第17話


「どうした?」

 この空間は開けている分、陸地の面積も、来た道よりは広かった。地面や水面の所々に、大小様々な岩が突き出している。よく見ると、岩壁には小さな洞穴があった。手前に大きな岩が突き出ていたため、パッと見、そこに洞穴があるとは気づかなかったのだ。今、その穴にはクリスが頭を突っ込んでおり、下半身だけがはみ出して、こちらに向けられている。テオは洞穴に近付き、少し顔を近付けて匂いを嗅いだ。

「この辺りは、変わった匂いがするね」

「何? 言われてみれば、確かにそうかもしれん。アレックス、君も嗅いでみろ」

 クリスが頭を出して場所を空けたので、アレックスも中を覗き込んだ。狭い洞穴の中は、人がギリギリ入れるくらいの広さしかなく、地面の中心に、人の頭ぐらいの大きさの穴が一つ、ぽつんと空いて水が溜まっている。鼻をひくつかせてみても、潮の香りしかわからない。アレックスが後ろにいる二人に向かって首を振ると、クリスは指を顎に当てて頷いた。

「人魚の方が嗅覚が優れているから、人間ではわかりにくいんだろうな。私が思うに、ここが本当に人魚の洞窟だとすると、この洞穴は、最も重要な役割を担っているはずだ」

「根拠はあるのか?」

「研究者の勘もあるが、何よりこの壁画だ」

 クリスは、洞穴を手のひらで叩いた。アレックスは体を引いて、洞穴の入口を見る。入口の縁に沿って、びっしりと絵と文字が書かれている。

「これは?」

「卵の孕み方が書いてあるんだ」

 テオの言葉に、クリスが声を弾ませる。

「非常に興味深いが、私では難しすぎて、すべては読めないな。テオ、読んでみてくれ」

 テオは頷いて、壁画の文字に指を這わせた。

「ええと……言い回しが古くて長いけど、要するに、体の一部を切り取って、穴に入れなさいって書いてある」

「体の一部? 髪の毛とかでも良いのか?」

「いいんじゃないかい? そうすれば、海があなたの卵を選んでくれるって。選ばれた卵の宿し方や生殖の方法も、書いてある」

 多くの生き物は自分で卵を作るというのに、人魚の場合はそうではないらしい。何とも不思議な仕組みだ。首を捻るアレックスの隣で、クリスもブツブツと呟きながら考え込んでいる。

「ひょっとすると、その穴の下は周囲と隔離されていて、水質も違うのかもしれん。体の一部と引き換えとはいかにも取引じみて真皮的だが、単に遺伝情報を読み取る機構がこの下に存在している可能性もあるな。とすると、卵も無数に存在するのか? 読み取った遺伝情報に近いものをその中から選んでいると仮定すると……」

「試してみようか」

 テオが首のチョーカーを外して、掌にのせた。中身の秘薬は使い切っているため、貝を開けると、一枚の鱗のみが姿を表す。彼はそれを摘んで穴の中に入れると、ワクワクと覗き込んだ。

「こうしたら、僕の卵が選ばれるのかな」

 しばし、三人が固唾をのんで見守っていると、水面にコポンと泡がいくつか浮かび、何かが顔を出した。

(……何だ、これ?)

 それは乳白色の小さな球体で、水の上をプカプカと浮いている。表面は柔らかく、半透明で光沢のない質感であり、日の光に仄白く輝いて見えた。

「卵だ……!」

 隣からテオが手を出して、そっと球体に触れた。球体はプカプカと浮いたまま、指先に押されて軽く揺れ動く。

(これが人魚の卵なのか!?)

 驚いたアレックスは、球体をまじまじと眺め回した。不思議そうにテオからつつかれて、卵は水の中をうろうろしている。その光景を見ながら、アレックスは、何か心に引っ掛かるものを感じた。

(この卵は、誰が育てるんだ?)

 テオは卵をつつきながら、じっと壁の模様と見比べている。しかし、突然、ハッと息を呑んで入口の方へ顔を向けた。

「アレックス! バートの声がする。こっちに来てるみたいだ」

「……早かったな。あいつは卵を手に入れて養殖するつもりだから、間違いなくこの洞穴に気付くだろうな。ここから離れた方が良い」

 サッとテオの顔色が変わり、唇を結んで卵を見下ろした。アレックスが入口の穴から外を窺うと、彼らはまだ反対岸におり、こちらには気付いていない。

 外へ繋がる出口でも見つけられれば良かったが、少なくとも目に見える範囲では、そのようなものは見当たらない。水に潜れば外へ繋がる道があるかもしれないが、そこに辿り着くまでは、硬い岩の下を泳ぎ続けなければならない。テオが引っ張っていったとしても、ここは人食い人魚の領域近くに位置しているため、すぐに逃げられない水中を進むのは、リスクが高い。

 となれば、アレックス達には、一つしか方法はなかった。

 クリスがアレックスの腕を引っ張り、すぐ近くの岩陰に引っ張る。その裏は水だ。

「隠れるぞ!」

「ああ。テオ、お前も隠れるんだ! テオなら水中に潜れる。もし逃げ道があれば、先に逃げろ」

「あ……」

 テオは、洞穴の前にそそり立つ岩から顔を出して、チラチラと入口を気にしながら言い淀んだ。彼は少しの逡巡の後、不安げに卵とアレックスを見比べて、意を決したように首を振った。

「卵を狙っているなら、この子も隠さないと。この子が見つかったら、どう頑張っても、良い結果にはならないよ。放っておけない。すぐ水中に飛び込むから、二人は先に隠れていて」

 それだけを告げると、テオの頭は、岩の向こうに引っ込んだ。アレックスはクリスに引っ張られて、塩辛い水の中へ肩まで浸かる。怪我をした足がズキズキと痛んで、冷や汗が流れた。凹凸の多い岩の後ろに二人で隠れたが、アレックスはずっと、テオのことが気がかりだ。

「クリス、テオの様子を見てくる」

 そう言った途端、ガヤガヤと男達の喧しい話し声が耳に届いた。反響した声は、すぐ近くまで来ているようだ。アレックスは岩に身を隠して、岩壁や地面に掴まりながら、時折頭を沈めて、静かに洞穴の方へと進んでいく。こうしてみると、水中の方が足に力を入れる必要がないため、掴むものさえあれば進みやすかった。

(……何だ?)

