第9話

「見てくれ!」

 クリスが爛々と目を輝かせて、テオの部屋に飛び込んできた。中にいた二人は何事かと思い、読んでいた本から顔を上げる。アレックスは、服の袖や裾を捲くりあげ、膝から下を水場に浸している。その隣では、テオが同じくタイルに上がり、のんびりと尾びれを揺らめかせていた。クリスは二人の間に割って入り、鼻息荒く、手に持った瓶を突き出して見せてくる。中には瑞々しい生肉の欠片と、テオの鱗が一枚入っていた。奇妙な組み合わせだが、ここに何ら芸術的な意味はない。

「一週間経っても肉には何も変化がない! 成長過程にある人魚の鱗は、素晴らしい保存料だ」

 人魚は秘薬に、成長途中の鱗を入れる。その理由を探るため、クリスは実際に、テオの鱗で実験していたのだ。

「成長の終わった鱗を入れた方は、腐って酷い匂いだった。人魚は自分の鱗が、こんなに強力な保存料になることを知っていて使っているのか?」

「さあ……? 僕は、生えかけの鱗を入れておくと長持ちするし、誰の薬かわかるからとしか、教わらなかったよ。でも、詳しい人魚はいるかもしれないね」

「そんな人魚がいるなら是非とも話を聞きたいところだ。テオ、鱗をもう一枚貰えないか」

「おい、もうやめておけよ。テオの身体の一部なんだぞ」

 苦い顔をして、アレックスは止めに入る。テオも眉をハの字にして、僅かに身を引いた。

「そんなにあげたら僕、はげてしまうよ。剥がすのってちょっと痛いし」

「そうか……」

 クリスは呆然とその場で固まった。彼がどういう心境なのか、二人にはまるでわからない。

「じゃあ、鱗をもっとよく見せてくれ。ついでに身体も」

「それなら良いよ」

 その場で仰向けに寝転んだテオの横で、クリスはワクワクと何かの機器を組み立てている。機器を体にあててみたり、口腔内を弄ったりしているクリスを横目に、アレックスは長い息を吐いた。こんな光景は、日常茶飯事だ。

「やはり、テオの歯は鋭いが、これで人間の骨肉が噛みちぎれるかは些か疑問だ。指の骨くらいなら、いけるかもしれんが……とすると、人食い人魚はまた発達の仕方が違うのかもしれん」

「生活の仕方も違うみたいだしな」

 こうして共に過ごしているうちに、自然とアレックスは、クリスの蘊蓄を聞く機会が増えて、人魚に多少詳しくなった。

 テオが人間を食べないのは、人魚にも食の好みがあるからだ。アレックスが出会った人食い人魚は、人間を好んで食べているが、それ以外の人魚は人間を食べない。テオ曰く「人の血の匂いに食欲を唆られない。小魚の方が美味しそうに見える」のだと言う。船が襲われた時、人食い人魚が言葉を話しているように見えたが、実際は少し違う。人食い人魚の殆どは、理解して喋っているわけではなく、獲物を誘うために人の言葉を真似したり、歌を歌っているだけなのだ。

 のんびりと、されるがままになっているテオは、クリスの声を気に留めず、アレックスに視線を投げかけた。

「アレックスは、僕の鱗を大切にしてくれるんだね。人間にとって、人魚の鱗が宝になるっていうのは、本当かい?」

「そういう話はあるな。実際に俺もこの目で見てからは、その話に納得したよ」

「どうして?」

「綺麗だったから」

 テオは目をぱちくりさせて、ふうん、と一言、声を漏らした。自分の尾を垂直に上げてユラユラ揺らして、じっと見つめてから顔を綻ばせる。

「アレックスは、この色が好き?」

「ああ、好きだ」

「そうか! 嬉しいな。鱗がこの色で良かった」

「その色は親譲りなのか?」

 アレックスは、頭に浮かんだ疑問をそのまま口にした。海で出会った人食い人魚が、テオとは違う鱗の色をしていたことを、思い出したからだ。人食い人魚達は、黒や深緑色など、暗く濁った色が多かった。

