第13話
アレックスはテオを抱えて倉庫街を抜けようとしたが、クリスを探していた者達が付近をまだ彷徨っていた。彼らはクリスを見失ったのか、何やら騒いでいる。前方から近付く話し声と明かりを捉えたアレックスは、倉庫と倉庫の間の狭い隙間に身を滑り込ませた。
(……あまり良くない状況だ。テオの手当もできていない)
アレックスの額に冷たい汗が流れる。テオを連れてきたは良いが、彼の傷口は何の処置もされておらず、まだ血が流れ続けていた。急いで走って来たため、血痕が落ちている可能性はこの上なく高い。月明かりだけなら見つからないかもしれないが、明かりがあるなら安心してもいられない。
せめて、出来るだけ暗がりへ隠れようと、壁に体を沿わせていると、よく知る可憐な声が聞こえた。
「どうなさったの?」
「お嬢さん! お客人が見つからないのです。ワタシらは奥様に怒られてしまいます!」
「どうやら人魚も逃げたみたいで!」
「まあ大変! 手分けして探しましょう。わたくしも手伝うわ。あなた方は向こうを、それから、あなた方はあっちをお願い」
「はい! ありがとうございます!」
ジュリーはてきぱきと指示を出し、彼らがアレックスの辿ってきた道へ差しかかる前に追い返す。程なくして、靴の音が近付いてきた。
「血痕が残っていましてよ」
「ジュリー」
ランタンに照らされて、見知った美女が二人を見下ろしていた。布の塊を手にした彼女は、ランタンを置いてその場に腰を下ろした。布は両手のひらで軽く支えられる程の小ささで、捲ると中から箱が現れ、開けると薬品の匂いがツンと鼻についた。
「救急箱を持ってきたの。止血だけでもしましょう」
「……ありがとう」
いくつかあるテオの傷は、そのほとんどは血が止まっていたが、脇腹と掌の傷はいまだ温かく脈打ち、鮮血を流している。アレックスは、ポケットから小箱とその中身を急いで取り出した。テオから譲り受けた、人魚の秘薬だ。血でベタついた指を貝に突っ込み、中の薬を抉り取る。血を拭っただけの傷口に塗り広げたが、小さな貝に入った薬の量では、心許ない。
(これじゃ足りないか……? かといって、テオが今持っているものを不用意に使うのもな……もっと明るいところで、状態を見てから使いたい)
アレックスは、テオの首を飾るチョーカーに視線を走らせ、小さく首を振る。ランタンの明かりの中、血に濡れた傷口に施せた処置は実に簡単なもので、ジュリーから貰った包帯には、血がジワリと滲み出していた。テオは意識こそあるものの、小さく呻いただけだ。
アレックスは、箱を片付けるジュリーをじっと見る。
「追っ手のいない道を案内するわ。倉庫街を抜けたら、あとはご自分でお逃げになってね」
「ジュリー」
「どうなさったの?」
「明かりを消したのは、君か? 窓も割っただろう。クリスの縄も……」
「あら。本当は、タイミングを合わせて、お二人を助ける手筈でしたのよ。囚われていたクリス様にも、そうお伝えしていたの。それなのに、アレックス様ったら、止めるまもなく行ってしまわれるんですもの。レンガだって軽くはないのだから、一苦労したわ」
「君があんなことをするとは、意外だな」
「ええ、わたくしもはじめてよ。あんなに一生懸命、重いものを投げて回ったのも。スッとしたわ」
「……それだけじゃない。君の父親は、本当に酔い潰れていただけだったのか?」
ジュリーは静かに微笑んでいる。彼女の父親は、常日頃から、人に注いでもらった酒を好んでいた。今夜、アレックスが一緒に飲んでいた時は、夫人が注いでいた。だが、あの倉庫内の様子からして、あの場で夫人が酒を注いでいたとは考えにくい。とすれば、そのようなことをする人間は、アレックスには一人しか思い当たらない。酒に薬を盛られ、眠りこけたのは、アレックスだけではなかったのかもしれない。
「全てお役に立ったなら、それで良いじゃない。どうしてそんなに、詰問するようにおっしゃるの?」
「君の目的がわからないからだ。ジュリー、君は最初から、こうなるとわかっていたんじゃないか? どこまでが君の計画だったんだ」
