第4話
目覚めると、アレックスは見知らぬ部屋のベッドに横たわっていた。
(こういう状況は二度目だな……)
頭上に広がる天井は、古く色褪せている。ベッドはあまり使われていないのか、埃臭い。のそりと起き上がると、後頭部がズキズキと痛んだ。浜辺で、何者かに殴られた記憶はうっすらとあるが、人魚に興奮していたこともあり、直前の光景は夢の中の出来事にも思える。アレックスはこめかみを押さえながら、ぐるりと部屋の中へ視線を走らせた。
ベッドは埃臭かったが、他は案外綺麗に掃除されている。少ない調度品の趣味は良く、隅に小さなテーブルと椅子が、一組あった。そこに、浅黒い肌の青年が、真っ直ぐに座って本を読んでいる。
「……なあ、そこのあんた。俺はどうしてここにいるんだ?」
青年は、アレックスの声を聞いて顔を上げると、ガタンと音を立てて立ち上がった。
「あっ、お目覚めでしたか。気が付かなくて、すみませんね。ここは博士の家です。あなたは……ええと、ちょっとした手違いで、博士があなたを殴ってしまったんです。ですから、こちらで手当をしました。あ! ご安心を。体に異常はありませんでしたよ」
「手違い? 博士?」
アレックスは眉を寄せて、青年を見つめた。その口ぶりから、浜辺の出来事が夢ではないとわかった。どうやら、ここは『博士』とやらの家らしい。多くの疑問をひとまず置いて、一番気になっていたことを口にする。
「彼……あの人魚は?」
部屋のどこにも人魚がいないことに、アレックスは内心、焦った。せっかく会えたというのに、まさか帰ってしまったのだろうか。 まだ話したいことが、たくさんあったというのに。
顔色の悪いアレックスを前に、青年は目尻を下げて頷くと、手招きした。
「あの方でしたら、ご心配なく。博士が頼んで、この家に留まってもらってます。しばらくは、ここにいてくれそうです」
しばらくいる、という言葉に、アレックスは胸を撫で下ろした。
「そうか……あんた、名前は?」
「ノアです。お客人、あなたのお名前は?」
「アレックス」
青年は一つ頷くと、アレックスを連れて部屋を出た。一歩外に出ると、ツンとした、カビ臭い匂いが鼻を刺激する。廊下は散乱する物こそないが、窓も床も年季が入っており、どこか廃墟にも似た、退廃的な雰囲気があった。
「客室のある二階は、長い間使っていなかったので、掃除が行き届いていなくて。他の部屋はまだ散らかっていますから、不用意に入らないように、お願いします」
「覚えておくよ。そうだ、後で手紙を出したいんだが、紙とペンを貸してもらえないか?」
「お安い御用ですよ」
ノアは中央の階段を降りると、真っ直ぐに進んで、廊下の突き当りにある、両開きの扉を開けた。途端、フワリと湿気が二人を包み込み、せせらぎに似た音が耳に届く。
中は、アレックスがいた客室よりも広く、館の外に面した壁は、ガラス張りになっていた。硬く、白いタイルの床は、数歩進んだところで途切れ、そこから先は、大きな池のような水場が部屋の大部分を占めている。奥にある噴水から、こんこんと湧き出る冷たそうな水は、ガラス張りの壁の外まで流れて小さな池を作り、さらに水路へと続いている。
「あの方は人魚ですから、こちらで過ごしてもらうことになりました」
ノアが言うや否や、パシャン、と水の跳ねる音がして、水中からニョッキリと亜麻色の頭が出てきた。見まごうことのない美しい顔に、アレックスの胸はドキリと高鳴る。
「私は博士に話してきますので、どうぞ、ごゆっくり」
ノアは穏やかに告げると、静かに出ていった。
アレックスは、硬いタイルの上を歩き、そうっと人魚に近づいた。人魚も水面を揺らしながら、タイルの際までソロソロとやってくる。浜辺で捲し立ててしまったことを反省したアレックスは、何と声をかけようか、迷った。まごついている間に、水から胸元まで出した人魚が、緊張と期待の滲む面持ちで、アレックスの顔を見上げた。
「……こ、こんにちは! アレ……アレッ、クス?」
