第4話 SMの関係

「実は私、小学生の頃、人と話すのが苦手で、いつも端の方にいたんです。だから、皆から存在を忘れられることが多くって、そのせいで、何度もショックな目に遭ったりもしました」

 といちかは言った。

 中学生になったいちかからは、そんな話は想像もできなかった。その日も話しかけてきたのはいちかだったし、その最初の言葉を聞いて、

「何を言っているんだ。こいつ」

 と感じたのだった。

 だが、それだって、いちかという女の子が喋るのが下手で分かっていれば容易に想像のつくことだった。

「私って、本当に最初に話しかけるのが下手なの。だから、そんな私のことを分かってくれる人がいれば、私にとってはありがたい存在で、友達だってできるんじゃないかって思うんですよね」

 というのだった。

 いちかが、おとなしいというところを想像できないでいた。やはり、最初にいきなり、失礼ではないかと思うような言い方をしてきたからであって、それ以上に、話の展開が読めないところが意表を突かれるが、飽きがこないタイプであるとも言えるのではないだろうか。

「でも、僕と話をしている時はそんな感覚は感じないけどな? まさか、僕を目下のような感覚でいるんじゃない?」

 と、カマを掛けるように軽い気持ちでいうと、

「そ、そんなことはないわよ。そんな私、失礼な女ではないわ」

 と、明らかに戸惑いながらいうのだった。

 それには、さすがに肇もビックリして、

「いや、そんな責めているわけではないんだよ。緊張さえしなければ、君はちゃんと話ができる人なんだから、そんなに委縮することはないと僕は思うんだ」

 というと、

「じゃあ、私とお友達になってくれる?」

 と、猫が喉を鳴らしているような雰囲気でそういった。

 肇もそれを聞いて、思わず喉が鳴った気がしたが、

「ああ、いいよ。俺でよかったら」

 と、本当は、嬉しくてたまらないと思っているのを、相手に悟られないように、自分がマウントを取っているかのようにいった。

 その時から二人は友達になったのだが、二人の関係はどちらかというと、肇の方に優位性があるようだった。

 まわりから見ると、二人とも極度の引っ込み思案な性格なので、

「うまくいくはずもない」

 という雰囲気で見ているだろう。

 しかし、それはあくまでも、

「二人は恋人なんだ」

 という目で見ているからで、二人のお互いに対してのぎこちなさは、友達に対してのものではなく、恋人に対してお互いに気を遣っているかのように見えるのが、その証拠ではないだろうか。

 本来であれば、

「友達というと、お互いにどちらが上という関係ではないが、恋人になると、どちらかが主導権を握らないとやっていけるものではない」

 と思えるだろう。

 そういう意味で、マウントを取っているのが肇だとすれば、

「あの二人は恋人だったらうまくいくかも知れないけど、友達というと、果たしてどうなんだろうな?」

 と思っている人も多かっただろう。

 二人のうちのどちらかがおかしいのだとすれば、それは肇なのか、いちかなのか、そのことを誰なら分かるというのか、少なくとも、当事者である二人には分かることではないのだろう。

 二人は、

「友達になろう」

 と言っておきながら、

「いちか」、

「肇さん」

 と言いあう仲になっていた。

 それでも、二人はしばらくは友達という気持ちだった。その気持ちが強かったのは肇の方で、いちかはそれに従っていたのだ。

 元々は、謙虚ないちかに対して、肇が気を遣っているという感じだったが、そのうちに肇がマウントを取れるようになると、肇が主導権を握り、いちかが従うという恰好になってきた。

 これが、元々恋人としてうまくいく関係になったということなのだが、ある意味、これが本当の理想の形なのかも知れない。

 そのことを最初に悟ったのは、肇の方だった。だからうまくいっているのであって、いちかが先に悟ることになると、肇がマウントを取るというタイミングを逸してしまうだろう。

 ずっとそのままいちかに対して肇が気を遣っているという関係になるのであって、それでも、二人の関係は他から見ていると、さほど変わらなく見えるかも知れない。要するに、肇の気の遣い方がすべてを決めるのであって、そこにぎこちなさが生まれれば、二人の関係も長くはなかったことだろう。

