第2話
「まあ、怖いわ」
ジュリーが華奢な手で口元を抑え、アレックスに身を寄せる。男はすぐにデレデレと目尻を下げて、手を振って笑った。
「いやあ! 何も、何も怖いことなぞありゃしませんよ。奴らは皆、愚かなだけです。人魚に魅せられたんですよ」
「人魚に魅せられたって? どういうことだ」
アレックスは人魚という単語に反応して、思わず顔色を変えた。男は肩をすくめて首を振る。
「あいつら皆、人魚に会いたがってるんだよ。人魚に会うためだけに、あちこちから集まってきたんだとさ」
「会いに行くって、アテはあるのか?」
「さあ、そこまでは知らんな。気になるなら、直接聞いてみりゃあ良いのさ。頭のイカれた奴らだが、話はできるぞ」
男に促されたアレックスは、ジュリーを連れたまま集団に突っ込むことにした。集団は様々な面持ちの男達で構成され、年齢もアレックスと同じぐらいの若者から、老人までいる。陰鬱な雰囲気を漂わせる者や、どこか恍惚としている者もいる。相反する雰囲気を纏っていても、誰もが黙々と船出の準備をしているのが、なんとも異様な光景だ。
話しかけても良さそうな者を探していると、数人の男が目に留まった。右にいる若い男は仕事をしている風だが、明らかに手を抜いているために、暇そうだ。奥にいる真っ白な髭を蓄えた老人は、何かを見守る役割を与えられているのか、それとも眠っているのか、じっと座って動かない。手前で何やら話し込んでいる中年男性は、どこにでもいそうな親しみやすい外見で、眠たげに目を細めている。
アレックスは考えた後、中年男性が話し終わるのを待ってから、声をかけた。
「なあ、あんた、この船はどこへ行くんだ?」
「あ? ああ……人魚島へ行くよ」
「人魚島?」
その島の名は、アレックスも小耳に挟んだことがある。
本来は別の名前があるのだが、島の形が人魚の尾びれに似ていることから、そうあだ名されていた。ここからは数日かけなければ辿り着けない場所にあり、船も一日に一本あれば多い方と言える。島民は少なく、排他的な小さな島だ。
「どうして人魚島へ? あんたらは人魚に会いに行くと聞いたんだが、そこへ行けば会えるのか?」
「さあ、わからんさ。だけどあそこには、人魚信仰があるそうなんだ」
アレックスは訝しげに眉を寄せながら、内心納得した。ただ尾びれの形をしているだけならば、人魚島でなく、魚島でもひれ島でも良いではないかと思っていたのだ。人魚信仰などというものは初耳だが、そんなものが島にあるというならば、話は別だ。
「人魚信仰っていうのは、どんなものなんだ?」
「あんた、随分知りたがりだな。俺達の中にも実際に見たことのある奴はいないし、人魚を崇め奉ってるってことくらいしか知らねえんだ。何しろ、あの島はここから遠いからな。だけど、人魚を信仰してるくらいだ。何かしら人魚について、わかるかもしれねえ。姿絵なんぞ拝めれば最高だ」
「それはそうかもしれないが、ただそれだけのために、こんなに大勢で行くのか?」
人魚島は目立たない島だが、鎖国のように外界と関わりを断っているわけではない。実にささやかなものだが、交易だってしている。こんなに大勢で集まらなくとも、人魚島行きの商船くらい、探せばあるはずだ。それに同乗させてもらう方が、手っ取り早いだろう。
「他にも理由はあるさ。人魚島の外れには、人魚について研究している博士が住んでるらしいんだ。その人に会えれば、人魚の生態がもっとわかるだろうよ。それにな、俺達もただ島を目指してるわけじゃないのさ。むしろ、人魚島は到着地点なだけで、目的は別にある」
「目的?」
「航路さ。商船は安全だが、遠回りな航路しか使わない。なぜなら、近道をしようとすると、人魚の出る海域を通らなくちゃいけないからだ」
初めて耳にした話に、アレックスはハッと息を呑んだ。
「人魚が出るだって?」
