と目が合った。









  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

なんで うもー @suumo-umo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