第12話


 倉庫街は、鮮やかな赤い色で、この一帯を縦断している。宵闇の中では赤も黒もないが、幸い今日は満月で、煌々と輝く白い月光が倉庫を薄青く浮かび上がらせている。倉庫はいくつも並んでおり、入り口と言える決まった場所もないが、ジュリーの家から真っ直ぐに行けば、辿り着く場所は一つしかない。アレックスが倉庫街へ辿り着くと、ジュリーがそこに、一人で立っていた。

「ジュリー!」

「……あら、良かった。間に合いそう」

 ジュリーは月光の下、優艶に微笑んでアレックスを出迎えた。肩で息をしながら問いただそうとすると、唇に指を当てて言葉を遮られる。

「大きな声をお出しにならないで。お母様達に、気づかれてしまうわ」

「あの人達は何を考えてるんだ?」

「アレックス様、あなたもご存知でしょう? わたくしの両親は、金目のもの、美しいもの、自分を飾り立てるものには、特別に目がないのよ。さ、お急ぎになって」

 ジュリーはアレックスを手招きして、急ぎ足で道を進んだ。彼女は一つの倉庫まで来ると、もう一度唇に指を当ててから、中を目で示した。

 アレックスは、倉庫の窓から中を覗こうと首を伸ばす。内側に何か物を置いているのか、窓はほとんどが黒い影で埋まっており、隙間からかろうじて中の様子が覗えた。中はぼんやりとオレンジ色の明かりで照らされ、数人の姿が見える。部屋の端には、喉元にナイフを突きつけられて、後ろ手に縛られているクリスがいた。そして――。

(テオ!)

 アレックスは思わず叫びそうになった。

 柱の一つに、テオが後ろ手に縛り付けられていた。隣には大きな包丁を持った男と、夫人の後ろ姿がある。男には、見覚えがあった。ジュリーの家の料理人だ。青い顔で握りしめている包丁には、真っ赤なものがべっとりと付着していた。

 アレックスの位置からでもわかる程、テオの顔は真っ青で衰弱している。それも当然だ。テオの脇腹からは、鮮血が幾筋も流れ出ていたのだ。アレックスの耳に、くぐもった甲高い声が届く。

「あなた料理人でしょう? もっと上手く切り取ってちょうだい。鱗は全部剥ぎ取って、アクセサリーと鞄にするんだから」

 それを聞いた瞬間、アレックスの目の前が、カッと赤くなった。隣でジュリーが何か言う声がしたが、聞くより先に、彼は弾かれたようにその場から走りだした。倉庫の入口から堂々と飛び込み、衝動のままに叫ぶ。

「何をしてるんだ!?」

 吠えた途端、ガシャン! と窓ガラスの割れる大きな音が、室内に響き渡った。倉庫にいくつかある窓が、次々と割れていく。割れた窓の下には、小さな赤いレンガが落ちていた。

「うわっ!」

「何だ!?」

 窓を外から割って場を撹乱しているのは誰か、考えられるのは一人しかいない。けれども、アレックスは彼女の存在など頭から吹き飛んで、レンガのこともどうでも良かった。

 混乱に乗じて、クリスが自分を脅していた男を投げ飛ばす。彼の腕を縛っていたはずのロープは、なぜかスッパリ切れていた。彼はずっと、縛られているをしていたのだ。そうしているうちに、今度は上の窓が割れて、レンガが勢いよく降ってくる。

「遅いぞアレックス!」

 倉庫内にいたのは皆、ジュリーの屋敷で働く者達だ。獲物を持っていなければ、いかに大柄な男であろうと、ただの人である。『こう見えて屈強』と自称するクリスとの力の差は大差ない。クリスは足元のレンガを手当たり次第に男達へ投げつけながら、アレックスの側を駆け抜けていく。すれ違いざま、彼は肩を叩いて耳打ちした。

「テオを頼んだ。私は逃げ道を確保しに行く」

「何をしてるの! 追って!」

 夫人の金切り声に尻を叩かれて、怯んでいた男達はクリスを追いかけていく。

 入口付近では、ジュリーの父親が飲み潰れて眠りこけていた。空になった酒瓶が足元にいくつも転がっており、アレックスはそこから一本拝借して、クリスの追っ手の一人に向かって振りかぶる。酒瓶が割れる派手な音と共に、男は倒れた。

(これで一人は、追っ手が消えた)

