第5話 松前の彼女
松前には、最近知り合った彼女がいる。相手は松前のことを彼氏だと思っていて、松前も彼女のことを、自分の彼女だという意識を持っているが、彼女には、自分のことを松前がどのように思っているのか分からなかった。
「あの人と私とでは、彼氏彼女という関係の感覚が同じ方向を向いているとは思えないかな?」
と彼女は感じているようだった。
彼女の名前は、赤松ゆい。同じ研究所の二年生パイである、赤松先輩の妹に当たる人だった。
赤松先輩は、妹のゆいが男女関係には晩生で、今まで彼氏がいたことのないゆいに対して、気がかりであった。
ゆいは、赤松の三つ年下の妹なので、松前からすれば、一つ年下というわけだ。
松前も彼女がいる雰囲気もなく、女性に関しては、ウブだということは分かっていた。恋愛の素人同士というのは少し危険な感じがしたが、将来を宿望されているように見える松前であれば、相手にとって不足などあるはずもない。
しかも、まったく知らない相手でもないということは心強かった。
赤松兄妹は、赤圧が大学二年生の時、両親が旅行中に事故に巻き込まれてなくなったという意味でも、支え合う兄妹というイメージが強く、兄の赤松からすれば、
「目の中に入れても痛くない」
というくらいに可愛がっている妹だった。
「妹がウブなのは、兄の自分に責任がある」
と、どこからそんな発想が生まれてきたのか分からないが、そんなことを考えているので、余計に松前のような真面目な後輩であれば、ゆいを任さていいと思ったのだった。
最初の頃は、まず何度か松前を家に誘って、食事をしたりした。両親が亡くなりはしたが、残してくれた財産と、家、そして保険金で、不自由な生活はしていない。特に家を残してくれたことはありがたく、人を招いても十分な広さを持った屋敷とも言っていいくらいのところだっただけに、最初の頃こそ遠慮していたが、松前も、先輩の家に招かれるのが次第に楽しみになっていった。
松前としては、先輩がどこまで考えていたのか分からなかったが、松前も妹のゆいのことを気にしていた。
彼女の晩生な性格は、松前に純情な部分だけを見せるようになり、松前自身も、真面目な性格だったことが、お互いの感情を高ぶらせたのだろう。
「今度は、いつ来てくださいますか?」
と、いつも帰る時にゆいから言われるのを、ドキッとしながら感じていた松前だっただけに、
「帰らなければいけない」
という寂しさを感じずにいられたのは、よかったというべきであろうか。
「そうだね。近いうちに来るよ」
という返事を嬉しそうに聞いてくれるゆいがいとおしくなった。
二人はそのうちにケイタイで繋がるようになり、時々連絡も取り合っていたが、寂しいからと言って、まくし立てるようなことはしない。
あくまでも、何かの時の連絡先という意識を持っていて。
「逢うまでに気持ちのピークが超えてしまったら、せっかくの再会を楽しむことはできない」
と、二人でそれぞれ思っているのだった。
松前にとって、ゆいという女性の存在は、
「お城に住んでいるお姫様のような存在」
と思っていたのだ。
ただ、そう思えば思うほど、自分たちが、
「ロミオとジュリエット」
の、シェークスピアの世界にいるような気がしていた。
「お互いに結婚を望んだとしても、住む世界が違っているのではないか?」
と思っているのは、松前の方で、ゆいはそこまで思っていなかった。
まだまだウブなゆいは、松前が来てくれるだけで嬉しかった。
「まるで二人のお兄さんができたみたいだ」
と最初は思っていたが、そのうちに、
「大切な人」
という意味で、兄とは違う人間だということが分かってきたのだ。
とにかくゆいには、松前が優しく見えた。実際に優しくはあったが、松前にもあまり女性と付き合ったことはないという意識が強かったこともあって、あまり女性に対捨て高飛車な態度を取ることができなかったのだ
お互いに、異性に対してはウブだということは分かっていたようだ。松前にとっては、そんなゆいが純情に見えて、それがよかったのだ。
ゆいの方としても、女性を性欲の塊りのような目で見る男性をいつもまわりに感じていたので、あまりガツガツしていない落ち着きのある男性が好きだった。
それに、ゆいの理想の男性は、
「お兄ちゃんのような男性」
という思いであった、