 肇は相手に気を遣うのが上手い人だが、いちかにはそれができなかった。

 ただ、相手に従うということに掛けては長けたところがあるのだが、それは相手の気持ちを悟ることができないので、気の遣い方が分からないというわけではない。いちかにも相手の心を読めるだけの力はあった。

 それでも相手に従うことが嫌ではないということは、いちかの中に秘めたる思いがあるのかも知れない。

 その思いとは自分の性格的なことであり、自分にM性があって、従っていると思っている。

 そして、いちかのような女性は、よほど相手に信頼を寄せていなければ、従うということはなく。

「私の従う相手が、自分を幸せにしてくれる人で、全力で従わなければならない」

 と思うようになっていた。

 そう思えるようになったのは、思春期を迎えた自分の前にいた人が、肇だったからだということであろう。

 もし、他の男性が目の前にいたら、本当にいちかは、その人を好きになることができたのだろうか。

 いちかは、誰を好きになるというわけではなく、

「誰かに従っていたい」

 という思いを抱いたのかも知れない。

 ただ、いちかはその性格を、

「自分がMだからなんだ」

 という感覚ではなかったのだろう。

 人に従うというのは、自分にとって、

「楽をする」

 という思いであった。

 楽をしたいとハッキリ思ったわけではないが、肇が自分に対して気を遣ってくれているのが分かっていて、そんな肇に対して、何か悪いという思いがあった。その思いこそが、自分にプレッシャーを与えているようで、しかも、その時、

「友達になってくれる?」

 などと言ってしまったことに最初は後悔した。

 本当は、

「恋人になってください」

 と言いたかったのだが、その言葉がどうしても勇気を持つことができずにいえなかったことで、その照れ隠しもあってか、猫なで声になってしまったことに後悔の念があったのだ。

「あの時に勇気がもう少し持てていたら、もっと早く恋人になれたかも知れない。でも、私はそれを後悔しているわけではない。今の関係を嫌だと思っているわけではない。あの人に従うことは、そもそも私の願っていたことであり、この関係を欲していたからなのかも知れない」

 と感じるようになっていた。

 いちかは、自分にM性を感じるようになっていたが、肇に対してはノーマルだと思っている。

 そして肇の方も、自分が異常性癖だという意識はまったくなく、自分に従ってくれるいちかに対しても、

「フツーの女の子なんだ」

 と思うようになっていた。

 この時に感じたのは、

「フツー」

 という感覚だった。

「普通とどう違うんだろう?」

 と考えた。

 この時、フツーなどというのは文字に書いたわけではないので、意識をする方が本当はどうかしていると思うのだが、肇は頭の中に、フツーという文字が浮かんできたような気がした。

「決して普通ではないのだ」

 と一瞬感じたが、普通とフツーの違いまで感じることはなかった。

 ただ、後々意識することになったのだが、その時感じたのは、

「フツーというのはフィーリングで感じることであったり、自分以外の人に感じることではないか?」

 と感じたのだ。

 それは曖昧さがあるものが、普通だと思っていて。フツーというのは、ただ単に、浅いところで考えているので、

「浅く広く」

 ということであり、曖昧さとは区別して考えることではないかと思うことで、

「フツーと普通を使い分けているのではないか?」

 と感じるようになってきた。

 肇が大学に入った頃くらいから、

「新人類」

 という言葉が使われるようになっていた。

 肇は、どういう意味なのかも分からなかった。

 分からなかったというよりも、自分とは距離のある連中だという意識が強く、必要以上に意識しないようにしようと思っていたのだ。

 自分にとって新人類というのはどういうものなのか?

