第4話 トラウマ

 松前は、治験者でありながら、開発者である。そのことは分かっていたが、開発をしている時は、どうしても自分が治験者であるということを忘れがちだった。

 本来ならそっちの方がよかったに違いない。なぜなら、開発をしている時に他のことが目に入らないという方が、それだけ集中しているということであり、余計なことを考えないで済む。だから、開発に邁進できるという発想もあるのであり、そのおかげで、毎日が充実し、気が付けばあっという間に日が過ぎているのである。

「一日一日は、結構充実していて、一日が終わった時は、それなりに長さを感じるのだが、一週間、一か月と過ごしているうちに、気が付けばあっという間に過ぎていた」

 と感じるようになったのだ。

 その感覚が次第に顕著になっていき、

「錯覚なのかな?」

 と思うほどになっていた。

 以前から、この感覚はあったのだが、ほとんど無意識で、気が付いた時に思い出すという程度だったものが、最近では、意識の中の優先順位が最初の方にあるようで、錯覚だと思うのもそのせいなのであろう。

 実は、これも一種の、

「副作用」

 であった。

 副作用というと、精神的なものよりも最初は肉体的なものから来るものだと思っていたので、少々の戸惑いがあった。今のところ肉体的には何もない。頭痛がしたり、吐き気を催したり、熱が出たりという、表に出てくる副作用は、今のところなかった。

 それだけに、錯覚が副作用だとは最初は思わなかった。

 だが、それを副作用だと感じるようになったのは、それこそ偶然によるものだと言ってもいいかも知れない。

 そもそも、時間に対しての感覚が、時間の経過とともに変わってくる。つまりは、一日一日と、一週間などのまとまった単位で見る時に、違って感じるというのは、今に始まったことではなかった。

 むしろ、そういう考え方があるのは、子供の頃からのことで、その時々で感覚が逆転していた。

 だが、それは自分の中の節目節目に入れ替わるだけで、絶えず持っていたもののはずだ。それを意識させず、無意識な中で、たまに思い出させるのは、自分の本能であり、思い出したことは、自分に対して節目を感じさせるために必要な意識だったのだ。

 だが、副作用によって、この感覚がその時だけではなく、ずっと感じさせるようになると、節目が節目ではなくなり、

「自分に対して何を感じていればいいかという、指標がなくなってしまうのではないか?」

 と感じるようになると、自分が大人になったという感覚を思い出した。

 学生時代というと、中学、高校三年間、大学では四年間というものだったが、三年間であれば、入学して一年は、あっという間に過ぎて、

「ああ、もうあと二年しかないのか?」

 と思わせる。

 あっという間に過ぎてしまったので、二年もあっという間なのかと思うのだが、二年生にあると、一年の時よりも、時間がゆっくりと過ぎていき、

「この時が、高校時代だったんだって、後になって思い出すんだろうか?」

 と感じていた。

 三年生になると、そうもいかなくなり、目の前に受験というものが立ちはだかってくるのだ。

「三年生になったから急に」

 というわけでもなく、二年生の途中から、受験モードに変わった時期があった、

 その時のことをハッキリと覚えているのだったが、その意識は自分の中から出てきたものではなく、まわりが受験モードに入ったことで、いずれ自分が孤立することが分かったので、一気に受験モードに変えた。

 この身のこなしの早さが松前の長所だと言ってもいいのだろう。他の人はまだまだ気持ちの切り替えに時間がかかっていたのに、あっという間に臨戦態勢になった松前を見てまわりの人は、

「あいつには適わないな」

 とため息交じりで言われるほどの変わり身だったのだ。

 別に悪いことではない。松前という男は、根っからの研究者で、臨戦態勢に自らを持ち込むのは得意なことだった。

 元々、覚悟というものを持つことができたのは、気持ちに余裕を持てたからだろう。それを彼の特技のようなものだと言えば、少し違うような気がする。

 彼の頭の中には、意識と記憶を格納する場所とそれ以外に、

「覚悟をすることができる場所」

 という意識を司るだけの余裕が持てるだけの場所がしっかりと確保されていた。

 別に彼が他の人と違って、頭の大きさが違っているというわけではない。

「いかに効率よく頭を使うことができるのか?」

 ということに掛けて、秀でているということなのだった。

 つまりは、他の人が使っていない場所を余裕として、覚悟ができる場所を最初から確保していたことで、他の人よりもはるかに早く臨戦態勢を保つことができたというわけである。

