第6話 責任と覚悟
司法解剖をしてみると、死因につながりそうな怪しいものは何も発見されなかった。自然死として処理され、家族は保険金を手にし、やっと借金地獄から抜け出すことができた。
そのおかげで、家族も助かったのだが、それが本人の死によるものだということは、後味の悪いものだった。
後味が悪いと思っているのは警察も同じだった。
「あまりにも話がうますぎると思うんだよな。いくら証拠がないとはいえ、限りなくクロに近いんだよ。日本の法律は、疑わしきは罰せずというものなので、証拠がないのでは、どうしようもないからな」
と一人の刑事がいうと、もう一人の後輩刑事が、
「確かにそうですよね。でも、それでみんなが丸く収まったのだから、彼の死も無駄はなかったということですよね。言い方は悪いですが、彼が生きていても、ギャンブルを続けているだけで、立ち直るという気配もなかったのだから、死んでくれてよかったというのは、感情的におかしいんでしょうかね?」
という。
「しかしだな。それを言い始めると、医者が安楽死を認めたようなことになってまずいんじゃないか?」
「いいえ、私は、安楽死を別に悪いことだとは思っていないんですよ。意識もない、しゃべることもできない。生きているというだけで、人間としての尊厳はどこにもないじゃないですか? それで生きていると言えるんですかね。安楽死というのは、尊厳死とも言います。つまりは、尊厳のある死です。生きていて普通に生活もできない。普通に生活ができるようになる可能性は限りなくゼロに近い、それだったら、尊厳のある死を選んでもいいんじゃないですか?」
というと、
「確かにそうなんだよな。生きているだけでお金がかかる。生命維持装置だってただではない。毎月、それだけのお金がいる。つまりは、そのお金を供出するために、家族が犠牲になるわけだよね。そこまで家族とはいえ、責任を負わせる必要があるのかということだよな?」
と先輩刑事がいうと、
「ええ、そうなんですよ。それと理屈は同じで、今回の死んだ人も、ギャンブル依存症で、借金があった。その借金を本人が払えない時は、家族に及ぶというものですよね。さすがに、最後には、どこからもお金が借りれなくなっているようで、首が回らなかった様子ですからね。それだけの借金がかさんでしまっていては、家族の中には、死んでもらってよかったと思っている人だっていると思うんですよ。きっと、生き返ることがない植物人間となった人の安楽死を選んだ覚悟と同じようなものではないかと思うんですけど、これって感情論で口にしてはいけないことなんですかね?」
と後輩が言った。
「君のいう通りさ。刑事だって一人の人間。感情を口してはいけないとは思わない。俺も実際にはそう思うんだけど、どうしても刑事は、ある程度法の番人という枠割も担っているような気がするんだ。感情にばかり身を任せてしまえば、本来死ななくてもいい人間が安易に死んでしまうことになりかねない。そういう意味で、俺たちは、最後のストッパーのようなものにならないといけないとも思うんだ」
と先輩はいうではないか。
「安楽死は決して許されることだとは思いませんが、本人の生きる尊厳、死ぬ尊厳、どちらを大切にするかというのは、結局、法律で明文化できないですよね。基本的に安楽死はいけないということになっているけど、判例では意見が分かれていたりする。例えば、本人の意思、意識がなくなる前に、文章で遺言のようなものを書いている場合ですね。意識不明になったら、延命はしないというようなですね。そして、もう一つは、医者の診断で、本人が元の生活に戻ることは、ほぼほぼ無理だということを診断し、さらにそれを請け負い家族に、負担が大きくのしかかってくるというような場合は、安楽死を尊厳死として認めて、無罪という判決を言い渡した事例もあるくらいですからね」
と後輩は言った。
「だけど、今回の事件は、少し違っているんじゃないか?」
と先輩がいうと、
「確かに罪を逃れようとして、あざとく感じますが、状況は安楽死に限りなく近いですよね。やはり、これを完全犯罪だということであれば、許せない部分もありますが、それも感情論なんじゃないかと思うんですよね。結局殺人であっても、自然死であっても、疑惑はずっと平行線をたどるのであれば、変な詮索はしない方がいいのではないかと思うんですよ」
と後輩は言った。
尊厳死の問題を語り始めると、結果が出ない会話を永遠に続けなければいけなくなるということは重々分かっていた二人だったが、お互いの意見をどうしても、相手に認めさせたいという思いもあってか、話が収まらないというのも事実だった。
ここには、勧善懲悪という考えが一つ浮かんでくるのだが、果たして、勧善懲悪という意味で、尊厳死というものは、善なのか悪なのか、いったいどっちなのだろうか?
