第18話
「うわあ!」
「何だ!? ぎゃっ!」
短い悲鳴が空気を劈いた。アレックスは咄嗟に声の方へ体ごと向けた。アレックスを掴んでいたバートも、驚いて力が緩んだらしい。体はすんなり言うことを聞き、水際から離れた。
宝に近づいていた男達が、いなくなっている。正確には、一人だけ残っていたのだが、アレックスがその姿を確認したのと同時に、水の中に消えていった。
激しく波打つ水面に、暴れる男の腕が突き出して、白く艶めかしい指に絡め取られて消えていく。この光景には、覚えがある。
(人食い人魚!)
どこに隠れていたのか、無数の人魚の尾びれが見え隠れしては、水飛沫をあげていく。悪いことに、人魚がいるのは宝の周辺だけではなかった。
「ひいっ!」
先程アレックスを拘束していた男が、背後から人魚に食いつかれて、水へ引きずり込まれていく。ここの陸地は狭く、余程中心にいない限り、水中から上半身を乗り出せば、手の届く範囲だらけだった。
女の愉しげな笑い声が聞こえて、アレックスが振り返ると、こちらにも人魚の手が伸びている。人魚は隣にいたバートに飛びつこうとしたが、バートはアレックスの体を掴み、盾にした。
(こいつ!)
座り込んでいたアレックスの顔面に、人魚の真っ赤な口が迫る。とっさに拳を振り上げて、力の限り打ち付けた。渾身の一発を食らった人魚は、短く悲鳴を上げて退いたが、彼女の鋭い爪は、しっかりとアレックスの頬を抉った。
周囲は阿鼻叫喚の大混乱となり、男達が狭い陸地を逃げ惑う。誰もテオのことなど構っている余裕はなく、自分の命を守るのに、精一杯だ。バートも、アレックスを盾にしたはいいものの、別方向から来た人魚と揉み合い、拳銃を取り落としていた。彼の足には深い噛み跡ができて、衣服を真っ赤に染めている。
「クソッ」
忌々しげに舌打ちをしたバートの手には、揉み合った人魚から毟りとった髪の毛が握られている。この状況でも何かを得ようとする貪欲さと執念深さに、アレックスは身震いした。
(こいつ、まだ諦めてないのか!?)
バートの暗い目が、混乱の中で放置されているテオを捉える。まずい、と思ったアレックスが、テオの元へと行こうとした時だ。
「アレックス! 秘薬を使って!」
目のあったテオが、チョーカーを放り投げた。咄嗟に手を伸ばしかけたアレックスは、はたと動きを止める。
テオが持つ貝殻の中身はもう、何も入っていないはずだ。秘薬は彼の治療で使い切ってしまった上、鱗すら残っていない。つい先程、クリスと三人で、中身が空になるところを見たのだから、間違いないのだ。あのチョーカーは、ただ貝殻のついたチョーカーになっているはずだった。
(これは俺に向けたものじゃない!)
アレックスは瞬時に、手を伸ばすフリだけに留める。横からバートが身を乗り出し、アレックスを突き倒して、チョーカーへ手を伸ばした。テオが投げたチョーカーは、放物線を描いてバートの手に掴み取られる。欲に目が眩んだ彼は、気づいていないのだ。放物線の軌道が、はじめからアレックスに向かっていなかったことに。
チョーカーはアレックスからは逸れて、水中で獲物を虎視眈々と狙っている人魚に向かって、投げられていた。
バートが手にした瞬間、人魚が大きく口を開けて飛び出した。目を見開いたバートの片手に噛みつき、両手で絡みつき、水中へ引きずり込もうとする。
「この野郎ッ!」
バートは抵抗しながら、どす暗い感情を秘めた瞳を目まぐるしく動かしている。アレックスがハッとして逃げようとした時には既に遅く、バートの手は、一番近くにいたアレックスを力強く捕らえていた。人魚に捕まったバートは、アレックスごと水中に引きずり込まれる。
溺れている人間の腕力とは、時として非常に強く、道連れを生みかねないものだ。アレックスもまた、凄まじい力で体を掴まれ、水中から抜け出せずにいた。暴れるアレックスが水面から頭を出すと、間髪入れずにバートが頭を押さえ付け、空気を吸うための踏み台にする。アレックスは息を吸うことも、自分の意思で動くことも、許されない。胸が苦しくなっても、口に入るのは水だけだ。
水飛沫と暗い水面に視界が埋め尽くされ、クラクラとしている中で、アレックスは、怒りに燃える紫色の瞳を見た。
「ぐうっ」
微かにバートのものらしき呻き声が聞こえた。それと同時に、亜麻色の髪が視界を揺蕩う。アレックスの頭や肩を押さえつけていたバートの手に、テオが思い切り噛みついていた。水中での人間の抵抗など虚しく、テオに引き剥がされたバートの体は、アレックスから離れていく。その隙をついて、アレックスを反対側に引っ張る力があった。
