第3話


 つい先程まで平穏だった船の上は、騒乱の様相を呈していた。

「に、人魚だ! 人魚がいる! 本当にいたんだ! 皆見ろよ!」

「岸が見えるぞ! もっと寄せろ!」

「馬鹿野郎! あれは岩だ! 船に穴が空く!」

「あそこに人魚がいるんだぞ! ほら、もう少し近付けば……」

「おいおいおい、やめろ! 船を沈めるつもりかお前ら!」

 あちこちから、怒号が飛び交っている。操舵を奪おうとする者と、守ろうとする者が揉み合う傍らで、ニタニタと狂気じみた笑顔で、海へ飛び込む者がいる。これだけ騒ぎが起きているのに、どこかから聞こえる呑気な鼻歌は、鳴り止まない。それどころか、より楽しげに調子を合わせて、大きさを増している。

(……違う! これは、人魚の歌だ!)

 アレックスはギクリとした。船上の誰も、歌など歌っていない。段々と大きく、はっきり聞こえてくる歌声は、美しい女の声だ。船員に、女は一人もいないのだから、聞こえるはずがないというのに。さらに悪いことに、喧騒に紛れた場違いな声は、歌だけではなかった。

 アレックスは、恐る恐る振り返り、老人が沈んだ後の水面へ視線を落として、身を強張らせる。そこには、いくつもの美しい女の顔が浮かび、瞬き一つせずこちらを凝視していた。

「お兄ちゃん? 兄さん? 兄貴?」

「お父さん!」

「おじいちゃん」

「あなた! 愛しい人、私はここよ! 早く来て……」

「うふふふ、まだそんなところにいるの? こっちへいらっしゃいな。うふふふふ、あはははは」

 時に少年のように、老女のように、女達は声色を変えては呼びかけてくる。判断力を失った船員の幾人かは、その声を自分の大切な人からの呼び声だと思い込み、ふらりと海へ落ちていく。いくつも浮かぶ女の顔は、どれも優美に微笑んでおり、こんな時でなければ、アレックスも見惚れていたかもしれない。絡みつく視線を振り切って、喧騒に意識を戻したアレックスは、この場でどう動くべきか、必死に考えた。いつの間にか、船は航路を大きく外れているらしく、正気を保っている船員達が、どうにか舵を取ろうとしている。誰かが押さえつけていないと、舵は勝手に回るのだった。先程よりはるかに高くなった波が幾度も襲いかかり、船の上に覆いかぶさっては、船員達を鈍色の海に引きずり込む。

 船員達は元々、波や霧といった、危険な航海条件をあえて選ぶことへの覚悟はあった。だが、人魚に復讐を誓っていた船員以外は、本当に人食い人魚しかいないのか半信半疑であった上、たとえ人食い人魚しかいなかろうと、逃げ切れれば人魚島へ行けるのだと、楽観的だった。アレックスもその一人だ。だからこそ、想像を超えた人食い人魚の数と、狂っていく仲間の姿に、一層混乱し、焦りを募らせていった。

「岩礁に寄ってる! 戻れ!」

「馬鹿言うな、人魚がそこにいるんだぞ! 敵を目の前にして逃げられるもんか!」

「会いたきゃ一人で勝手に会いに行け! 俺は船を戻すぞ!」

 人魚に恨みのある者が、早まって海へと飛び込んでいく。その横で、恍惚とした表情をした者も、両手を広げて落ちていく。時折、飛び込んだ者らが水面から顔を出しては、水面を激しく叩きながら絶叫を轟かせている。軽やかな歌声に混じるそれらは、船員達の恐怖を掻き立てるのに、十分すぎた。

