第6話
アレックスは、人魚島へ来てからの数日間、館からほとんど出なかったため、船着き場に来たのも初めてだった。船着き場から館へ至るまでの小道も、石造りの家々も、初めて見る風景だ。興味はそそられたが、生憎観光気分で見回すことは叶わない。ずぶ濡れで道を歩いている、得体のしれない余所者に、視線が途絶えないからだ。
(俺の方が無遠慮に眺め回したいくらいだ!)
人魚島が小さな島だったため、道に迷うこともなく、誰かに道を訊ねることもなく、クリスの館に帰ることができたのは幸いだった。館に近づくにつれて知ったのは、クリスの館は周りの家々と、雰囲気こそ似て馴染んでいるものの、大きさは倍以上あり、家々がポツポツと並ぶエリアからは離れたところに建っている、ということだ。
(しかし、どうしたものか……)
正面玄関はもちろん開いていないため、ノックで呼び出す。昼寝でもしていたのか、ヨレヨレ姿のノアが出てきた。アレックスがなぜか正面玄関から帰ってきたため、目を白黒させて戸惑っている。
「あれっ、アレックスさん、一体何が?」
「……悪い。テオはもう帰ってるか? 一緒に話すから、部屋に行こう」
「……では、博士を呼んできますね」
きまりの悪そうなアレックスを見て、ノアは何かを察して渋い顔になると、研究室へ向かっていく。
アレックスは足早に、テオの部屋を目指した。廊下突き当りの扉を開けると、縁に腰掛けていた背中が振り返る。
「アレックス! おかえり。あの人は家に帰れたかい?」
「多分。テオのことは口止めしたが、果たして言う通りにしてくれるか……クリスに報告はしておこう」
「そうだね。でも、どうしてクリスは、僕を島の人達に会わせたがらないんだろう。島の人達は人魚を大切にしてくれるらしいのに、なんの不都合があるんだろうね?」
「俺も、それはわからない。そもそもこの島の人魚信仰って、何なんだろうな……」
考えてみれば、アレックスもテオも、島民が人魚を崇めている理由をよく知らない。アレックスは、偏屈だと言われている島民に近づくのも、彼らのことを知るのも面倒だった。そんなことを知らなくても、テオと再会してからの数日間は楽しかったし、何も問題無く過ごせたからだ。
テオの方も、身近にいるアレックスやクリス、ノアから得られる情報や楽しさに夢中だったため、島民へ関心を寄せる段階に至っていなかった。
二人がクリスの到着を待っていると、部屋の外から慌ただしい足音が近づいてきて、扉が勢いよく開いた。
「ああ! テオさん! アレックスさん!」
血相を変えたノアが転がり込んでくる。後ろにクリスはいない。
「さっきアレックスさんを見て、まさかとは思ったんです。あなた方、島の皆と会ったんですね!」
テオとアレックスはバツが悪そうに顔を見合わせ、大人しく首を縦に振った。何だかわからないが、この慌てぶりを見るに、やはり、良くないことだったのだ。
アレックスは頬をかきながら、詳細を語り、補足する。
「『皆』じゃない。海に落ちた子供をテオが助けて、俺が船着き場まで送っていったんだ。テオは子供としか会ってないし、俺も子供としか話してない」
「だから、玄関から帰ってきたんですね。『皆』に見られながら」
「……」
確かに、道中、遠慮のない視線を浴び続けていたのは事実だ。黙ったアレックスを見て、ノアはこめかみを抑えた。
テオが恐る恐るノアの様子を窺う。
「……悪いことをしてしまったかい?」
「……いえ、いいえ、人を助けるのに悪いことなど……ただ、博士はちょっと、この島では複雑な立場にいるものですから」
「やっぱり、人魚の研究をしてるからか?」
「それもありますし……そもそも、人魚と関わりを持つのは、この島では禁忌に近い行為なんですよ。ですから、人魚と一緒にいた人間がこの館に入っていったとなれば、島中の批判は免れません」