 人間には、超能力というものを持っている人がいて、一部の人間のそんな特殊能力を超能力ということで、テレビなどで番組化されたり、見世物小屋などで、超能力者ということで、昔から、木戸銭をとって、見世物にしていたという経緯がある。

 だが、これまでの研究により通説となっているのは、

「超能力というのは、特別な人間が持っているというものではなく、誰もが超能力というものを持っていて、それを表に出せるかどうかということが、人それぞれである」

 ということが言われている。

「普通の人間は、脳の中の一パーセントくらいしか使っておらず、残りの九十九パーセントは持っているのに、使えるだけの技量がないだけだ」

 と言われている。

 この比率には諸説あるのだろうが、少なくとも、脳の中にある能力の大部分を眠らせてしまっているという、

「無用の長物」

 と言ってもいいだろう。

「自分の中の脳をまったく使っていないということを、意識で来ている人なんて、いるのだろうか?」

 と考えたことがあるが、

「実際には、分かっているのだろうが、そんなもったいないことを本当に自分がしているのだろうか? と思うことで、自らの能力を認めたくないという意識が無意識のうちに働いて、どうすることもできないのかも知れない」

 と考えたこともあった。

 松前も、自分の能力のほとんどを使っていないということを知ったのは、中学時代だった。

 高校受験を前にして、中学時代に入った塾の講師が、

「君たちは、まだまだ未熟なんだろうが、それは、まだまだ脳の中に存在している潜在能力を発揮していないからなんだよ。次第に少しずつそれを使えるようになって、どんどん大人になっていくんだ。だけどね、実際に使われているのは、脳全体のごく一部なんだよ。ほとんどの人は大部分の能力を使えずに終わってしまう。それを使えるような数少ない人たちを、超能力者と呼ぶのさ。だから、超の力者というのは、別に特別な人間なんかではない。選ばれた人間というくらいのことは言えるかも知れないけど、だからと言って、それ以外の人が選ばれていないとは言えないんだ。まだまだ人生はこれからなので、そのことを意識していれば、そのうちに、超能力と呼ばれる部分を使うことができるかも知れない。しかも、その能力の部分は、人それぞれで、どこを使うかというのは、その人の個性であり、芸術家だったら、オリジナリティだと言ってもいいのではないだろうか?」

 と言っていたのを、今でも覚えている。

 大学に入って、最初から、開発者を目指していたわけではない。

 どちらかというと、芸術家を目指していた。

 絵描きであったり、小説家などを真剣に目指してみようと思ったのだが、どれもうまくいかなかった。

「そっか、芸術家というのは、まずは、オリジナリティというよりも、感性が必要なんだ。俺にそんなものが果たしてあるのだろうか?」

 と考えた。

 そもそも、そんなことを考えること自体、芸術家ではないのだろう。芸術家というのは、無意識のうちにできているもので、

「何もないところから新たなものを一から作り出すというのが芸術家だ」

 と思っていて、

「一つのものを十にも二十にもなるような大きさにする」

 という開発者とは根本が違っているのだった。

 それでも、松前が目指すものは、

「何もないところから、新しいものを作り出す」

 ということであった。

 その意味で、

「開発」

 という言葉が一番、自分の中でしっくりきたのだ。

 もちろん、最初にものを作るうえで携わっていくものとして、

「企画」

 というものがあるが、そういうプロモーション的なことには、あまり興味がなかった。

 その理由としては、

「出来上がったものを、あくまでも自分が作り上げたんだという意識を持つことができるかどうか」

 というのが問題だったからだ。

 企画というと、どうしても、プロモーションというと、開発者がどのようなものを作ればいいかという道しるべを示してあげるという意味で、感覚的に、

「縁の下の力持ち」

 というイメージが強かった。

 それでは、松前は満足しない。

 自分が作ったものを、

「これを開発したのは自分なんだ」

 ということで、表に出たいという意識が強いのだった。

 だが、実際に開発チームとして、仕事を初めて、手放しに喜んでいるのかというと、そんなことはなかった。

 確かにモノを作っているという感覚で開発者になっている時というのは、

「三度の飯よりも、開発している時の時間が楽しい」

 と思い、あっという間に過ぎる時間に、満足していたと言ってもいいだろう。

 だが、実際に開発してしまうと、開発したものは、あくまでも、会社や組織のものとなってしまう。

 自分が開発者だということで表に名前が出ることも、営業に回った先で、開発者が誰かということもまったく知られることもなく、

「すべては、売り込んできた会社の手柄だ」

 ということになるのであろう。

 さすがに、どうにも理不尽な気がした。しかし、これも考えてみれば当たり前のことであり、

「開発者に対しては、給料という形で報いているではないか」

 と言われる。

「しかし、それは会社に対して利益を得るために開発という仕事をしているのだから、その分が給料であって、開発したことで、儲かる要因を作った開発まで、会社に取り上げられるというのは、承服できない」

