第3話
第3話
なんと俊は兄の鳩山が練習していた曲を弾き始めたのだ。ピアノを初めて触ってから一週間でだ。その曲は鳩山が一ヶ月かけても弾けるようにならなかった曲だった。
鳩山は不思議で仕方がなかった、何故ピアノを始めて一週間でこの曲が弾けるのかが。
鳩山は裏があると感じた、そうでないと辻褄が合わない。そう思った、思いたかった。
その日の夕食の時間、鳩山は俊に聞いた
「俊はあの曲の楽譜すら見たことがなかったのにどうしてあの曲を弾けたの?」
鳩山にそう聞かれた俊は動かしていた箸を止め、口を開いた。
「音があるもん、楽譜を見なくたってお兄ちゃんが毎日同じ音で弾くからその音の部分を覚えてピアノで弾いてるだけだよ。」
そう答えた俊は残していたご飯を全て食べ切り、食器を抱え台所に向かった。
鳩山には俊の言ってることが理解できなかった。音を覚える?何を言っているんだ、ピアノは楽譜を見てその通りに鍵盤を弾く以外に弾く方法はないだろう。そう心の中で呟いた。
俊が嘘をついていると思った鳩山は、食器を片付け終わり自分の部屋に戻ろうとしている俊に声をかけた。
「俊、嘘ついてるだろ」
「嘘なんてついてないよ!」
俊がむすっとした顔で答えた。
「音を覚えてピアノで弾くなんて出来やしない、本当に出来るって言うならあの曲今すぐ覚えて弾いてみろよ!」
鳩山はムキになってそう叫ぶと、ついていたテレビを指さした。
テレビには歌番組が流れていた。
当時人気を博していた映画の主題歌を歌手が熱唱している。
「わかった」
俊はそう言うとテレビに近付き目を瞑った。
一分程の沈黙の後、俊が目を開き立ち上がった。直ぐにピアノに向かった俊は
「お兄ちゃん、ちゃんと聴いててね」
そう言い、演奏を始めた。
一分ほどの演奏だったが、その演奏は凄まじいものだった。とても一度しか聞いていないとは思えない程に。
演奏能力もさることながら、全ての音を覚えられる記憶能力も俊にはあったのだ。
「ね、だから言ったでしょ?」
俊はそう言い残すと、早足で自分の部屋へと帰って行った。
鳩山は驚きのあまり言葉を失っていた、頭の中が真っ白になり何も考えられなかった。
次第に冷静さを取り戻し、思考を巡らせた。
と同時に得体の知れない感情が鳩山を襲った。身体の内側から溢れ出るようなムカつき、理由が分からない憎悪、この感情が嫉妬だということを理解するのにそう長い時間は要さなかった。
鳩山は弱冠八歳にして持つ者と持たざる者の違いを理解した。
俊は持つ者、自分は持たざる者。
ただこの現実だけが鳩山の前に立ち塞がっていた。
考えれば考えるほど、自分が五歳から現在に至るまでの三年間で積み上げてきたものが空虚に感じた。
俊は鳩山が三年間かけて培ったものを一週間で会得したのだ、鳩山は自分を惨めに感じずには居られなかった。
鳩山は両手の親指の内側に出来たピアノタコを見た、そして俊のまっさらな両の手を思い出して泣いた。
二階の部屋に居る俊にはバレないように声を殺して泣いた。
鳩山は両の眼から零れ落ちる水滴を必死に拭った、しかし何度拭っても視界は滲み、Tシャツの袖を濡らす。零れ落ちる水滴とは対照的に目頭は熱いままだった。
その時だった、がちゃりと音を立てて洗面台部屋の扉から母が出てきた。母は顔をぐしゃぐしゃにした鳩山を一目見ると焦ったような表情になり、急いで近くまで駆け寄った。
「どうしたの和夫?!何があったの?」
普段は全くと言っていいほど泣くことがなかった鳩山の泣き姿に鳩山の母は酷く動揺した。
問いに答えずに、ただただ声を殺して泣き続ける鳩山の背中をさすりながら、鳩山の母はもう一度聞いた。
「どうしたの?何があったのかゆっくりでいいから話して?ね?」
母性に包まれたその声は鳩山の心を落ち着かせた。
鳩山はゆっくりと、そして少しづつ何があったかを話した。
俊が自分よりも遥かにピアノの才能に富んでいること、聴いた曲をすぐに再現出来ること、そして自分がその才能に嫉妬し泣いたこと。
鳩山は震える声で母に問いかけた。
「僕は俊のようになれないのかなぁ」
そう問いかけられた鳩山の母は真剣な顔をして黙ってしまった。