「変な話だな」
アレックスは眉を顰めた。人魚を崇めているのに、人魚と関わるのが禁忌に近いとは、腑に落ちない。
「クリスはこれからどうなるんだ?」
「今、島の長老達が来ています。私は……博士に出会ってから、あの人と長老が話しているのを、初めて見ました。あの人は、支障はないから大丈夫だと言って、私を応接室から閉め出してしまいました。だから、どうなるのかはわかりません。怒られるだけで済むなら良いんですが……」
落ち込んだ様子のノアは、扉の前で右往左往している。この場で一番冷静さを欠いているのは、ノアだろう。それでも、部屋に入ってきた時は気が動転していたのだろうが、今は落ち着きを取り戻してきている。
テオはノアの足元まで這って行くと、裾をグイグイと優しく引っ張った。
「ノア、前にも言っただろう? クリスが責められているなら、僕が証言するよ。そりゃ、僕の体を触ってきたり、血を抜いたり、変なことばかりするけど、責められるような人じゃないって」
「島民は人魚を信仰してるんだろ? なら、テオが一言『大丈夫』って言えば、溜飲を下げてくれるんじゃないか?」
アレックスもテオに賛同して、ノアに歩み寄る。ノアは首を横に振りつつも、テオに目を向けた。
「それは……上手くはいかないと思います。むしろ、逆効果になってしまうかも……けれど、少なくともテオさんがいれば、応接室を開けないわけにはいかないでしょう。閉め出されないのなら、それだけでも良い」
そうと決まれば、やることは一つだ。
アレックスはテオに目配せすると、両手で彼の体を抱え上げた。テオが応接室まで行くには、誰かがテオの足になるしかない。少し乾いていたアレックスのシャツが、再び濡れて、体に張り付いた。薄い鱗や白い肌を爪で引っ掻いてしまわないか、緊張する。
「アレックス、鱗がボタンに引っ掛かって、少し痛いんだ。動いて良いかい? ……ああ、うん、この位置が良いな」
アレックスの腕の上で、モゾモゾと身動ぎしていたテオは、しっくりくるポジションを見つけて体の力を抜いた。アレックスの首にしがみついたことで、間近にテオの顔が迫る。透き通った紫の目に至近距離から見つめられ、アレックスは思わずドキリとした。つい、応接室へ向かうノアの背中へ視線を逸らしてしまう。
応接室は、一階の玄関から一番近くにある部屋だ。テオの部屋を出て、突き当りを曲がる。二階にも似たような部屋はあるが、散らかっているため今は使えない。
試しに、ノアが応接室のドアノブを回してみたが、ガチッと中途半端な音が鳴るだけで扉は開かなかった。ノアは溜息を吐き、ノックする。
「博士、博士! テオさんがいらっしゃいました!」
「クリス! いるかい?」
ガタン、と中で大きな音がした。しばしの沈黙の後、ゆっくりと、ガチャン、と鍵の開く音がする。ノアが中から開くのも待たずに、ドアノブを一気に回す。
勢いよく開いた扉の前にいたのは、クリスではなかった。険しい顔をした老人が、岩のように、びくともせずに立っている。その背後、部屋の中央には、あからさまに不機嫌そうなクリスがいた。床に片膝を立てて座り込み、俯いている。どこかげっそりとした様子で、無造作に束ねられた髪は、いつにもましてボサボサになり、左頬には赤い痣ができていた。ノアは老人を無視して中へ入り、クリスへ駆け寄る。
「博士! 何ですかその痣は!」
「面倒なことをしてくれたな、ノア」
「私を除け者にするからですよ。氷を持ってきますから、今度は絶対に閉め出さないでくださいね」
「触るな、痛いぞ! ああくそ、何てお節介な助手なんだ……」