「お母さんのこともお父さんのことも、別れたのが随分前だから、もう覚えていないよ」

「そうか……」

 まずいことを聞いてしまったかと、きまり悪く思っていると、クリスが唐突に口を挟む。

「一般的な人魚にとって、親の存在は人間ほど重要じゃないんだ。私が思うに、鱗の色は遺伝的な影響によるものではない。人魚の見た目は遺伝よりも、生まれた場所に影響される。おそらくテオは、透明度の高い、暖かな海で生まれたんだろう」

「なるほど」

 人食い人魚達は、人魚らしい美しさこそあったものの、あの霧がかった荒れた海域に似つかわしい、どこか毒々しい美しさだった。あそこにテオがいる光景に、どこかピンと来なかったアレックスは、一人納得した。

 テオの体を調べていたクリスが、ポツリと呟いた。

「ふむ、やはり中の構造が気になるな」

「中って?」

「内臓さ。死なないなら、体を切り開くという手もあったんだが」

 何気なく放たれた言葉を聞いて、テオはゾッとしたように飛び上がると、水に飛び込んで、アレックスの足元まで逃げてきた。ふくらはぎをヒシと掴まれたアレックスが、呆れた視線をクリスに向けると、彼は困惑しつつも否定する。

「怯えなくとも、しないぞ。痛い思いはしたくないだろう? 安心したまえ」

「解剖ってやつだろ? そういうのは、死んだ生き物にするものなんじゃないのか?」

「できないんだ。人魚は死ぬと泡になるから、遺体が残らない」

「そうなのか?」

 驚いたアレックスがテオを見ると、彼は小さく頷いた。

(人魚っていうのは、本当に不思議な生き物だな)

 アレックスは、水面の下で揺らめくひれと、上半身との境目あたりを観察した。はっきりとした境界があるわけではなく、皮膚から徐々に鱗へと変化している。その向こうにある臓器が人間と同じなのか、魚と同じなのか、考えれば考えるほど、わからなくなる。

 クリスは寂しそうに唇を尖らせ、その場から動かずテオに問いかけた。

「だからこそ、言葉で聞き出すのは貴重な情報源なわけだ。テオ、人魚と人間で生殖できるか、君は知っているか?」

 テオはしばし考え込んだあと、ゆっくりと首を振った。

「人魚って、どうやって子供を産むんだ?」

「海には、人魚の巣、または人魚の洞窟がいくつもある。詳しくはわからんが、人魚はそこに籠もって卵を宿すようになるらしい。卵に精子をかけて受精させ、子宮に似た器官で育てるとされている……が、解剖したことがないから、生殖器官がどうなっているのか、正確なところはよくわからん。テオは知っているか?」

「僕、あんまり卵持ってる人魚に会ったことないから、よく知らない。何でそんなこと聞くんだい?」

「この島にもあるように、人魚と人間の恋物語や、両者の間に子供が生まれるという伝承は、珍しくない。私は人魚の生殖方法に、大いに興味があるのだ!」

「何で?」

「それはだな……」

 クリスが続けようとした時、ガチャリと扉が開いて、ノアが顔を出した。三人に見つめられた彼は、恥ずかしそうに頭をかいた。

「あ、皆さんお揃いで……博士、ちょっと良いですか? 来客なんですけど、通して良いのか判断がつかなかったので、玄関前で待ってもらっているんです」

「面倒だな。まあ良い、行こう」

 クリスはサッと立ち上がり、ノアと共に出ていった。残った二人は顔を見合わせて、どちらからともなく微笑んだ。閉じていた本を再び開くと、再び水から上がったテオが、肩越しに覗き込んできた。

 アレックスは、テオと館の裏を二人で散歩したり、この部屋で本を読んだり、喋ったりしながら毎日楽しく過ごしていた。恩人でもあるこの未知の生き物に興味津々だったし、テオもまた、この友好的な人間に、ここぞとばかりに好奇心の矛先を向けていた。先日の一件があってから、たまにリックもおずおずと遊びにやってくる。距離をとりつつ、テオと話すリックの姿を、クリスは不思議そうに見ていた。

