第6話 コウモリの研究
松前は、最近の研究で、コウモリの研究を始めた。ロボット工学を研究する中で、なぜコウモリに目を付けたのかというと、
「コウモリというものは、卑怯な動物というレッテルを貼られていて、そのレッテルのために、いつも暗くて誰もいないところにいて、仲間外れにされているにも関わらず、その能力は、人間や他の動物にはないものを持っている」
と感じたからだった。
そもそも、コウモリが、
「卑怯なもの」
というイメージがついたのは、イソップ寓話の中に書かれている、
「卑怯なコウモリ」
という話から始まっている。
このお話は、
「昔、獣と鳥の一族が戦争をするという場面があった。そこで、コウモリは、鳥の一族が有利になると、鳥に向かって、自分は羽根があるから鳥だといい、今度は獣が有利になると、獣に向かっては、自分は毛が生えているから獣だと言って、それぞれにうまく立ち回っていた。しかし、そのうちに、鳥と獣の間で和解が成立すると、それまでうまく立ち振る舞っていたコウモリに対し、どっちに対してもいい顔をすることで、自分の立場を確立させようとしたことは、たびたび願えりを繰り返した卑怯者ということで、皆から相手にされなくなった。
それで、コウモリは、暗く誰もいないところで密かに暮らすようになったというのが、
「卑怯なコウモリ」
という話の逸話であった。
だが、これは昔の人が、コウモリという動物を見て、勝手に創造したお話であり、実際のコウモリはそんなことはないと思える。
なぜなら、
「目が見えないコウモリが、そんな卑怯なことはできないだろうし、もし、そういう態度を取ったとしても、障害者が生き残るために仕方なくやったことであり、コウモリをそんなに卑下してもいいものだろうか?」
と考える人も少なくないだろう。
そう、コウモリは目が見えないのだ。
目が見えないが、暗闇でも、ぶつかることなく飛び回ることができる。自分で電磁波を出して、その跳ね返りで、目が見えなくとも、障害物にぶつかることなく暮らしていけるというのが、その理由である。
逆に、コウモリが誰もいないところで暮らすようになった理由は、目が見えている連中に気を遣って、邪魔にならないように密かに暮らしているのだとすれば、何とも検挙で、卑怯などという言葉とは裏腹な、
「正義感に溢れた動物ではないか」
と言ってお過言ではないのではないか。
そうなると、コウモリという動物の逸話は、誰か特定の者が、コウモリに対して偏見を持っていて、勝手に作り上げた偶像だと言えるのではないだろうか。
そもそも、コウモリがどうして目が見えないのか、そして、超音波を出してその覇者で物体の存在をしり生き延びることができるのか、今の、
「弱肉強食」
という理論であったり、
「生態系のバランス」
というという考え方などから、コウモリという動物が、どうして存在しているのかということの意義は、考えさせられるものがある言えるのではないだろうか。
もし、そこに存在意義があるのだとすれば、これから開発される薬にも、その意義があることになり、その意義は、コウモリという動物の存在と、切っても切り離せない関係にあると言えるのではないだろうか。
人間の中にも、目が見えない人間というのは、何かの力を秘めているのではないかと言われているように、コウモリにおける超音波のようなものが、人間にも潜んでいるという話を小説に書くとするならば、かなり恐ろしい話になるのではないかと思った
「人間自らが、不自由な人間を作りだす」
という、まるで、
「生殺与奪の権利」
に似た考えが、頭をもたげるのであった。
また、コウモリの話の中には、まったく正反対の教訓を持った話が存在する。しかも、その二つは同じ、「イソップ寓話」の中に収められているものだというのも、興味深い話であり、今回の、
「卑怯なコウモリ」
という話の教訓として、
「何度も人を欺く者は、やがて誰からも信用されなくなる」
というもので、
「お前のような卑怯者は二度と出てくるな」
と言われたことで、双方から追いやられる格好になり、伊庭曽我なくなったコウモリは、やがて、暗い洞窟の中に身を潜め、夜だけ飛びようになったということであった。
これが、
「卑怯なコウモリ」
の話であり、
「鳥と獣と蝙蝠」
とも言われている。
そして、それに正対するかのような話に、
「蝙蝠と鼬(イタチ)」
という話がある。
この話は、地面に落ちた蝙蝠がイタチに捕まって命乞いをすると、
「すべてお羽根があるものと戦争しているので、逃がすわけにはいかない」
といわれ、
「自分は鳥ではなくネズミだ」
と言って放免してもらったが、今度はしばらくして、別のイタチに捕まった時、今度は、
