愛しの人魚と冒険譚

笹本舗

プロローグ

(人が落ちた!)

 赤子が振り回す玩具のように、激しく揺さぶられる船を観察していたテオは、振り落とされる人影をはっきりと見た。

 無慈悲な鈍色の空が、荒れ狂う海に重くのしかかろうとしている。波に翻弄される一隻の船は大海の前ではひどく脆く、船員達の努力も虚しく揺さぶられ続けていた。甲板には潮水が飛び込み、船員達は各々近くの物に掴まりながら、必死に右往左往している。

 耳を劈く雷鳴と共に船から振り落とされる人影があっても、皆は自分の身と船を守るのに無我夢中で、波に飲み込まれた船員の一人にまったく気付いていなかった――たった一人の、人魚を除いて。

 人魚は海に住む生き物で、上半身は人間によく似ているが、下半身は魚で、大きなひれを持っている。テオというこの人魚もまた、紫の尾とうす紫色の煌めくひれを持っていた。鱗と同じ紫色の瞳と、美しい亜麻色の髪を持つ若い男の人魚だ。好奇心旺盛な彼は、日頃から人間に強い興味を持ち、海の中で噂される人間の話を聞いて回っていた。

 人魚の多くは、余程安全だと思わない限り、自分から人間に近づいたりはしない。けれどもテオは、揺らめく水面に映る船の影にはいつも興味津々で、海面を大きな影が通りかかる度に、こっそり様子を見に行くのを楽しんでいた。

(ただでさえ今日は波の機嫌が悪かったのに、空まで荒れてるんだから! 何て不運な人なんだ!)

 テオは慌てて船を目掛けて泳ぎ、海中に漂う人影を探した。人魚が人間を助けることは珍しいが、伝説や物語として地上に流布するくらいには、まったくないというわけではなかった。とりわけテオは、その好奇心旺盛な性分とお人好しな性格から、人に対する警戒心が、極めて薄かった。

 人魚の泳ぐ速さは、人間が泳ぐよりはるかに速い。テオはもがきながら水底へ沈んでいく人影を見つけ、急いで手を伸ばす。押し寄せる潮流を掻き分けて、掴んだ人影を一気に海面へと引っ張りあげた。

 ゴウゴウという空気の音に、人間の苦しげな喘ぎ声が混じった。暗い空の下では、助けた人影が若い男であるということしかわからない。彼はゼエゼエと空気を吸い込みながら、何とか泳ごうと海面を手で叩いている。

(そんなに動いたら危ないのに!)

 動かないで、と伝えたかったが、あいにくテオは、人間の言葉を聞くことはできても、話すことはできなかった。遠くに流されていく船を大声で呼び戻したくとも、それすらできない。

(どうしよう……)

 暴れる青年を抱えたまま、テオは仕方なく引き返した。兎にも角にも、水中から出なければならない。人間は水の中では息ができないのだということを、テオは知っている。今船を追いかけても、船上の騒ぎ具合からして、青年に気付いてくれるかは非常に怪しい。その上、船はどんどん激しい波の方へ流されていくため、そこへ行くのは、せっかく助けた青年のためにならないと思った。

 テオは波の穏やかな方へ、青年を抱えて進んでいく。できるだけ青年の顔が海から出るように気を付けていたが、人間を抱えたまま泳ぐことなど経験がなかったため、かなりの苦労を要した。高波は容赦なく二人を頭から襲い、パニックになっている青年が暴れ回るのだ。何度も一緒に沈みそうになっては、慌てて抱え直して浮上する。そんなことを繰り返していくうちに、青年は徐々に静かになっていった。同時に体もどんどん重くなっていき、焦ったテオは、速度をできる限り上げる。

 何とか見つけた浜辺へ引きずり上げた頃には、青年の意識はもうなかった。体は氷よりも冷え切り、唇は真っ青だ。

(大変だ……ッ! この人、このまま死んでしまうのかな?)

 テオは咄嗟に辺りを見回した。灰空は先程よりも穏やかだが、波はまだ荒れており、浜辺に人は一人もいない。人間の言葉を話せないテオでは、誰かを呼ぶこともできない。湿った砂の上は硬く、冷たく、動かない青年を地中に取り込もうとしているように見えた。

(そうだ……! 言葉はわからなくても、ここなら、音だけで気付いてもらえるかもしれない!)

