第5話


「アレックス、早くおいでよ! いつも遅いよ!」

 スイスイと水路の先を泳ぐテオが、高く上げた尾びれを揺らす。行く手を阻む草木をかき分けながら、アレックスは汗を拭った。

「テオ、人間っていうのはな、陸地だからって、足が速くなるわけじゃないんだ」

「そうなのかい? 人間には足があるのに、変だね」

 テオはその場でUターンし、アレックスを迎えにやってくる。

 クリスの館に滞在することにしたアレックスは、これ幸いとばかりに、テオと遊び暮らしていた。人の言葉を覚えたばかりのテオの練習に付き合ったり、共に本を読んだり、館の裏手を散策したりもしている。

 テオの部屋から外へ続く水路を進むと、生い茂る草木の間を通って、岩場へと続き、小さな砂浜へ出る。アレックスが、テオに連れてこられた砂浜でもある。人魚用に作られた水路は、人間が通ることは想定されていないため、陸に道らしい道などない。水路の横の草木をかきわけ、足元の悪い岩場を進み、最近、ようやく落ち着ける場所を見つけた。

 それは、海から天へ目指して、突き上げるようにそそり立った岩だ。波の打ち付ける岩場の中でも、比較的高さがあり、足元も安定している。

 草木を抜けたアレックスは、岩場の端まで歩いていくと、一旦海へ入った。例の岩は、岩場の端から飛び越えるには遠すぎるが、数秒海の中を歩けば、辿りつける距離にある。深さもそれほどなく、腰辺りまで浸かってしまえば、足の裏は砂を踏みしめることができた。海水で額の汗を豪快に洗い流すと、それまで水路越しに付き添っていたテオが、楽しげな表情で一気に近づいてきた。

「アレックス、やっぱり君、髪が濡れてた方が良いよ」

「そうか?」

 アレックスは首を傾げる。テオからしてみれば、体が濡れている状態が、一番常識的な姿なのだろう。

 アレックスは、テオと共に突き上げた岩へと向かった。岩の傍らには、小さな岩がゴロゴロとくっついているため、それを階段のように使って登る。海中から顔を出した岩の上部は斜めになっているが、人がずり落ちる程の急斜面ではない。さらに上部の端っこは、ゴツゴツとしていながらも丸みがあって、座りやすかった。ここへ来ると、大体いつも、アレックスが丸みのある部分に座ったり、背中を預けたりする。テオは水中の岩に腰掛け、体の上の方だけ出して、岩に背中を預けている。そうして、目に映るものの話から、アレックスの航海話、テオの海の中の話まで、色々な他愛もない話をした。時には、うとうと微睡むこともあるが、これには注意が必要だ。

「今日も良い天気だね。日向ぼっこしてたら、眠くなりそうだ」

「なら、俺は満潮に気づけるよう、起きてないといけないな」

「この間はびっくりしたよ。僕はすっかりよく寝ちゃって、あやうく君は溺れるところだった」

「あれは肝が冷えたな」

 思い出して、アレックスは肩を揺らして笑った。思えば、この高さなら、体を起こせば溺れることはないはずだった。ただ、あの時はつい眠りこけてしまい、目覚めたら腰辺りまで海水に浸かっていて、仰天したのだ。テオが水中でぐっすり眠っていたため、アレックスの寝ぼけた頭は、まるで水上に一人取り残されたように錯覚した。慌てた拍子に海に落ち、驚いて目覚めたテオの尾に叩かれたのは、笑い話だ。

「今日は寝ないように動こう。あっちの方へ行ってみないかい? アレックス」

 テオはアレックスの手を引いて、来た所からは少し離れた岩場を指差した。数秒潜るどころか、泳がないと辿り着けそうにない距離だ。

「あんまり館から離れないようにって、クリスに言われてる」

「あんな距離、離れてるうちには入らないだろう?」

 テオは怪訝そうに、アレックスを見上げる。人魚であるテオにとって、水中を進む距離は、人間よりも短く感じられるのだ。アレックスは、その事実を大して気にも留めないで、笑って頷いた。細かいことを考えるより、今提案された冒険の方に興味をそそられた。