 と感じたが、

「それだって、会社が環境を与えてくれなければ、一人で何もかも手配して開発などできるわけはないだろう? お前は会社の中の駒の一つにしかすぎないんだ」

 と言われてしまうと、またしても、

「結局、仕事をして、対価を得るというのは、こういうことでしかないんだ」

 ということになるのだと、思い知らされるだけだった。

 だからと言って、他の仕事をしようとは思わない。

「趣味と実益を兼ねた」

 という意味では、この開発チーム以外では考えられない。

 本当に自分の作ったものを、自分の手柄だとして世に出すとするならば、芸術的なことでしかできないのだろう。

 絵を描いたり、小説を書いたりして、画家であったり、小説家として、あくまでも、

「個人での手柄」

 でなければいけない。

 自分で作ったものを自分で売り込んで商売にするという、個人事業主の形である。

 早々に芸術に見切りをつけてしまったことを、二十代になってその愚かさに、いまさら気付くことになるとは、思ってもいなかったのだ。

 だが、それでも、自分の名前が表に出ないというだけで、自己満足には十分だった。他の仕事をしていれば、自己満足すら得ることができず、絶えず、文句ばかりいう、嫌な社会人になっていることだろう。

 そういう意味で、芸術家のように、

「俺は形から入るのは嫌いなんだ」

 ということはない。

 形から入るというと、恰好のいい服装をしたり、高価なものを身にまとうなどということであるが、松前はそれが嫌であった。

 逆に、

「実力もない連中のほうが、恰好よく見せようとするのを考えると、自分もそんな人間だと思われるのが嫌なんだ」

 と思っていた。

 誰も他の人が、松前のような考え方をするのかというと、そんなことはない。

「開発の人間の制服は、ワイシャツにネクタイ、その上から白衣を着ているだけだ」

 という、誰もが似たような恰好である。

 しかし、営業であったり、宣伝の人は、

「あまり派手な格好は好ましくはないが、ある程度目立つ服装をして、外見から自分がどんな人間かということを相手に見せつける必要がある」

 と言われているようだ。

 そんな感覚は、松前には似合わない。

「実力も伴っていないくせに、恰好で相手を欺くようなやり方は、まるで詐欺みたいじゃないか。みすぼらしい恰好であっても、相手に訴えるものがあれば、そっちの方がよほど自分で満足できる」

 と思ってい。

 しかし、松前の親はまったく逆の性格だった。

 松前の父親は、子供の頃から苦労をしたらしい。貧乏な家に生まれて、しかも、大学入試の前に、おじいさんが急死したということで、大学入学を断念し、そのまま会社に就職したのだが、必死で努力し、地道に仕事を勤め上げ、

「少しでも失敗をすると、せっかく地道に積み上げてきたものが音を立てて崩れ落ちてしまう」

 と言っていた。

 そのために、上司への忖度や、まわりの人に、

「自分は、完璧な人間である」

 という思いを抱かせるために、決して、後ろ指をさされるような行動をしてはいけないと思っていたようだ。

 その一番が、身だしなみだった。

「少しでもみすぼらしかったり、身だしなみがだらしなかったりすると、今までの信用は台無しになるんだ」

 とよく言っていた。

「男というのは表に出ると七人の敵がいる」

 と言われている。

 それは、仕事をする上でのライバルがいるということだろうが、ライバルを敵視するということが、まだ学生の松前には意味が分からなかった。

 しかし、学生であっても、まわりからの嫉妬や妬みというものがどういうものであり、それを自分に浴びせられると、どれほど惨めであり、孤独に苛まれるかということを分かっていた。

