第1話
アレックスは、焦茶色の髪をかき上げて、バルコニーから海を眺めていた。目の醒めるような紺碧は、水平線の向こうへ続いて、果てしない。陽の光に煌めく静かな波は、心を落ち着けてくれるが、同時にもどかしさをもたらすものだ。かつては海を見るだけで心が踊り、満たされていたというのに、今では物足りなさを感じている。彼は青い水面を見る度に、微かな期待を抱かずにはいられない。
アレックスは大商人の父を持ち、三兄弟の末っ子として自由気ままに育った。両親の期待は兄が一手に引き受けていたため、三男坊は、好きなことばかりやるのを許されていた。幼い頃から海が好きで、暇さえあれば父の伝手を勝手に使って、船に乗せてもらっていた。
(あの日もそうだった。久しぶりの航海で、俺は浮かれていた)
二ヶ月前、アレックスは海で嵐に遭い、船から振り落とされるという災難に見舞われた。船員は誰も気付かず、波が落ち着いてから、大騒ぎになったという。アレックスがこうしてピンピンしているのは、あの日、彼を救ってくれた『誰か』のおかげだ。
「ああ、アレックス様、お部屋にいらしたのね。探してしまったわ」
背後から声をかけられ、後ろ髪を引かれる思いで振り向いた。眩しい海と比べれば、部屋の何と薄暗いことか。毒々しい調度品だけが、ギラギラと目を光らせている。飾り立てられた部屋に足を踏み入れたのは、栗毛色の豊かな髪を結い上げた、美しい女だ。彼女の名前はジュリーと言う。淑やかにアレックスの隣へ来ると、バルコニーの外へ目を遣った。
「アレックス様は、本当に海がお好きね。いつもあのキラキラとした水面ばかり見つめていらっしゃるわ。わたくし、海にあなたを取られてしまうんじゃないかって、気が気でないのよ」
彼女のほんのり赤い唇は優雅に弧を描き、誰もが見惚れる愛嬌のある笑みを浮かべている。だが、アレックスには、どんな女神の如き微笑みも、物足りなく感じられた。
アレックスは身を翻すと、ジュリーに背を向けて部屋の中へ入った。
「港へ行ってくる」
「わたくしも、ついて行ってよろしいかしら」
背後から聞こえる声に手を振って応じる。楽しげな笑い声と、甘い香りが後ろから付いてきた。
まさに今、家を出るというところで、一際甘い香りが辺りに漂う。あら、という満足げな女の声が、ジュリーとは別方向から聞こえた。
「二人でお出かけ? 仲睦まじくてよろしいことね」
あまり会いたくない人物に見つかったアレックスは、心の中で溜息を吐いた。ゆっくりと声の方へ向き直ると、ジュリーの母親が、小首を傾げて微笑んでいる。夫人がカツン、カツン、とヒールの音を響かせて近づいてくる毎に、むせかえるような甘い香水の香りが、鼻を塞いだ。アレックスは、ジュリーの香水は嫌いではないが、母親の方とは、どうも香水の趣味が合わない。
夫人はジュリーを十倍くらい、けばけばしくしたような女性だ。目はギラギラと強い光を放ち、身なりには一切の妥協がない。
「どちらにいらっしゃるの?」
「……近くの港に、行きます」
「まあ! そんな場所へ? あんなところへ行っても、小汚い人間ばかりで楽しくないでしょう? せっかくこちらにいらしたんですもの、もっと華やかで素敵な場所が良いわ。この辺りはお店だって多いのよ。ほら、ご覧になって。この指輪も街で主人が買ってくれたものなの」
「はあ」
「ジュリーもこういうのが欲しいわよね?」
「お母様の方が、お似合いになると思うわ」
「あら、賢い子!」
夫人はニッと笑うと、機嫌良く、高らかに笑い声を響かせた。アレックスは耳がわんわんと痛くなり、両手で塞ぎたくなった。子供の頃から、こういう笑い声は苦手だ。夫人が真っ赤な口元に添えた指には、悪趣味な金属の輪が嵌っている。アレックスはうんざりして、港の喧騒が恋しくなった。心のこもっていない相槌だけ二、三回適当に打ち、ジュリーを連れて、逃げるように屋敷を後にした。
二ヶ月前、船から落ちたアレックスは、この付近の浜辺に打ち上げられた。アレックスを見つけて屋敷へ運び、熱心に介抱したのがジュリーだ。アレックスの両親は彼女にいたく感謝し、直接赴いて何か礼をしたいと申し出た。ジュリーの両親は、この縁に思うところがあったのか、娘とアレックスの婚約を提案し、三男坊を甘やかしすぎたことに頭を抱えていた両親は、一も二もなく賛同した。大方、家庭を持てば息子の奔放な性格が治る、とでも思ったのだろう。