 それを考えるようになったのは、卒業してからのことだった。

 肇といちかは、中学を卒業する頃から、お互いに、

「付き合っている」

 という意識を持っていた。

「恋人と言ってしまうと、相手を縛るような気がするので、付き合っているという印象でいいんじゃないか?」

 と肇がいうので、いちかも頷いていたが、半分物足りなさそうな表情になっていることに気づいていないようだった。

「私は、縛られる方がいいの」

 と言いたかったが、言わなかった。

 きっと、どうしてなのかということを肇は分からないだろうから、

「きっと彼の性格ならどうしてなのか? ということを考えるに違いない」

 と思っていた。

 もし、肇が真剣に考え始めると、ある程度の結論が生まれるまで、考えることをやめないだろう。

 彼がいちかの本性を見抜かなくとも、考えている間、いちかが肇を慕っていたいという思いが違う方向に行ってしまいそうで、辛い気持ちになるのではないかと感じたのだった。

「楽ができないのも嫌だわ」

 と、なぜか楽ができるということにこだわりを持っているいちかだった。

 それは、

「自分が楽をしなければ、肇さんは無理をすると思う。肇さんに気を遣わせて、無理な感覚にさせてしまうというのは、私にとって本意ではない」

 と思っていた。

 その思いはきっと、いちかの中にある、

「M性」

 というものが、大いに影響しているものなのだろう。

 それを思うと、いちかは、肇を余計に意識するようになり、

「本当は縛られたいのにな」

 と感じるようになっていた。

 縛られたいという感覚がM性であるということに気づいた時、いちかはその時、自分の感覚がM性であるということを知ったのだろう。

 それまで、心のどこかに肇に対して、遠慮のようなものがあったのだが、それが自分の中にある体裁であることに気づいたかどうか分からないが、何かの枷が取れたのだということに気が付いたようだ、

「M性のある女性が、絶えず相手に従順であるというわけではない」

 と言われている。

「Mというのは、ある程度わがままなもので、それを許せるSの男性でないと、SMという関係は築くことができない」

 ということなのだろう。

 そのため、SとMの関係の男女が付き合い始めても、次第に別れてしまうということになりかねない。それは、Mの側が、Sに合わせられるかどうかということが問題で、それができなければ、Sにはとても容認できるはずもないので、それでもうまくいくというのであれば、それは、Mの相手は本当の意味でのSではないのかも知れない。

 実は、石橋肇という男は、いちかと付き合い始める前に、一人の女性に轢かれていた。その女性は、見るからにM性の溢れた女性で、まわりにその雰囲気を嫌というほど醸し出していたのだった。

 M性の露骨さは、実は彼女のあざとさが生んだものだった。本当はMでも何でもない彼女が、まわりの気を引きたいという意味で、誰彼ともかく、

「私は、M性を持ったオンナなんだぞ」

 というオーラを示していたのだった。

 その雰囲気にコロッと騙されて、彼女の誘いに乗った連中が何人もいた。もう少しで肇も同じ穴のムジナになりかけたのだが、肇は他の連中に比べて、いきなり行動を起こすようなことはしなかった。

 慎重派だったといえばそれまでなのだろうが、ただの根性なしだったと言ってもいい。他の連中は、

「据え膳食わぬは男の恥」

 と思い、本能を剥き出しにしたのだろうが、それこそ、彼女の思うつぼだった。

 自分から誘っておきながら、いきなりがっついてくるような男に惹かれるようなことはなかった。

 それをやってしまうと、自分が仕掛けたのと同じことに、自分も引っかかってしまうという、まるで。

「ミイラ取りがミイラになってしまった」

 という気分になるからであったのだろう。

 他のM性を持った女性であれば、そこまで考えることはしなかっただろうが、彼女のMというのは、他のMの女性とは違っていた。

 彼女はわがままではなく、自分がMであるということを人一倍自覚していて、Mというものが一体何であるか? ということを探るつもりで、最初から皆に対してあざとさを振りまいていたのだ。

 あくまでも、自分を知りたいという思いで男を利用しようとしているのだから、そんなすぐにがっつく男たちに靡くはずもない。

「だって、私のことをMだと思っているのだったら、相手はSとして接してくるはずでしょう? それが本能の赴くままに、がっついてくるということは、Mの女性に責任を持つなんてことはできないはず。つまりSMの関係ということの本質が信頼関係である以上、Sの人が本能のみで動いたことで、それが引き金になって、Mの女性を守れないのであれば、もうそこで関係は終わりということになるのよね」

 と考えてもいたし、近しい人にはそう言っていたようだ。

 ただ彼女は、

「Sの男性が本能で動くのは別に悪いことではないと思うの。だけど、それに欲が絡んでくると、私は、その本能のような動きに見える行動が、本当は本能からではないと思うのね。本能というのは、まるで条件反射のように、持って生まれた感情が、勝手に身体を動かし、事後であってもいいから、その本能で動いた理由を理解できるところまでいかないと、その行動は本能だとはいえないのだと思っているの」

