第7話

 日に焼けた健康的な肌と茶髪の少年は、十歳前後だろうか。あの時、二人が海で助けた子供に間違いない。利発そうな目は、物言いたげにしながらも、視線を下げていた。着ている服は上等ではないが、乾いた新しいものになっている。少年は部屋に入ると、一瞬だけ顔を上げ、すぐに伏せて両膝を付いた。表紙のボロボロになった本を胸に抱えて、頭を下げながら、消え入りそうな声を出す。

「あ、あの……ごめんなさい」

 本を抱える少年の手に、力が入る。アレックスは、どうしたものかと周りの人々を見回した。

「彼は、島の漁師の子で、リックと言います」

 黙ってしまった少年に、ノアが助け舟を出した。

「長老達がここへ向かったのを知って、自分が原因だと思って、謝りにきたそうです」

「やっぱり、黙ってられなかったからか?」

 アレックスはリックをチラリと見た。リックはバッと顔を上げて、言い辛そうに口をモゴモゴさせる。

「だって、だって……ッ! 僕が、最初に、叫んじゃったから、もう手遅れだったんだ!」

 アレックスは、テオを見たリックが、はじめに『人魚がいる!』と叫んだことを思い出した。ここは小さな島だ。あの叫び声を聞いた者がいても、おかしくはない。こればかりは、運が悪かったとしか言いようがない。

「戻ったら、長老さま達に質問攻めにされた。黙ってようとしたけど、嘘をつくのも、長老さまも怖くて。それに、人魚なんかいるわけないって、言ってくる奴もいて、僕のこと、嘘つきだって! だから、つい言い返しちゃって……」

「ええっ?」

 存在しないもの呼ばわりされたテオが、目をぱちくりさせる。アレックスも不思議だった。人魚島には人魚信仰がある。実際、長老達も態度は奇妙だが、信心深いように見えた。

 話についていけない二人を余所に、ノアとクリスだけが訳知り顔でいる。

「人魚信仰は古いものですからね。お年寄り程、信仰心が強いんです。逆に、最近の子は人魚を見る機会も滅多にないですから、すっかり作り話だと思ってしまっている子供も多いんですよ。かくいう私も、昔は作り話だと思っていたクチなんですよ」

 ノアの言葉に、アレックスは驚いた。島民全員が信心深いものだとばかり思っていた。

「リックは信心深い方ですから、信じない子達とよく衝突しています」

「ノアは事情に詳しいな」

「私は島の生まれですし、普段から皆と話しますから」

 アレックスは納得する。言われてみれば、クリスはほとんど館から出ないが、ノアはよく外へ出る。クリスに館の外で済ませたい用事があれば、代わりにノアがやりに行く。島の人間だから、怪しげな博士の助手だろうと、島民達と交流しやすいのだ。

「リック、そんなところにいないで、こっちへおいでよ。僕、人間の子供と話すのは初めてなんだ!」

 テオがアレックスとの間のスペースを、ポンポンと叩いた。リックはその場で飛び上がり、顔を真っ赤にして視線を右往左往させる。 

「あ、あの、あの、隣なんて、そんな……」

「どうしてだい?」

「人魚は、すごい存在だし、触れたり、関わったり、本当は、気安く話しかけるのだって、しちゃいけないし……」

「そんなあ」

 ひどくがっかりした声色で、テオが呟いた。正面を見られないリックは気づいていないのだろうが、テオは寂しそうに表情を翳らせている。向かいにいるクリスは、馬鹿馬鹿しいと言わんばかりの呆れ顔だ。

 アレックスはテオの方へ詰め、肘掛けと自分の間にスペースを作った。

「じゃあ、俺の隣に来たら良い。大事な人魚サマを悲しませたくはないだろ?」

「うあ……」

 リックは恐る恐るといった風に立ち上がると、小刻みに動き、アレックスの隣に座った。緊張した面持ちで、テオの方をちっとも見ない。テオは傷付いた顔で、小さく溜息を吐いた。しかし、間にアレックスを挟んでしまったため、リックがそんなテオの様子を知ることは、決してない。

「だけど、何であんなところに一人でいたんだ? 俺とテオが気づかなかったら、お前は溺れ死んでたぞ」

 リックは本を抱きしめたまま、ボソボソと話した。

「人魚を信じてない奴らは、よく僕を馬鹿にしてくるんだ。今朝もそうだった。言い返してやりたいけど、でも、でも僕だって、実際に人魚を見たことは、なかったから。何も言い返せなくて、悔しかったんだ。だけど、人魚の洞窟は実在してるから……人魚の洞窟を見ると、人魚がいるって信じられて、安心できるんだ……」