 割れた酒瓶を持ったまま、アレックスはジュリーの父親の元へ行き、首根っこを掴み上げた。重い体を前に座らせ、首に酒瓶の断面を添える。

「テオを離せ。さもなければ、この首をかき切るぞ」

 奥でくずおれていたテオが、声に反応してのそりと顔を上げた。彼は猿轡を噛まされているせいで喋ることができず、力なく唸る。体はガタガタと震えており、頬には幾筋もの涙の跡がある。その姿を見ると、アレックスは怒りでどうにかなりそうだった。夫人は目を大きく剥き出して、真っ赤な唇を戦慄かせている。彼女は拳を震わせながらも平静を装い、引き攣った笑みを浮かべた。

「落ち着いてくださいな。これはあなたの為でもあるのよ」

「何を戯言を」

「いいえ、ご覧になって。どこを削り取ってもお金になって、大きな利益になる、素晴らしい生き物がここにいるわ」

「何を言ってるんだ?」

 アレックスは耳を疑った。目の前にいるのはつい数時間前まで、夕食を共にし、語らった青年だ。人魚で儲けようという考え方があるのはわかるが、本人を目の前に、なぜそのようなことが言えるのか。アレックスには理解できない。

「ねえ、許してくださらない? そうだわ、後であなたも一緒に食べましょう。あたくしのムスコになる人だもの。永遠に若くいたって、困らないわ」

「食べる? 何を食べるって?」

「人魚よ!」

 夫人は優しく微笑むと、テオの脇腹に触れた。無遠慮な手付きで傷口を撫で、血の止まりかけていた部分に爪を食い込ませる。鮮やかな血が滲み出し、テオの呻き声が倉庫に響く。

「やめろ!」

「ご覧になって、ほら」

 夫人は指先に付いた血を一舐めし、アレックスにうっとりと微笑みかけた。まるで知らない世界の住人のように遠い存在に思え、ゾッと鳥肌が立つ。

「あたくし、美しいでしょう? もっと飲めば、ジュリーよりも美しく、若々しくなるんだわ。うふふ」

 アレックスは無言で夫人を睨みつけた。実際、夫人の顔からは皺やシミが消え、十歳は若返って見えた。夫人の顔になど興味のなかったアレックスが気づくくらいの変化だ。夫人本人にとっては、嬉しくて仕方ないのだろう。

 アレックスは吐き気を飲み込み、テオの隣で震えている料理人へ視線を移す。彼は人間によく似た生き物を包丁で捌くという大役に、明らかに怖気づいていた。

「あんた、人の肉を抉るために包丁の腕を磨いていたのか?」

「わ、わたしは……この人は人間じゃ……」

「テオは、あんたの料理を喜んで食べていただろ。料理を振舞った相手をあんたは捌くのか」

「……」

 男には夫人と違い、まだ良心が残っている。元々彼は、ただの料理人であり、雇い主に命じられて、珍しい生き物の調理をする羽目になっていただけである。まさか、珍しい生き物の正体が、人の言葉を喋る人懐こい人魚であるとは、夢にも思っていなかった。言葉を喋るというだけで、彼には人間も同然に思えてしまう。自らの手で皮膚を割き、間近で苦悶するテオを見ていたことで、男の精神は参っていた。

「あたくしだって、できれば痛い思いなんてさせたくなかったのよ。けれど、博士が口を割ってくださらなかったんですもの。人魚のどの辺りの肉が最も効果が高いのか、死なせずに肉を切り取れる場所はどこか」

 アレックスは唇を噛む。テオやクリスと共に過ごしていた彼には、クリスの意図がわかる。彼が口を割らなかったのは、そんなことを言っても無駄だからだ。肉を切り取られれば、放っておけば誰でも死ぬ。効果の高い部位など知ったところで、一欠でも切り取れば、欲望は留まるところを知らず、他の部位も欲するだろう。人間とは、そういうものだ。

 アレックスは瓶の切っ先を首に押し付けたまま、夫人を睨み上げた。

「テオを離せ」

「もう……仕方のない子ね」

 夫人は呆れた溜息を吐き、傍らにいる男に片手で合図した。

「良いわ。縄を解きなさい」

 男は青ざめたまま、どこかホッとした様子で縄を解く。痺れていたテオの手は、ゆっくりと前に戻ってきたが、その白い手は明らかに血に濡れていた。

「さあ、離したわ。そちらも離してくださるわよね?」

 夫人は男から包丁をふんだくると、テオに向ける。アレックスは渋面を浮かべて口を真一文字に引き結ぶ。

 事実、これはアレックスには不利な状況だ。テオは縄を解かれたが、血が足りていないのか、力なく、ぐったりとしている。手元にいるジュリーの父親は眠りこけており、人質にするには恰幅が良く、重くて扱いづらい。