アレックスは時折ジュリーの家へ、婚約者として、こうして顔を見せに通わなければならない。結婚したらこの家の跡継ぎとしてやっていくことになるのだが、正直なところ、海の近くに屋敷を構えていること以外、この家に魅力を見いだせない。商人であるこの家の主人は権力に弱いが、身内の前では高慢不遜だ。夫人は常にねっとりとした視線でアレックスを眺め回してくるため、視界に入れるのも疲れる。初めはジュリーにアレックスを任せきりだったというのに、アレックスの両親の立場や華々しい経歴を知った途端、猫なで声で頻繁に話しかけてくるようになったのも、気味が悪い。
もちろんアレックスは、ジュリーが献身的に世話をしてくれたことには、心から感謝していた。彼女が浜辺のアレックスを見つけて連れ帰り、医者を呼び、介抱してくれなければ、どうなっていたことか。とはいえ、彼女に礼をしたいという気持ちはあるものの、この家で彼らとやっていける自信は、微塵もない。トントン拍子に婚約を決めたのもほとんど両親であり、アレックスは事故後のぼんやりとした意識の中で、適当に頷いた自分を恨めしく思っている。
当時、アレックスの脳裏には、うっすらと思い浮かぶ、一つの光景があった。灰空の下で淡く輝く亜麻色の髪と、優しく細められた紫色の瞳。詳しい姿は思い出せないが、微笑みかけてくれていたという事実だけは、よく覚えている。
意識を取り戻してからしばらくは、それが夢であったか、現実であったか、定かでなかった。
最初に気になったのは、アレックスがベッドの上で目を覚まし、ようやく身の回りのことを気にする余裕ができた頃だ。彼は、枕もとに小さな貝が置かれているのに気付いた。紐のついた貝は、人の手が入ったものであることを表していた。
「これは……」
「ずっと握っていらしたから、大事なものだろうと思って、枕もとに置いておきましたの。安心なさってね、それ以外は誰も触れておりませんのよ」
体を拭いてくれていたジュリーが、穏やかに返した。身に覚えのない持ち物だったが、アレックスは、無言で頷くに留めた。奇妙な違和感と、このままで良いのかと、ずっと自分を引き留める何かが心にあった。
日に日に増幅していった違和感は、ある日、唐突に弾けた。
助けられた当初、アレックスの額には、深い傷ができていた。目を覚ました時には既に治りかけており、跡も目立たないだろうと医者は言っていた。アレックスは、その傷跡を毎日何度も鏡で見ては、記憶から何かを引きずり出そうと、ずっと思案を重ねていた。そうやって鏡を見つめているとき、脳裏にふっと、灰空の下で微笑む誰かの姿が浮かんだのだ。胸の上にかかる頭の重みや、額に触れる濡れた指先の感触、傷口を撫でられるピリッとした痛み……そんな感覚が、体に沸き上がった。
(あの時、やっぱり俺の側には、ジュリー以外の誰かがいたんじゃないか?)
アレックスを発見した者達は、誰もいなかったと口を揃えて言っている。彼らの言葉が嘘でないなら、その誰かは、アレックスを置いて去ったに違いない。
(だとすれば、身に覚えのないあの貝は……)
アレックスは枕元の引き出しから、大事に保管していた貝を取り出して、よくよく観察してみた。紐のついた貝をなぞり、割らないように丁寧に開けてみると、丸く、薄く、平べったいものが姿を現す。それは部屋の明かりを反射して、キラキラと紫色に輝いていた。
(何だこれは? 魚の鱗にしては、あまりに出来すぎているような)
それはどんな宝石も霞むほど、澄んだ煌めきを放っており、そこら辺にいる魚の鱗にしては大きい。鱗を模した宝石と言われれば納得する者もいるだろうが、人の手が加えられたにしては、奇妙な感じがした。手袋をして平べったい宝石を取り出して、光に透かしてみると、それはより一層輝きを増した。
(宝石というには薄すぎる。だけど……綺麗だ)
アレックスは無意識に胸を高鳴らせながら、貝の中身へ視線を戻した。弯曲した内部には、半透明のヌルリとした何かが入っている。アレックスは、鏡越しに額の傷跡を見つめると、指先で薄くなった跡をなぞった。もう一度貝の中へ視線を落とし、眉を寄せる。
彼は、突き動かされるようにナイフを持ってきて、指先に微かな切り傷をつけてみた。ナイフを置いた手で貝の中身を掬ってから、血の滲む傷口へ塗ってみる。五分後、アレックスの前には、綺麗さっぱり傷の消えた指先があった。
(これは、まさか……人魚の秘薬!)
