第8話

「おはよう、アレックス!」

 翌日、朝の散歩でもしようとテオに会いにきたアレックスは、熱烈な水掛けを受けた。テオに会うときは、必ずといって良い程濡れるため、アレックスは、もはやテオの部屋にタオルを常備するようにしている。

「冷たくて目が覚めたよ」

 座って顔を拭くアレックスの隣に、テオが這いずってくる。 

「アレックス、君は、僕の隣にいてくれるんだね」

 アレックスの顔を見上げて、テオは嬉しそうに笑う。まだポカポカと夢心地になっている目を見て、アレックスは濡れたタオルをテオの顔に押し付けた。

「さてはお前、まだ寝惚けてるな」

「うーん……」

 ゴシゴシとテオの顔を拭くと、テオは目を瞬かせた。

 昨日、リックが帰る頃にはすっかり日が傾いていた。リックは、結局、テオと完全に打ち解けることはなかったものの、お礼の一言を言えたのは、大きかったらしい。あれ以降、テオの目を見るようになっていた。

 この館で過ごしていたテオは、自分と壁を作らずに接する人間に慣れてしまっていた。長老やリックのように、あからさまに触れ合いを拒絶する人間に、面食らったようだ。昨夜は少し、眠りにつくのが遅かった。アレックスがテオの部屋を後にしたのは、いつもより大分遅い時間だ。

「タオルの感触って、好きだなあ」 

 湿ったタオルに頰ずりして、テオは水中に入っていく。透明な水の中で、タオルを持ったままくるくると優雅に回った。

「知ってるかい? アレックス。こうやって泳いでいるときは、水の中でもタオルはふわふわなんだ」

「それは、俺も味わいたいな」

「なら、おいでよ」

 アレックスは、躊躇いなく水の中に足先を付けた。ひんやりとした冷たさに、目も頭も冴えていく。朝日に煌めく水面と、揺れる紫の尾が美しくて、最高の朝だと思った。

 しかし、アレックスが今まさに水中に入ろうとした時、背後から勢いよく扉を開ける音がした。

「君達! 来たまえ! うるさいのが来たぞ!」

 目の下に隈を作り、髪を振り乱したクリスが面倒くさそうに吠えた。彼は、下半身は寝間着で上半身はシャツ、靴は左右逆に履くという、何ともちぐはぐな出で立ちだ。

(今起きたところだな、これは)

 クリスはボリボリと頭をかいて、まだ腫れの残る頬を労りながらあくびをした。

「ノアが応接室に通したから、行ってやれ。二人に用があるらしいからな、私は喜んで二度寝するとも」

「待て、誰が来てるんだ?」

「長老さ」

 これ幸いとばかりに、クリスは言い逃げして去っていく。

(よっぽと長老と会うのが嫌なんだな。まあ、殴られたわけだから、それも仕方ないか)

 とはいえ、アレックスとて長老と会いたいわけではない。殴られたクリスを目の当たりにしている上、長老の身に纏う、怒気を孕んだ厳格な空気には気圧される。リックに避けられて落ち込んでいたテオを思い出すと、人魚と関わってはいけないなんて、馬鹿げた話を頑なに信じている長老に、腹立たしさも覚える。

(でも、『二人に』用があるんだよな。俺だけじゃなくて)

 わざわざテオに関わろうとするのは、長老の信仰から外れた行いのはずだ。そうまでして来た用とは何か、アレックスは気になった。

「テオ、行くか」

「うん」

 腕を伸ばしたテオを抱きかかえる。濡れてひんやりとした肌が、ぴっとりと服にくっつく感触が心地良い。アレックスは無意識に腕に力を込めて、きゅっと抱え込んだ。気付いて上を見上げたテオと目が合って、急に恥ずかしいことをしてしまった気分になる。テオは目をぱちくりさせた後、はにかんでまた俯いた。

 応接室には、困ったような面持ちのノアと、長老一人だけがいた。昨日連れていた男達は、どこにもいない。ノアは、アレックスとテオを出迎えると安堵の表情を浮かべ、耳打ちした。

