第19話




 人魚島に置いていかれたトマスはあの後、島民達と世間話中のノアに出会い、助けを求めた。状況を把握したノアは、島民達を説得して、船を出してもらったのだ。島民達は人魚を何より尊ぶ質のため、巣を荒らし、人魚を危険に晒す者には特に厳しい。長老は「やはり人魚を不幸にした」と激怒した。しかし、テオを助けたことと、ノアの言葉巧みなフォローが功を奏したのか、それとも何か思うところでもあったのか――島で唯一の医者を、アレックスのために寄越してくれた。

 意識を失っていたアレックスは、人魚島に戻ってからの数日間、クリスの家で昏昏と眠り続けていた。

 ようやく重い瞼を開けられた時、アレックスの意識は、まだ夢の中にいるようだった。視線を宙に彷徨わせると、窓から差し込む暖かな夕日が、部屋をオレンジ色に染め上げていた。強張った体は、少し身動きするだけでギシギシと軋み、意識はぼんやりとして、何かを思うことすらままならない。

 目玉の動きを追いかけて、顔をゆっくりと傍らへ向けると、隣に寄り添う亜麻色の頭があった。アレックスを包む毛布の上に、もう一人、横になっている。オレンジ色の光に眩く輝く髪の毛は、一本一本が高級な糸のようだ。閉じられた瞼をしばし眺めて、アレックスは、乾ききった唇を開いた。

「……テオ?」

 掠れた声では、たった二文字を発するのすら一苦労だ。呼ばれた彼はすぐに、ぱっちりと目を覚ました。色素の薄い睫毛の奥で、澄んだ紫色の目が大きく見開かれて、アレックスを映している。

「アレックス……!」

 感極まった彼は、瞳に薄く涙の膜を張って、アレックスの顔を覗き込んだ。

「良かった……皆は命に別状はないって言っていたけど、君ってば、ずっと寝ていたから。もう起きないんじゃないかと」

「……どうして、ここに?」

「ノアに連れてきてもらったんだ」

「……ずっと?」

 アレックスは僅かに動く思考で、浮かんだ疑問を口にした。今日だけ連れてきてもらったにしては、タイミングが良すぎるからだ。

 テオは一旦口を閉じて、恥ずかしそうに睫毛を伏せた。夕日に染まるテオの顔は赤く、温かそうに見える。

「毎日。心配、しすぎだったかい……?」

「……」

 アレックスの口元に、微かな笑みが浮かんだ。思考回路は鈍いままだったが、それを無理やり引っかき回す熱い衝動が、胸の奥から突き上げている。今すぐにでも、目の前にいるテオに触れたい。彼は固まった腕をどうにか動かして、テオの頭を撫でた。彼は目をうっとりと細めて、頭をアレックスの掌に擦り付ける。掌にすっぽりと収まった丸い輪郭を撫でながら、アレックスは腕にぐっと力を入れた。そうせずには、いられなかった。気がついたテオが、不思議そうに顔を近付けてくる。

「アレックス?」

 近くに来たテオの頭をぐいと抱き寄せ、アレックスはその唇を、自分の唇で塞いだ。テオの体が小さくビクリと跳ねて、間近で息を飲んだ気配がする。柔らかな唇の感触は、ほんの刹那のものだった。だが、その一瞬で、心地の良い充足感がじんわりと身体中に広がっていく。アレックスは、再び抗いがたい眠りの渦に意識を預けた。

 次に目が覚めたとき、テオはベッドにいなかった。代わりに、初めて会った時と同じ位置で、ノアが本を読んでいた。頭だけ動かして、アレックスは問い掛ける。

「ノア……テオは?」

 出た声は、情けないくらいか細い。パッと顔を上げたノアは、顔色を明るくして、ガタリと立ち上がった。

「ああ、アレックスさん! 目が覚めたと聞いたので、待機していたんです。あ、テオさんなら、随分前に部屋に戻られましたよ」

「そうか……」

 少しがっかりして、アレックスは天井を見つめた。古い天井がくすんで見える。うっすらと残っている記憶から、眠る前にテオと何をしていたか、思い起こそうとした。焼き付くような甘辛い衝動と、柔らかな唇の感触が蘇り、胸がチリリと甘く痛む。