 アレックスはふと、足元に何か触れた気がした。自分が岩陰にいることを確認しながら慎重に水面から顔を出して、振り返る。クリスと隠れていた場所からは、手の届かない距離にいるため、クリスではない。

 アレックスは、とてつもなく嫌な予感がした。足元からジワジワと駆け上がってくる不気味な焦燥感に、早くテオの元へ辿り着こうと身を捩る。その刹那、右足に、我慢ならない程の激痛が走った。

「……うぐっ!」

 誰かがアレックスの足を掴んでいる。それも、怪我をした部分に容赦無く、何か鋭いものが食い込んでいる。思わずくぐもった声を上げたアレックスは、そのまま水中に引きずり込まれた。

(……ッ!)

 こんなことができるのは、人食い人魚しかいない。アレックスの目に、仄暗い水底から、こちらをにっこりと見上げる女の顔が映った。女は黒髪を蛇のようにうねらせ、裂けんばかりに唇の端を吊り上げて笑っている。青白い手はアレックスの足をギチギチと掴み、尖った爪が、足の肉に容赦なく突き刺さっている。

 アレックスは藻掻きながら、必死に女の手を振り払おうとした。顔を蹴り、腕を蹴り、果ては自らの手で解こうとする。できることは全てやる勢いで暴れまくっていると、急に体が強い力で引っ張り上げられた。続いて、空気を引き裂く発砲音が耳に飛び込む。

「きゃあ!」

 額を撃ち抜かれた女は、耳を劈く悲鳴を上げ、手を離して水底に沈んでいく。

「よお、アレックス。命の恩人に礼でも言うか?」

 背後から聞こえた低い声に、アレックスは硬直した。恐る恐る振り返ると、洞窟の中をバート達が陣取っている。アレックスは引き上げられた側から、銃口を突きつけられていた。

「ううっ」

 苦しげな声が、洞穴の方から聞こえる。案の定、髪を掴まれたテオが洞穴から引きずり出されて、男達の中心に放り投げられた。彼の額には脂汗が浮かび、顔は真っ白で、苦しげな呻き声が、噛み締めた唇から漏れ出ている。体をくの字に折りたたんでいるテオの姿が、夫人に怪我を負わせられたときの姿と重なった。

「テオ……! あんたら、テオに何をした!」

 カッとなって吠えるアレックスに、男達は奇妙な顔をしてみせた。しかし、鼻で笑うと、アレックスのことなど見えていないかのように、宝の山へ向かっていく。男達は声を張り上げた。

「バート! 人魚は捕まえたし、もう、いいよな?」

「ああ、好きにしてくれ。人食い人魚がまだいるかもしれないから、気をつけろよ」

「それはさっきお前が倒したじゃないか。水面は静かだし、浅いから大丈夫さ」

 数人が宝の山に続く水の中に足をおろした。アレックスが隠れていた場所と違って浅く、男の腰上までしか水はない。彼らは麻袋を片手に、我先にと水をかき分けていく。

 バートはアレックスの拘束を仲間に任せると、洞穴を見に行った。

「さて……これが卵の在り処だな。この穴の中か? この小ささじゃ、人魚も中には潜れないな」

 どうやら、テオは卵をどこかへ隠せたらしい。バートは洞穴を覗き込んだが、何も反応はない。彼は思案する素振りを見せると、唐突にナイフを取り出して振り返った。歩みは真っ直ぐテオの元へ向かっている。アレックスはヒヤリとして身動いだが、すぐに地面に押さえつけられた。バートはテオの顔を片手で掴み、アレックスの姿を見せつけながら、耳打ちする。

「よく見ておけ」

 それだけ言うと、拘束している男を押しのけてアレックスの頭を掴んだ。何か言う間もなく、アレックスは水に顔面を押し付けられる。藻掻いても抜け出せず、息苦しくなったところで頭を引き戻されては、すぐにまた押し付けられた。

「ほら、アレックスが溺れ死ぬ前に、卵の取り出し方を吐け」

「言う! そんなことしなくても言うよ!」

「じゃあさっさと言え」

 テオの悲痛な声が洞窟に響く。アレックスの頭はようやく自由になることを許され、本能的に水面から離れて、深く空気を吸い込んだ。

(溺れるのはもうこりごりだ!)

 口に入った水を吐き出して、咳をしながら肩で息をした。テオから卵の取り出し方を聞き出したバートは、アレックスに見向きもせずに呟く。

「やっぱり、体の一部が必要か。以前ここで見かけた人魚は、入るときには切り取った髪を持っていたのに、出るときには持っていなかったらしい。そういうことだったか」

 周囲の仲間に顎で示すと、一人がテオの亜麻色の髪を無造作に一束掴み、ナイフの刃先を当てた。ブチブチと数本の髪の毛が無遠慮に切り取られていく――と、その時だ。は起こった。

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