第16話


 

 アレックスは冷たい水中から、空気の中に引き上げられて、岩場の上で息を潜めていた。傍らでは、テオがアレックスの服を破き、縛っていたロープを使って、銃弾に穿たれた傷の止血を試みている。テオによって運ばれたのは、岩壁の中にある洞窟だ。隣には、自力で難なく泳いできたクリスもいる。この場所は、バート達のいる場所からはさほど離れていないが、死角になっていた。

 このちょうど良い隠れ家は、テオがあらかじめ見つけてきた場所だ。バートが巣の入口を探させた時、テオは一足先に中まで進み、逃げるのに使えそうな場所がないか、急いで探していたのだ。

 テオが壁の文字を読んだ時、アレックスとクリスは、あることに気がついた。アレックスが知っている人魚文字が、別の読み方になっていたのだ。バート達は、クリスはともかく、アレックスまで人魚文字を知っているとは思わなかったのだろう。テオは読み方をあえて変え、その部分を繋ぎ合わせると文章が浮かび上がるようにした。そのおかげで、三人は上手いこと連携できたのだ。

 洞窟の外から、バートの声が響いてくる。

「急げ! 万が一にでもあいつらに先を越されたら面倒だ」

 この洞窟の付近は岩場だらけだが、見たところ、先程いた場所をもっと進めば、岩場伝いにここまで下りて来られそうだった。今来た道を戻ろうとすれば、かち合う可能性は高い。銃弾のせいでアレックスの右足は上手く動かないため、捕まれば、二度と逃げるチャンスはないだろう。

 今いる洞窟は狭いが、まだ地面は奥に続いている。外へ出るには、バート達の来た道を逆に辿らなければならず、それをする上手い手立てはない。水中に潜れば気付かれないかもしれないが、人間のアレックスやクリスでは、息が保たない。仮に上手く陸地まで戻れたとしても、負傷した足では、遅かれ早かれ捕まるのだ。三人は一先ず、奥へ進むことにした。

「テオ、アレックスを見ていてやってくれ。私は先に、奥の様子を確認してこよう」

 ずぶ濡れのクリスが立ち上がり、奥へ進んでいく。アレックスとテオは、ゴツゴツとした岩場から少し進み、比較的平らな地面の上に移動した。洞窟の中はほとんどが水で、地面は非常に狭い。アレックスとテオが座れば、いっぱいいっぱいだ。

 テオは泣きそうな顔で俯いて、赤く染まったアレックスの足を見ている。幸い、銃弾は肉を軽く抉っただけだったが、一生懸命手当てをしても痛みは消えない。これ以上海水に浸かるのは、文字通り傷口に塩を塗るようなものだろう。

「血がまだ止まらない……ごめん、痛いよね。もっと上手く手当てできればよかった。薬も切らしてなければ……」

「十分だ。それに、薬のおかげでテオが今動けてるんだから、悲観することはないだろ?」

 アレックスが肩を叩くと、テオは眉を下げたまま、申し訳無さそうに唇の端を少し上げた。

 アレックスは下半身を引きずって、少しでも奥に近付こうと身動いだ。濡れた地面をズリズリと動いていると、隣でテオも、同じように尾を引きずって並走する。ふいにアレックスは不思議な心地になり、フッと抑えた笑い声を漏らした。

「どうしたんだい?」

「いや、俺が人魚になったら、こんな感じかと思って」

 テオは変なモノでも食べたような顔をした後、何とも言えない複雑な表情で、頬を膨らませた。

「今の君の状況は、笑いごとじゃないんだからね」

「わかってるとも」

 アレックスは、隣にいるテオの額に、自分の額をコツンと当てる。テオはむっとしていた口元を緩め、仕方がないなあという風に、僅かに唇の端を上げた。静かな洞窟の中に、二人の抑えた笑い声が、ひっそりと染みていった。

「おい、君達。何をしてる? 行くぞ、とりあえず進めそうだ」

 ふいに声をかけられて、アレックスはパッと顔を上げた。戻ってきたクリスが、二人を呆れた目で見下ろしていた。

 三人が洞窟をいくらか進むと、狭い壁は唐突になくなり、視界が開けた。地面は完全に途切れ、水面のみが広がっている。天井から氷柱のように垂れている岩は、ぼんやりと淡く光り、岩壁の隙間から降り注ぐ、幾筋もの光と溶け合って、向こう岸を照らしていた。なんとも幻想的な光景に、アレックスは息を呑んだ。

「見てくれたまえ。向こうに小さな舟があるんだ」

「本当だ。あれを使えば、反対岸に行けるんじゃないかい?」

 テオは白い手を上げて、二人のいる場所から、地続きになった端の方を指差した。崩れた白骨が壁の前に積み上がっており、てっぺんにはしゃれこうべが鎮座している。

(骨があるってことは、人間の死体か)

 アレックスはヒヤリとしたが、隣にいるテオが驚きもしていなかったため、軽く息を吐くに留めた。アレックスからしたら、初めて見る人間の白骨死体だが、自然の中で生きるテオからすれば、生き物の骸くらい、珍しいものでもない。骨の前には朽ちかけた小舟があり、二人くらいなら、何とか入りそうだ。

 テオが水に入り、小舟をアレックス達の元まで押してくる。向こう岸まで泳げば渡れる距離だが、アレックスの足では辛い状況だ。舟があるのは有難かったのだが、アレックスは、小舟を間近にして躊躇った。