「ネズミは皆仇敵だ」
と言われたので、
「自分は、ネズミではなく、コウモリだ」
と言って、またしても逃げたというのだ。
この時の教訓は決して卑怯者というわけではなく、
「状況に合わせて豹変する人は、しばしば絶体絶命の危機をも逃げおおす」
ということだというのが教訓である。要するに、
「いつまでも同じところにとどまっていてはいけない」
という教訓でもあるというのだ。
この話を聞いて思い出すのが、戦国時代の戦国武将である。真田昌幸である。
彼は、戦国大名としては、まだなり立ての弱小であったので、特にまわりには、北条、上杉、徳川、などの群雄割拠の武将が、戦国時代において、領地獲得に牙をむいていた時代、真田家はは周囲を挟まれることになった。
そんな時、知略を用いて、まるで、
「卑怯なコウモリ」
のように、うまく世渡りをしながら、どうしても戦が避けられなくなると、相手を油断させたり、さらにはうまい口実を設けて。自分たちが守るための城を作らせたりして、自分たちの土地を守ることに成功した。
主君を次々に変え、うまく世渡りをし、時には戦争になった場合を見越して、先手先手を打って、相手を欺いたりするようなやり方で、生き残ってきた。
それを秀吉は、
「表裏比興の者」
と言ったという。
それは、武士にとっては褒め言葉であり、秀吉に可愛がられたというのも、よく分かる。
息子の信繁が、大坂の陣に馳せ参じ、豊臣家のために、最期の死に場所を得たというのは、それだけ温情も厚かったということであろう。
そういう意味で、コウモリというものは、嫌われ者でありながら、どこか憎めないところがあり、卑怯者だと言われながら、その行動は、褒め言葉に値するものであったりするのだ。
それを考えると、
「コウモリが人を欺く」
と言われるのは、別に悪いことではなく、褒め言葉だと考えると、そんな不思議な動物であるコウモリを研究してみようと思うのも、無理のないことではないだろうか。
さらに、前に見たロボットマンガがあったのだが、そのマンガは、かなり昔のもので、第一期ロボットブームの頃の話だったと思うが、その話は、テレビ化した時は実写版だった。
当時のマンガが実写化される時というのは、結構実写版が多かったのだが、特撮ブームにも乗っかったのではないかと思われる。
原作とはだいぶ違い、原作はロボット工学三原則に準拠したような話だったが、特撮になると、どうしても、子供向けにする傾向があるため、勧善懲悪が基本であった。
特撮番組は、今でもCSで再放送されることもあり、高校生の頃に、受験勉強の合間によく見ていたものだ。
当時のロボットや改造人間という発想は、
「動物や、昆虫などをモチーフにしたもの」
が多かったような気がする。
悪の手先である、ロボットの初代は、コウモリを模したものだった。
原作を後から読んだが、原作も同じで最初のロボットはコウモリの化身だったのだ。
特撮では、勧善懲悪の話なので、正義のロボットが、卑怯な悪のロボットに、
「正義の鉄槌を加える」
という内容で、視聴者の子供たちをスカッとした気持ちにさせたことだろう。
しかし、マンガの方では少し話が違っている。
マンガはあくまでも、
「ロボット工学三原則」
がテーマだった。
コウモリロボットは、
「悪の手先」
ではあったが、彼には、自分がなぜ、暗い洞窟の中で、虐げられて暮らしていかなければならないのかという理由が分かっていなかった。
理由が分かったとしても、それはイソップ寓話の中の、
「卑怯なコウモリ」
の話であり、
「俺にはまったく関係のない、祖先の話ではないか」
その思いは、本当は他に動物とも仲良くしたいのに、なぜ自分たちコウモリだけが、こんな憂き目に遭わなければいけないのか? という思いから、どうしても、世の中の理不尽さに怒りを覚えないではいられない。
そんなコウモリに悪の組織が目を付けたのだ。
コウモリは、実に身軽であり、フットワークが軽い。その軽さと、自分たちが危機に陥った時、どのようにすれば助かるかということを考えるだけの力があるのだ。
「どんなことをしてでも生き残る」
ということの何が悪いというのだろう。
「卑怯なことはしたくない」
と言って、まわりに忖度して、自分が殺されてしまって何になるというのだ。
自分を犠牲にして生き残った連中が、滅んでいった連中を神と崇め、子々孫々に至るまで、自分たちを優遇してくれるというのか。
そんなことをするはずはない。やつらは、弱い者を人柱にして、必死になって生き残るのだ。
「では、コウモリとその連中と何が違うというのか?」
滅んでいった連中を美徳とする考えもあるが、では、生き残った連中に対しては、
「悪だ」
と言って糾弾できるだろうか?