 と言っていた。

 この考えは、肇にもあることだった。

 だが、悲しいかな、二人とも相手が同じことを考えているということが分からなかった。そのため、肇とすれば、

「危ない危ない。他の連中のように彼女に欲望のみで突っ走っていれば、玉砕状態だったということになる。一歩踏みとどまることのできた自分の行動が功を奏したのだから、俺はやはり、Sなんだと自覚を持っていてもいいような気がする」

 と感じたのだった。

 そんなことから、

「自分がsである」

 ということに気づいた肇は、M性を持っていると思ういちかのことが気になっていた。だが、それは彼女が最初に遠慮していたことに感じたことであり、そのうちに、遠慮をしなくなるようになると、

「あれ? Mじゃなかったのかな?」

 と思って、一歩下がって見るようになった。

 しかし、自分が警戒するべき相手は、前に気になった彼女のように、自分のことだけを考えて保身に走るため、あざとい行動に走り、そのせいで、勘違いしたまわりの男性がまるでクモの巣に引っかかったかのように引き寄せられ、呆気なく食べられてしまうという悲劇を、自分に起こさないようにすることが急務だったのだ。

 そういう意味でのあざとさはいちかにはなかった。どちらかというと、遠慮暮改雰囲気は引っ込み思案に見えて、それで男が引き込まれるということもなさそうだったのだ。

 それに、よく見ていると、他の男性に対して自分からオーラを発するようなことはしなかった。

 どちらかというと、発しているオーラは、

「自分が誰を好きになるかということ」

 であり、それはまるで、目が見えないコウモリが発する超音波のような感じがした。

 コウモリは目が見えないため、まわりに超音波を発して、その反射で何があるかということを知ろうとするメカニズムがあったのだ。だから、真っ暗で誰もいない場所に生息しているのではないかと思っていた。

 ただ、このメカニズムは、目が見えている自分たちと、

「目が見えない」

 という前提が違うだけで、それ以外は同じなのではないか。

 目が見えている動物だって、光の恩恵によって見えているものを光として取り込み、網膜に焼き付けた内容を、脳が判断しているのだ。コウモリの超音波による反射は、その動物が網膜に取り込んでいる光と同じだと言えるのではないだろうか。

 これはもちろん、人間にも言えることで、そしてモノを考えることのできる人間にだって言えることではないか。

 人間が判断するのに、思考能力を使うが、それも目の前に見えていることを、どこまで信じられるかということを判断したうえで取り込もうとしている。それだけ、人間は用心深く、思慮深いと言えるだろうか。

 逆にいえば、それだけ他の動物よりも脆弱で、ある意味素直なのではないかと言える。ただ、素直だというのは本質がという意味であり、騙されないようにするために、相手を欺いたり、こちらも騙そうとするところを人間は頭で考える。

 他の動物はそれを意識せずにやることで、本能によるものと言われるのだろう。

 人間以外の動物に思慮という考えがないのだから、本能が働いていると考えるほか、説明がつかないのではないだろうか。

 肇は、最初。

「SMというのは、人間にしかないことであり、思慮がなければできないことだ」

 と思っていたが、最近ではちょっと変わってきた。

「動物においての本能も、一種のSM関係ではないか?」

 と思うようになってきた。

 それは、

「SM関係というのは、お互いの信頼関係によるもので、そこに弱肉強食のようなものが存在してはいけない」

 と思い、相手を自分が食ってしまってはいけないと思うようになったのだ。

 だが、本能というのも、ある意味SMのような関係ではないかと思うようになってきた。

「本能は、それらの動物が生きるために、遺伝子によって受け継がれてきた生きるための方法であったり、糧のようなものが息づいているのではないか」

 と感じたからだった。

 それは、生きていくうえでの問題と、生態系という自然界全体の法則のようなものには逆らえない中で、いかに自分たちが生き残っていけるかという情報の伝達。これも一種の信頼関係のようなものだと言えるのではないかと感じるのだった。

 だから、SMの関係と、本能というものが、いかに結び付いているのかということを考えれば、

「SMと、信頼関係。さらに、動物における本能と生態系という関係にまで広げて考えるとどうなるのだろう?」

 と思うと。自分たちが考えているSMの関係における、信頼関係というものが、陳腐なものではないかと考えるようになったのだ。

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