舌っ足らずに呼ばれたアレックスは、驚いて一瞬声を失った。人魚がずっと無言だったため、言葉を話せないのかもしれないと、危惧していたのだ。杞憂だったばかりか、浜辺で捲し立てた名前を覚えてくれていたとは、思いもよらなかった。
「こんにちは」
ドキドキしながら、ぎこちなく挨拶を返すと、人魚は嬉しそうに頬を染めて、ニコリと笑う。アレックスは心臓を鷲掴みにされている心地になって、頭がクラクラしてきた。
「良かった! 僕の言葉、通じてるんだね」
「ああ、わかるよ。名前を聞いても?」
「僕はテオ」
「テオ……」
耳に沁み入る声に、体が痺れそうになる。人食い人魚の声を聞いても、意図しない誘惑に耐えられたが、真に求めていた者からの声には、たまらないものがあった。アレックスは、何度も彼の名前を繰り返して呟き、熱い眼差しでテオを見つめた。
「人間の言葉は習ったばかりだから、発音が違っていたら教えて、アレックス」
さっきよりも呼び慣れた声で、テオが名前を呼ぶ。彼は水から上がると、アレックスの隣にヒョイと腰掛けた。尾びれだけが水に浸り、ユラユラと揺蕩っている。
「テオ、人間の言葉はいつ習ったんだ?」
「二ヶ月前、君を助けた後だよ。あの時、言葉が話せなくて、ちょっと大変だったから、帰ってから人間の言葉を話せる人魚に教わったんだ」
「そうか……上手いな」
「本当かい? ちょうど時間が有り余ってたからね。毎日、一日中、練習していたんだ」
こうして言葉を交わせるようになったきっかけが、自分に関わっていると知り、アレックスは嬉しくなった。
「もっと早くに喋ってくれたら、良かったのに」
「上手く話せるか不安だったのさ。それに、君、ずっと一人で喋ってたじゃないか」
「悪かったよ。テオに会えたのが嬉しくて。そうだ、これを返し損ねてた」
アレックスは秘薬を取り出して、再びテオに渡そうとした。濡れた手の方へ差し出すが、テオは受け取らずに、しばし考え込んでいる。
「どうした?」
「僕、もう新しい薬、作っちゃったんだよね……薬を返そうとしてくれるアレックスは、良い人みたいだし、あげるよ。だけど、本当は人に渡しちゃいけないものだから、隠しておいておくれ」
「良いのか?」
「うん」
「ありがとう……大事にするよ」
アレックスは、冷たい手で押し返された手を、思わず握り返した。アレックスの真剣さなど知らないテオは、爽やかに微笑んでいる。二人がほんの数拍見つめあっていると、唐突に一本の腕がにゅっと伸びてきて、二人の間を無遠慮に引き裂いた。
「私にも見せてくれ」
「何だ、あんた!?」
飛び退いて手を隠すアレックスに、腕の持ち主は動きを止めた。一人の若い男が、不満げに唇を真一文字に結んでいた。緩くウェーブがかった金髪は伸び放題で、無造作に束ねられている。きちんと着ればそれなりに見えるだろう服の袖は捲られており、行き場を失った腕が、中途半端に空を掴んでいた。
「何だ、ダメか? 助けたんだから、それくらいは良いだろう」
「博士、博士、助けたのは事実ですが、殴ったのもあなたです」
博士、と呼ばれた男の背後には、銀のトレーを持ったノアが立ち、小声で囁いている。男はふむ、と呟いて、アレックスへ視線を移した。
「さっきは失礼したな。君達が知り合いだったとはわからず、人魚が襲われてるのかと勘違いした」
「俺を殴ったのはあんたか!」
「ああ、このクリスだとも」
彼は微塵も表情を変えずに頷くと、傍らに置いた木箱を開けて、何やらガサゴソと不穏な動きを始めた。手に注射器を持ち、人魚に片手を差し出す。
「テオ、採血させてくれ」
「何してるんだ!?」
きょとんとしているテオとクリスの間に、アレックスは体を割り込ませた。
「血をほんのちょっと抜いて調べるだけだ。怖くないぞ」
「何でそんなことをする!?」
「研究のためさ。アレックスだったか? 私は人魚の研究をしていてな。何、掻っ捌いたりはしない善良な研究者だ。人魚を尊ぶこの島で、人魚に無体は働けん」
クリスの言葉に、アレックスは思い出した。元々、彼は人魚島行きの船に乗り、テオに運ばれて、この島にやってきた。この家の主について言及するのを後回しにしていたが、アレックスは、クリスをまじまじと見て確信した。