生き残ったからこそ、それ以降の文明は残り、歴史の途中として、今自分たちが生存しているのだ。
「生き残った連中を否定するということは、この世を否定することであり、自分の存在も否定することになるんだ」
というものである。
アニメの中のコウモリは、自分がまわりから、蔑まれているのだが、
「どんなことをしてでも生き残った」
ということでの誇りがあった。
「死んでいった連中は、弱いから死んだのだ。弱肉強食のこの時代。生き残った者が正義なんだ」
という考えだったが、それなのに、
「どうして、こんなに迫害されなければいけないのか?」
というジレンマが大きなエネルギーとなることを、悪の組織は気が付いて、それで、最初のロボットに、コウモリを選んだのだった。
コウモリは頭がよく、
「頭がいいから、嫉妬され、嫌われるのだ」
ということに、コウモリロボットは気が付いてくる。
そして、自分がどのような立場にいるのかということを理不尽に感じるようになるのだ。
本来なら、悪の組織に操られることもなく、生きていけるはずなのに、悪の組織に改造されてしまったことに対しても、ジレンマを抱くようになっていた。
悪の組織としても、コウモリという動物がどれほどのものなのかということを、見誤っていたのだろう。
コウモリは次第に、自分が誰なのか、何のために生きているのか? などということを必死に考えるようになる。
そもそも、コウモリというのは、生きることに必死で、
「生き残るためには、手段を択ばない」
というところが強みだったはずなのに、そのコウモリが自分の存在意義について悩んでしまうと、何を目標に生きればいいのかを考えなければ生きていけない連中からすれば、コウモリに自分たちの領域を侵された気がして、嫌な気分になったりした。
その思いが、同じロボット仲間であるにも関わらず、心優しいコウモリロボットを窮地に追い込んでしまう。
そもそも、ロボットを作った連中に、勧善懲悪などという感情があるわけもない。ロボットを作った目的は、自分たちが開発しているものを独占するため、
「他から研究を守る」
という大義名分の裏に、
「自分たちよりもいいものを作られて、金儲けされでもしたら、こちらはたまったものではない」
という考えから、
「ロボットによる威嚇」
を考えたのだ。
だから、悪の組織は、自分たちのことしか考えていない。
「相手が自分たちよりも上に行こうものなら、ロボット軍団を使って、叩き潰す」
というのが、目的なのだ。
だから、ロボットに対して、何ら気持ちがあるわけでもない。
「しょせん、血の通わない機械にすぎないんだ」
としか思っていない。
いや、そんなことすら考えもしないだろう。考えるとすれば、
「役に立たなくなったら、新しいものを開発して、後はスクラップにでもする」
ということしかないのだ
それでも、ロボットがその人たちの役に立たなくなれば、他の誰かが使ってくれるとでもいうのであれば、まだ救いなのだろうが、あくまでも所有者の意志によってしか、ロボットの運命は存在しない。
「スクラップ」
と言われれば。それ以外の運命は残っていないのだ。
そのマンガでは、コウモリロボットは、自分の運命に悩み、そして人工知能が堂々巡りを繰り返し始める。
すでに、悪の組織としては、
「コウモリロボットは不良品」
ということで、見切りをつけ、新しいロボットを開発し、送り込んできた。
このロボットの目的は、元々コウモリロボットが受けていた使命を受け継いでいた。
さらに、もう一つの目的が、
「コウモリロボットの破壊」
だったのだ。
コウモリロボットは、次第に人間に近い心を持つようになり、自分の運命が、
「人間を助けることだ」
というものだと感じるようになった。
もちろん、そうではなく、あくまでも、
「悪の組織の手下」
でしかないのに、自分の存在意義について悩んだ挙句、自分を作り出した悪の組織から追われるようになると、
「自分の運命は人間を助けることだ」
という理屈にいきなり到達したのだ。
どこからそんな発想が出てきたのか、それがマンガだからという理屈で考えればいいのか、とにかく、コウモリロボットの悩みは、まるで堂々巡りを繰り返す、