 特に、海では読めない紙の書物は、テオにとって面白いもののようだ。うっかり水を跳ねかしたり、濡れた手で触ってしまったりしてどうしても紙を濡らしてしまうので、アレックスが代わりに捲っている。

「テオは喋るより、読み書きの方が得意みたいだな」

「海には人間の落としたものがたくさんあるから、皆喋るよりも先に覚えるんだ。人間は、どうしてあんなに海に落とし物をするんだい?」

「……多分、落としたらもう拾えないからだ。人魚は普段、人間と同じ文字を使っているのか?」

「使うというより、読むだけさ。昔から人魚文字はあるけど、使う機会があんまりないし、指笛でも意思疎通がとれるから、人魚文字を忘れてしまった人魚は多いと思う」

 そういうテオは、忘れていない人魚だ。アレックスもほんの少し教えてもらったが、使いこなせる日は遠い。二人が顔を突き合わせて和やかに話していると、扉が少しだけ開いて、クリスが声をかけた。

「アレックス、君に客だ」

「俺に?」

 怪訝に思ったが、アレックスは仕方なく重い腰を上げた。テオの前にタオルを広げて、その上に開いた本を置いて部屋を出ると、そこに立っていた顔を見て呆けた。

「ジュリー?」

「アレックス様、人魚には会えたかしら? お迎えにあがりましてよ」

 ジュリーは愛くるしい笑みを浮かべた。

 アレックスはこの館に来てから、ジュリーに手紙を一通出していた。さすがに船があんなことになった後、消息不明となるのはまずいと思ったのだ。テオのことは伏せて、命を救われたことと、しばらく滞在することのみ知らせたのだが、まさか彼女が直接赴いてくるとは、夢にも思っていなかった。大事に育てられた箱入り娘であるはずの彼女が、こんな辺鄙で怪しげな島に来ることなどないと、思い込んでいたのだ。

「まさか、一人で来たのか?」

「付き添いはもちろんいるわ。けれど、多すぎたかしら? ここまで通されたのはわたくしのみ……」

「古いし小さな家だ。仕事場でもある」

 ボソリとクリスが呟いた。ジュリーは笑みを湛えたまま、小首を傾げた。

「アレックス様、お体はいかがかしら? お困りかと思って、わたくし、無い船を探してここまで急いで参りましたの。こんなに不便で長い船旅は初めてで、とても面白かったわ。アレックス様は、何をなさっていたの?」

 そう言って、細く開いていた扉の方へ視線を走らせる。アレックスとクリスはぎくりとして、さり気なく扉を閉め切ろうとした。

(テオは警戒心が低すぎる。やたらめったら人に会わせるのは、危険だ)

 ところが、ドアノブを後ろ手に回そうと力を入れる前に、扉は内側から開かれた。

 ジュリーが視線を落として、濃いまつげで縁取られた目を瞬かせた。

「まあ!」

「わあ、人間の女の子だ! 僕、こんなに近くで見たのは初めてだよ」

 後ろから、テオの無邪気な声がした。彼はタイルの上を這ってきて、アレックスの背後から顔を覗かせたのだ。ジュリーは見開いた目をじっとテオに注いでいたかと思うと、三日月型に細め、愛嬌のある笑みでテオに深々と礼をした。

「わたくしも人魚を見るのは初めてですのよ。ジュリーとお呼びになって」

 テオは嬉しそうに尾を一回揺らしたが、クリスとアレックスは顔を見合わせて、諦めの表情で溜息を吐いた。

 ジュリーをテオの部屋へ通すと、彼女は一瞬、躊躇った後、水辺に腰を下ろした。長い裾が水を吸って、色が濃くなる。アレックスは、彼女が濡れたタイルの上に、すんなり座ったのを意外に思った。