 仕方なく、アレックスは掴んでいた巨体を男に向かって投げた。男はヨロヨロと人質を保護し、護衛を言い訳に動かなくなる。アレックスはテオに駆け寄って体を支え、周囲を見て絶句した。

(これは……)

 テオが括られていた柱の裏には、一つのワイングラスがあった。そこには赤黒い液体が、半分ほど溜まっている。テオの掌はざっくりと切られ、指先からは血が滴っていた。

 ワイングラスを凝視しているアレックスに、夫人は優しく声をかけた。

「ねえ、それは人魚でしてよ」

「それが何なんだ? 人魚なら苦しめて良いわけないだろ。テオが何も感じないとでも!?」

「冷静に考えてもご覧なさいな。獣を屠殺するのと、何が違うの? 魚だって、食卓に行くまでに殺す過程があるわ。あれらにだって、痛みや死への忌避感は、あるでしょうね」

 アレックスの拳に力が入る。何が違うのだと言われれば、明確に言葉を返すことはできなかった。確かなのは、人間が同じ立場になったとしても、何も違いはないということだ。ならば、アレックスはテオの友人として、彼をみすみす傷つけさせるわけにはいかない。違いと言って思い浮かぶのは、それくらいだ。

「大丈夫。次は上手くやれるわ。あたくし、そいつと違って迷いがないもの。この子の体は神に感謝して、いただくわ。一欠片も無駄になんてしない」

「今更綺麗事を抜かすな」

 夫人は手を伸ばして、包丁の切っ先をアレックス達に向ける。アレックスは咄嗟にテオを抱えて彼女の刃を躱し、気付いた。

(テオしか狙っていない)

 夫人は、テオを殺してしまえばアレックスも大人しくなると思っていた。そのため、アレックスのことなど眼中になく、ただテオを殺そうとしていた。その過程でアレックスが多少傷ついても、構わないという勢いだ。

 アレックスはテオの体を抱え直して、出鱈目に振り回される夫人の刃を躱し続ける。

「テオを殺しても、テオの体は手に入らないぞ。人魚は死ぬと泡になる」

「あら、そうなの? じゃあやっぱり、死なない程度にやらなきゃね」

 信じているのかいないのか、馬鹿にしたような口調で彼女は嗤う。刃の先端がアレックスの腕を掠め、皮膚を何箇所も抉っていった。このままテオを連れて逃げようにも、出入り口に行くには夫人を越えていかなければならず、側では、まだあの料理人の男が様子を窺っている。アレックスにとって、男が手を出さない保証などない。加えて、ジュリーの父親が万が一起きれば、三対一になってしまう。

 どうすべきか思案していたその時、パッと視界が暗くなった。部屋の明かりがいきなり消えたのだ。

(何だ!?)

 数秒間、その場にいた者達の視界を暗闇が支配した。アレックスは足をのばして、ワイングラスがあった辺りを蹴り飛ばした。

(こんなもの!)

 ガラスの割れる甲高い音が響き、夫人がキンキンと金切り声で叫んだ。

「ちょっと! 無駄になることをしないで! それは一滴残らずあたくしのものよ!」

 アレックスが足を動かすと、気の逸れた彼女の声が遠ざかる。月光の仄明かりに目が慣れてきた頃には、彼はもう夫人の横をすり抜けていた。

「アレックス!」

 振り返った夫人は焦燥の混じる声で、二人の姿を探す。月光の差し込む部屋、出入り口の付近にいるアレックスを見つけると、傍らの男を怒鳴りつけた。

「お前! 追いかけなさい! 絶対に逃さないで! 博士より優先よ! はやく!」

 夫人は怒鳴るだけ怒鳴ると、その場に腰を下ろして、手で床を撫で回し始めた。冷たい床の一際湿った部分に触れ、顔を近づけて匂いを嗅ぐ。

「あたくしの、あたくしの血……」

 あろうことか、夫人はその場で床に舌を這わせ始めた。這いつくばって床を舐める姿は、月光の下では黒く蠢く不気味な塊になっている。モタモタと出入り口へ向かっていた男が振り返って、夫人の影を目にし、ヒイッと悲鳴を上げた。アレックスは、とうに倉庫から出ていたため、彼の耳には男の悲鳴しか聞こえなかった。

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