(あんなのは、初めてだ)

 アレックスは今更になって、自分がとても大胆なことをした気分になった。あの一瞬を思い出した途端、得も言われぬ充足感が吹き抜けたかと思うと、固まっていた体が急激に熱くなり、鼓動が早鐘を打つ。近寄ってきたノアが心配そうに眉を下げて、見下ろしてきた。

「顔が赤いですね。また熱が上がってしまったんでしょうか?」

「いや……」

 何とも言えず、アレックスは口の中でごにょごにょと誤魔化す。毛布に顔を埋めようとしたが、甲斐甲斐しく水を運んで飲ませようとしているノアが視界に入り、ふと奇妙な気持ちになった。

 ただの客である自分に、ノアはこんなにまで良くしてくれている。ジュリーもそうだったが、アレックスはそういう人間に、何度も助けられている。少し前までの自分なら、その行動を何の疑問にも思わなかっただろうが、今は違う。

「……ノアは、他人に優しいな」

「え? そうですか? あたりまえのことだと思いますけど……」

 目をぱちくりさせながら、彼は照れ笑いを浮かべて頭をかいた。喉を潤したアレックスは、無言で頷き、再び天井を見つめる。

(あたりまえだと言うが、俺なら、他人にここまで親切には、しないかもしれない。あたりまえだと思っていることが、誰かの助けになることがあるんだ)

 月明かりの下で見たジュリーの顔が、脳裏に浮かぶ。

『わたくし、あなた様に助けられておりましたのよ』

 別れ際に聞いた彼女の言葉の意味が、ようやくわかった気がした。あの時は気にも留めていなかったが、アレックスが行ったことや引き起こしたこともまた、巡り巡って彼女の何かを助けていたのかもしれない。

 ずっと一人で気ままに生きてきたつもりでいたが、アレックスは、自分が思っていたよりも誰かを助け、自分が思っていたよりも、はるかに助けられていた。そして、同じだけ心を砕かれてもいた。実感を手の中に握りしめて、アレックスは無意識に一言、口にした。

「ありがとう」

「ははは、こちらこそ、博士の面倒を見てくださって、ありがとうございました。大変だったでしょう?」

 ノアは何でもない風に言って、水差しをテーブルに置いた。

 誰かに助けられながら生きているアレックスだったが、その中でも、テオだけは特別だった。再会して彼と触れ合っても、初めて出会った時の感情や光景をまざまざと思い出せるほど、彼はいつだって、アレックスの特別だったのだ。助けられた、あの日から。

 目覚めてから、徐々に回復していったアレックスは、とうとう杖をついて部屋から出ることを許された。真っ先に向かう場所は、言うまでもない。

 一階まで付き添ってくれたノアと、なぜか生暖かい目で見てくるクリスに礼を言って、アレックスは最奥の扉へ歩いて行った。扉を少し開けただけで、湿気た空気に水の匂いが混じる。静かに中に入ったアレックスの目の前には、こちらに背を向けて、タイルの縁に腰掛けるテオがいた。

 アレックスはノアの前で目覚めてから、テオとは一度も会えていなかった。眠っている間に、様子を見に来ているらしいのだが、起きている時にはなぜか来ない。アレックスは少し緊張して、固い声で名前を読んだ。

「テオ」

「……アレックス」

 振り向いたテオは、アレックスを見るとニコリと笑った。屈託のない笑顔にホッとしたアレックスは、テオの隣に腰を下ろす。片足の怪我がまだ治り切っていないため、水には浸からないよう、タイルの上に慎重に座る。すぐ側にテオの顔があったが、キスをした時よりは遠く、心の奥に隙間風が吹いた。

「お前は、俺が寝てる時にしか来ないんだな」

「あはは」

 テオは、ばつが悪そうに頬を掻くと、睫毛を伏せて煌めく水面を見つめた。形の良い横顔は微笑んでいるが、どこか真剣だ。

「色々と、考え事をしていたんだ」

「考え事?」

「長老がね、アレックスにすごく怒ってたよ。僕を傷つけたって。やっぱり人間は、人魚を不幸にするんだって。あんまりすごい剣幕だったから、君が僕にキスをした話は隠してるんだ。ただ、あのキスの意味は、クリスに聞いてみたりしたよ」

 アレックスはクリスの生暖かい目を思い出して、急に恥ずかしくなった。

(あいつめ……何か変だと思ったんだ。いっそ今からでも、なかったことにしようって言ってみるか?)