「本当は、血がつながっていなければ、お兄ちゃんを好きになったはずなのに」
という思いがあった。
きっと兄の赤松も、妹がそんな風に感じていることを、分かっているだろう。
だから、恋愛できない関係であることを理解した上で、兄として敬うことを正義とし、結婚相手は、
「お兄ちゃんも認めてくれるような人」
と思っていた。
そんな時、珍しく兄が家に後輩の男性を連れてきたのだ。
今までにはそんなことはしたことがなかった。
「妹に悪い虫がつくのは困るからな」
というのが理由だった。
赤松としても、自分の妹が可愛く、我ながら自慢の妹であると思っていただけに、余計な虫は絶対に避けたかった。
それなのに、初めて連れてきたのが松前で、今まで、他の男性を褒めたことなど、見たことも聞いたこともなかったのに、どうした風の吹き回しだというのだろう。
そんな赤松が連れてきて、
「こいつは、本当に真面目なやつなんだ」
と、何度も彼を誉めるのと聞いて、ゆいも憎からず思うようになっていったのだ。
その日、松前は赤松宅に宿泊した。
男二人はすっかり酔ってしまい、眠りに就いたが、その時の兄の顔を見たゆいとしては、
「お兄さんがこんなに楽しそうな顔をするのを見たのはいつ以来かしら?」
と思うのだった。
今までは、兄は妹に対し、優しそうな顔を向けてくれるのだが、それはあくまでもゆいに対しての感情であって、自分自身の解放した気持ちを、ゆいに見せたことはなかった。
赤松としては、ゆいに心の奥を見透かされたくないという思いだったが、実はそれは、ゆいの思いと同じであった。
赤松もゆいのことを、妹以上に思っていた。その気持ちをいかにして抑えればいいのかということを考えていたのだが、なかなか考えがまとまらない。少なくとも気持ちを見透かされるようなことはしたくないということだけは思っていたのだろう。
そうなると、赤松は覚悟を決めた。
「も妹を愛するということで苦しみたくない。妹は妹なのだ。幸せになってもらうことを祈るだけだ」
という思いから、それまでの自分の気持ちとの葛藤をいかにすればいいのか、考えた時に思いついたのが、
「妹にいい相手を紹介する」
ということである。
妹に変な虫もつかずに済むし、自分の気に入った相手であれば、
「どこの馬の骨化分からないような変な男」
と合わなければいけないということはないだろう、
少々でも変な男であれば、反対するのは最低限であるが、まさかとは思うが、妹が取り返しのつかないことになってしまうのを危惧もしていた。
男というものを知らないウブな妹なのだ。世間にはオオカミのような男は山ほどいる。ちょっと遊んですぐにポイ捨てなどという男に引っかからないとも限らない。孕まされでもしたら、どうしようもないだろう。
それを危惧した赤松は、まずは、自分のまわりの男性、自分のまわりと言っても、拘留があるのは開発チームくらいだった。
その中での適任といえば、もう松前しかいない。彼であれば、消去法であっても、普通に目をつけるとしても、群を抜いている。松前以外に誰が考えられるというのだろう?
どっちから見ても、相手は松前しかいなかった。
そんな赤松の、お眼鏡に罹った松前を、ゆいも慕うようになった。松前は最初、
「先輩の妹」
ということで遠慮があったのは事実だった。
しかし、ゆいは決して嫌いな相手というわけではない。慕ってくれる女の子に対して、嫌な気がするわけもなく、徐々にゆいに自分が惹かれてくるのが分かった。
しかも、どうやら兄である赤松先輩も公認のようだ。
というよりも、赤松先輩の方が、どうやら自分を選んでくれたようだった。
それを思うと、お互いに距離が急速に近づいてくることは必然に思え、ゆいの態度にも違和感がなくなってくるようだった。
「妹を頼む」
と、直接言われたわけではないが、ハッキリと言わないところも、赤松先輩の優しさだと思えた。
妹に対しての気遣いなのかも知れないが、そのことが同時に松前に対しての気遣いでもあることから、
「やっぱり、先輩は本当にいい人なんだな」
と感じた。
妹思いの兄というところも十分に好感が持てる。一人っ子である松前にとって、妹思いというのは、羨ましいという思いもあるが、その輪の中に入れてもらえるというのも嬉しかった。
これが松前ではなく、他の人だったらどうだろう?