「この島が、人魚島か」
「確かに、外からはそう呼ばれている。現地住民は人魚を大切にしているから、実はこうして本物を相手に研究してるのも、バレたらまずかったりする」
その言葉を聞いたテオが、アレックスの後ろから顔を覗かせた。
「でも、クリスは親切な人だ。僕が過ごしやすいように気を回してくれてるし。誰かがクリスを責めに来たら、僕が証言してあげよう」
テオが、屈託のない笑顔を見せてクリスの手をとった。すかさずクリスは手をひっくり返し、注射器で素早く血を抜き取る。
テオの素直さと警戒心の薄さに、段々とアレックスは心配になってきた。先程は、すぐにアレックスを信用してくれたことが嬉しかったが、この分だと、相手が詐欺師だろうが盗賊だろうが、たった一回丁重に扱われただけで、コロッと騙されそうだ。
テオの言う通り、この館は人間にとって、驚くべき造りになっている。普通は、館の中にこんなに巨大な水場はない。まさしく、人魚のために造られた場所と言っても、過言ではないだろう。
「テオには研究のため、しばらくここにいてもらうことになっているが、アレックスはどうする? 私の邪魔をしないならいても別に構わんが、帰るならノアに船着き場まで案内させよう。島の住民は偏屈だが、こちらが下手なことをしでかさなければ問題ない」
「俺もここにいる」
アレックスは即答した。せっかく会えた命の恩人のことを、まだ知り足りていない。文字通り命懸けで人魚に会えたというのに、ここで帰るのも勿体ない。クリスは、興味のなさそうな顔でノアを振り返ると、アレックスとテオの世話を一任した。
「騒がしくない程度に好きにやってくれたまえ。ここには大事な研究資料があるから、ある程度行動は制限させてもらう。まあ、詳しいことはノアに聞いてくれ……いやあ、楽しみだな、この血をどうしてくれようか……いっそ私の腕にでも……」
クリスは抜き取った血液を箱に入れて、ウキウキとした足取りで部屋を出ていった。ノアがその後ろ姿を不安げに見て、銀のトレーを二人の前に置く。
「少し、席を外します。すぐに戻ってきますので、こちらはお二人でどうぞ」
それだけ言うと、急ぎ足でクリスの後を追いかけて行く。
アレックスがトレーを開けると、中には一房の葡萄が入っていた。テオが物珍しそうに目を輝かせて、顔を近付ける。
「それは葡萄かい? 絵で見たことあるけど、本物は初めて見たよ! どうやって食べるんだい?」
「皮をむくんだ。ちょっと待っててくれ、俺がやろう。種があるから、飲み込まないようにな」
アレックスは器用に皮を剥き、瑞々しい果実をテオに差し出した。手で受け取るかと思ったが、親鳥から餌を貰う雛鳥のように、テオは反射的に口を大きく開ける。視界に入った光景に、アレックスは目を
(うおっ……!)
テオの口腔内は、人間とは少し違っていた。人間と同じく歯はあるが、その形状はやや鋭利で、先端は尖っている。噛みつかれたら痛いだろうことは、容易に想像できる形状だ。人食い人魚に噛みつかれて、絶叫をあげる船員の姿を思い出してしまい、アレックスは思わず怯んだ。
(いや……ここにいるのは、テオだ。あいつらじゃない)
すぐさま気を取り直して、テオの口に葡萄を放り込む。
「……? ……! あはは、ぶよぶよしてる」
楽しげに呟くテオの口から、バリバリッと硬いものが砕ける音がした。
「……テオ、種」
「種? あったかなあ、そんなの」
ケロッとしているテオの喉が上下するのを見て、アレックスは怖いような、可愛いような、何とも言えない気持ちになった。
「……気に入ったか?」
「うん、美味しかった!」
テオは無邪気に、ニコニコと笑っている。アレックスは、自分の感情の複雑さに叫び出したい気持ちを飲み込んで、葡萄の皮を剥いてやることだけに専念することにした。
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