「そうさ。表向きは波が荒れていて、霧も深く、船が遭難しやすいから危険だってことになってるが、それだけじゃあない。人魚が船を誘いこんじまうのさ。現にここには、その海域で人魚から逃げきったって奴もいるんだ。話は確かってことよ。まあ、そいつが生きて帰ってきたくらいだ。人を助けてくれる人魚もいるかもしれんし、そもそも人魚に出会えるかはわからなんだが……とにかく、そこを通って、俺達は人魚島へ行くんだ」
男の話に熱心に耳を傾けているアレックスの背後で、同じく話を聞いていたジュリーは、小首を傾げた。命からがら帰還した者の言うことなど、錯乱した者の妄言と大差ないではないか。それをどうしてこの者は『確か』などと言えるのだろう。百歩譲って本当だったとして、人食い人魚に会うのも、条件の悪い航路を使うのも、自殺行為に他ならない。それこそ、人魚会いたさに目が眩み、耳が塞がっているように見えた。
だが、目が眩み、耳が塞がっているのは彼らだけではない。
ジュリーの前にいたアレックスが、フラフラと男に近づいていき、こっそりと耳打ちした。
「なんだって? そりゃあ別に、ここにいる奴らは皆、似たようなもんだから、構わねえが……」
困惑した男の答を聞き、満足気に振り返ったアレックスを見て、ジュリーは嫌な予感がした。アレックスの濃青色の目は興奮と期待に輝いていたのだ。
「ジュリー、ちょっと行ってくる」
「アレックス様……!」
「悪いが先に帰っていてくれ」
非難の声色にもどこ吹く風で、アレックスは、人魚に魅せられた者達の群れへ加わっていく。ジュリーは一瞬、驚きに眉を顰めたが、目を閉じて軽く息を吐くと、何も言わずに背を向けた。
かくして、船はアレックスを乗せて予定通りに港を出た。件の海域に辿り着くまでの間、アレックスは甲板で、世間話の輪に転々と加わり、船員達がどのような目的でここにいるか、語り合うのを聞いていた。
アレックスを含め、船員は人魚に関心のある者しかいない。アレックスと同じく、人魚に命を救われた者もいた。もう一度会って礼を言いたいと、うっとりと語る男を見たアレックスは、自分を助けた人魚と同じ人魚でないことを祈った。人魚に大事な人を食い殺され、復讐心に燃える者もいた。人魚に感謝している者と、人魚を恨んでいる者。相反しているにも関わらず、彼らは衝突することもなく、互いに距離を保っている。船旅の作業も協力できているのだから、大したものだ。中には、人魚に会って気が狂ったのか、ただひたすら幻を眼前に見ている者もいた。人魚で一儲けしたいなどと、夢物語を語る者もいる。思惑こそ様々だが、彼らに共通しているのは、ただひたすら人魚を追い求めているということだ。
「なあそこの、飛び入り参加の兄さんよ」
アレックスが船員の輪から一旦離れて、すっかり水面だけになった周囲を眺めていると、隣にのそりと立つ人影があった。赤毛を潮風に靡かせた男は、アレックスより十以上は歳上に見え、暇そうに無精髭を撫でて欠伸をした。
「アレックスだ」
「俺はバート。アレックス、お前はどんな理由があって、ここに来たんだ?」
「俺を助けた人魚に会いたい」
「ああ、その手のやつね。ここじゃ珍しくないな」
「だろうな」
アレックスは軽く溜息を吐いて、水平線に目を遣った。空気は少し冷えていて、視界はくっきり明瞭とは言えない。この大海のどこかから、あの人魚が姿を見せてくれるのでないかと、切ない気持ちで思いを馳せた。願わくは、あの亜麻色の髪の人魚が助けた人間が、自分ただ一人であって欲しい。アレックスの中で、あの人魚の存在は、それだけ特別なものなのだ。
(まだ人魚とはっきり決まったわけでもないのにな……だが、十中八九、この予想は正しいはずだ)
彼はポケットの上でそっと拳を握り締めた。貝の中身が人魚の秘薬だと判明した日から、貝を小箱に移し入れて、常に身につけている。この秘薬はあの人魚との大切な繋がりであると同時に、気軽に他人に見せられるものではない。もしも再会できたら、返すつもりでいる。
アレックスは何も、興味本位で船員達の話を聞いていたわけではない。人魚が彼らに何を残していったのか、それを聞いていたのだ。特にこの船には、人魚で稼ごうと虎視眈々と狙う者もいる。彼らはアレックスが直接何か聞き出そうとしなくとも、実に見事な手腕で船員達から話を聞き出していく。ほとんどの者は、感動や執着といった形のないものしか持っていなかった。真珠や美しい貝殻を貰ったことがあるという者は稀にいたが、秘薬を残された者は一人もいない。