 だが、松前は、ファッション感覚に対しては、さほど気にする人間ではなかった。子供の頃から、

「身だしなみには気を付けなければいけない」

 と言って、松前が髪がちょっとでも立っていたり、それのボタンが取れていたりと、

「誰も気にしないのではないか?」

 と思うようなことでも、怒り狂って指摘してくる。

 その剣幕は、まるで、お前は人間ではないとでも言っているような剣幕である。

「そこまで言わなくても」

 と思うからか、しかも、ファッションに興味のない松前にとって、父親の異常ともいえる感覚に、すっかり閉口していた。

「あそこまで卑屈になる必要がどこにあるというのだ?」

 と他のことでは尊敬できる部分が多いのに、たったそのことだけで、松前は父親に対して大きなトラウマを持つようになり、基本的に父親を嫌いになっていたのだった。

 このトラウマは今でも残っていて、

「これは死ぬまでトラウマとして残るものだ」

 と、自分が結婚し、子供が生まれたとすれば、絶対にこういう育て方はしないと思うのだった。

 そんな中において、自分の生活に何が大切なのかということを考えていくと、やはり一番は仕事であった。

 仕事をするようになって最初の頃は、

「どんなに自分の力で開発したものでも、それは会社の手柄としてしか見なされないなんて、やってられない」

 ち思っていたが、そのうちに、

「まあ、いいか。その分、お金がもらえるようになれば」

 と思うようになった。

 前から研究員の中から出ていた要望で、開発チームに入った時には認められていなかった、個人への

「開発手当」

 だが、それが申請によって認められるようになった。

 すべての人に支給してしまうと、開発チームも赤字になりかねないという考えと、開発を煽ることで、ロクな検査もしないで、出来上がった功労のみを評価してしまうと、できあがった成果が、薄っぺらいものになってしまうのではないかということで、開発者の中から、キチンとしたレポートを提出させ、それが認められれば支給するということになったのだ。

 ドキュメントの整備にも役立つという意味で、会社にもメリットがあるということで、この方法が取られるようになったのだが、これは本当にいい制度であった。

 最初のことは、

「面倒臭い」

 と思っていたが、本来であれば、開発者が、企画書から設計書までをキチンと纏めるという技術のいる仕事を、開発の間からできるというのは、技術向上だけではなく、企画者としての度量も養われるということで、申請者にもメリットのあることだった。

 そういう意味で、すべてをセットだと考えると、それはすべてがうまくいく、

「一石二鳥」

 いや、

「一石三鳥」

 と言ってもいいくらいのものであったのだ。

 それらを勝ち取るためのプレゼンや、会社を説得するための資料作りにも自分たちが関わったことで、これも、自分たちの成果と言えるだろう。

 ここでは、個人はどうでもよく、皆で勝ち取ったという感覚があることから、今まで感じていた、

「開発者として目立つこと」

 という意義がどこにあるのかという本質が、どこかに失せてしまったような気がするくらいだった。

 この仕事をやっていくうえで、

「お金がすべてだ」

 と思いたくはないが、ギブアンドテイクという意味での大切なテーマだと思うと、お金というものが邪悪なものだという気分にはなれなかった。

 生活するには、食料であったり、医薬品、衣料などという生活必需品がある。それらを手に入れるために、仕事をして、対価をいただく。

 貰ったお金で生活必需品の買うのだから、お金はいくらあっても、十分だということはない。

 しかも、人間、いつ何時何が起こるか分からない。

 急に仕事ができなくなり、無収入になるか分からない。特に事故などに巻き込まれてしまって、仕事を辞めなければならなかったり、それに対して、ほとんど保証がされていなければ、そうすることもできない。

 そういう時のために、保険というものがあるのだろうが、保険だって、お金を毎月かけていなければ、保証を受けることはできないのだ。

 保険料を支払うためにお金が必要だというのは、生活必需品を手に入れるのと同じ考えではないだろうか。

 それを思うと、それまで感じていた、

「金儲けというのは、あまりいいイメージではない」

 という感覚は、果たしてどこから来たものかと考えさせられてしまう。

 ドラマや映画などで、守銭奴が犯罪に走りやウイとか、お金がなくて、のっぴきならずに、意に反して犯罪を犯さなければならなくなったというシチュエーションが、本であれば、反則意欲に、そして、テレビであれば、視聴率死守に役立つのであろう。

 それを思うと、まるで偏見のような考えが、トラウマとなって自分の中に蔓延っているのだと思えてならなかった。

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