「何かあったら叫んで下さい。すぐに行きますから」

「人を化物のように言うな!」

「ひい、ごめんなさい」

 長老に怒鳴られると、幼い子供のように背中を丸めて、そそくさと出ていく。つくづくこの島の住人は、この老人に弱いようだ。

 長老はアレックス達が入ったのを確認すると、まず膝立ちになり、一礼した。テオはアレックスの腕の中で、何とも居心地悪そうにしている。

 テオをソファに座らせようとすると、彼はアレックスの腕を引っ張って止めた。

「僕も床で良いよ」

「……」

 言われた通り、アレックスはテオを床に降ろして、自分も隣に腰を下ろす。ちょうど、長老と同じくらいの目線の高さになった。目の前にいる長老の眉間のシワが、深くなった気がした。

「それで、今日はどんなご用で?」

「頭ごなしにするなと言っても、理解はできまい」 

 アレックスの言葉に、長老は顔を上げて、低く、唸るように声を出した。

「我々が、なぜ人魚を信仰し、関わらないようにしているのか。あなた方に伝えようと考えた。あなた方は外から来て、この島の歴史を知らない」

「それって、人魚が人間を助けたっていう昔話のことかい?」

 テオが言っているのは、リックが昨日見せてくれた本の内容のことだ。アレックスも、島の歴史と聞いて、すぐにそれを思い出した。

 しかし、長老はゆっくりと首を振った。

「リックが来たという話は知っている。しかし、あれはまだ子供だ。子供向けの話しか知らない」

 宗教でも何でも、子供に理解しやすいよう話を簡略化するのは、よくあることだ。アレックスも、幼い頃に身に覚えがある。

「子供向けだと、何が違うんだ?」

「それを伝えようと思っていた。お前さん、あの本をノアに読ませてもらったんだろう。人魚は人間を助け、富を授けてくれた存在だ……だが、現実はそんな綺麗事だけでは終わらない。欲の出た人間が、人魚を害し始めたからだ」

「なんだって?」

 アレックスは思わず聞き返した。害したなどとは、穏やかではない。

「これが、真実だ。島の人間は、助けられた恩がある手前、まともな者も多かった。だが、交易を通して、島の外と交流が増えるにつれ、島の外から良からぬ誘惑をする者、欲深い者が流入し始めた。その多くは商人だ。奴らにまんまと言い包められ、欲に目がくらんだ愚か者は、人魚の財宝を必要以上に欲するようになった。さらには、人魚そのものを売り物にしようなどという、不届き者も現れ始めた」

「僕らを売るって? 僕らは売れるのかい?」

「人の間には、こんな話がある。人魚を喰らえば不老長寿になり、どんな病もたちどころに治り、美貌すら思いのままだ、と」

 喰らう、と聞いたテオがサッと顔を白くして、身震いする。アレックスは、テオを食べる等という発想は一度も抱いたことがない。けれども、青ざめたテオを見て、何とも後ろめたい気持ちになった。人間の嫌な所を彼に知ってほしくなかった。

「もちろん、島民のほとんどは人魚を守った。だが、それでも歯車は正されなかった。人魚と愛を誓っていたはずの男が、変わってしまったからだ」

 アレックスは、これ以上この話を聞かせていたら、テオに嫌われるのではないかと焦り始めた。

 長老は話をやめることはない。

「男は……人間の女達に、心を奪われるようになった。女達が、本当に男を愛していたのか、人魚の肉欲しさに男に近づいたのかは、わからない。だが、男は日夜酒色に耽溺するようになった。人魚は……人間に強請られ、狙われ、想い人を奪われ、苦悩や愛、嫉妬、怒りに心を蝕まれていった。追い詰められた人魚は、ある時、愛した男の目の前で、男と関係を持っていた女達を、一人残らず食い殺してみせた。これが、人食い人魚のはじまりだという」

 長老は長い溜息を吐くと、眉間にシワを寄せて目を閉じた。  

「純粋な善意しかなかった尊い存在に、愛欲を抱かせ、憎悪を抱かせ、殺意を抱かせ、悪魔にしてしまった。その原罪は、我々人間なのだ。同じ過ちを繰り返さないために、我らは語り継いできた。人魚と関わってはならない、と」

 アレックスは、テオを盗み見た。テオの顔色は、血色こそいつもと同じに戻ったものの、唇は引き結ばれ、大きな目はまっすぐに長老を見つめて、何を考えているのかわからない。

 たかが昔話だと軽んじることは、いくらでもできる。けれど、アレックスは、話に出てくる男に怒りを覚え、同時に、自分のことを言われているわけでもないのに恥ずかしくなった。そんなアレックスを見透かすように、長老は目を眇めて、こちらに胡乱げな視線を向ける。