この場にはいない肇だったが、肇も、尊厳死のことは考えないわけではなかった。医学の世界を志し、いずれは医者になろうと思っている以上、尊厳死というものに対しては、いずれ避けて通ることのできないものではないかと思っていたのだ。
肇も、一度、大学の教授と尊厳死のことについて話をしたことがあった。
「僕は、尊厳死を受け入れる時代がいずれ訪れるのではないかと思うんですよ」
というと、先生が、
「その根拠は?」
と聞くので、
「いくら人の命を他人が奪ってはいけないと言われていても、生き返る保証もないのに、そのため、まわりの人間が巻き込まれて、不幸になるのが目に見えているのであれば、尊厳死というのも、その人の立派な死に場所だと思うのはおかしなことなんでしょうかね? 昔だったら、いくさがあった時、銃剣で突いた相手が、死にきれずに苦しんでいて、度胸がなくて、とどめを刺せない若い兵士がいれば、その横から上官が、早く殺してやらんかと言って、ピストルでとどめを刺すという、そんなシーンを映画で見たことがあるんです。それは、確かに戦争中なので、その場で死ななくても、ほかの人に殺されるというのが目に見えているからなんでしょうが、それだけではないと思うんです。結局は、生き残れるかどうかというのが一番の理由でなければいけないと思うんですよね。見込みがないのであれば、殺めてやるというのも、生きている人間の使命ではないかと思う。生殺与奪の権利を、持たせてもいいのではないですかね」
と肇は言った。
「ということは、本人の意思が、延命を望まないということよりも、その根拠として、元には戻れない、ただ、生き続けるだけの状態を考えた時、自分を思ってゾッとするからなのか、残されるであろう家族やまわりのことを考えてのことなのかなのだろうね」
と先生はいう。
「そうなんですよ。そして、尊厳死を考える時、たぶん、両方の立場を考えるのではないかと思うんです。つまりは、自分が植物人間になる場合と、植物人間になった人の延命のために、自分の人生を犠牲にしなければいけなくなった場合ですね。つまりは、命を絶たれる場合と、自分から相手の命を絶つ場合との両方を考えたのではないでしょうか? 明日は我が身ということですよ」
と肇は言った。
「本当に難しい問題だと思いますよ。特に最終的にそれを裁くのは、まわりの人間なんだ。他の犯罪だと、客観的に全体を見る目も必要ということで、裁判官がいるんだけど、この場合のように、果たして裁判官であっても、お互いの立場を考えると、どこまで尊厳死を認めるかということを考えると、難しい問題になってしまうからね。少なくとも医者の立場からいうと、尊厳死は認めてはいけないものだということになると思うんだよね。医者はどんなことがあっても、最終的には患者の命を救うことが最優先事項からね」
といった。
「教授は医者という立場を離れればどっちなんですか? 人間として考えた場合ですね」
と肇が聞いたので、
「私は、尊厳死を認めるだろうね。医者だって、ただ命を救いたいというだけで医者になろうと最初は考えるけど、実際に医者の仕事にかかわっているうちに、理不尽な思いだっていっぱいするものだよ。例えば、何かの災害が起こって、けが人が多数出た場合、医者や看護婦の数に限りがあるので、絶対にすべての命を助けられるわけではない。そこに命の優先順位をつけるという究極の選択が待っていたりして、それでも、選択をしないといけない。その際に必ず罪悪感が出てくるはずなんだ。そもそも、そこで罪悪感を抱かないようなら、医者にもなっていないでしょうからね。つまり、罪悪感というのは、正義感の裏返しのようなもので、勧善懲悪が強ければ強いほど、罪悪感を抱くというもので、この感情の開きがあるほど、ジレンマに陥って、それが悩みとなり、トラウマとなって自分の経験値に蓄積していくんじゃないかな? 勧善懲悪と、生殺与奪の権利という、一見、正反対に思えることも、まるで長所と短所のように背中合わせになっているものであって、その背中合わせを意識しないままにいると、いずれ、医者をやっていくことができないような壁にぶつかってしまうのではないかと思うんですよ」
と、教授は言った。
「ただ、それはあくまでも個人的な意見ですよね? それを教授として。そして医者として言ってしまうと問題になってしまいますよね?」
と肇がいうので、