若い人なら、まだまだ遊びたいと思っている人も少なくはない。そのために、
「まだ、一人に絞りたくはない」
と思う人もいるだろうし。
「束縛されるくらいなら、別れた方がいいかも知れない」
と思う人もいるだろう。
赤松先輩くらいの人が、そんな中途半端な男を選ぶはずはないと思うが、妹可愛さに、目がくらんでしまうということも考えられなくもない。そう思うと、このタイミングで松前を選んだというのは、偶然なのかも知れないが、
「目に狂いはなかった」
と言ってもいいかも知れない。
松前とゆいは、ぎこちない関係からであったが、徐々に惹かれていくようになり、デートも何度か重ねるようになると、慣れてきたのか、松前のエスコートも様になってきた。
丸一日デートをするということはゆいと知り合うまではなかったが、食事をしたり、遊園地に遊びに行ってみたりと、まるで大人のデートの中に、子供のデートを織り交ぜたような変則な感じだったが、ゆいはその方が嬉しかった。
「私、中学の頃、遊園地でデートするのが夢だったんだ」
とゆいがいうと、
「それはよかった。子供扱いしていると言って、怒られるかな? って思ったんだけど、僕の中でゆいちゃんは、遊園地デートをしてみたい相手というイメージがあってね。それで誘ってみたんだけど、喜んでくれているなら、僕も嬉しいよ」
というと、
「松前さんは私の気持ちをいつお察してくれているようで、感謝しています。お兄ちゃんもいつも私のことを分かってくれているので、もう一人お兄ちゃんができた感じだわ」
とゆいが言ったのを聞いて、一瞬、戸惑ってしまった。
――ゆいちゃんは、俺のことをどう思ってくれているんだろう? ちょっと前なら俺も、ゆいちゃんから、お兄ちゃんのようだと思われたとしても、それだけで嬉しいと思っていたのに、今は、それだけでは満足できない気がしているんだ――
と思っている。
今まで女性とお付き合いらしいことをしたことがないので、どうすればいいのか分からないが、相手がゆいであれば、そこまで緊張することもない。
兄である赤松先輩が何も言わないのも、そのあたりを考慮してのことだろうから、自分はこれでいいのだと、松前は感じているようだった。
食事に行く時は、昼間の遊園地デートとはまた違った感じを演出した。
高級ホテルのレストランを予約したりして、ワインを飲んだりもした。
「アルコールは大丈夫かい?」
と聞くと、
「少々なら」
ということだったので、一番いいのが、ワインだと感じた。
松前もアルコールは決して強い方ではない。ワインであれば、食事と一緒に軽く飲むくらいのことはできた。大学時代の仲間とよくレストランで食事をしたものだった。
もちろん、しょっちゅうというわけではなかったが、皆あまり飲むというよりも、食事を楽しむことが多かったので、ホテルのレストランがありがたかった。
もっとも、松前をはじめとして、皆あまり賑やかなところは得意ではない。居酒屋のような喧騒とした雰囲気は苦手で、いや、苦手というよりも、嫌いと言った方がよかった。
「居酒屋に行くくらいなら、ファミレスの方がどれだけいいかな」
と皆で話をしていたくらい、居酒屋というところを毛嫌いしていた。
大学時代に、それでも、二、三度先輩の誘いで居酒屋に入ったこともあったが、どうにも馴染めなかった。
「常連さんになってしまえば、楽しいと思えることもあるんだろうが、常連になるまでに通い続けられるだけのポテンシャルがあるわけではなかった。この場合のポテンシャルというのは、持続力という意味だけどな」
と感じていたのだ。
松前は、結構集中力というものを自分なりに大切にしていて、人がざわついている中で、誰が何を言っているのか分からないような喧騒と下雰囲気は、まず集中することなどできるはずもなく、こんな中に身を置くことは、自分にとって、まるで地獄のようだと思うのも無理もないことであった。
ホテルのレストランを予約するということを最初に始めた友達は、
「そんなにかしこまることはないさ。皆だって、喧騒と下雰囲気は嫌だろう? 誰が何を喋っているのか分からないということで、まわりの声が雑音にしか聞こえなくなると、俺なんか、怒りがこみあげてくるくらいなんだ。皆もそうだとは思わないが、少なくとも感覚的には近いと思っている。だから、一度皆でホテルのレストランで食事をしてみて、どんな気分になるかということを味わってみたいんだ。どう思うかな?」
と言われて、最初は皆戸惑っていたが、
「いや、いいんじゃないか? 君がそうやって考えてくれたことは、皆嬉しいと思っていると思うよ。だから、皆も、彼の気持ちを察して、リラックスをすればいいんじゃないかな?」
と、一人が言った、
彼はいつも、躊躇しているような雰囲気になった時、まとめ役のような感じの人で、我々の中には確固たるリーダーはいないのだが、空気が固まってしまった時に、ほぐすことができる唯一のメンバーであった。
そういう意味では、メンバーには、それぞれ役割のようなものがあった、普段から表に出しているわけではなく、
「何かがあった時に、自然とその人の役割が発揮され、いつも丸く収まっている」
と言ったような感じだった。
最初から表に出ている関係性も悪くはないが、皆それぞれ心に秘めたるものを持っているような関係性は悪いことではないだろう。
松前は、そんな中で、いつもまとめ役であった。
