第9話

訪れた総体当日。鳩山は未だに交錯する気持ちと折り合いをつけれないでいた。


いつ何時、何をしていても頭の中に浮かぶのは俊の悲しげな姿だった。


その為、練習にも身が入らず、昨晩はあまり眠れなかった。


「鳩山先輩、頑張ってくださいね!」

後輩の一人が後ろから鳩山に話しかけた。


「うん、ありがとう。頑張るよ」

鳩山は微笑みながらそう返すと、自分のレーンへと向かった。


レーンの上に立ち、背伸びをする。


飛び込みの姿勢に入り、スタートの合図を待つ。


甲高い笛の音で、勝負の火蓋は切られた。


笛の音を認識すると同時に、鳩山は水へと飛び込んだ。


ただひたすらに身体を動かし、泳ぎ進めていく。息継ぎの合間合間に見える他のレーンの人達との差は、少しもなかった。


拮抗する勝負の中、県大会にいけるのは上位三名だけであった。


鳩山の目に、残り十五メートルを知らせる線が映った時、鳩山の頭に一つの考えがよぎった。


ーきっと俊なら、楽々と優勝するんだろうなー


ほんの一瞬の綻びだった。だが、その一瞬が水泳の世界では命取りなのだ。


皆、次々とゴールし、順位を知らせるモニターを凝視する。


鳩山の順位は、四位だった。

県大会ベスト8の鳩山が地区大会で敗北するなど、本来は有り得ない事態であった。


試合を終えた鳩山は観客席に目を向けることが出来なかった。観客席で落胆する部活の仲間達の姿が容易に想像できたからだ。

鳩山はその姿を目に入れたくなかった。

鳩山はゆっくりと水から上がり、暗い気持ちのまま、ゆっくりとした足取りで仲間と顧問の元へと戻った。


鳩山が応援席に戻ると、後輩や同期の仲間達が一斉に鳩山の元に近付いて来た。


そして皆、口々に鳩山に慰めの言葉をかけた。


鳩山は仲間達のその言動が素直に嬉しかった。


慰めようとしてくれている仲間たちの前で暗いところは見せまいと、鳩山も気丈に振る舞い、悔しがる様子は見せなかった。


鳩山が中学最後の試合に負けたというのに、その場の雰囲気はまるで普段の部活の時間と変わらなかった。


皆、にこやかで明るかった。

しかし、その空間には言い知れぬ陰りが横たわっていた。


総体から四日経ち、鳩山の気持ちにも整理がついた頃、鳩山は朝食を摂りながら自身のこれからについて考えていた。


高校に入ってから部活を続けるか否かである。

鳩山は心底水泳が好きであった。泳いでいる間は全てを忘れることが出来たからだ、その上自身に才があることにも気付いていた。そしてその才が卓越していないことにも。


鳩山は密かに東大を目指していた。中学受験のあの苦い想いを払拭できるのは東大合格という成功体験のみだと踏んでいた。しかし、東大合格には並々ならぬ努力を要する、その努力を部活をしながら出来る自信が鳩山にはなかった。


鳩山は自身の凡庸さに気付いていた。否、数々の失敗体験が鳩山に気付かせたのだ。


鳩山は自分をよく理解していたからこそ、高校では部活をせずに勉強に専念することを決意した。


鳩山が朝食を食べ終わった頃、鳩山の母が鳩山に話しかけた。


「俊、水泳辞めるらしいわよ。あの子ったら本当に飽き性ね」


鳩山はこの言葉を聞いて衝撃を受けた。

あれだけ水泳にのめり込んでいた俊がそう簡単に飽きるわけが無い。鳩山はそう思った。しかし、鳩山は俊が水泳を辞める理由に心当たりがあった。


総体二日前のあの夜の出来事だ。

鳩山はあの出来事で俊を深く傷つけた自覚があった。

あの日鳩山は、純粋な俊の心を踏みにじり、自身の醜い劣等感を暴言に変えて発散した。鳩山はあの日のことを思い出し、自責の念に駆られた。途端にどうしようもない気持ちが心に湧き上がり、鳩山は家の固定電話へと走り出した。


必死にダイヤルを回し、俊の下宿先へと電話をかける。

ープルルルルルー

何コールかした後、ガチャリという音が鳩山の耳に届いた。

ーもしもしー

電話越しに、眠たそうな俊の声が聞こえた。

「俊、おはよう。」

ーお兄ちゃん?どうしたのこんな時間にー

俊が少し驚いたような声でそう言った。

「俊、水泳辞めるのか?その…この前の出来事が原因で辞めることにしたのならごめん。俊には才能がある、このまま俺のことなんか気にせず水泳を続けて欲しい。」

鳩山は本心を語った。

その後三秒程沈黙が続き、その少しの沈黙が鳩山と俊の間に緊張を走らせた。


ーううん、こっちこそ無神経なことしてごめん。お兄ちゃんは何も悪くない。水泳は単純に飽きたから辞めただけだよ。気にしないで、じゃあ僕はもう学校向かうね、またねー


俊は一方的にそう言うと、電話を切ってしまった。


電話が切れてから数秒後、鳩山の額に脂汗が滲んだ。

部屋には朝のニュース番組の音だけが響いている。

ゴクリ

鳩山が生唾を飲み込む音が脳内に木霊した。


鳩山は俊の言っていることが嘘だとすぐに分かった。


俊の水泳への傾倒具合は、ピアノに対するそれを遥かに凌駕していた。それは傍から見ても一目瞭然だった。


鳩山も総体二日前の会話で、そのことには気付いていた。

だからこそ、あの日から一週間も経たないうちに俊が水泳に興味を無くすなど、有り得ないことだと分かっていた。


鳩山が感情に任せて言った言葉の数々が、俊の未来を奪ったのだ。一人の天才の才を潰したのだ。そう思うと、心の底から行き場のない憤りが込み上げてきた。


鳩山の身体に執拗にまとわりつく罪悪感。俊のことを考えれば考えるほど、鳩山は自身が憎く思えた、そして鳩山一人の身体では抱えきれない程の劣等感と自己嫌悪に押し潰されそうになっていた。