アレックスは愕然とした。
人魚の秘薬とは、その名の通り、人魚以外には作り方がわからない幻の薬だ。その治癒速度は驚くべきものだと言われているが、あくまで噂話程度のものだった。
(これが本当に秘薬なら……この紫の宝石はまさか……まさか、人魚の鱗か!)
世界各地において、人魚が実在するか否かは非常に曖昧だ。目撃証言はあれど、そのどれもが眉唾もので、ごく少数の間で囁かれる程度のものばかりだ。普通に生きていれば、まずお目にかかることはない生き物だ。伝説上の存在のように人々から思われている人魚だが、それも当然のことだった。
『人魚は容姿ばかりか、声も髪もひれも、全身が美しい』『人魚の生き血を飲めば、どんな醜い顔も輝かんばかりの美貌に変わる』『肉を食べれば病が治るだけでなく、不老不死にすらなれる』『鱗はどんな宝石にも勝る輝きを持ち、一枚で一生遊んで暮らせる程の値打ちがある』『人魚の秘薬を使えばどんな深い傷も治る』――そんな全身利益の塊とも言える生き物がこの世にいるなどと言われても、半信半疑になるというものだ。
その一方で、人魚は人間を喰らう海の猛獣でもあった。全身利益の塊であるはずの存在を、人々がこぞって探しに行かないのは、このためだ。人魚はその美しい姿と声で男達を誘い込み、船を遭難させ、人間を喰らうと言われていた。船を出したまま行方知れずの者がいれば、彼は人魚に喰われたのだと決まり文句が生まれるほど、有名な話だ。このような凶暴性のため、人魚は生き物ではなく、魔物だと認識する者もいる。
果たして、人魚は海の生き物か、魔物か。その謎の答は彼らの存在と同じく、曖昧だ。
(だけど、あれは本当に、本物の、人魚だったのかもしれない。しかも、俺を助けてくれた)
違和感は正体を表した。ジュリーもアレックスを助けたと言えるが、根本的に命を救ったのはおそらく、その人魚かもしれない誰かだ。アレックスはその者に会ってみたいと、強く思った。元々、海に強い関心のあったアレックスにとって、人魚もまた強い興味の対象だ。海で命を救ってくれたというだけでも、特別な縁を感じるというのに、それが人魚かもしれないとなると、彼の胸は期待で大きく震えた。四六時中、脳裏に浮かぶ亜麻色を追い求め、海ばかり眺める日々を送る。幻でも良いから、その人魚に再び会いたいと願った。
こうして、両親の心配をよそに、アレックスはさらに海へ執心するようになっていった。
「よお、アレックス! こんなところにお嬢さんを連れてくるもんじゃない。フラれちまうぞ!」
アレックスがジュリーを連れて来た港には、漁船や貨物船など、いくつもの船が停泊していた。道の端にいた男が、二人を見て下品に冷やかす。彼はよくこの港にいる漁師の一人で、品はないが気さくな男だ。アレックスはジュリーの家に来ても、こうして港や浜辺へ行くことが多かったため、自然と顔なじみになっていた。何なら、こっそり船に乗せてもらうこともある。ジュリーはそんなアレックスを見つけても、見て見ぬふりをするだけだった。
(あれは?)
アレックスはふと、港の一角に目を留めた。港にあるのはどれもこれも見覚えのある地元の船であり、その周りには、似たような雰囲気の男達がいる。その中に一つ、見たことのない奇妙な集団がいた。彼らは目立たない隅の方に大きな船を停泊させ、こぢんまりとした塊になって、至極真面目な顔で出港準備をしている。
「なあ、あれは何をしてるんだ」
アレックスは、道の端にいる男に向かって尋ねた。男はひょいとあげた眉を苦々しげに顰めて、首を振る。
「死出の旅への準備をしてるのさ」
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