お題「夏」

『夏富士』


 夏富士はくらぐろとして、いかにも乳房のようである。湖畔の旅館でだらだら過ごすつもりだったが、山肌と入道雲の合間の青さを眺めるうち、どうにもたまらなくなってしまった。五合目までバスでゆき、登山者の列に加わる。下山者たちとすれ違う。どうも場違いな気がする。大きなリュックを背負い、杖を突く人々は、顔を合わせるたびに挨拶をして、頑丈そうなブーツを鳴らす。それ以外は大して喋らない。ブーツと挨拶だけが山の言葉なのだろう。


 私はそれを持たない。スニーカー、ジーンズ、厚手のカーディガン。私の言葉はまるきり街のままだ。富士ではあまり通じないようで、下山者たちは私とすれ違う度に異邦人を見るような目をする。私の挨拶は遊離する。無鉄砲な若者め、という囁き声も聞こえる。どこから来たのか、半分残ったカップめんの残骸に、蠅がたかっている。


 夏は生者がなだれ込む。それでいて死の季節だ。富士は特にそうだ。何千もの登山者たちの連なりの外では、旧石器時代からの死があちこちにわだかまっている。今年も数人帰らなかった。何万の幽霊が富士を彷徨っているのか。そのうちのひとりになった気分で、私は生者の渦に流されていく。


 流れは下るものだ。しかし、ここでは上っている。思えば不思議なものである。同じく不思議がっているような顔をちらほら見かける。皆、大きなリュックも杖もブーツも持っていない。街の言葉で歩いている。私と同じだ。彼らのひとりが誰かに叱られている――もっとちゃんとした格好で来なさい。山を舐めている。危険と隣り合わせなんだから――山の言葉は時に街の言葉に引き下ろされる。


 ふと、白いきらめきに気が付いて、私は道を外れた。喧騒から離れた岩陰に残雪があった。灰色がかった白さは死者の肌に似て、しかしきらめきは生きているようだった。眠っているのだ、と思いつく。冬を待っているのだ。言葉のない静寂を。


 ざむざむと音を立てて、私は残雪に足跡をつけた。日が翳る。私は再び登山道に戻ると、硬い岩肌を踏み、富士を降りていった。


 畳に寝転がって富士を見る。赤富士も変わらず乳房のようだ。山の生者たちは今も、硬い肌を蟻のように上り下りしているだろうか。赤子の雲入道が乳房に食いつき、巡礼者たちを呑み込んでいく光景を、私は不意に夢想した。斜陽に肌をじりじりと焦がされているうちに、泥のような眠りが訪れる。冬を待つ。


(了)

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気まぐれお題創作集 蛙鳴未明 @ttyy

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