ー僕は醜悪すぎるー

鳩山は自身の醜さがどうしようもなく嫌いだった。

ー僕は何もかもが俊の劣化版で、醜さ以外何も持ち得ない屑人間なんだー

鳩山は言い聞かせるように心の中でそう呟いた。

そして思い切り握り拳で自身の顔を殴った。

ジンジンと痛む頬、ゆっくりと口内に広がる血の味、鳩山の視界は軽い目眩で少しボヤけた。そして顔の鈍痛が引いていくと共に、鳩山の頭も冷静になっていった。鳩山は再び暗い気持ちが心を支配する前に、家を飛び出し学校へと向かった。


その日から、鳩山の怠惰な生活が始まった。

惰性で授業を受け、学校を終え、自宅に帰り、必要最低限の営みをして寝るだけ。そんな日々が淡々と続いていた。

部活も終わり、打ち込めるものがなくなった鳩山は完全に生きるモチベーションを見失っていた。


そんな鳩山の唯一の楽しみと言えば、週に三回程行っている都内の水泳施設での遊泳だけだった。鳩山は水泳を辞める決意はしたものの、依然として水泳は好きであった。


週に三回、一心不乱に体を動かし泳ぐことで、鳩山はメンタルを何とか保っていた。


その日も、鳩山は学校終わりに水泳施設へと足を運んでいた。

いつもの通りレーンに入り、クロール、バタフライ、背泳ぎの順番で泳いでいく。二巡目のバタフライを泳ぎ終わった後、鳩山は自身が付けていたゴーグルが無くなっているのに気が付いた。泳いでいる最中に落としたのだ。鳩山は立ち泳ぎをし、レーンをゆっくりと移動しながらゴーグルを探した。

しかし、ゴーグル無しでの水中の視界は悪く、中々見つからない。その時だった。


隣のレーンの端に掴まりながら、こちらに大きく手を振っている女性がいた。手にはゴーグルを握っている。鳩山はすぐさま女性の元へと行った。


「これ僕のゴーグルです。拾ってくれたんですね、ありがとうございます。」

鳩山はお礼を言った。

「いえいえ〜、私が見つけれて良かったです」

女性はそう言うと、花のように笑った。

 

鳩山はその表情に見惚れた。目を合わすことすらままならなくなり、途端に声が詰まる。所謂一目惚れだ。


「あ、ありがとうございました!」

鳩山は裏返った声でそう言うと、その場を立ち去ろうとした。

「待って!鳩山くん。」

すると、女性が静止をかけた。

鳩山はビクッと身体を揺らし、ゆっくりと女性のほうを見た。

「どうしたんですか?ていうか僕の名前どうして知って…」

鳩山は視線を泳がせながら聞いた。

「ゴーグルに書いてたよ。ごめんね、驚かせちゃった?鳩山くんさ、結構このプール来るよね、前からよく見かけるから気になってたんだ〜何歳なの?」

女性は軽快な口調で話した。

「あ、そうなんですね。僕は15です。」

「てことは、中三?」

「はい、そうです」

「同い年じゃん!」

女性は大きな声でそう言った。再び鳩山の肩がビクつく。

「ごめん大きい声出しちゃって、私那須美香って言うの、よろしくね」

美香はそう言って鳩山に手を差し出した。

鳩山は恐る恐るその手を掴んだ。

褐色のよく焼けた綺麗な肌に、鳩山よりも一回り小さい掌。

掴んだ感触は手とは思えないほど柔らかかった。

初めて触れた女子の手、鳩山は感動した。

しかし、鳩山に感動の余韻に浸る間も与えず、美香は話し続けた。


「ねぇ、折角だしもうちょっと話さない?あそこのベンチでさ!」

美香はプールサイドにあるベンチを指さした。

「いいですよ」

「敬語使わないで!」

「あ、うん。わかった」

鳩山が返事をすると、美香は満足そうに笑いプールからあがりベンチへと歩き始めた。

美香と鳩山はベンチでお互いについて話した。

鳩山が美香と話して彼女についてわかったことは、美香はこの水泳施設の近くに住む中三で、鳩山が中学受験をしなかった場合通うはずだった中学に通っているということと、水泳が好きということだけだった。他にも美香は沢山話したが、鳩山は緊張しすぎてそれどころではなかった。


二人は小一時間ほど話し、解散し、お互い別々で帰路についた。鳩山は帰り道、美香の掌に触れた右手を眺めながら、彼女を思い出した。美香を思い出す度に鳩山の心の臓は大きな音を立て、鼓膜を支配する。美香の喋り方、声、華やかな性格、所作、その全てが鳩山の心を鷲掴みにした。鳩山はこの日、恋を知った。今までの人生で恋をしたことがなかった鳩山は、初めての感覚に戸惑いと喜びを覚えた。鳩山は美香が自己嫌悪と俊への劣等感に塗れた自身の人生を大きく変えてくれるような気がした。ただ直感で、そう感じた。


 

































































 

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