他のメンバーの中に入れば、
「俺は目立たない」
としか思っていなかったが、このグループの中で、最後の方になってから、その日のことを集約することができるのが、松前だった。
彼の全体を見る目と、それから、状況を冷静に判断できる力が、彼らの中で一番秀でていると言ってもいいだろう。
逆にいえば、最初の方での彼の出番はなく、黙り込んでいると言ってもいい。そんな性格が、まわりからは、
「引っ込み思案だ」
と見られているようで、いつものメンバー以外とは、あまり一緒にいることはなかった。
しかし、
「他のメンバーと一緒にいても、何とかなるのではないか?」
とは思っているようだが、まわりが認めてくれていない。
どこか、自分を表に出そうとする時、伏線を引いているように見られるという欠点があった。
決して本人はそんなつもりがあるわけではないのに、そんな風に思われるというのは、実に嫌な気持ちにさせられるが、それも仕方のないことだと思うようになったのは、大学時代の仲間が形成されてのことだった。
「ここが俺の考えを示せる場所なんだ」
という思いから、いつものグループの結束の輪の中に入るようになっていったのだ。
実際に、松前の存在を皆大きく感じてくれているようで、他の連中のように、
「あいつはいてもいなくても一緒なのではないか?」
と陰口を叩かれることはなかった。
「適材適所というのはあるものなんだな」
と松前は自分で感じたのだった。
そんな松前の性格をすぐに見抜いたのは、赤松だった。
赤松は、人の素質を見抜くことには長けていた。研究員としては、それほど成果が挙げられる方ではなかった、適材適所を見抜く力は誰よりもあった。その素質があることで、チーム内では、本当の兄貴のように慕われている。上層部との橋渡しもうまいことから、
「赤松さんをメンバーに引き入れれば、プロジェクトは成功する」
と言われていた。
本当であれば、皆のプロジェクトを成功させてあげたいのだが、身体は一つしかない。そういう意味で、誰もが、
「赤松さんに気に入られよう」
と思っていたようで、赤松に対して、皆の目が一目置くようになっていたのだ。
かといって、赤松はそういう露骨な態度は嫌いだった。
あからさまに自分に引き込もうとしているのを見ると、自分にその気はなくとも、相手に対して怪訝な態度を取るようになる。
一時期、赤松と開発メンバーの中で、不穏な空気があったが、そんな中で、松前の存在が赤松をうまく生かしているようだった。
「まあ、松前さんなら、しょうがないか」
と言われるようになった。
松前はそれだけの実力があり、実際に成果も出していた。しかも、上層部からのウケもいい。
治験者になっていることを知らないのだから、素直に松前という男が、普通に上司から信用されていると思っていた。
そういう意味では、この研究所はうまくいっていた。赤松と松前がいるべき位置にいさえすれば、皆、自分の位置を分かっていないだけに、自然とあるべき位置にあるということになる。
あまり自分の家に人を連れていかない赤松が、松前を連れていったという話が伝わると、
「赤松さんのことは松前に任せておけばいいか?」
ということになり、赤松氏を取り込むことを断念するようになっていた。
赤松先輩は、人と人を結び付けたり、人の才能を引き出すことには長けているが、自分が誰かと関わることは苦手だった。
だから、赤松先輩がその力を発揮するには、誰か他に信頼のおける人を味方につける必要があった。
会社では、彼の上司がその役を請け負っていた。まわりから少し干されかかっていた赤松を見て、
「彼のような優秀な人間が、まわりから干されるというのは、実にもったいないことだ」
ということで、自分のグループにひきいれた。
この時は、他の誰も赤松にアプローチをしていなかったということもあって、うまい具合に上司が取りこんでくれた。その上司の下であれば、赤松も安泰だと言ってもいいだろう。
会社でもうまく立ち回れるようになった赤松と松前だったが、二人はその後急速に接近していった。赤松にとっては、妹のゆいの面倒を見てくれて、しかも、仕事上でも、お互いの才能を引き立て合える相手と巡り会えたことは、今までの人生の中で、一番よかったのではないかと思えたほどだった。
赤松には、今のところ好きな女性もいるわけでもなく、別に女性に対して興味があるわけではないので、気になっているのは、妹のことだけだった。
その妹を信頼のおける相手である松前に託すことができたことで、赤松としては、
「肩の荷が下りた」
という気分である。
まだまだ結婚までは先のことであるが、松前とすれば、
「結婚相手にとって、不足はない」
と思っていて、
「結婚するなら、ゆいしかいない」
とまで思っているようだった。
ただ、松前は自分が治験者になっていることを、赤松やゆいと一緒にいる時には、気持ち高ぶっていて、正直忘れかけることが多かった。
それだけ、今まで女性と付き合った経験もなく、人を好きになったという感覚も味わったことはないほどにウブだったのだ。
ウブだという意味でいけば、ゆいも赤松も同じ感覚なのかも知れないが、赤松の場合は、
「女性を好きになるという感覚が分からない」
という意味で、少し松前とは違っていた。
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