第8話

第8話


母との朝食時の何気ない会話で知ったその情報は、鳩山の色褪せた世界を更に色褪せさせた。


結果、鳩山の世界に残った色は、怒りの赤

一つだった。


鳩山は我慢の限界だった。鳩山が幼少期から抱えていた俊への劣等感は歳と共に大きくなり、今はもう抱えきれないほどに成長していた。


鳩山はピアノに中学受験と、ことごとく鳩山と同じ選択をしては鳩山の上をいってきた俊に、また居場所を奪われるような気がしてならなかった。


そう思うと、怒らずには居られなかった。


何故俊がいつも自分と同じ選択をするのか鳩山には理解できなかったし、理解する気もなかった。


鳩山は俊に対するこのどうしようもない気持ちに縛られたまま、迫り来る総体に向けてより一層の努力をした。


そして時が流れ、ついに鳩山の三年間の集大成、総体が二日後に迫っていた。


その日はお盆期間であった為、俊も実家へと帰ってきていた。


リビングのソファに座り、テレビを見ている俊は以前より少し肉付きが良くなり、肌も黒く焼けていた。


「じゃあお母さんはお父さん迎えに行ってくるわ」


台所で食器を洗っていた母はそう言いながら手を拭き、玄関へと向かった。


しばらくしてドアの開く音がした。


家の中は俊と鳩山の二人だけになった。


夕方とは思えない厳しい日光が、カーテン越しに鳩山を照らす。もう夜も近いのに外では蝉が叫ぶように鳴いている。


「お兄ちゃん、聞いてよ」


俊が口を開いた。


「なに?」


無機質に鳩山が返す。


「最近ね、タイムの更新が凄いんだよ!測る度に速くなってる!」


俊はそう言った後もまくし立てるように言葉を重ねたが、その言葉が鳩山の耳に届くことはなかった。


鳩山の精神は張り詰めた糸のようだった。

いつ切れるか分からない、そんな状態だ。


鳩山は外の蝉の声も、テレビの音も、俊の声も、何も聞こえなかった。


聞こえるのはギリギリという自身の歯ぎしりの音だけだった。


理性が制止をかける前に鳩山の手は動いていた。


バン!っと鳩山が机を握りこぶしで叩いた音が部屋に響く。


話していた俊は驚いた表情を浮かべたまま、固まっていた。


「お前、僕への当て付けか?」


鳩山が震える声で俊に聞いた。


「あ、当て付けってなに──」


「いいよな、俊は才能あって。いつもお前の努力は報われる。何をしたって出来の悪い兄の僕とは対照的だ!だから、お前も心の中では僕を馬鹿にしてるんだろ?なんで水泳部に入ったんだ!他の部活でも良かっただろ、出来の悪い惨めな僕をこれ以上惨めにしないでくれよ!」


鳩山は俊の言葉を遮り、心の中に秘めていた言葉を吐露した。


「そんなつもりは──」


「うるさい!お前の言うことなんて聞きたくないんだ!お前には分からないさ!努力しても報われない人間の気持ちなんて。いつもお前は僕と同じ選択をして僕より上をいく、何がしたいんだ!嫌がらせ以外の理由があるなら、教えてくれよ俊…」


再び俊の言葉を遮り、鳩山は涙声でそう言った。


呆然とする俊をリビングに残して、鳩山は二階の自室へと走った。


鳩山は部屋につくと、勉強机に突っ伏して泣いた。


開いたままにしていた参考書に大きな染みを作りながら。


すると、遠くから階段を上がる音が聞こえてきた。


その足音は、段々と鳩山の部屋に近付き、鳩山の部屋の前で止まった。


数秒後、ドアノブが回る音が聞こえた。


「開けるな」

鳩山はドアが開き切る前にそう言った。


「お兄ちゃん…」

俊の弱々しい声が、ドア越しに鳩山の耳に届く。


「今、お前と話したくない。向こうへ行ってくれ。」


「嫌だよ。お兄ちゃん、さっきはごめん。僕、お兄ちゃんに嫌がらせしてたつもりはないんだ。でも、お兄ちゃんのさっきの言葉聞いてよく考えたよ。確かに、僕もお兄ちゃんの立場だったら同じことを思うと思う。だからごめん、僕が無神経だった。」


鳩山の指示を無視し、俊は謝った。


続けて


「僕はただ、昔からお兄ちゃんに憧れてただけなんだ。怠惰な僕とは違って、いつもお兄ちゃんはひたむきに努力をしてた。ピアノを弾くお兄ちゃんの姿や、勉強を頑張るお兄ちゃんの姿を見て、僕もそうなりたいって思ってしまったんだ。だから真似をするように同じ選択をしてきた。今回だってそうだよ、大会で泳ぐお兄ちゃんの姿を見て、僕は感動したんだ。泳いでいるお兄ちゃんは誰よりも輝いていたし、格好良かった。でも、この憧れがお兄ちゃんを苦しめてたなんて思ってもみなかった。本当にごめん。」


俊はそれだけ言い残し、リビングへと帰って行った。


俊の心の中にあったのは、鳩山への純粋な憧れだった。


鳩山が俊に対して嫌悪感を抱いていたのに対し、俊は鳩山に尊敬の念を抱いていたのだ。


鳩山は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。


「僕はなんて酷いやつなんだ…」

鳩山は自身を責めた。


鳩山は、純粋に自分を尊敬している弟を傷付け、突き放し、罵倒したのだ。


鳩山は自分の醜さを許せなかった。


そして能力と見た目だけでなく、性格ですら俊には敵わないのだと悟った。


自責の念と、俊の真意を知ってもなお消えない俊への怒りが交錯する中、鳩山は完全に自分の価値を見失った。


途端に暗い考えが鳩山の脳内を支配する。


ー自分は生きていても意味が無いんじゃないだろうかー


ーそうだきっとそうだ、俊も父さんも母さんも、僕みたいな出来の悪いやつなんていないほうがいいと思っているに違いないー


心の底からそう思った。


机の上に置いてある縄跳びに目がいく。


鳩山はそれを手に取り、ドアノブへと近付いた。


縄跳びを解き、首をかける部分を残して縄をドアノブに巻き付けた。


床に座り、縄に首を通す。


鳩山は身体をずらし、徐々に縄に体重をかけていく。


その時、ふとあの日のことを思い出した。


幼き日のピアノレッスンの日を。


ー自殺が一番してはいけないことー

鳩山の母の言葉が頭を駆け巡る。


鳩山は考えた。

自分から真面目さを取り上げたら何が残るのかと。


そして気付いた。


今、自身に残っているのは真面目さだけだと。


かつての日の母との約束を今守らなかったら、自分は真面目では無くなる。真に無価値な人間になってしまう。


この真面目という矜恃を捨てて死にゆくのは嫌だと、鳩山は思った。


そして同時に、これから先はこの矜恃を大事にして生きようと、そう思った。


「やめよう…」


鳩山は縄跳びを解き、元あった位置に戻した。


そしてその日は深い自責の念と悲しみの中、眠った。







































 

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