「人魚の洞窟?」

 初めて聞く単語に、アレックスは自然とクリスへ視線を向けた。人魚についてわからないことは、大体クリスが知っている。クリスは問いかけるより先に、スラスラと説明する。

「人魚の巣、とも呼ばれている。海にいくつも存在していて、人魚が頻繁に現れる場所だ。生殖に関わる場所でもある。この近海にある無人島もそれにあたるとされていて、私も調査に向かいたいと常々思っていた。だが、あの辺りは人食い人魚がよく出没するため、危険と判断してやむなく調査できずにいる。非常に残念だ」

 幼いリックは、セイショクという言葉にピンときていないのか、ポカンとしてクリスを見ていた。

「わあ……この人、本当に人魚のことを調べてるんだ」

「クリスと話したことはなかったのか?」

「だって、皆関わりたがらないし、いつも籠もりきりで、何だか怖いから」

 クリスは口をへの字に曲げて、拗ねてしまった。

「その洞窟は、ここから見えるのか?」

「見えるよ。あそこまで舟を出すと、特に見やすいんだ。いつも、望遠鏡で見てる。お父さんが交易船から買ってくれた、綺麗な望遠鏡。けど、今はもうない」

 リックはしょんぼりと肩を落とす。首を傾げているテオを横目に、アレックスは、リックが抱き締めている本を指さした。

「それは?」

「あ、これ……あなたに見せようと思って」

「俺に?」

「島の外から来た人なら、きっと知らないでしょ? 人魚の話。人魚に失礼なことをして怒らせたら大変だから、知っておいた方が良いと思うよ」

 テオと既に仲良くやっているアレックスは、なんだそれは、と微妙な気持ちになりつつも、興味をそそられて本を受け取った。表紙は下三分の一くらいが外れかけ、紙はヨレヨレで、所々破れている。

「随分ボロいな」

「集会所にある、読み聞かせ用のものだったんだ。見ての通りボロボロだから、新しく作り直したものが今は使われてる。せっかくだから、古い方を貰ったんだ」

 開いてみると、大きな字と簡単な絵が、紙いっぱいに描かれていた。厚みもそれ程なく、見るからに子供向けのものだ。

(集会所っていうのは、教会みたいなものか?)

 早速読もうと思ったアレックスだったが、島民特有の言い回しなのか、意味のわからない表現が多く、かなり苦戦する。

「僕も知りたい! どんな話なんだい?」

 テオが興味津々で手元を覗き込んでくるが、アレックスにわからないものを彼がわかるはずもない。アレックスは頭を悩ませながら、低く唸った。

「あー……ノア、あんたならわかるか?」

「もちろんです。何を隠しましょう、私も幼い頃は、集会所で読み聞かせをされていた身です。空でだって語れますよ」

 諦めたアレックスから本を差し出されて、ノアはまさに読み聞かせをするかのように、本を開いて二人に見せた。

『むかし、船が難波して、死にかけている人間の男がいた。

 美しい人魚は、男を不憫に思い、男を助けて、人魚の洞窟へ案内した。人魚の洞窟には金銀財宝と船があった。男は船を使って、近くの安全な島へ避難した。愛し合った男と人魚は、二人で島で暮らすようになった。

 人魚はそれからも、同じ様な境遇の人間達を助け続け、彼らは島に住み着くようになった。

 人魚は、人間達がもっと生活しやすくなるように、人魚の洞窟にあった金銀財宝を分け与えた。人間達はそれを元手に、小さな交易を始めるようになった。

 島に住み着いた人間達は、命を救い、富を与えてくれた人魚に感謝して、神のように崇めた。

 しかし、人間達の中には、男と人魚の仲に嫉妬する者がいた。嫉妬のあまり、男と人魚の邪魔ばかりしていたため、人魚の怒りを買い、食い殺されてしまった。これが、人食い人魚の始まりだという』

 ノアは、アレックスとテオが理解しやすいよう、表現をさらに噛み砕いて読み聞かせてくれた。

(よくありそうな童話だな)

 アレックスはそう感じた。金銀財宝の眠る洞窟や、美しい人との恋物語、愚かでちゃちな悪役など、どこかの物語に必ず一つはありそうな要素が散りばめられている。

 とはいえ、とても本を大事にしているらしいリックの前で、そんな感想を言うのも憚られる。アレックスは、素直に感心している風な声をあげた。

「なるほど。この話が人魚信仰の元か」

「そう。人魚は、僕らの何代も前の島民を守ってくれていた、すごい存在なんだ。だけど、そんな人魚を怒らせるような愚かな島民は、人魚に裁かれてしまう。当然だよね」

 ノアから本を返してもらったリックは、興奮した様子で饒舌に語る。

(おそらく、人魚を怒らせたら食い殺されるから、はじめから人魚に関わるなってことだな)