(あの母親が見たら発狂しそうだな)

 彼女はアレックスのように興奮するわけでも、クリスのように興味の眼差しを向けるわけでもなく、友人と世間話でもするかのような気軽さと穏やかさで、テオと話している。誰とでも卒なく親交を深められるところは、彼女らしい。

「へえ、ジュリーはアレックスの婚約者なんだ。婚約者って何だい?」

「結婚の約束をした者のことですわ」

「結婚って、つがいになるってことだろう? 人間のつがいは愛し合って子供を作るんだよね。じゃあ、二人は愛し合ってるのかい?」

 ジュリーは、それを聞いてコロコロと笑った。

「わたくし、アレックス様をお救いしたから婚約者になったんですのよ。だけど、ねえ? アレックス様ったら……」

 可笑しそうに笑うジュリーは、アレックスを上目遣いで見上げて、意味ありげに小首を傾げる。彼女には既に、テオに二度、命を救われたことを話してあった。クリスはジュリーと同じく、アレックスを発見して連れ帰った人間であり、ノアは手厚く介抱してくれた人間だ。

「これではテオ様とクリス様、外にいらっしゃるノア様も、婚約者候補になってしまうわねえ」

 この言葉を聞いた途端、その場にいた誰もが微妙な表情になった。テオは怪訝そうに首を傾げ、アレックスは複雑な面持ちになり、クリスは苦虫を噛み潰したような顔をする。

「ジュリーと言ったか? 気味の悪いことを言わんでくれ」

「僕は別に、アレックスとつがいになりたくて助けたわけじゃないよ」

 そこまではっきり言われると、さすがのアレックスも、胸に棘が刺さった心地になる。この場にいないノアを思って心を慰めようとしたが、彼の困ったように嫌がる顔がありありと目に浮かんだので、これ以上、傷を深めないよう頭から追いやった。

(それにしても……ここに居づらくなったな)

 ジュリーが来たからには、アレックスは帰らないという選択肢を選びにくいのだ。十中八九、彼女は両親から命じられて来ているため、連れ帰らなければ彼女が怒られるだろうことは、想像に難くない。いかに自由奔放なアレックスといえど、わざわざここまでやって来た婚約者を追い返すほど薄情ではない上、あの母親にネチネチと怒りをぶつけられるのも気の毒だ。

 ジュリーは、旅の疲れを理由に数日、人魚島に滞在して、アレックスを連れて帰るつもりだった。クリスが仕方なく、彼女のみ館に泊まることを許したため、話し相手の増えたテオは喜んでいる。別れの気配を感じたアレックスは、胸に穴が空いた気分になっていた。彼は、できることなら、まだ帰りたくなかった。

「わたくし、アレックス様の婚約者として、今回の船旅を完遂させたいの」

「えっ、アレックス、帰ってしまうのかい?」

 残念そうにテオが呟く。しょんぼりと肩を落としている様を見ると、アレックスも心が痛んだ。気まずい空気の中で、ジュリーがじっとテオを見つめていることに気がつく者は、誰もいない。

 ふと顔をあげた彼女は、思いもよらない提案を持ちかけた。

「テオ様、わたくし達と一緒にいらっしゃらない?」

「え?」

「アレックス様を助けてくださったんですもの、お礼がしたいわ。我が家に招待させてくださいな」

「おい待て。私はまだテオを帰したくないぞ」

「クリス様も、ぜひいらしてください。皆様、大切な恩人ですもの。ええ、それが良いわ。ご馳走を、たんとご用意しますね」

 にこやかに言うジュリーに、テオは遠慮がちに目を輝かせて、クリスは唸りながら彼の様子を観察している。

「僕、行きたいな」

「ええ、歓迎致しますわ。ね? アレックス様」

「あ、ああ……」

 一体どういうつもりなのか、アレックスにはジュリーの考えが、さっぱりわからない。突然の展開に困惑しつつも、テオともうしばらく共にいられることの喜びの方が勝り、彼は気がつけば頷いていた。

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