 自分の行動が共通の友人に筒抜けだったのも堪えるが、これでもしもテオにその気がなかったならば、いよいよアレックスは、傍迷惑な道化を演じたことになる。あの時は意識も朦朧としており、衝動のままに口付けてしまった上、テオの反応を見る前に眠ってしまった。今日に至るまで会ってくれなかったことを考えると、状況は芳しくない。あんなことはしない方がよかったのかもしれないと、今になって思えてきた。

 テオはアレックスと目も合わせず、ポツリポツリと話を続ける。

「そうしたらね、アレックスと話すのが、少し怖くなってしまって」

「そんなに嫌だったのか!?」

 アレックスはショックのあまり、顔面蒼白になった。キスをしたことで怖がらせたとあれば、どんなに後悔してもし足りない。

 テオはパッとアレックスを見て、紫色の目を瞬いた。澄んだ瞳はアレックスの悪い予想に反して、嫌悪感や恐怖など、微塵も浮かべてはいない。彼はポカンと呆けてから、慌てて手と首を大きく振って、言い直した。

「違う! 違うよ、僕に勇気がなかっただけさ。キスは深い愛情表現だって聞いたから……嬉しかった。でも、だから、目覚めた君の本心を確かめに行って、否定されるのが怖かったんだ」

 両手を握りしめて俯いたテオの姿に、アレックスはギクリとして己を恥じた。つい今しがた、なかったことにしよう、などと考えかけたばかりだ。早まらなくてよかったと、心から思った。あやうく彼を深く傷つけるところだった。

「それに、早く答を出さないといけないことが、他にもあった。君と話していると楽しくて、ついそっちばかり気になってしまうから……」

「その答ってやつは、もう出たのか?」

「君が会いに来てくれたから、心が決まったよ。ねえ……アレックス。ここに、僕の卵があるんだ」

 言うと同時に、テオは自分の下腹部を、両手で包み込むように撫でた。アレックスは息を呑み、腹を撫でる両手の甲を凝視する。心当たりと言えば、人魚の巣でテオが浮かび上がらせた、あの球体だ。

(卵って……あの時のあれか? だけど、テオは男で……いや、人魚に性別は関係ないのか!?)

 よく考えれば、人魚の性別による生殖機能の違いは、人間と同じとは限らないのかもしれない。人間が女しか妊娠しないように、人魚も女しか卵を持たないと思い込んでいたアレックスは、心の隅で引っ掛かっていたものに思い当たり、ハッとした。人魚の巣で見た壁画の一つには、男女の人魚が描かれており、そのどちらの腹部にも、丸い円が描かれていた。はじめて卵を見た際に、誰がこの卵を育てるのかと思ったが、あの時、彼の意識の底には、あの壁画が引っ掛かっていたのだ。

(あれは、どっちにも卵を持てる器官があるって意味だったのか!)

 思えば、テオが卵を浮かび上がらせた時、なぜ男の人魚であるテオの卵が浮かんでくるのだろうと、疑問がチラついていたのだ。あの直後にバート達が来て有耶無耶になってしまったが、今、その答がここにある。

 アレックスはあの時の騒動を思い出して、テオの下腹部を見下ろした。まだ平らなそこは、パッと見、奥に異物が入っているようには見えない。だが、よく見ると、確かにうっすらと膨らんでいる。テオがそこに卵を入れたのは、おそらくバートが来た時だろう。卵を隠すと言っていた彼は、洞穴から引きずり出された際に、酷く顔色が悪かった。あれは、咄嗟に腹の中に卵を隠したからだったのだ。