「それはもちろん、そうだよ。君がこれから医者になって、どんな考えになるかは私には分からないが、君がもし、今の私のように尊厳死を認める気持ちになったのだとすれば、必ずそこには覚悟が必要だと思うんだよ。医者だって神様じゃないんだ。意識のない患者が何を考えているかなんて分かりっこないんだよ。分かったと思っても、それは自分の勘でしかない。つまり、相手がどう思っているかということを分かるはずもないわけなので、自分がやろうとしていることは、すべてが自分が決定することになる。だけど、それが正しいのか間違っていたのかということは、きっと分からないだろう。下手をすると、その責任の重圧に押しつぶされてしまうかも知れない。そうなった時、必ず後悔というのはするものさ。立ち直れないかも知れない。これは手術に失敗した時よりもトラウマとしては大きいかも知れない。手術での失敗は、相手を助けたいという思いを貫いてのことだからね」
と教授はいった。
「じゃあ、そんな時はどうすればいいんですか?」
と聞かれて、
「やはり、決めた覚悟がすべてだということをいかに自覚できるかだと思うよ。自分は正しいんだという確固たる気持ちがなければ、押しつぶされかねないからね。決めた覚悟に気持ちがブレない。その思いが、自分の将来を決めるんだよ」
と、教授は言った。
黙っていると、さらに教授が続けた。
「覚悟というものがないと、勧善懲悪の気持ちや、生殺与奪の権利に対しての冒涜であったり、要するに、善悪の気持ちが自分の心を揺さぶるということは、自分に覚悟があれば、正しかったと思えるんじゃないかな? 正しいか間違っているかなんて、誰にも分からないのさ。だから、覚悟を決めて自分で割り切るしかないのさ。それだけ、善と悪が拮抗していることに踏み切った場合の責任というのは重く、責任を裏付けるのは、覚悟しかないと私は思うんだよ」
肇は頷きたかったのだが、さすがに話の重さに、額から汗がにじんでくるのを感じた。
自分が言い始めた内容の会話だったくせに、すっかりとおじけづいた気持ちになっていた。
会話のマウントも先生に取られていて、まだ医者にもなっていない立場なので、何とでもいえるという甘い考えがあったということを思い知らされた気がした。
「そんなに難しく考える必要はまだないと思うんだけど、医者になったら、いつ何時、このような状況に直面しないとも限らない。その時、君がどう選択するかだと思うんだけど、たぶん、どっちを選択したとしても、覚悟を一切感じずに事に当たろうとしたならば、どちらに転んでも、絶対に後悔はすると思うんだ。きっと、後悔をしないようにしようと考えるはずだろうから、その状況の中で、何をどうすれば、どのような感情に当事者がなるかということを理論立てて考えるだろうと思うんだよね。医者という仕事はそういうもののはずだからね。だけど、この件に関しては、基本的には後ろ向きでしかないと思うはずなんだ。だって、医者は患者を助けるためにいるという存在意義を感じながら仕事をするはずだからね。そう思わないと逆に人は救えないはずなんだ。だから、手術で全力を尽くして助けることができれば、医者冥利に尽きるというものだし、自信にもなる。自分は人を助けるために医者になったんだと改めて感じることだってできるんだ。でも失敗するとそうはいかない。自分を責めるはずだからね。だけど、その時は立ち直ろうという気持ちが持てるので、立ち直るのは時間の問題のはずなんだ。もちろん、そこで医者を辞めてしまう人もいるだろうけど、最終的には後悔はないと思うんだ。だけど、尊厳死に対してどのような結論を出そうとも、誰かが必ず苦労する。それを分かっているだけに、選択しなければいけない立場の人間は追いつめられることになる。しかも、現行法では、尊厳死は認められていないというのが原則なので、それも分かっていての苦しみなので、現行法の原則をそれでも破るというのであれば、絶対的な覚悟を持っていないと、結局最後は、自分で自分の首を絞めることになる。そのことをどれだけ自覚できるかということが大切なんだよ」
と、教授はいった。
肇がその話を聞いてゾッとしたのは、
「医者になれば、いつ何時、誰もがその立場に立たなければならないか分からない」
ということを聞いたからだった。
いかに、覚悟が大切かということは、その立場に入った時点で最初から覚悟を決めることができていなければ、すべてが後手に回ってしまって、どっちに転んでも、後悔するしかないということになるのであろう。