「アレックス! こっちだ!」
ずぶ濡れになったクリスが、アレックスを陸へ引っぱり上げた。アレックスは水を吐き出し、目に涙を溜めて、大きく何度もえづいた。地面に手をついて、ゼエゼエと息をするアレックスの背中を、テオが擦りにくる。顔を上げると、テオは口元を拭ってまずそうに顔を顰め、ペッと何かを吐き出していた。人間の指が、玩具のように水中に放り出され、沈んでいく。水面は赤黒く染まり、辺りに嫌な匂いが漂っていた。
「とにかく、ここから離れるんだ。テオは水路を行ってくれ」
クリスがアレックスの腕を掴み、勢いよく背負う。悲鳴と混乱の渦の中、三人は、洞窟の狭い出入口を通り抜けた。
洞窟を抜けた先は一見静かなように見えたが、反対岸とこちら岸を隔てている水面には、赤黒く染まっている部分があった。三人のように逃げ出した誰かが、ここでも人魚の餌食になったのだ。アレックスは、来るときに見かけた白骨を思い出して、緊張に体を強張らせた。来るときにはいなかった人食い人魚も、ここまで騒がしくなれば、引き寄せられるのだろう。船もないため、反対岸まで渡るには、泳がなければならない。
テオは水から顔だけ出して、アレックスをチラリと見た。
「クリス、ちょっと待っていておくれ」
そう言って、水中へ姿を消す。数秒後、黒いひれが水の上に現れて、パシャンと音を立てて消えていった。続いて現れたテオが、クリスに近づいて手招きする。クリスは怪訝そうに眉を上げた。
「何をしたんだ?」
「二人を狙わないよう交渉したんだ。奥にいる人間は食べていいから、二人は見逃して欲しいって。穏やかな子だったから、喧嘩にならずに済んで助かったよ。さあ、ここは僕がアレックスを運ぼう。その方が楽だろう?」
「そうだな」
アレックスはクリスの背から降ろされ、テオの腕の中に移った。テオは、腕の中の体を大事そうに抱えて、アレックスの頬に手を添えた。アレックスは、ひんやりと冷たい感触に目を細めて、胸につかえていた空気を無言で吐き出す。頭上から、クリスと、テオの心配そうな声が降ってくる。
「アレックス、体が熱いね……」
「無理もない。撃たれた上に、体も冷え切っている。何度も溺れかけて、体力もなくなっているだろう」
「はやく安全なところへ連れていかないと……アレックス、できるだけ息は止めていておくれ」
テオは声をかけると、アレックスの体を抱えて泳ぎ出した。人魚の速さがあれば、反対岸に辿り着くことなど造作もない。
遅れてクリスも渡りきる。テオもアレックスも、薄々思っていたが、クリスは泳ぐのが非常に得意だ。陸に上がった彼は、再びアレックスの体を背負った。
逃げてきたバートの仲間は、皆ここで脱落したのだろう。これ以降、三人が生きている人間に会うことはなかった。来た道を逆走して、洞窟に入る際に使われた小舟を使って洞窟の外へ出ると、傾いた日差しが目を貫いた。存外明るいと思っていた洞窟内だったが、外はそれよりはるかに明るく、三人は眩しさに目を瞑った。
「テオ……」
「アレックス! 大丈夫かい?」
アレックスは、朦朧とした意識の中で、ようやく声を絞り出すことができた。全身が熱いのに寒気が止まらず、体が鉛でできているかのように重い。足は切り取った方がましだと思うくらい痛み、頭も気絶しそうな鈍痛に絶えず襲われていた。
「テオ、怪我はないか」
絞り出した声に、テオは目を瞬かせてから強く頷く。
「クリスは?」
「私はずっと隠れていたからな。かすり傷だ」
「そうか……」
アレックスは心底安心して、深く息を吐いた。人魚島から連れ出したことで、酷い目にあったばかりだというのに、自分が人質になったせいで、また二人を危険な目にあわせてしまった。
(悪いことをした……けど、生きていてくれて、本当に良かった)
眉を寄せて、目を閉じかけたアレックスの頬に、身を乗り出したテオの冷たい手が触れた。
「アレックス、もう気を張らなくて大丈夫だよ。ほら、迎えの声が聞こえるかい?」
見ると、人魚島の方角から、船がいくつかこちらへ向かっているのが目に入る。船首に立って大きく手を振っているのは、ノアとトマスだ。
「おーい!」
「ご無事ですかー!」
その声を聞いたクリスが、ハハと気の抜けた笑いを漏らした。テオが背伸びして手を振り返す横で、安堵で力の抜けたアレックスは、ゆっくりと気を失った。
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