「……卵を腹に入れるのは、痛かったんじゃないか?」

「うん、まあ。だけど、あの時……僕は一瞬、確かに、君の子供が欲しいと思ったんだ」

「え?」

 思わぬ発言に、アレックスは目を瞠る。

「君が目覚めたら、君の精子が欲しいと頼むつもりだったんだ。でも……」

 テオが言い淀むと、パシャンという音と共に、アレックスの腕に水がかかった。テオの尾が揺らめいて、パシャン、パシャン、とアレックスに水をかけている。テオの尾がアレックスの前でこんな風に動くのは、珍しいことではなかったが、水をかけられたのは初めてだ。アレックスは濡れながら、こちらをじっと見つめる紫色の目を見つめ返した。

「求愛行動だ!」

 背後で叫び声がして、二人はビクリと体を跳ねさせた。振り返ると、勢い余って扉を半分程開けたクリスが、爛々と目を輝かせている。そのすぐ後ろで、青ざめたノアがクリスの肩を掴んで、引き戻そうとしていた。

「人魚の求愛行動だ! 本当に見られるとは!」

「は、博士……!」

「あの壁画を見て、そうだと思っていた! やはり生殖器官は雌雄で共通した部分があるのだな。とはいえあの壁画から読み解くに、胎にあたる器官は雄だと退化しているようだ。卵を入れるのに苦痛を伴ったのはそれが原因だと思われる! しかし、人魚自体があまり子孫を残さないという習性を考えるに、雌の器官もまたそれ程発達しているというわけではなく……」

「いけませんと先程から何度も言っているでしょう! 聞こえないのですか? 博士!」

「ぐえっ」

 興奮のままにベラベラと喋るクリスを遮り、ノアが怒鳴る。ノアは、クリスの首根っこをグワシと掴んで部屋から引きずり出すと、しっかりと扉を閉めていった。クリスが廊下を引きずられる音が遠ざかり、その場がシンとなる。ソロソロと隣を見ると、テオの白い肌が、ほんのり薄桃色に染まっていた。彼はアレックスと目があうと、恥ずかしそうに睫毛を伏せる。

 一呼吸置いて、テオは、覚悟を決めたように視線を上げた。

「アレックス。僕は……ただ君の精子が欲しかったわけじゃ、なかったんだ。君にキスをされて、その意味を考えて……僕が本当にしたかったことが、何だったのか、わかった。僕は……僕は、君と愛し合って、子供を作りたかったんだ」

 テオは恐る恐るといった風に、アレックスを見つめている。

 アレックスがさっきまで、テオに拒絶されるのを恐れていたように、テオもまた、自分の気持ちが受け入れられるのかを恐れていた。

 テオの中にいつの間にか生まれていた感情は、人魚にとっては未知のものであり、決して良い気分にさせるばかりのものではない。現に、洞窟から逃げ出す際、テオはバートに、生存本能だけでは説明できない殺意を抱いた。そんな激しい感情が、この先幾度訪れるかわからない。

 誰かに対してそんな風に感じること自体、人魚には稀なことだ。もちろん、テオにもまったく経験がなかった。誰しも知らないものには、多少なりとも不安や恐れを抱くものだ。

『純粋な善意しかなかった尊い存在に、愛欲を抱かせ、憎悪を抱かせ、殺意を抱かせ、悪魔にしてしまった。その原罪は、我々人間なのだ』

 長老の言葉が、アレックスの頭を過る。

(人間が原罪だって? だけど、この……テオのどこが、悪魔だって言うんだ)

 アレックスは不安に揺らぐ二つの眼を前に、テオが堪らなく愛しくなって、彼を安心させたくなった。はっきりと頷きながら、テオの頬を、手の甲で優しく擦る。

(これがテオを不幸にするって言うなら、俺は幸せにしてみせる)

 テオは、ほうと息を吐くと、弾かれたようにアレックスの胸に飛び込んだ。

「僕を愛して。アレックス」

 

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