そんな尊厳死の中で、肇は恐ろしいことを考えていた。
「先生、この話は、本当にここだけのオフレコで行ってほしいんですけども」
というと、先生も、肇が何を考えているのか分からなかったが、覚悟とは違った空気を感じたので、緊張していた。
――たぶん、ロクなことを考えているわけではないだろうな――
とは思っているだろうことを分かっていた。
「実は、尊厳死というよりも、僕は安楽死という方に考えようと思っているんですよ。そうすれば、少しは気が楽になるだろうと思ってですね」
と言い出したのだ。
「それは、責任を負いたくないということなのかな?」
と聞かれて、
「そうですね。少し責任回避もありますね。責任回避というよりも、自分の中で逃げの気持ちといった方がいいかも知れない。責任回避というと、どうしても責任があって、そこから逃げるのではなく、回避だと思うようにしようという考えですね。でも、それ以上に自分が逃げていると思っていると、気は楽になるような気がするんです。それはいい悪いという問題ではなく、心の中に遊びの部分というか、車のギアでいえば、ニュートラルな状態というべきでしょうかね。そういう意味で、尊厳死という言葉よりも、その状態だけで表現する、安楽死という言葉の方が、どこかに逃げ道があるようで、楽な気分にさせてくれると思っているんですよ」
と肇はいう。
「一体、君はそうなった時にどうしようと思っているんだい? ニュートラルな部分であっても、逃げようとしたとしても、気が楽になれるんだろうか?」
と教授は言った。
「あくまでも、表面上でだけのことなんですが、僕はこれを、どう口で言ったとしても、安楽死は、殺人以外の何物でもないと思っているんですよ。だったら、せめて、安楽死であるということを他の人には悟られないようにするだけで、気が楽になるんじゃないかって思ったんです。つまりは、完全犯罪をもくろんでいる殺人犯の感覚ですね」
と肇は言い出した。
どうも話が飛躍しすぎている感じもするのだが、教授はそうでもないと思った。
確かに、肇の言っていることは、支離滅裂な感じも受けるが、
「誰かがこれをしなければならない」
というのであれば、せめて、医者としての責任を問われないようにすればいいと考えているのではないかと感じたのだ。
「何をどうしようというんだい?」
と聞かれて。
「もちろん、やり方というのは、他にもあると思っているんですが、僕は安楽死をさせてやるのだとすれば、少しでも罪悪感や、世間の目を和らげるにはどうすればいいかと考えたんですが、今のところ、結論として考えたのは、これを安楽死というものではなく、自然死であるということを思わせるような方法がないかということなんです。確かに、安楽死である以上、自分をごまかすことはできないだろうし、人を殺すということに対しての意識が残るのは仕方がないとは思うけど、少しでも、その影響を少なくするには、自然死に見せかけることができれば、家族には、罪の呵責に苛まれることはないと思うんですよね」
と肇は言った。
「そんなうまい方法ってあるのかい?」
と聞かれて、
「もちろん、研究は必要だと思うし、やり方も一つではないと思うんですが、今のところ一つ考えているのは、身体の中にあるものであれば、それを少しずつ接種していったとしても、分からない、自然死に見えるのではないかと思うんですよね」
というと、
「なるほど、それが少しでも、当事者の中で納得のいくことで、まわりからも、何も言われず、議論にもならないという意味では、いいことなのかも知れないね。でも、まったくリスクがないというわけではない。もしバレてしまうと、その時のショックは計り知れないと思うよ。そういう意味で、ハイリスクハイリターンであるということは間違いない。一か八かという意味では、それこそバクチのようなものだよね。そういう意味でも、覚悟というのが大切になってくる。そこまでやるんだったら、他の人を巻き込んではいけないから、全責任を自分で負うだけの覚悟と責任を最初から持っていることが絶対条件なんじゃないかな?」
と、教授はかなり厳しめに言った。
さすがに肇は、そこまで言われるとは思ってもいなかったのだ。
だが、これは当たり前のことであり、少なくとも人を殺すということは間違いないことで、そのために、人を巻き込まないという大義名分のもとに、自分の保身も狙おうというものだ。大義名分の部分を徹底されて当たり前のことであった。
