第10話




 行きとは違って、安全な航路ではその分、到着まで時間がかかる。長い船旅の最中、ジュリーはテオと、昔からの友のように親しくし、クリスはそんな二人の周りをウロウロと徘徊していた。ノアに館の留守を任せてきたため、彼の不審な行動を止める者はいない。

 人魚島を出て数日後、彼らをのせた船は、懐かしの港へ帰ってきた。アレックスは港に着くと、まず、車と服を手配した。テオの安全を考えると、彼を大衆の目に晒しながらジュリーの家へ案内するのは得策ではない。人魚など見たこともない人々は、好奇の目を隠しもしないだろう。好奇だけならまだ良いが、世の中には、人魚を魔物だと考えている者も少なからずいる。女性用のカジュアルなワンピースに尾びれを隠し、頭には日除けの帽子を被せて、できるだけ目立たないように車で移動する算段だ。

 船の中で服を着たテオは、動きづらそうにしながらも大喜びしている。

「人間の服を着たのなんて、初めてだよ! わはは! 面白い!」

 パタパタと尾びれが揺れるので、その度にスカートの裾から、きらめく鱗が見え隠れする。アレックスがテオの下半身にブランケットをかけて抱え上げようとすると、ジュリーが窘めた。

「アレックス様、仮にも女性の姿をした方をわたくしの前で抱き上げるのは、どうかと思うわ。付き人に頼みましょう」

 淡々とした口調だったが、アレックスは微かに煩わしさを感じた。ジュリーに対してというより、婚約者という存在に対してだ。ジュリーの言っていること自体は、世間一般では、当然のことだ。とはいえ、アレックスはそう易易と、テオを知らない人間の手に任せたくはない。話を聞いていたクリスが、横から肩を叩いてくる。

「私がやろう」

「できるのか?」

「アレックス、君は誤解しているようだが、こう見えて私は屈強なんだ。ノアが来るまでは、一人で船旅にも出ていた」

 得意気に鼻を鳴らして、クリスは軽々とテオを抱き上げて、車まで運んでいく。アレックスは、何だか負けた気がした。

 車に乗せられたテオの尾びれは、ちょうどドアの死角にあって、外からは見えない。テオは座席の上で、キョロキョロとひっきりなしに辺りを見回しては、クリスに話しかけている。車は、普及してまだ歴史も浅く、年々進化をし続けている、海には決してない代物だ。人魚にとっては、尚更物珍しいのだろう。

 アレックスがジュリーのことも忘れて二人を見つめていると、突然、驚きの混じった声が彼を呼んだ。

「……おい! あんた! アレックスだったか? そうだよな!」

 声の方を見ると、何となく見覚えのある男が、垂れ目を見開いている。どこにでもいそうな中年男だ。

(……ああ、思い出した)

 彼は人魚島へ行く時、港で話しかけたことのある男だ。名をトマスと言い、船が襲われた際は、操舵手を守ろうと奮闘していたのだった。あの時は全員が混乱の渦中にあり、誰が海へ落ちても、気にしている余裕がなかった。命からがら船で海域を抜け出してから、船員達は、知り合ったばかりの顔ぶれが半数以上減っていたことを思い知らされたのだ。

「船は無事だったのか」

「無事ではねえ! 沈んじまった! 沈んだのが港につく直前だったのが、不幸中の幸いだ。俺達は、あの死線をくぐり抜けた戦友さね」

 トマスは周囲に集まっていた生き残りと顔を見合わせて、肩を組んだり背中を叩きあったりしている。額に浮かぶ汗を拭い、フウ、と深い溜息を吐き出して、アレックスにも労りの眼差しを向けた。