アレックスは硬い声で、真っ直ぐに婚約者を見つめる。彼女が自分で言っていたように、娘として一緒に暮らしてきた人間が、親の性質を知らないわけがない。人魚を彼らの目の前に連れていけばどうなるか――少なくとも、危険なことくらいは予想できていたはずだ。にも関わらず、彼女はテオを呼び寄せた。
「君は二人を浚う計画を知っていて、手伝いもしたが、逃がそうともした。だけど、逃がす機会はいくらでもあったろう。わざわざテオをここまで連れてきて、俺に助けさせたのはなぜだ。何を考えている?」
「そう大層な理由じゃなくてよ」
ジュリーのゆったりとした微笑みが、明かりに揺らめいている。ゾッとするほど美しく、唇を歪めて愉しげに目を細める彼女に、アレックスは得体の知れないものを感じた。
「わたくしね、欲しい物を手に入れる直前に、取り上げられるお母様を見たかったの。アレックス様は、ご覧になったかしら? 虚栄に目がくらみ、這いつくばった悍ましい姿の、何て滑稽なこと! ふふふ、わたくし、ささやかな反抗期中ですのよ」
軽やかに笑うジュリーに、アレックスは苦笑いを返した。
「……大層な理由だな」
「テオ様を傷つけるつもりはなかったの。それは本当よ。全て上手くは、いかないものね」
「……ジュリー……」
その時、テオが小さく口を開いた。ジュリーはピタリと口を閉じて、視線を下ろす。テオは痛みに顔を歪めながらも、ジュリーへ手を伸ばして、滑らかな指先に触れた。
「また会える?」
呟かれた言葉に瞑目した彼女は、一瞬押し黙ったが、テオの手をそっと握って囁いた。
「いつか、会いに行きましょう」
その言葉を聞くと、テオは安心したように目元を緩ませた。怪我の原因の一端が彼女にあるとしても、テオにとって、ジュリーはまだ友人なのだ。
アレックスは文句を言いたかった口を閉じ、代わりに軽く溜息を吐いて、テオを背負って立ち上がった。普段なら、形だけでもジュリーに手を貸すところだが、今は背中に怪我人がいる。ジュリーも何も言わず、当然のように一人で立ち上がった。アレックスは、一人で立ち上がる彼女を初めて見た。視界の端で捉えた彼女の姿は、どこか新鮮だった。
(……こんな風に、立てたのか)
彼女は言葉通り、追っ手を避けて二人を倉庫街の外へ導いた。別れ際、彼女はアレックスに告げた。
「今回のことがきっかけで、わたくし達の婚約は白紙になるでしょう」
「確かに、俺と夫人との仲は悪くなるだろうが、それくらいで夫人が婚約を諦めるのか?」
「あら、お伝えしたでしょう? わたくし、お母様が手に入れたがっているものを、取り上げてさしあげたいの。諦めたがらなくても、わたくしがさせてみせるわ。せっかく手に入れた金づるを逃して、お母様もお父様も、お可哀想に。後始末はこちらでやっておくから、安心なさって。アレックス様は、ご両親に何か伝言はありまして?」
アレックスは少し考えた。甘やかされてきただけあって、彼は両親のことを少なからず大切に思っている。今まで好き勝手に生きてきたが、ジュリーの両親を見ていると、自分の親がいかにましな人間であったのか思い知る。少なくとも、彼らはアレックスの友人が何であろうと、人として接してくれるだろう。色々と思うところもあるが、アレックスの反抗も甘えも自分勝手も、十分過ぎるほど許されていた。アレックスは、今になってようやくそれが身に沁みて、心配ばかりかけていた申しわけなさを実感する。
「しばらく旅に出ると……また面倒をかけてすまない、必ず近いうちに連絡する、と伝えてくれ」
「あら……ふふふ、伝えておきましょう」
「ありがとう」
「うふふ。アレックス様、わたくしね、あなた様の奔放さに助けられておりましたのよ。あなたは未熟な方だけれど、わたくしはもっと未熟ですもの。アレックス様がわたくしにお礼を言ってくださるなら、わたくしも、アレックス様にはお礼を言わなければいけないわね」
そう言って、ジュリーは美しく一礼した。優雅に佇むジュリーに見送られて、アレックスはその場を離れた。できるだけこの地から離れたいという意志だけで、目的地も定めず、人気のない暗い路地を進んでいく。陸路も海路もこの時間は動いていないため、朝までどこかに身を隠すか、夜通し歩いて遠くへ行くしかない。夜が明ければ、追手は今よりも活発に動くだろう。
(クリスはどこへ行ったんだ?)