毒づきながら、ソファに座らされたクリスは、恨めしそうにアレックスとテオを見た。アレックスは、クリスに声をかけたかったが、間に老人が立ちふさがっているため、声をかけづらい。
部屋の中には、他にも年配の男が三人程いて両膝で跪き、厳しい面持ちで視線を下に向けていた。だが、彼らの表情も、老人の顔の険しさには及ばない。老人は長い杖こそ持っているものの、弱々しさは微塵も感じられず、むしろ重々しさすら感じられる雰囲気だ。
(見た感じ、こいつが長老か)
長老は、人を殺さんばかりの眼光でアレックスを睨みつけ、テオへ視線を戻して、眉間に深くシワを刻んだまま、目を閉じた。
長老の雰囲気に気圧されているのか、首にしがみつくテオの腕に、ほんの少し、力が入る。
「ねえ……あの、君が長老? 僕はテオ、よろしく」
テオが片手を長老に差し出す。しかし、長老は深く、長い深呼吸をすると、気難しそうな顔のまま、ゆっくりとその場に膝をついた。行き場を失ったテオの手が、心許ない様子で元の位置に戻っていった。
長老と背後の男達は、頭を下げた。ただ頭を下げたのではなく、両手のひらを外へ向けて背中に回し、首をほとんど曲げず、上半身だけを前へ傾けるお辞儀だ。見たことのない形式に、アレックスは面食らう。
「人魚よ」
しゃがれた声がその場に落ちた。
「あなたに、言うべきことがある」
「クリスのことかい? クリスは僕に親切にしてくれてるし、僕の友達だよ。責めないでくれないかい?」
友達、と聞いたクリスが一瞬喜色を浮かべたが、周りの男達にジロリと睨まれ、唇を引き結んだ。
長老は無言で首を振る。
「『人魚よ、あなたの心身を守るためにも、人間と関わってはなりません。どうか、海へお帰りください』」
恭しく頭を垂れた長老は、テオに懇願しているようにも見えた。アレックスは片眉をあげて、首を傾げる。
「何だそれ?」
「この言葉は、私達が生涯で人魚に会ったなら、必ず言うべきだと、古くから伝えられてきた」
アレックスの疑問に答えているのか、ただの独り言なのか、どちらにもとれる口調で長老は語る。
「人間は、人魚と関わってはならない。人間は愚かで、浅はかで、人魚を不幸にする存在だ。だから、関わってはならない。帰らなければならない」
「嫌だよ」
長老の言葉を遮って、テオがきっぱりと告げた。あまりにきっぱりと言うものだから、アレックスは、腕の中の表情が気になった。こっそり窺い見ると、テオは凪いだ表情で、少々不服そうに唇を尖らせている。
「君の言っていることは、よくわからないよ。僕はまだ帰らない。ここは楽しいことばかりで、何も不幸じゃないよ」
「……」
長老は顔色一つ変えないまま、微動だにせず沈黙した。誰も言葉を発さず、その場に重苦しい空気が満ちる。このまま無言が続いても埒が明かないため、アレックスは口を開いた。
「まあ、何をしようとテオの自由なんだから、諦めるしかない」
長老はピクリと眉を動かし、目を細めてアレックスを見上げた。眼光の鋭さに、思わず冷や汗が流れる。
「他所から来た青年よ、君も帰りなさい。君のような人間が、人魚を不幸にするんだ」
「は?」
初めて面と向かって言われた言葉に、アレックスはカチンときた。
「俺が何をしようと、俺の自由だろ? 俺の行動をあんたに決めつけられる謂れはない」
「青年よ。君は自由というが、君の自由の影にどんな犠牲があるのか、考えたことがあるのかね」
「何を言ってるんだ?」
「君は、一人でここに来たそうだな。君がいなくなって困る人はいないのかね」
アレックスの脳裏に、ジュリーや両親の顔が過った。
(だからなんだっていうんだ。そんなことをいちいち気にしてたら、為せるものも為せなくなる)
フンと鼻を鳴らして、アレックスは唇を真一文字に引き結ぶ。長老はしばし、生意気な態度のアレックスを見つめていたが、フウと短く息を吐いた。