「お前さん、もう死んじまったかと思ってたよ。よく生き延びたなあ、大変だったんだろうな。俺ぁはもう、人魚で一儲けしようなんて夢を見るのは懲り懲りだ」

 トマスの背後で、何人かがしみじみと頷いている。皆、あの日船に乗っていた者達だ。

「にしてもアレックスよ、どうやって生き延びたんだ? バートから聞いたが、船から落ちたんじゃなかったか。おい! バート!」

 トマスが叫ぶと、人混みの中からひょっこりとバートが顔を出す。彼はアレックスを見た途端、驚愕で身を固くして、早足で駆け寄ってきた。

「アレックス!? 生きてたのか! どこにも姿が見当たらないから、もう死んでるもんだと思ってたよ」

「今、帰ってきたところだ」

「どうやってあそこから生きて帰ってこられたんだよ。また人魚に助けてもらったんじゃないだろうな?」

 ニヤッとするバートに、アレックスは曖昧な笑みで誤魔化した。

「色々あって、流れついたところを島の人に助けてもらったんだ」

「人魚島に辿り着いたのか!」

「しばらく海辺の家で、療養させてもらっただけだ」

 適当に言葉を濁すアレックスに、彼らは不思議そうにしつつも、とりあえず納得したのか、労りの言葉をかけてくる。バートだけが目を眇めて、アレックスの様子を注意深く窺っていた。

(見たところ、生き残ったのは商人ばかりだな。テオみたいな人懐こい人魚を紹介するのは……まだ、やめた方がよさそうだ)

 脳裏に、長老の語った昔話が過った。

 商人の中には、金になるなら何でもやるような人間もいる。顔の広い父のおかげで、色々な商人に囲まれて育ってきたアレックスは、そういう人間を何人も見てきた。そういう人間は大抵、最初は善良な見た目を装って近付いてくる。たとえ本当に人情を持っていても、いざとなれば利益を取るのだ。

「アレックス、あっちの車にいる二人は、お前の連れだろ? 人魚島から来たのか?」

「ああ……」

 目ざとく背後の車へ顔を向けたバートは、興味津々といった風だ。テオに注目が集まるのはまずいと考えて、アレックスは、仕方なくクリスを呼び寄せた。クリスは怪訝そうにやってきて、アレックスを取り囲む集団を見回している。

「島で俺を助けてくれたクリスだ。人魚について研究しているらしい」

 周囲はこの言葉に色めき立った。トマスをはじめとした男達の輪は、アレックスからクリスに移り、感動のあまり彼をもみくちゃにし始める。

「おい、なんだ……」

「あんたが人魚博士か!」

「俺達ぁ、あんたに会いたかったんだよ、先生!」

「人魚の話を聞かせてくれよ!」

 彼らは夢を追いかけるのに懲りてはいるものの、興味だけはまだ捨てきれていなかったようだ。もみくちゃにされているクリスを横目に、バートがアレックスの耳元で囁く。

「アレックス、あっちの娘さんは誰だ? 博士の連れか?」

「まあ、そんな感じだな」

 適当に頷くと、話し相手がいなくなってつまらなくなったテオが、偶然こちらを向いた。彼は目が合うと、帽子の下でニコリと嬉しそうに微笑みかける。隣でバートが、ヒュウ、と感嘆の声をあげて手を振った。

「美人だな」

「……」

 アレックスは嬉しいような、腹立たしいような気分になって唇を引き結んだ。数秒の沈黙が流れていると、背後からジュリーが腕を絡ませてくる。

「アレックス様、そろそろ出発致しましょう。日が暮れてしまうわ」

 今の彼女の言葉は、アレックスにとって助け舟だったが、頷くより先にバートが口を挟んだ。

「ああ、あんたがアレックスの婚約者か。贈り物は貰えたか?」

「あら、贈り物って?」

「バート! あれは海で流されたんだ!」

「おお? そうか、余計なことを言ったな」

 ニヤニヤと笑って、バートは両手をあげる。贈り物――あれは、テオの秘薬について、バートからの追求を逃れるためについた嘘だ。話がややこしくなる前に、アレックスはクリスを救出して集団から離れた。クリスはどことなくボロボロになっていたが、元気は良さそうだ。三人が車の前に戻ると、身を乗り出したテオがキラキラと目を輝かせていた。

「ここは賑やかだね! アレックス、ジュリー、街を見たいんだけど、できるかい?」

「そういうことでしたら、遠回りで我が家へお越しくださいな。案内はアレックス様がなさると良いわ。わたくしは、お母様とおもてなしの準備をしなくてはいけないから、先に帰らなければいけないの。クリス様もお二人と一緒にいらっしゃるでしょう?」

「街に興味はないが、街を見るテオには興味がある」

「では、お二人のこと、よろしくお願いしますね、アレックス様」

 そう言うと、ジュリーは愛らしい笑みで一礼して、ゆったりとした足取りで去っていった。アレックスは、わくわくしているテオをチラリと見て、何となくほっとしたような、後ろめたいような気持ちになった。

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