「お前さんは、身勝手な人間だな。周りのことなど考えずに、ここまで来ただろう。そんなお前さんが、自由を盾に、この先人魚を裏切らないと、どうして言える? 初めはお互い、楽しいかもしれない。しかし、それも長くは続かない。今が楽しいと感じるなら、今離れるべきだ」

 自由奔放で甘やかされている、というのは良く言ったものだ。わがままだとか、身勝手だとか、そう言った評価は今に始まったものではない。アレックスは、それらの評価を一笑に付してきた。しかし、長老から見れば、それは十分に、危険な存在と判断するに足る材料だ。

 それでも、アレックスは、自分はそんなことにならないと否定したかった。否定したかったが、長老を説得できるような言葉は、咄嗟に思い付かなかった。

「待って!」

 アレックスが考えあぐね、無言になっていると、扉の方から声がした。

 見れば、扉を細く開けて、リックが上半身だけ突き出している。背後ではノアが、心配そうに顔をのぞかせていた。

「長老にお話があると訪ねてきたので、案内しました」

「待って、長老さま。僕、今すぐにでも聞きたいことがあるんだ」

「……リック、今は大事な話をしている」

「僕も大事なことなんだ! 長老さま、僕、昨日から急に気になっちゃって。人魚が望むことを否定するのは、本当に人魚のためになるの? だって、人魚は一人だけじゃないんでしょう? 色んな人魚がいるのに、どうして必ず、人魚を不幸にするってわかるの?」

 矢継ぎ早に捲し立てるリックは、昨日と同じ本を胸に抱いている。 

「必ず人魚が不幸になるかはわからない。が、不幸にならないともわからない。可能性としては、不幸になる可能性の方が、はるかに大きい」

「そう? そうなのかな……」

 リックは戸惑ったように眉を下げて、テオの顔を見つめた。テオはリックの顔を見つめ返すと、ふと、唇の端に柔らかな笑みを浮かべる。彼は恐れなど微塵もない、爽やかな笑顔で、長老を振り返った。

「長老、僕はやっぱり、帰らないよ。それで僕が苦しんでも、君達を恨んだりはしない」

 さっぱりとした物言いに、長老は低く呻いた。

「それに、アレックスを身勝手だと言うけれど、きっと僕は、その身勝手さのおかげで今楽しいんだ」

 アレックスは、テオの言葉にドキリとする。胸のわだかまりがスッと融けた気がして、ようやく声を出すことができた。

「テオのことを想っての言葉なんだろうが、それでも、結局はテオが決めることだ。他人の行動を制限することはできない。俺が誰かを不幸にするかは、まだわからないが……忠告として、肝に銘じておくよ」

 長老はさらに低く呻くと、苦々しそうに唇を結んだ。何も言わなくなった長老の顔色を、リックはハラハラしながら窺っている。しばし、沈黙が続いて、時計の秒針だけがやけに響いた。やがて、長老は打つ手なしと諦めたのか、深い、深い溜息を吐き出した。

「そうだ。忠告はした」

 長老はのそりと立ち上がると、首を振ってアレックスをきつく睨み付ける。

「我々は、過去の恩と罪のもと、人魚を不幸にする者をゆるさない」

 物々しい雰囲気に、アレックスが唾を飲み込んで何も言えずにいると、テオがトン、と腕に手を触れさせた。テオは長老に微笑みかけている。長老は、拳を握り締めると背中を向けて、ノアとリックを押し退けて部屋を出ていった。ノアが慌てて見送りに付いて行く。リックもその背中を追いかけようとして、一旦動きを止め、扉の隙間から顔を出した。リックは疲れを滲ませながら、ニコリと笑いかけて、再び姿を消した。

「リックは、僕のことを受け入れてくれたんだろうか」

 テオが優しい笑みを浮かべて、誰もいなくなった扉の隙間を見つめている。

「僕と友達に、なってくれたのかな」

 どこか嬉しそうな声色に、アレックスも嬉しくなったが、同時に胸の詰まる想いもした。

「テオ、俺もテオの……」

 友達だろ、と続けようとしたが、アレックスは言葉を飲み込んだ。気恥ずかしさも、もちろんある。けれど、自分でもよくわからない何か別の衝動が、言葉を押し留めた。この衝動は、友達という言葉を使うことへの照れ臭さだけではない気がした。

 

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