「戻るぞ」
背後にいた男達が、目配せしあいながら頷く。長老と男達は手を背中に回し、先程と同じ形式で頭を下げた。彼らのこの動作は、全て人魚のテオに向けられたものだ。自分には欠片も向けられていないことは、アレックスにもさすがに理解できる。しかし、そんな文化を察することのできないテオ自身は、彼らの礼が自分に向けられているとはわからない。人間の行う不思議な動作に、ただただ困惑している。
長老は、最後にクリスを一瞥すると、男達を連れて出ていった。大きな氷を持ったノアがちょうど戻ってきて、氷をクリスに押し付けると、長老達の見送りに行く。人魚の研究をしているため、館の中には見られたくないものが多いのだろう。きちんと長老達が出ていったのを見届けたノアは、すぐに戻ってきた。
アレックスは、クリスの向かいにあるソファにテオを降ろす。腫れた頬を冷やしているクリスは、ぐったりとソファに背中を預けて唸っていた。
「うーむ、あれはまた来るな……何て面倒な」
「僕、クリスに悪いことをしてしまったね」
「俺も同じだ」
アレックスはテオの隣に腰を下ろし、海で子供に姿を見られ、船着き場まで送り届けた話をした。
「館から離れすぎたのが、そもそもいけなかった。悪かった」
「まあ、長老達も似たような話をしていたし、大方そんなとこだろうとは思っていたさ。人魚と人間では感覚も違うのだから、こういうこともあるだろう。いやはや、興味深い」
「何をされたんだ?」
アレックスが問いかけると、クリスは不服そうに唇を尖らせた。
「頭に血が昇った爺さんに、一発殴られただけさ。しかし、あの人はどうも歳の割に馬鹿力で困る」
言葉の通り、クリスの頬は、見ている方が痛いくらいに赤黒く腫れている。喋りづらそうだ。ノアが片手で無理やりクリスの口をこじ開け、憤慨した。
「あ! 口の中も切ってるじゃあないですか!」
「道理で口の中が鉄臭いはずだ。人魚の歯なら、切れるだけじゃ済まなかったかもしれん。歯が鋭くなくて、良かった良かった」
アレックスは傍らへ視線を向けた。テオは眉を下げて、心配そうにクリスを見つめている。当のクリスは、喉元過ぎて熱さを忘れたのか、あっけらかんとしてノアの手当を受けている。
アレックスはソファの肘掛けに体重をかけて、足を組んだ。
「人魚信仰ってやつを初めて目の当たりにしたけど、思ったより人魚に友好的じゃないんだな」
「それは僕も感じたよ。嫌われてるようではなかったけど、帰って欲しいだなんて、何だか拒絶されてるみたいだ」
テオもアレックスの真似をして、肘掛けに体重をかけながら頷く。テオが離れたことで、アレックスとの間にV字の空間ができた。アレックスは、何となく体が寒くなった。
「この島の人魚信仰というのは、曰く付きなのだよ」
「曰く付き?」
「そうさ。伝説みたいなものだが、大昔に……」
喋りづらそうにクリスが続けようとした時、ダンダンダン、と微かな鈍い音が聞こえた。クリスが口を閉じて辺りを見回す。
「……何か聞こえたか?」
「玄関かもしれません。見てきます」
ノアが腰を上げる。やや警戒した面持ちで出ていったノアは、しかし、拍子抜けした様子で戻ってきた。
「あの、島の子供が来ています。部屋に入れて良いですか?」
アレックスは立ち上がり、扉を細くあけて廊下を覗き込んだ。窓際に、ソワソワと落ち着かなそうにした少年が立っている。背の低い彼では、ドアノッカーの位置に届かず、手でドアを叩くしかなかったのだ。目があった少年は、何も言わずにおずおずとアレックスを見上げた。
「……また会ったな」
アレックスは少年を招き入れるため、扉を大きく開けた。
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