「よくわかります。だから、僕も覚悟は大切だと思うんですよ。でも、それで自分が人を殺すということに対して、少しでも後ろめたさをなくそうと思っているんです。こういうことは躊躇してしまうと必ず失敗に終わる。最低限の目的である、本人に安楽死をさせる ということがうまくいかなければ、本末転倒でしかないですからね」
と肇がいうと、
「うむ、その通りだよ。下手をすれば、殺すことができずに、殺人未遂ということになり、執行猶予はつくかもしれないが、医者の免許は確実にはく奪される。しかも、これは医者という立場を使っての殺人未遂なので、罪は重いはずだ。失敗した時の最悪の場合も考えておかないといけないんじゃないかな?」
と言われた。
教授は、これでもかというように、最悪の場合を語ろうとする。まるで親の仇でもあるような気分だ。
さすがにここまで言われると、分かっているとはいえ、肇もあまりいい気分はしない。それを察したのか、教授は、
「まあ、あくまでも仮の話ということだからね。君にどれだけの覚悟があるかということなんだろうけど、私にとっては、あまり深くは言えないんだ。君を責める資格はないということかな?」
というではないか。
「どういうことですか? 教授」
「さっきも言ったが、これは医者である以上、誰にでも降りかかる事案なんだよ。かくいう私だって、若い頃に同じような経験をしたことがあってね。それは結構精神的にきついものだったよ」
と教授は言って、過去の記憶を引っ張りだそうとしているようだった。
教授は、当時で六十歳を超えていた。
ということは、教授のいう、
「若い頃というのは、今から、四十年くらい前ということになるか?」
ということを考えると、当時が昭和五十年代後半くらいなので、ちょうど、戦時中か、戦後ということになる。
昭和五十年代後半から見れば、時代とすれば、まったく見えている世界も違っていることだろう。
なんといっても、戦前戦後というと、医者の数も少なく、空襲で建物もまともになく、食料もない。
「そんな時代に医者がどれほど役に立つというのか?」
と、勝手に想像してしまった。
都市部は空襲で焼け野原になっている。瓦礫の中での住居であったり、学校や病院、病院などは、さながら野戦病院というところであろうか。
しかも、食料も医薬品も不足している。配給に頼る時代である。
さらに、その配給も来たり来なかったり、病気になって、栄養を取らなければいけない人間に、栄養が行き届かない。何しろ、普通に元気だった人が、数日後には栄養失調で死んでいく時代である。
令和はおろか、昭和五十年代後半に、栄養失調で死ぬなどということは考えられない。あの時代は、それが日常のように起こっていたのだ。
道に、生き倒れた人が転がっている。ロクな服も身にまとっておらず、肋骨が見えているくらいにやせ細っているのだ。白米など、まともに見たことがないという子供も多かったことだろう。
さらに、衛生面も最悪で、食中毒や不治の病と言われた結核などが猛威を振るい、バタバタと死んでいくのである。
戦後であれば、上から爆弾や焼夷弾が落ちてくるということがないだけで、必死になって生きることができければ、死ぬのをじっと待っているという悲惨な状況であった。
実際に味わったことはないが、ドラマや映画で見ることはあった。今はなかなか映像になることもないが、昔は結構あったような気がする。昭和五十年代後半というと、戦後三十五年くらいであり、今から三十五年前というと、ちょうど、昭和でいえば、五十年代後半。その時代からさかのぼった過去と、未来である令和の時代のどちらに開きがあるかということを考えると、戦後復興というのは、すさまじかったといってもいいうだろう。
考えてみれば、東京というところはすごいところだ、一九二三年に起こった関東大震災から、二十二年後の東京大空襲で、焼け野原になった帝都。どちらも焼け野原だったのに、当時の技術で二十年以内には、ほとんど復興が終わっていたということであろう。これは本当にすごいことである。
どちらも一日から数日の間で、十万人以上の人がなくなっていて、しかも、建物がほとんどすべて壊滅している状態だったのにである。しかも、途中に世界恐慌などがあったのにである。それを思うと、戦前の日本の技術と生命力のすごさには驚かされる一方である。
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