第11話
三人は、街をぐるりと一周してから屋敷へ向かうことにした。物珍しそうに体をあちこちへ向けるテオと、街ではなくテオを見つめ続けているクリス、そんなクリスを気にもとめずに話しているアレックスは、傍から見れば、とても奇妙に映っていた。おかしな一行が屋敷へ到着すると、中は既に、歓迎のムードが漂っている。
程なくして、ジュリーの母親がにこやかに現れた。いつにも増して、ギラギラした装飾品だらけの服装だ。
「まあ! よくぞお越しくださいました」
夫人は真っ赤な唇を弓状に歪め、派手な笑顔を浮かべている。彼女は大きく開いた目で、帽子に半分隠れたテオの顔をチロリと見た。笑みを深めてテオとクリスに近付くと、親しげに感謝の言葉を捲し立てる。
「あたくし、本当に感激しておりますのよ。高名な博士と人魚に、我が家の将来を担う大切な方を救っていただけたなんて!」
「そんなに高名か? 私は」
クリスは意外そうに眉を上げる。
三人は、それぞれ別の部屋に案内された。アレックスには元々使っていた客室があったため、二人を送ってから部屋に戻る。久しぶりの部屋は、少し埃っぽくなっていた。
(何だか、たった数分で凄く疲れたな)
アレックスはこめかみを押さえ、真っ先にバルコニーへ向かった。煌めく海を視界に捉えて、深呼吸をする。
(海は、こんなに遠かったか?)
この家の暑苦しい装飾品や家具に抱いていた居心地の悪さが、以前よりも一層強く感じられた。廊下も、階段も、室内もそうだ。古ぼけたクリスの館が、ひどく恋しくなっていた。あそこはこの家より遥かに荒れているが、気の良いノアや、自分の興味にただただ熱心なクリス、何より、テオがいる。あの館の一階奥にある扉、そこを開くと、テオが笑顔で出迎えてくれる――そんないつもの光景が思い浮かんで、得体のしれない息苦しさに襲われた。人魚島は、島民の目こそ厳しいが、案外居心地が良かったことに気付く。
(テオは、ここをどう感じてるんだろう……さすがにテオの部屋は、人間用の客室だったな。大丈夫か?)
テオが慣れない部屋で何か壊していないか、不便をしていないか、気がかりだ。アレックスは、急に居ても立っても居られなくなって、身を翻した。テオの部屋へ訪ねて行こうとしたが、廊下の途中でジュリーに見つかって、引き止められる。焦燥感だけで飛び出してきたアレックスが、冷静なジュリーに敵うはずもない。
「皆様、旅の疲れがおありでしょう? アレックス様も例外ではないわ。すぐに食事でお会いできるのだから、今はお休みになった方が宜しくてよ。それに、テオ様の隣のお部屋には、クリス様がいらっしゃるのよ。どうか安心なさって、アレックス様。あなたが今、会いに行くことは、ありませんのよ」
あれやこれやと言われ、トドメにそう説得されて、すごすごと自室に戻らされた。仕方なく、旅の疲れを取るためだと自分に言い聞かせて、一眠りすることにする。ジュリーの言う通り、疲労はいとも簡単にアレックスを睡眠へ誘い、目覚めた頃には、外はすっかり暗くなって、夕食の時間になっていた。
夕食は、大きなテーブルに全員が着席してから始まる。ダイニングには、ジュリーの父、母、ジュリー、アレックス、テオ、クリスの順に席が用意されていた。テオも一眠りしたのか、元気そうな様子で食卓を見回している。
ダイニングの様子を見たアレックスは、ふと心配になって、テオの席を見遣った。テオは椅子に座って、食事をしたことがない。クリスの家には、人魚に適した環境が整っていたため、わざわざ人間と同じ様式で食事をとる必要がなかった。だが、ここではそうはいかない。テオの前に整然と並べられたナイフやフォーク、真っ白な皿を見て、アレックスはジュリーに囁いた。
「ジュリー、テオはテーブルマナーを知らないぞ」
「……わたくしは、食事の好みをお伝えしただけで、あとはお母様が用意しましたのよ」
ヒソヒソと話す二人を他所に、食事が運ばれてくる。当然、ナイフもフォークも、人が使っているのを見たことしかないテオは、きょとんとした顔で、目の前に並ぶ銀色の棒切れを眺めていた。ジュリーの両親はこちらのことなどお構いなしで、ひっきりなしに喋っているため、口を挟んでじっくり説明することもできない。アレックスはこっそりテオに耳打ちしながら、わかりやすいように食器を扱って見せた。ゆっくりとぎこちなく手を動かすテオは、傍から見れば、酷く不格好だ。赤ん坊が一生懸命、食べ物に手を伸ばしているように見える。アレックスは気の毒に思って気にかけていたが、テオはついに諦めたのか、ナイフをテーブルに置いてしまった。
テオは、人間の食事方法を体験する物珍しさに心惹かれていただけだ。食事そのものは美味なのに、食器の扱いが難しくて、麗しの味覚はちっとも口に入らない。お腹が空いていた彼は痺れを切らして、ついにナイフを使うことを止めた。手掴みしたいところだったが、必死に教えていたアレックスの親切を思うと躊躇われる。そこでテオは、フォークだけ握りしめて、魚肉や野菜に突き立てた。ガツンと金属が陶器にあたる鈍い音がして、一瞬、室内がシンとした。ジュリーの父が、よく回っていた舌を引っ込める。
「テ、テオくん? 口にあわなかったかい?」
「え? ううん、美味しいよ」