「これ、腐ってないか?」

「沈んだら、その時は僕が舟になるよ」

 あっけらかんと言うテオに折れて、アレックスは、恐る恐る舟に体を乗せた。今にも崩れ落ちそうな怪しい音が、尻の下から聞こえてきて、彼はヒヤリとした。クリスもドカッと中に入ってくるが、小さい舟のため、二人の体は溢れそうだ。

「クリスは泳げるだろ?」

「私だって舟に乗りたい」

「どっちでも良いから、動かないでおくれよ」

 木の軋む嫌な音を聞いたテオが、声掛けと同時に舟を動かす。彼は水中を泳ぎながら、二人の乗った小舟を押し進めていった。

 反対岸までそう遠くはない距離のはずだったが、アレックスは舟が動き出してすぐに、自分の尻が、段々と冷たいもので濡れていくのを感じた。

「テオ、やっぱり駄目だ! 浸水してる!」

「すぐ着くから我慢して!」

 ぐんとスピードが上がったが、舟もメリメリと音を立てている。アレックスは何とか傷口が濡れないよう、足の置き場を試行錯誤しながら、冷たい水に身を沈めた。

 どうにかこうにか向こう岸に付いた頃には、ただでさえ濡れていた二人の体は、再びびしょ濡れになっていた。岸に上がった途端、舟は蕾が開花するようにバラバラに分解して、息絶えた。その光景を眺めていた三人は、ゆっくりと顔を見合わせて、同時に吹き出した。

 クリスが唇を緩ませたまま、揺れる水面を眺め回す。

「しかし、ここまで騒いだら、そろそろ人食い人魚に気付かれそうなものだが、来ないな。運が良いぞ」

「おい、変なこと言うなよ。本当に来たらどうするんだ」

 テオが水中から二人の間に上がってくると、大きく水が跳ねて、地面が濡れた。舟に浸水していた水も、分解と共に地面に広がっていたため、足元は濡れて冷たくなっている。三人が冷えた地面に腰を下ろして、一息吐いていると、テオがふと目を瞬かせた。

「あれ……」

 彼は、自分達が腰を下ろしている地面を驚いた表情で見つめて、視線を動かしていく。アレックスも彼の視線を辿り、あっと息を呑んだ。

 地面の濡れた所に、何かの文様が浮かび上がっていた。地質か、細工が施されているのかはわからない。水は地面だけでなく、壁にもどんどん侵食して、広がっていく。文様もまた、水を追いかけて浮き上がり、目の前に精緻な壁画を描き出していった。やがて、不思議な文様に囲まれた三人は、周囲をぐるりと見回す。

「わあ……」

「むむ、これは人魚文字か」

「そうだね。かなり古めかしい言い回しが多いけど」

「何て書いてあるかわかるか?」

「ええと……」

 テオはどこから読んだら良いのかわからず、目をきょろきょろと動かしている。アレックスも、文字以外に情報はないものかと観察していると、文字と共に絵も並んでいるのが目に入った。洞窟の奥には、人一人が通れるくらいの狭い穴があり、縁には魚の下半身と人間の上半身を持った生き物――人魚が二人、描かれていた。片方は乳房があることから、男女二人の絵だとわかる。女の人魚の腰から下には丸い円が描かれ、男の人魚にも同じ位置に、より小さな円がある。隣にも絵があったが、ごちゃごちゃとしていて、アレックスには何の絵なのか理解できなかった。

「テオ、あれは何の絵だ?」

「あれは、宝物庫だよ。海に落ちてきたものを一箇所に集めて置く場所で、海底にはよくあるんだ」

「宝物庫? バートが来たがってたのは、ここだったのか」

 アレックスは、バートの言葉を思い出した。宝物庫と聞けば、大抵の人間は、ワクワクするものだ。アレックスも例外ではなかったが、それよりも足の痛みが勝り、ワクワク感は半減している。ずっと体を引きずって歩いていたため、体も痺れて痛い。

「何か使えるものがないか、見てみよう」

「うん」

 三人が狭い入り口をくぐると、間もなくして、開けた空間に辿り着いた。やはり、今までと同じくほとんどが水面であり、奥には、水に囲まれた小さな島がある。正確には、物が積み上がって、島ができている。宝物庫という名の通り、積み上がっているのは目も眩むような金銀財宝ばかりだが、中には錨や鉄屑といった、ゴミのようなものまであった。

「何であんなものまであるんだ?」

「そんなに不思議がることかい? あれとか、良い感じの棒じゃないかい? あれを拾った人の気持ち、僕にはわかるなあ」

 テオは目をキラキラさせながら、手前に突き出ていた、短い金属の棒を指差す。何かの部品だろうそれは、かなり昔のものなのか、錆びてかなり腐食していた。アレックスには、それに心惹かれる感覚はさっぱりわからなかったが、テオの楽しげな顔を見ると、ガラクタとも言える金属棒にも、価値があるように思えた。

 アレックスは、水で隔たれた宝の山を天辺まで見上げた。体が冷え切って悪寒がするため、できれば乾いた衣服でもあれば良かったのだが、そう都合良くはいかないようだ。服のようなものがあっても、ぼろ切れ同然で、使えそうな状態ではない。

 アレックスが潔く諦めたその時、後ろから、クリスの興奮した声がした。

「アレックス! テオ! これを見てくれ!」

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