 アレックスの隣で、テオが戸惑いながら耳打ちしてきた。

「僕は人間を食べたりしないよ」

「これは所謂、島の伝説ってやつだろ。人食い人魚の由来ってだけで、全部の人魚がそうって言ってるわけじゃない」

「だけど、きっとこの話のせいで、僕は避けられてるんだろう?」

 アレックスは、リックをチラリと盗み見た。リックの表情は純粋な尊敬と、少しばかりの畏れを含んでいる。幼い純真さは真っ直ぐすぎて、否定しにくい。テオはアレックスの肩越しに身を乗り出して、リックの顔を覗き込んだ。

「リック、君は、僕が怒ると人間を食べると思ってるのかい?」

「えっ? それは……あの……」

 急に話しかけられたリックは、目を白黒させた。先程の言葉通りなら、人魚と会話するのは避けるべきことなのだろう。だが、リック自身は、テオを無視する勇気も、長老のように最低限の会話に留める手法も持たず、しどろもどろになっている。

 あからさまに避けられて、テオの眉が、ヘナヘナとハの字になっていった。気の毒になったアレックスは、できるだけ穏やかな声で、リックに話しかける。

「なあリック、尊敬する人魚サマにだって、心はあるんだ。応えてくれないと、テオだって良い気分はしないだろ?」

「……」

 リックは押し黙って、俯いてしまった。小さな声でテオが付け足す。

「僕は、人間食べたりしないから、怖がらないでよ」

「……」

「……じゃあ、こうしよう。君に見せたいものがあるんだ」

 何とかリックと会話をしようとするテオは、アレックスの腕を引っ張って、扉の外を指さした。

「アレックス、僕を部屋へ連れて行っておくれ。リックに渡したいものがあるんだ」

 アレックスがテオの尾と背中へ手を回すと、テオもアレックスの首へしがみついてきた。二人の息があったことに、アレックスは少し嬉しくなる。

(渡したいもの? あの部屋に、渡せるものなんてあったか?)

 ノアが扉を開けてくれたので、そのまま二人は部屋を出る。クリスも頬を氷で冷やしながら、後ろについてきた。出遅れたリックはオロオロしていたが、部屋に誰もいなくなりそうだと察すると、ノアの隣へピタリとくっついた。この場にいるのが、得体のしれない博士に、得体のしれない余所者、さらには関わってはいけない人魚とくれば、予想通りの人選だ。

 テオは自分の部屋へ着くと、早速水の中へ潜った。

「少し待っていて」

 館の外へ続く水路を通り、その姿はどこかに消える。程なくして、水路の出入り口のところから、ひょっこり亜麻色の頭が現れた。

「これは、リックのかい?」

 そう言って掲げた片手には、小さな筒状のものが握られていた。色とりどりのガラスが散りばめられた、橙色の望遠鏡だ。アレックスは、海でリックに見つかった時、視界の端にチカチカと光るものがあったことを思い出した。

 あっ、とリックが、小さく声を上げた。

「今日、水中にオールを拾いに行った時、岩の隙間に落ちているのを見つけたんだ。何だろうと思っていたんだけど、ひょっとしてこれは、リックの落とし物かい?」

 テオは縁まで泳いでくると、望遠鏡を持った手を差し出す。

 リックはチラチラと望遠鏡を見ながら、コクコクと頷いた。

「じゃあ、これは君に返すよ」

 テオは水につかったまま、手だけをリックに差し出している。リックは望遠鏡を受け取りたいのか、手を中途半端に前に突き出してはいたが、俯いて足踏みするままだった。

(埒が明かないな)

 痺れを切らしたアレックスは、リックの横を通り越し、水辺へ行って膝をついた。乾きかけていた服が、再び膝のあたりから水分を吸って色を変えていく。テオの手から望遠鏡を取って振り返り、膝で一、二歩歩いて、リックに差し出した。

「ほら」

 リックは目を瞬かせて、アレックスを見ている。

(たったこれだけの距離だっていうのに、何を迷ってるんだ)

 リックは、アレックスの濃青色の目と見つめ合うと、おずおずと望遠鏡を受け取った。望遠鏡を大事そうに手で擦り、きゅっと唇を引き結ぶ。一拍置いて、彼は視線をぱっとアレックスの背後に向けた。

「あッ……あ、ありがとう!」

 リックの目には、初めて正面から、テオの姿が映っていた。アレックスは振り返って、ようやくいつも通りに戻ったテオの表情に、ホッとする。

 テオは、満面の笑みを湛えていた。

 

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