「ぎゃああああ!」

「痛い! 痛い! 助けて!」

「違う! 違う違う! こいつじゃない! 俺の人魚はこいつじゃない!」

 憧れの甘い夢から覚めた者は、耳を抑えて、隅で震えながら蹲っている。既に、阿鼻叫喚となった船上の騒ぎに巻き込まれ、あっけなく落ちていった者もいる。アレックスが、正気を保っていそうな船員達の方へ、加勢しに行こうと足を踏み出した時、一際大きく船が揺れた。ミシミシと鈍い音が辺りから響き、ゾワリと毛が逆立つ。大きく傾いた甲板が、高波に沈んでは持ち上がり、人々を巻き込んでいく。

「うわっ」

「アレックス!」

 バランスを崩したアレックスを掴もうと、バートが腕を伸ばした。しかし、彼の指先が小箱の入ったポケットの方へ行ったため、アレックスは咄嗟に払い除けた。

「何してるんだ! 危ないぞ!」

「近寄るな!」

 なおも手を伸ばすバートから、アレックスは身をかわす。アレックスの濃青色の瞳には、バートが掴みかかって、小箱を奪おうとしているように見えていた。アレックスが正気なのか、パニックになっているのか、狂ってしまったのかは、誰にもわからない。

 二人が揉み合っていると、再び船が大きく傾いた。

「アレックス!」

 ふいに体を支えていた力がすべて消え去り、アレックスは背筋が凍った。彼の足は甲板から離れ、体は手すりを越えていた。逃げ惑う人々が遠のいたかと思うと、背中に鋭い衝撃が走り、体が冷たい水に飲み込まれる。あっという間に空気がなくなり、視界が真っ暗になった。脳裏に『死』という文字が過る。

(……!)

 アレックスの中で、かつて両親から言われた嘆きの言葉が、走馬灯のように思い起こされた。両親は、かつて息子をこう表現した。

『お前は自由奔放で衝動的なのに、運と生命力だけは強い。だから、たちが悪い。いつも助かってしまうから、いつまで経っても懲りないんだ』

 二ヶ月前に海に落ちた時も、生き延びて、ジュリーの元へ辿り着いたくらいだ。たった今、この時も、再び海へ落ちたアレックスに、いくつかの偶然と幸運が訪れていた。

 一つ目は、船が人魚の包囲から抜け出している最中であり、最も危険な場所からは、遠ざかりつつあったこと。

 二つ目は、アレックスが落ちた場所が、多くの船員達が落ちた場所とはずれており、人食い人魚が少なかったこと。

 三つ目は、わざわざ人魚の生息地に向かうらしい風変わりな船の話を、一人の人魚が聞きつけて、興味を抱いていたこと。

 そして、四つ目は――興味本位で船を見ようとした、その一人の人魚が、アレックスの真下を通りがかっていたことだ。

(………)

 ぶ厚い水流に呑み込まれたアレックスの視界は、ほの暗く、水面はどんどん遠のくかに思えた。ところが、もがくより先に、背中が何かにぶつかる。その何かに体を包まれて、アレックスはドキリとした。

 『何か』はアレックスの胴体をグッと締め付けると、衝撃的な速さで一気に浮上する。

「ぷはっ!」

 水面へ運ばれたアレックスは、勢いよく顔を出して大きく息を吸い込んだ。水を吐き出し、咳込みながら、空気をありったけ肺に取り込んでいると、霧の中から滑らかな白い腕が伸びてきた。アレックスが落ちたことに気づいたのか、眼前に美しい女の顔が迫っていた。

(捕まる!)

 女の爪が頬を引っ掻いた刹那、彼の体は再び強く引っ張られ、女から引き離される。小首を傾げた女は海中へ潜り、今度はアレックスの腹へ手を伸ばした。今度は触れるより先に、体が遠ざけられる。女はアレックスを追いかけるが、アレックスを引っ張る力は強く、大きく、速かった。

 アレックスは、自分を引っ張るこの力が、自分を助けようとしてくれているのだと直感した。水が大きく跳ねて、うす紫の尾びれがチラリと視界に入り、自分の心臓が大きく跳ねる音を聞いた。

(チッ……視界が悪くてよく見えない!)