まずはクリスと合流したいところだったが、彼がどこに行ったのか、アレックスには見当もつかなかった。逃げ道を確保するとは言っていたが、無事に目的は達成できたのかすら、知りようがない。追っ手の様子からして、先程まではまだ捕まっていなかったようだが、わかることといえばそれくらいだ。
夜の静寂を潜り抜け、テオを背負い直す。ひたすら倉庫街から離れるように歩いていると、ふいに耳元で声が聞こえた。
「アレックス……」
「どうした?」
「多分、あっち……」
テオは小さく言って、首に回していた手を持ち上げ、宙を指さした。何もない宙を見て、アレックスは首を捻る。
「向こうがどうした?」
「……あっちから、音が聞こえる。クリスかも」
耳を澄ませてみたが、彼の耳には何も聞こえない。人魚と人間の聴力は違うのだ。他に道標のないアレックスは、テオを信じることにして、指差す方角へ進路を変える。
やがて、その音はアレックスの耳にも届いてきた。空気を切り裂く甲高い音は、鳥の鳴き声によく似ている。海岸沿いに歩いていくと、音ははっきりと聞こえるようになった。
アレックスは、闇に浮かぶ黒々とした塊に目を留めた。音はそこから聞こえていた。塊の前には、ぼんやりとランタンの明かりが浮かび、見覚えのある顔が二つ照らされている。
「……トマスに、バート?」
「おっ、本当に来たか! さすが博士だな」
顔を見合わせた二人は、海岸沿いに停泊している船の前にいた。バートは首を伸ばすと、アレックスの背後へ視線を移して、目を瞠っている。
「おい、後ろにいるのは人魚じゃないか!? ……なるほど、そういうことか」
「マジか。本当に会えるとはなあ。おいバート、博士にアレックスが来たことを伝えてきてくれ」
「はいよ」
「クリスはここにいるのか?」
去っていくバートを見送り、アレックスは訝しげに片眉を上げる。トマスは重たそうな瞼を擦り、あくびをしつつ頷いた。
「ああ。酒場でどんちゃんやってたら、博士が駆け込んで来てな。何だか訳ありらしいじゃねえの。船を出したら人魚に会わせてくれるってんで、協力したんだ。お前さんも、誰かに見られる前にとっとと入んな」
「クリスは……」
言いかけた時、忙しない物音と共に、船の入口からクリスの声が聞こえた。
「テオ! アレックス! 待っていたぞ!」
彼は勢いよく囁いて、顔だけ覗かせる。元気そうな声を聞いたアレックスは、安堵して、船に足を踏み入れた。
彼らが乗っているのは、トマスの所有する商船だ。小さくないが、目立つ程大きくもなく、ひと目で古さを感じ取れる。
アレックスはクリスと小さな部屋へ入ると、テオをその場に横たえた。部屋の中には、クリスが用意した包帯や水の入った桶が並んでいる。彼はテオがいつ運び込まれても良いように、事前に準備を整えていたのだ。
アレックスの服は、テオの血で赤黒く汚れており、傷口を圧迫していた包帯も、白い部分がなくなっていた。だが、出血はほとんど止まってきており、アレックスが倉庫街で薬を塗ったことも幸いして、テオの顔色は大分穏やかなものになっている。ペリペリと包帯を剥がすと、いまだに生々しい傷口が現れて、テオの体がビクリと跳ねた。
「うっ……」
「ふむ。奴ら、肉を抉ろうとしていたから、傷が深いな。とりあえず傷口は全て洗ってしまおう。アレックス、水を」
「ああ。テオ、薬を使っても良いか?」
アレックスの言葉に、テオは小さく頷く。アレックスはチョーカーを外して、念のため、自分のポケットからも薬を取りだして中身を確認した。アレックスの持っていた薬はやはり、貝も鱗も血塗れで、中身は空になっている。蟻の大きさくらいは掻き集められそうだが、それでは掠り傷程度にしか塗れないだろう。