 テオは指を口にくわえ、勢いよく息を吐いた。甲高い指笛の音が、空気を切り裂き、浜辺に大きく響きわたる。それから、青年の呼吸や体勢に問題がないか確認して、濡れて重くなった服を脱がせた。自分の腕が垂直になるよう胸に手を当てて、上から力強く押し込んだ。テオは以前、高齢の人魚から、人を助ける方法を教えてもらったことがあった。海の底には高齢の人魚達がたむろする場所がいくつかあり、知的好奇心に溢れていたテオは、彼らの知識を求めてよく入り浸っていたのだ。

 何度も胸を圧迫し続け、今度は青年の顎と額を支えて口を開かせ、自分の息を吹き込む。青年の胸が上下するのを確認し、今度は短く指笛を鳴らすと、再び胸を圧迫し始める。そんなことを繰り返していると、ふいに青年の瞼が震え、体が大きく跳ねた。

「ゲホッ、ゲホッ」

 口から吐き出された水を見たテオは、慌てて青年の顔を横に向けて、窒息しないようにした。浅い呼吸を繰り返す青年の頬には、少しではあるが、赤みが戻りつつあった。テオは、青年の首筋に手を当てて、皮膚の下でドクドクと脈打つ命の流れに触れた。さらに胸の上に耳を当てて、確かな鼓動を聞き取って、ようやくホッと息を吐き出した。

 胸の上に頬をくっつけたまま、青年の顔を見上げると、固く閉じられていた青年の瞼が、うっすらと開いていた。テオは青年に声をかけようとして、話せないことを思い出して、口を閉じた。ようやく、助けた人間の顔をまじまじと見る余裕のできたテオは、彼がとても端正な顔立をしていると知った。まるで、人間が作り、海に沈めた数多の彫刻の一つのようだ。肌に貼り付いた深い焦げ茶色の髪を掻き分けると、濃青色の瞳がぎこちなくテオの方を向いた。吸い込まれそうな瞳はぼんやりとしていたが、そこにはしっかりと生命の光が瞬いており、テオは安堵の笑みを浮かべた。

(あ……この人、おでこに怪我してる)

 必死になっていて気付かなかったが、青年の額には、生々しい傷跡があった。赤黒い傷口は、眉の上から髪の生え際にかけて、深い裂け目を作っている。

(海に落ちるとき、どこかにぶつけたのかもしれないな……痛そうだ)

 テオは、自分の首につけていたチョーカーを外して、チョーカーの真ん中にある小さな貝殻を開いた。

 人魚には、自分だけの傷薬を身につける習性がある。傷薬は人魚によって作り方も成分も異なるが、総じてどんな傷にもよく効く。そのため、薬さえあれば、怪我で死ぬ人魚はほぼいない。子供のうちは大人から与えられた傷薬を持ち、物心つけば、身近な大人から作り方を教わって、自ら作るようになる。でき上がった傷薬は、自分の成長途中の鱗と共に小さな貝殻に入れることで、正真正銘、自分だけの薬になる。

 貝殻の身につけ方は十人十色で、髪飾りにしている者もいれば、腰や腕の装飾品にしている者もいる。テオはといえば、チョーカーにして持ち歩いていた。開いた貝殻から半透明の軟膏を掬い、額を抉る傷口へ優しく塗りこむ。沁みるのか、青年は微かに顔を顰めて声もなく呻いた。

(大丈夫)

 テオは安心させるために微笑みかけると、青年の手にチョーカーをのせてそっと握らせた。

(他にもまだ気付いていない傷があるかもしれないし、これは君にあげるよ)

 傷薬など消耗品なのだから、なくなればまた作れば良いのだ。テオはそう思っていた。

 人魚の傷薬はその効果の高さから、他種族の間では争いの種になることがある。人間の世界でも、幻の秘薬と噂されていることを、テオは知らなかった。他の種族に渡してはいけないと言われたこともあったのだが、そんな場面に出くわしたことは、生まれてから昨日までなく、青年を助けるのにいっぱいいっぱいだったテオは、この時すっかり忘れていた。

 テオは港の方へ向かってもう一度、大きく指笛を吹いた。青年の体を温める必要があるので、そろそろ誰かに気付いて欲しいところだ。祈るような気持ちで指笛を吹いていると、テオの耳に、小鳥の囀りにも似た可憐な声が届いた。

「こっちよ、何か音が聞こえるでしょう? 鳥にしては鳴き方が妙なの……こんな天気の悪い日に、浜辺で何かあるのかしら」

 近付いてくる人の気配を感じたテオは、胸を撫で下ろして、海の方へ体を引きずった。陸の上では、尾を引きずらなければ移動できないのが不便だ。

(もう大丈夫そうだ。僕がここにいてもできることはないし、あとは人間に任せて、海へ帰ろう)

 最後に振り返ると、青年は眠っているのか、再び瞼を閉じていた。テオは素早く海へ身を踊らせ、こっそり岩場の陰まで泳いでいって、青年を見守る。数人の男女が浜辺にやって来て、倒れている青年を見つけ、驚愕の表情を浮かべている。その中にいた美しい女が真っ先に青年へ駆け寄り、周囲の人々と何か話し始める。その様子を確認したテオは、そっと海の中へ頭を沈めた。

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