(秘薬なんて珍しいものを持っている奴がいたら、商人が見逃すはずがない)
それはアレックスとて例外ではない。言葉巧みに言いくるめられ、大切な預かりものを奪われるのは御免だ。
「なあ、ポケットに何か大事なものでも入れてるのか?」
バートが首を傾げて、アレックスの拳をじっと見下ろした。アレックスは、目の前の男の顔をまじまじと見つめて、押し黙った。
「婚約者への贈り物だ。港で渡し損ねた」
一拍置いて軽く笑うと、バートはぽかんとした後、大きく吹き出した。
「ああ! 港であんたの後ろにいた可愛い娘か! 美人で目立ってたから覚えてるぜ。おいおい、婚約者を放ってこんなところに来ちまったのかよ、アレックス! お前って奴は、何て罪な男なんだ。フラれちまうぞ!」
何度も言われてきた言葉に、アレックスは無意識に溜息を吐いた。ジュリーには悪いが、彼女への感情は、感謝であって愛ではない。フラれたところで何も困らないということを、彼らは知らない。
笑うバートを横目に、アレックスは込み上げる溜息を飲み込んで、唇を尖らせた。
「そんなことよりバート。あんたは何のためにこの船に乗ったんだ? 俺も言ったんだから、聞かせてくれ」
「俺は商人さ。何でもいいから人魚のお溢れに預かりたくってね」
冗談ぽく言うバートは、ニヤリと笑ってウインクする。アレックスは冷や汗を隠して、知らず知らずの内に拳を握り締めた。
「そろそろ例の海域だ。いや、もう入ってるんだっけか? 早く金のなる木に出会いたいもんだ」
冷えてきたのか、手を擦り合わせてバートが呟く。しばらくすると、霧が途端に濃くなっていき、視界の悪さで水平線は姿を消した。人魚に会えるかもしれないという期待に、船の上は落ち着かない空気を膨らませている。興奮した誰かが鼻歌でも歌っているのか、蚊の鳴くような声が、どこかから聞こえていた。
(本当に現れるのか?)
荒れてきた波の音や、なおも深まる霧に目を眇めるアレックスもまた、ソワソワと落ち着かずに、指先を握り締めていた。誰も彼もが息を潜めて、今か今かと待ちわびている。船の外に人影が見えやしないかと集中していると、アレックスの耳に、か細い老人の声が届いた。
アレックスとバートが揃って振り返ると、白い髭を蓄えた老人が、ぼんやりと突っ立っていた。港で座り続けていた、あの老人だ。彼は船が出発してからも、ずっと一人で、船の隅に座り込んでいた。伸び放題になった真っ白な眉毛に半分ほど隠れた目が、歪な輝きを滲ませて、こちらを睨んでいる。
「じいさん、何か見えたか?」
バートが声をかけても、老人は反応しない。右足をのっそりと上げ、膝が大して曲がりもしないうちに下ろし、次は左足をのっそり上げる。そんな風に、ユラユラとその場で足踏みしたまま、老人は何かを呟いている。アレックスは耳を澄ませて、老人の言葉を聞き取ろうとした。
「……愛しい人、愛しい人、ああ、愛しい人よ……」
はっきりと聞き取った時、船のどこかで叫び声があがった。声の方に逸れたアレックスの意識は、すぐさま呼び戻される。
突然、老人がフラフラと突進してきたのだ。
アレックスとバートが目を丸くしている間に、老人は二人の間を掛け分けるように突っ込んできたかと思うと、勢いのまま海に身を投げた。突然のことに、傍らにいた二人は手も出せない。
「じいさん!」
慌てたバートが体を反転させ、船から身を乗り出して、ギクリと止まった。視線の先を追いかけたアレックスも、息を呑んで固まる。二人が今更伸ばした手の先で、青白い腕が老人を掻き抱き、沈んでいくのが見えた。
「誰か来てくれ!」
船上に怒声が響く。振り返ったアレックスは、目を見開いて、呆然と立ち竦んだ。
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