「それもそうか。なら、いいか」

「疲れたら、僕が引っ張っていくよ」

 テオに導かれ、アレックスは海へ潜る。何度も溺れかけた身だが、泳ぐこと自体は得意だ。荒れていない穏やかな海を進むなら、むしろ楽しいくらいだ。

 辿り着いた岩場は、なだらかな曲線を描き、岩壁をぐるりと回って向こう側まで続いていた。アレックスは岩にしがみついて、何とはなしに向こう側へ身を乗り出す。岩壁は、特段変わったところもなく続いている。背後から進み出てきたテオが、尾を大きく振って水をはねかした。

「知っているかい? ノアに聞いたんだけど、ここを回って泳いで行くと、船着き場があるんだって」

「船着き場?」

「そうだよ。島の人がいるから、近づいたり、話しかけたりしないようにって言われた」

 アレックスの胸に、暗雲が過った。現地住民と直接会ったことはないが、クリスがテオの存在を隠したがっていることは、知っている。人魚を研究に協力させているのは良しとされないから、という理由だけではない気がしていた。

 人魚信仰のあるこの島で、人魚が発見されるとどうなるか、アレックスには予想できない。予想できないから、避けたかった。

 船着き場までの距離は遠そうだが、何だか妙な予感がする。

「テオ、やっぱり戻った方が良いんじゃないか?」

「疲れちゃったかい?」

「そういうわけじゃないけど……」

 岩にしがみついて、アレックスは言葉を濁す。理由を上手く説明できないまま唸っていると、チカッと何か光るものが、視界の端で目を刺した。続いて二人の耳に、甲高い叫び声が飛び込む。

「わーーーっ!!!!」

 二人はぎょっとして、声の主を探した。再びチカッと何かがちらつき、アレックスはそちらに目をむける。船着き場方面の岩の隙間から、小さな人影が覗いていた。背の高さから、幼い子供だろう。子供は、顔が口と目玉だけになるんじゃないかというくらい、大きく口と目を開けて、二人を凝視していた。

「……に………に……ん………」

 パクパクと口を開け閉めしたかと思うと、そこら中に響く大声で、子供は叫んだ。

「人魚がいるうーーーー!!!!」

 子供は、泡でも吹きそうな勢いで仰け反ると、足をもつれさせながら後退り、そのまま海へ落ちた。

「うわーっ!」

 水しぶきを見たテオが、稲妻のような素早さで、アレックスの隣から消える。アレックスが目を瞬いた時にはもう、子供を抱えあげていた。テオは困り果てた顔で、アレックスの方を見ると、片手で何度も手招きする。

「ア、アレックス! ちょっと助けておくれ! 僕じゃ舟を使えない!」

「舟?」

 アレックスは、テオよりはるかに時間をかけて、彼らのもとへと泳いで向かった。テオの救助があまりにも速かったため、子供は海水を一飲みしただけで、怪我もなければ意識もはっきりしている。ただ、一瞬とはいえ、海へ落ちて溺れかけたことと、背後に人魚がいて、抱きかかえられているという事実に、パニックになっているようだ。アワアワと言葉にならない声を出しながら震え、顔だけ水面から出している。腰を抜かしているのか、体は水にプカプカ浮いているだけだ。

 岩影には小さな舟が、ひっくり返って浮かんでいた。

(なるほど。この子供は、これを使ってここまで来たのか。慌てすぎて足を踏み外した時に、舟もひっくり返ったんだな)

 アレックスは、岩に手を付きながら何とか舟をひっくり返した。中に多少水が入ってしまったが、乗るのに支障はなさそうだ。

「この人を中に入れたら、僕が下を支えるから、アレックスも中に入れるかい?」

「ああ」

アレックスは子供を入れやすいよう、舟を傾けた。テオは抱えていた子供を舟にいれ、舟の下へ潜り込む。

「おい、あんた、しっかりつかまってないとまた落ちるぞ」

 アレックスは舟の縁にしがみつき、乗りやすいように傾けた。子供は命の危機を感じたのか、慌てて全身でひしと舟にしがみつく。アレックスが乗ると、小さな舟はズシリと海中に埋まった。