鳩山は「大丈夫だよ、和夫には俊にも負けない才能があるよ」と、 そう言って欲しかった。母だけは自分の努力を認めて欲しかった。今までの全てが無駄じゃないと言って欲しかった。
しかし鳩山の母の返答はその期待を裏切ることになる。
「和夫、あなたピアノ辞めたい?人には得意不得意があるのよ、俊が得意な分野がピアノだったってだけ、和夫にもきっと得意な分野がある筈だわ。その分野で頑張ればいいのよ、不得意なことを頑張るより、得意なことを頑張ったほうがきっと人生楽しいわよ。」
鳩山の母なりに鳩山を傷付けないように気を付けて言った言葉だった。しかしこの言葉は遠回しに鳩山にピアノの才能がないということを示唆していた。
「わかんないよ…」
泣きすぎて腫れぼったくなった顔を下に向けて鳩山はそう言った。
「何も今まで努力した三年間が無駄になるわけじゃないわ、この三年間和夫は毎日欠かさずにピアノを練習したでしょう?毎日続けるという習慣を身につけれたのよ、あなたは俊よりもずーっと真面目だからきっとこの習慣はこれから役に立つはず、だから新しいことに挑戦してみてもいいんじゃない?今すぐ決断しろとは言わないわ、また明日の朝に聞くからその時に答えを教えてね。わかった?」
鳩山の母はそう言うと、鳩山を抱きしめた。
懐かしい香りとほのかなシャンプーの香りがする母の胸は、花畑さながらだった。
鳩山は母の言葉を聞いて、少し心が軽くなった。「努力は無駄じゃなかった」この言葉だけが体内を駆け巡った。
人間には得意不得意がある。まさにその通りだ。鳩山は母の言葉を信じ、自分の得意な分野、すなわち勉強を頑張ろうと心に決めた。
次の日、鳩山はピアノを辞めた。
そしてその日から鳩山は英検と漢検の勉強をした、毎日五時間、一日も欠かさずに。
そんな日が一年続いた頃、鳩山は漢検英検共に二級に合格した。鳩山が四年生に上がり立ての時だった。
鳩山が勉強をし続けている一年の間、俊はありとあらゆるコンクールを総ナメにしていた。全校集会ではほぼ毎回のように表彰され、学校内でも神童扱いだった。
勿論、鳩山も褒められはした。英検・漢検二級に合格する小学四年生などそうそう居ない、しかし圧倒的光を放つ弟の前では英検二級だろうがなんだろうが霞んで見えた。
そういった積み重ねが、鳩山の劣等感を徐々に徐々に育てていった。
鳩山が小学四年生の五月中頃、鳩山の教室で
ちょっとした事件が起こった。
二時間目の理科の時間、同級生の田中くんが屁をしたのだ。それも大きな音で。
ザワつく教室、始まる犯人探し。
クラスのおちゃらけ者の林が、田中のほうに近付く。
「うわくっせー!オナラをしたのは田中だぞー!屁こきマン田中だー!ギャハハハ!」
林が大声でそういうと、林の取り巻きを筆頭に、徐々に徐々に笑いの輪が広まっていく。
ヒソヒソ話しながら冷めた目線を送る女子たち、好奇の目を向け、爆笑する林達。
お世辞にも明るい性格をしているとは言えない田中は耳を真っ赤にし、下を向くことしか出来なかった。
しばらくの爆笑のあと、担任の若い女教師が
「林くん、席に戻りなさい」
と注意した。
注意された林は悪態をつきながら席へと戻ったが、その後も尚ヒソヒソ話を続けていた。
鳩山は一連の流れの傍観者でしかなかった、林に加担もせず、田中の擁護もしなかった。
鳩山はそんな自分を許せなかった、《弱きを守り強きをくじく》いつの日か約束した母との約束を守れなかった自分を許せなかった。
次やったら必ず注意してやる、鳩山はそう心に誓いその日は終わった。
次の日、林は登校してそうそう田中の席に行った。「よぉ〜屁こきマン」そういうと田中のおでこをデコピンした。
はにかんだ作り笑いをした田中の目には少しの水滴が溜まっている。
鳩山は動こうとした、でも動けなかった。
どうしようもなく林達が怖かったからだ。
次の日もその次の日もその次の日も、似たようなことは起きたが鳩山は注意出来ずにいた。
その理由は林達が怖いのもあったが、彼らがやっていることはイジメというよりイジりだったからだ。イジりの範疇を出ない限り、注意するにもタイミングが難しかった。
しかしある日、決定的ないじめが起こった。
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