「ロボット工学三原則」
のようではないか。
そんなことを思い出していると、研究室が開設された頃の研究員のノートが見つかった。
その人は克明に研究内容を記していたが、なぜ、今まで誰からもこの資料に注目しなかったのかというと、
「開かずの扉」
のようなものが研究室には存在し、そこにはかつての資料が封印されているという話だった。
この研究は、今の研究とは違うもので、意外とこの研究所は古くからあるようで、元々は旧陸軍の兵器工場から始まっているというから、その歴史は一口で言い表せるものではないだろう。
この、
「開かずの扉」
というのも、昔の旧大日本帝国時代のものなので、今の時代には見てはいけないものということで、封印されているのだと、解釈していた。
しかし、今から数十年前、まだ昭和だったか、それとも、平成になってからのことなのか分からないが、この開かずの扉にまつわる覚書の書かれたノートを発見していた。
そのノートには、開かずの扉のことが書かれていて、
「あの場所を開けるならば、覚悟を持って開けるようにお願いしたい。あの場所を開かずとしたのは、別に大日本帝国時代の秘密研究を隠すためのものではない。それだけは誤解のないようにお願いしたいのだが、ここでいう覚悟というのは、その研究を見て、早とちりをして勘違いをしないようにしていただきたい。我々がその考えに至るまでには紆余曲折があり、それをうまくそして短く説明するのは至難の業だ。しかも、いちいち説明したとしても、それは意味のないことであるからだ、なぜなら、開かずの扉に封印した研究内容は、自分たちが捻り出してこその研究なのだ。たぶm、今のように、時代が急速に変化していっている状況で、果たして、これを読む人間が時代の流れに乗ることができるかということが大きな問題だった。きっと、数十年後の人たちには、大日本帝国時代の日本や、科学者の考え方など、理解できるわけもない。したがって、もし、あの開かずの扉を開くのであれば、それなりの覚悟が必要だからだ。開かずの扉を開くということは、タブーを犯すということであり、踏み出した場所が、覚悟のいる場所であることは周知のことであろう。このノートを見たならば、私の言葉を今一度考えたうえで、いかなる覚悟を持って臨むかは、後はあなた次第なのだ」
と書かれていた。
さすがに、これを発見した人は、恐ろしくて、開かずの扉を開くことはできなかった。
それから時代はどんどん進み、所長も何代も受け継がれていき、その都度、ノート自体も、ノートの教訓も引き継がれていき、今の令和の時代に至ったのだ。
今の我々は、難病に挑んでいる。過去の研究員も、それに負けず劣らずの研究を行っていたのだが、ここを開ける気になったのは、松前であり、それは彼が治験者として名乗りを挙げたからだろう。
治験者になったのは、後から考えれば、どれほど浅はかだったのかということを思い知った気がした。
最初は、
「別に俺が死んでも誰も悲しむ人なんかいないからな」
と思っていたのだが、治験者になってから、急に夢を見るようになった。
夢を見るようになったというよりも、
「夢を忘れなくなった」
と言ってもよく、しかもその夢というのがいつも同じ夢だったのだ。
どんな夢なのkというと、
「大学生の頃の夢で、大学時代には、別に困ることもなく、うまくやれたはずだったのに、何かをやり残した」
という内容の夢だった。
何をやり残したのかが分からない。そして、
「やり残したことが分からないと、卒業できない」
というものだった。
就職も無事に内定し、後は卒業だけだというのに、その卒業ができないかも知れないというのは、実に情けない話だった。
「成績はよかったはずなので、自分が卒業できないのであれば、ほとんどの学生は皆留年だ」
ということになるだろう。
研究所に行くことが決まっていて、大学の卒業など、最初から決まっていたようなものだと思っていたのに、そんな小心者のような夢を見るなど、何が悲しいというのだろうか?
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