フォークに突き刺さった肉と野菜に齧り付き、むしゃむしゃと咀嚼するテオの隣では、クリスが顔色一つ変えずに食事を進めている。彼の手には、幼い子供が持つような持ち方でフォークが握りしめられ、ナイフはたまにしか使われていない。テーブルマナーなど不要な生活を送ってきた彼もまた、美しく食べようという考えが存在しなかった。
食べられれば良い。これが二人の考え方だ。
「そ、そうか。気に入ったみたいで何よりだ」
ジュリーの両親は、引き攣った顔を浮かべていたが、すぐににこやかな笑顔を貼り付けて、際限のない自慢話を再開した。料理人が挨拶に来ると、我が家の料理人がいかに素晴らしい経歴で、美食を提供してくれるかを熱弁する。テオはその話の半分も理解できていなさそうだったが、素直に彼の味を賞賛していた。ジュリーの両親も満足げだ。テーブルマナーはもちろん、鬱陶しいほど見た目を気にするジュリーの両親に、何か嫌なことを言われやしないかとヒヤヒヤしていたアレックスは、やけに物分かりの良い二人の態度に安堵した。
夕食が済むと、アレックスはジュリーの両親から酒の席に誘われた。アレックス自身はそれほど酒を好む質ではないのだが、今までこういった誘いをほとんど断ってきたこともあり、今回ばかりは否と言わせてもらえなかった。父親の自慢話と母親の甲高い笑い声を右から左へ受け流して、無心で聞き役に徹するという仕事だ。気を抜けば、あまりの不毛さに眠くなる。今日は気疲れしたからか、食事前に一度眠ったというのに、一際強い眠気に襲われた。
気がつけば、いつの間にか意識が途切れていたらしく、アレックスは自室のベッドの上で、うとうとと目を覚ました。壁の時計を確認すると、夕食の時間からゆうに数時間が経過しており、針は既に二十三時を回っている。時間を把握した瞬間、アレックスの目は一気に醒めた。
(俺はどのくらい寝ていたんだ!?)
飛び起きたアレックスは、僅かに痛むこめかみを抑えた。部屋の鍵が開いているため、家の者がアレックスをベッドまで運んだのだろう。困惑しつつ、扉を開けると、風に乗って何かがヒラリと室内に舞い込んだ。見ると、それは一枚のカードだ。
『街の南にある 赤煉瓦の倉庫街へ いらしてね』
番地と共に記された流麗な文字は、ジュリーのものだ。意図はよくわからない。美しく整った謎の短い文を見た途端、アレックスは、微かな胸騒ぎがした。
早足でテオの部屋へ向かう。もともと、就寝前に、一度会いに行こうと思っていた。ところが、夕食後はジュリーの両親に引き留められて、まともに話していない。
(……妙だな)
アレックスは違和感を覚えた。彼はテオとクリスからは離れた部屋にいたのだが、移動している間に誰にも会わず、家全体が、やけに静かなのだ。いくら夜遅くとはいえ、この時間はいつもなら、ジュリーの父親が酒を煽っている時間だ。彼の部屋の方向からは陽気な笑い声が聞こえて、調理場や廊下に誰かしらいるはずだ。
アレックスは、早足でテオの部屋へ辿り着くと、慎重にノックをした。返事がないため、ドアノブに触れる。テオには自室に鍵をかけるという発想がないため、すんなり開くのは想定内だ。
「テオ?」
アレックスは、扉を開けて足を踏み入れる。煌々と明かりの灯る部屋の中には、誰もいなかった。ベッドの上には多少皺ができているが、シーツの上は冷え切っており、乱れ具合からして、就寝していたわけではないとわかる。テオが自力で外に出ることは不可能なため、誰かが共にいるはずだ。
(考えられるのはクリスだが……)
クリスがテオを連れてどこかへ行くことは、何もおかしなことではない。理屈ではわかっていたが、アレックスの足元からは、得体のしれない嫌な予感が這い上がってきていた。
彼は急いで隣の部屋へ行き、同じように中に入った。クリスはテオと違い、自室には鍵をかける男だ。それなのに、部屋の扉は開いていた。中には誰もおらず、明かりも点いていない。ベッドの上も、皺一つない。
土地勘のないクリスとテオが外出するには、車の手配や道案内など、様々な準備がいる。アレックスは、今度はジュリーの部屋へ向かった。本来ならば、こんな時間に彼女の元になど行かないのだが、背筋を襲う嫌な寒気が、足を早めさせている。
ジュリーの部屋からは物音一つせず、こうしている間も、彼女の両親の声も、姿も、見当たらない。
(……ジュリー)
カードを握りしめる手に、知らず知らず力が入っていた。疲れていたから眠ったのだと思っていたが、よく考えればおかしい。夕食前に一眠りしたというのに、あの眠気は抗えない程酷かった。アレックスは酒好きではないが、酒に弱いわけでもない。酔い潰れるほど飲んだ記憶もない。とすれば、悪い可能性が浮かび上がってしまう。
(薬を盛られた……!?)
そんなことをできるのは、あの場にいた、ジュリーの両親くらいだろう。何か企みがなければ、そんなことはしない。企みの中身が良いことか悪いことか、はっきりと判断できる情報は、何もない。にもかかわらず、直感は絶えず警報を鳴らしている。
アレックスは着の身着のまま、急いでカードに書かれた場所へ向かった。
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