 度々頭が水中に沈むために、息を止めながら、されるがままに身を任せる。女は途中まで追いかけていたが、効率が悪いと諦めたのか、やがて、人が多く落ちた元の場所へと戻っていった。

 どれ程引っ張られたのか、いつしかアレックスは、霧の立ち込める海域から抜け出して、穏やかな波の中にいた。漂っていた緊張感は少し解けていたが、体を引っ張りながら進む速度は、相も変わらず驚くべき速さだ。アレックスは、呼吸にだけ気を付けて、後ろで泳いでいる何者かに、完全に身を任せていた。水を飲まないように上を向くと、雲の切れ目から、天使の梯子が差し込んでいるのが見える。

 やがて、雲の隙間から青空が顔を見せ始めると、ようやく、アレックスの足がザラザラとした硬いものに触れた。彼を引っ張っていた誰かは、アレックスをどこかの砂浜に運んできたのだ。身を任せていたとはいえ、長時間海水に浸かっていたアレックスは、ぐったりと疲れきっていた。気絶しそうな程重い体を波打ち際に投げ出して、ずっと体を抱えてくれていた誰かを視界に入れる。

 そこには、一人の人魚がいた。

 人間の男と変わらない一糸まとわぬ上半身に、眩く煌めく紫色の尾。淡い陽の光を反射する、亜麻色の美しい髪。人間の耳があるあたりからは、うす紫のヒラヒラとしたひれが、飾りのように垂れている。白く細い首にはチョーカーが巻かれ、チョーカーの真ん中には貝が付いていた。透き通った紫の目はアレックスを覗き込み、ゆっくり瞬きを繰り返している。白い手が頬に触れ、先程引っ掻かれたところを優しく撫でた。

 先程から焦らされていたアレックスの心臓は、堰を切ったように早鐘を打ち始めた。アレックスは、頬に触れている手をすかさず掴み、軋む体を起こす。瞬きでキラキラと光をちらつかせている瞳を見つめ返して、片手でポケットの中を弄った。ぐっしょりと濡れた小箱から貝を取り出すと、人魚は目を丸くして、不思議そうに貝に視線を移す。アレックスは、中に入っていた紫色の鱗を取り出して、人魚の尾と照らし合わせた。目の前で優雅に横たわる尾にあるものと、寸分違わず同じ色、同じ形だ。

(間違いない!)

 何度も思い返していた記憶が、アレックスに確信させた。アレックスは、興奮で呂律の回らない舌を何とか動かして、両手で人魚の肩をがっしりと掴む。

「俺は二ヶ月前、あんたに助けられたんだ! 覚えてるか? 額にこの薬を塗ってくれたことを!」

 はじめこそポカンとしていた人魚だったが、心当たりがあったのか、ハッとしてアレックスの顔をまじまじと覗き込む。ドキドキしているアレックスの前で、彼はパッと表情を輝かせて、コクコクと頷いた。その柔らかな笑顔を目にした途端、アレックスの胸で、表現し難い熱が噴き出し、満開の花が咲いた。

「覚えててくれたのか! 良かった……! 俺はアレックス! ずっとあんたに会いたくて、探してたんだ。あの時はありがとう、本当に感謝してる、感謝してもしきれないくらいだ、それに……そうだ、名前はあるのか? この薬も返さないといけないよな。それから……」

 矢継ぎ早に捲し立てられた人魚は、気圧されて再びポカンと口を開ける。アレックスの口からは、興奮と喜びと感謝と、今まで胸に燻っていた切望が複雑に絡み合い、考えるより先に、勝手に言葉を紡いでいた。頭の中はぐつぐつと沸騰しており、周りの景色など、何も見えていない。

 ゴン!

 鈍い音が、アレックスの頭から響く。目の前で、亜麻色の繊細な睫毛で縁取られた目が、見る見るうちに大きく開かれていく。磨き上げられた鏡のような瞳の奥に、アレックスは、自分の背後に立つ、何者かの影を見た。

 彼の意識はそこで途切れ、今度こそ力の抜けた体は、人魚に覆いかぶさって倒れ込んだ。

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