「もう大丈夫だから、出てきて良いぞ」

 亜麻色の頭が舟底から出てきて、ふうと息を吐く。

「舟を真下から支えるのは、流石に重いね……けど、どうしよう、アレックス。この子を家に返すには、船着き場に行かないといけないだろう? この辺りには、さっきの砂浜くらいしか、乗り降りできそうな場所がないし。僕が舟を押して送り届けることはできるけど……」

「そうだな……」

 アレックスは、まだ舟にしがみついて小刻みに震えている子供を一瞥する。ここにいるということは、島の住民なのだろう。だとすれば、船着き場に行けば、あとは自力でも帰れるだろう。問題は、この溺れかけた子供を一人で船着き場に返すのは、さすがに躊躇われるということだ。

 かといって、テオ一人で舟を運ぶのも問題だ。見えないように舟を押したら、舟が勝手に動いているように見えて不自然だ。住民に姿を見られれば、それこそ何が起こるかわからない。

「そこら辺に、この舟のオールが沈んでないか?」

「探して来るよ」

 テオは海中に潜ると、すぐに木の棒を持って戻ってきた。

「これかい?」

「それだ。俺が漕ごう。見えないように押してくれると、速くて助かる。人に見られそうになったら、教えるよ」

「任せておくれ」

 テオは胸を叩いて、水中に姿を隠した。アレックスがオールでひと漕ぎしただけで、嘘のように舟が進む。

(やっぱり、水中の人魚は凄いな)

 アレックスが、大した労力もかけずに、岩壁沿いに舟を漕いでいると、間もなくして、船着き場らしきものが見えてきた。

 非常に小さく簡素な作りで、ほとんど何もない砂浜だが、人影がチラホラ見える。

(ああ……まずいかもしれない)

 アレックスは軽く舟の床をトントンと叩き、合図を送った。テオは意図を察したのか、舟の速度がガクンと落ちる。そこから先は、あたかもアレックスが、一生懸命舟を漕いでいるかのように見えていることだろう。

「坊主、聞こえてるか? 大事な話をするから、こっちを見てくれ」

 アレックスはできるだけ声を低くして、子供に語りかける。子供に反応はない。

「人魚のことだ」

 子供はビクリと肩を震わせると、ゆっくりと振り返った。もう震えは止まっており、目には、はっきりとした意思の光が宿っている。アレックスは険しい顔を作って、子供を睨みつけた。

「お前を助けてくれた人魚のことは、誰にも言うな。人魚もそれを望んでる」

 子供は何を考えているのか、潤んだ瞳でじっとアレックスを上目で見ている。目尻に溜まった涙が光るのを見て、少々心が痛みつつも、アレックスは咳払いをして繰り返した。

「いいな、言うなよ。返事は?」

「……」

 子供は何も答えなかったが、コクコクと小さく頷いた。

 アレックスは、船着き場の端の方に舟を付ける。出来るだけ目立たないところを選んだのだが、あちこちから刺さるような視線を感じた。子供は足腰に力を取り戻したようで、ふらつきながらも、アレックスの手を借りずに舟から下りる。テオはもう舟の近くにはいない。姿を見られる前に、そっと館へ戻っていったのだろう。

 口を真一文字に結んだままの子供へ、アレックスはもう一度念押しした。

「言うなよ」

「……」

 子供は、小さく頷いただけだ。何とも不安が残る反応だが、このままここにいても、周りから見れば、不審なのはアレックスの方だ。子供に詰め寄る見知らぬ余所者でしかない。

 アレックスは、数人からの無遠慮な視線にチクチク刺されながら、何でもない風を装って、そそくさと船着き場を離れた。

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