(……仕方ない。あとで洗っておこう)
二つの貝を傍らに置いて、アレックスがドアの方へ頭を向けると、外に立っているバートと目が合った。彼は扉のところにもたれかかりながら、じっとこちらを眺めている。
「アレックス、何か手伝えることはあるか?」
「水をもう少し用意してくれるか? これだと足りないかもしれない」
「すぐ持ってこよう」
「助かるよ。協力してくれたのも……ありがとう」
「良いってことよ。ま、俺の船じゃないけどな」
バートは片手を上げてヘラリと笑った。
二人でテオの傷を手当てし直すと、テオは浅く深呼吸をし、眉を寄せて体をくの字に折り曲げた。
「うう……痛い……」
「それはそうだろう。まったく、私も君も、えらい目にあったな」
「そういえば、人魚に会わせる代わりに船を出してもらったんだろ? 人魚ってテオのことか」
「ああ。リスクはあるが、一番効果的だろう?」
アレックスは、トマスの顔を思い浮かべて頷いた。少なくとも、トマスはそこまで人魚に執着しているようには見えない。会えただけで満足してくれるだろう。そう考えて、彼はふと思い出した。
「あの笛の音みたいなのは、何だったんだ?」
「ああ、これか?」
クリスは指を唇に添えて、ピュッと短く吹いてみせた。鳥の鳴き声にも似た音が、小気味よく流れる。
「テオがその音に、真っ先に気付いたんだ」
とはいえ、音だけで発信源がクリスだと考えるのは、いささか突拍子もないように思える。そこにはおそらく、人魚に関する何かがあるのではないかと、アレックスは気になっていた。
クリスはうんうんと頷き、腕を組む。
「人魚は指笛でコミュニケーションを取ることがある。これは以前、話したな。俺が吹いたのは、人魚の指笛だ。父から教わった。半信半疑だったんだが、ちゃんと伝わっていたなら、本物だったんだな。良い発見だ」
「音には何か意味が?」
「知らん」
「あんたの父親は、よくそんなものを知っていたな」
「ああ、それは……父も、熱心に人魚の研究をしていたからな」
クリスは一瞬言い淀み、何でもない風に言った。
「人魚とも親交があったとかで、その人から教わったらしい」
「今の俺達みたいだな」
二人が話していると、唐突にテオがクリスの腕を引っ張り、ゆっくりと体を起こした。顔色は大分良くなり、表情も痛そうではあるが、先程よりは和らいでいる。彼は指を唇に添えて、小さく呟いた。
「思っていたんだけど……クリスの吹いてたやつ、きっと人から人へ伝わっていく中で、ちょっとずつ変わってしまったんだと思う。意味はとれるんだけど、何て言うか……ちょっと訛ってるっていうか、文法がちぐはぐっていうか……多分、正確にはこう」
その場に指笛の音が響き渡った。アレックスには、クリスの鳴らしていた音との違いがさっぱりわからない。クリスは腕を組んだまま、目を閉じて思案していたが、片目を開けて尋ねた。
「それにはどんな意味が?」
「『私はここにいる』」
部屋の中が静まり返る。クリスは無言で軽く目を瞠り、テオを見つめていた。
『私はここにいる』
どんな場面でその言葉が使われていたのかは、この場にいる誰も知らない。けれども、アレックスには、海辺で逢引する恋人達の合言葉のように聞こえた。
「……そうか」
ようやくクリスはそれだけを呟いて、無言になった。彼は顎に手を当てて、どこか遠い目で考え込んでいる。
(もし、この指笛を俺も使えるんだとしたら、どんな場面で使うだろうか)
アレックスは考える。脳裏に浮かんだのは、浜辺に立つ自分の姿と、波間から大きく手を振るテオの姿だった。
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