第3話 三大恐怖症
松前が薬を飲んでから、定期的に飲む感覚というのは、約一か月くらいだった。最初の一週間で身体に免疫のようなものがつき、それが三週間くらいかかって、育ってくる。そして、それが少しだけ変異したところで、また同じ薬を注入する。
そうすると、最初に身体に入り、抗体となり、変異した薬と二度目に投与する薬が中和し、抗体反応を起こすことで、少しのショックが身体に起こり、それが新たな投与薬に対して、さらに効果の大きな薬に変化する。
変化すると言っても、効力が変異することはないので、最初に投与した薬の約十倍くらいの効力が見られるのだ。それを毎月繰り返していくことで、身体に次第に馴染んでいき、その状態が、身体の中に本来存在している本能と結びつき、不老不死に近づくというのが、大まかなこの薬への説明だった。
これ以上詳しい説明ともなると、専門的な言葉を使わないと説明できないので、公開されている宣伝は、ここまでだった。
それでも、この薬に興味を持つ薬品販売会社であったり。国家首脳も少なくはない。
特に国家首脳に対しては。
「これらの薬は、まだ国家で認証を受けていないということで、他の国に対しても宣伝できる自由な状態であるということをご承知ください」
と言っているので。政府の方も、これを国家プロジェクトにするかどうか、真剣に考えていた。
「これを諸外国に宣伝されてしまい、先に運用されてしまうと、日本国のメンツは丸つぶれになってしまいます」
と一人の首脳がいうと、
「しかし、これだけの壮大な計画、失敗すると、かなりの予算をつぎ込むことになるので、我々の立場は危なくなってしまうのではないか?」
と、保身に走るベテラン連中がいつものように言い出した。
「それはそうですが、諸外国に先を越されるということは、下手をすると、今諸外国に頼っているものすら、入ってこなかったり、値を吊り上げられたりしますよ。それだけ我が国が下に見られるということです。それは断じてできませんよね」
と強い口調で若手がベテランに詰め寄る。
「それはそうなんだが……」
と言いながら、ベテランもさすがに尻込みをしているようだった。
それでも、早く結論を出さないと、開発チームは、独自のルートを使って諸外国に売り込むだろう。
今の政府では、彼らの行動を規制することはできない。政府の外にある民間の組織なので、政府の介入は許されないのだ。
彼らは、開発チーム自体を国家の中に組み込んでほしいとは思っていない。組み込まれてしまうと、政治の渦中に放り込まれて。どうなってしまうか分からない。
「カネと権力に塗れた世界」
それが政府というもので、政治家は基本的に、
「私利私欲に走り、見切りをつけると、保身しかしなくなる」
というものである。
しかも、その変わり身が天才的であるのが政治家というもので、逆にそれができなければ、政治家になどなれるはずはない。
そういう意味で。
「政治家と政府ほど、利用はしても、信用してはいけないものだ」
というのが、開発チームの共通の意見であり、
「国家というものは、利用するだけ利用すればいい」
という考えを持っている。
政治家ほどではないが、彼らもある意味、異端である。彼らこそ信用できるものなのか不思議であるが。政府と開発チームが密かに話をしているなどということを国民が知れば、かなり大きな問題となるだろう。
政府の中で、政治クーデターが起こっても、不思議がないというレベルのもので。開発チームが、どれだけ世間にひた隠しにしなければいけないのかということを絶対条件だと思っているかということも当然のことであった。
「自分たちだって、ただではすまない。政府の犠牲になることだけは、避けなければいけない」
と、まるで、政府と心中でもしかねない雰囲気だった。
松前が、今回の治験者となった理由の一つに、
「俺は独りぼっちだしな」
という思いがあった。
いくら母親や自分が、この薬に因縁を持っているからと言っても、さすがに自分が誰かと関わっているという気持ちになると、どうしても躊躇するものであろう。
三十年間生きてきた中で、誰かと何かのかかわりがあったという記憶はない。
もちろん、まったく誰ともかかわりなく生きてきたなどと言える人間などいるはずもなく、松前だって、人と何らかのかかわりがあったのも事実だった。
しかし、その関わりというのは、そのほとんどすべてが、利害関係によって結び付いているというものだ。
ギブアンドテイクという言葉にあるように、どちらも利益があるような関係であるということ、お互いに、どちらに優劣があるわけでもないそんな関係だからこそ、強い絆に守られていると信じていた。
なまじ、そこに感情が入ってくると、相手への押し付けになってしまい、その時々で結びつきは強いかも知れないが、少しでもこじれると、修復させるのは至難の業となってしまうことは分かっていた。
だから、下手に感情に任せることなく、お互いの利害関係を中心に結びつくということを最優先に行ってきた。
そういう意味では、
「本能の赴くままに」
と言ってもいいだろう。
そうやって生きてくると、
「人間って、結構利害関係で結び付くのが、こんなに簡単だなんて思ってもみなかったな」
と思うようになっていた。
利害関係というものがどのようなものなのか、子供の頃には分かっていなかったはずなのに、大人になるにしたがって、
「あの時が利害関係だったんだな」
と感じるようになったのだ。
ただ、まわりには、いろいろな連中がいる。こんな松前に対して、賛同してくれる人もいれば、
「あいつは本当に人間の血が通っているのか? まるでロボットのようではないか」
という陰口を叩いているやつもいるようだ。
だが、こんな時にも、
「利害関係だけで結び付いている人だけが自分の見えている人間たちだ」
と思うようになると、そんな連中を視界から消すことさえできれば、別に気にすることもないと思うのだった。
あまり人とかかわりがないくせに、人の目が気になり始めると、自分ではどうすることもできなくなるという事態に陥ってしまうということは理解しているつもりだった。
今までそんな経験をしたことがなかっただけに、自分がそんな立場に追い込まれることが怖かった。
「もし、自分がまわりを意識するようになり、まわりの視線に耐えられなくなるような状況に陥れば、どうなってしまうのだろう?」
この恐ろしさは、きっと、何をしている時でも、このことばかりを気にしてしまい。何もできなくなってしまうことを暗示していた。
それを理解しているだけに、余計に人と関わることが怖いのだ。自分が人と関わってしまって、最後は置き去りにされてしまうという光景は、想像を絶するものがあり、そう思うと、右にも左にも薦めなくなってしまう。
そういえば、以前、それは夢だったと思うのだが、吊り橋を渡ろうとして、その中間くらいのところで、何を思ってか、下を向いてしまったのだった。眩暈を起こしてしまいそうな高さのその場所に、なぜ自分が佇んでいるのか、そのことを考え、後悔が襲ってきた。
「前に進むも、後ろに下がるにも地獄」
そう思った時、何を考えたのか?
「前に進んだら、また帰ってくる時に同じ思いをしなければならない。それだったら、最初から戻っておくしかないのではないだろうか?」
という思いであった。
高所という判断力が鈍ってしまった状態では、そういう計算が判断に対しての優先順位の高い位置につけてしまう。それを思うと、なるべく、危機感を煽るようなシチュエーションに持っていくことを避けなければならないと思うのだった。
普段は、そんなに考えたりはしない性格だったが、夢の世界になると、いつも自分がパニックになっているような気がしていた。
そのパニックというのは、初めて感じることのはずなのに、
「以前にもどっかで」
という、いわゆる、
「デジャブ―」
のような感覚だったりするのだった。
デジャブ―というのは、なぜ起こるのかということは、科学的には証明されていることではないという話を聞いたことがあるが、松前によっては、何となく感じるものがあると言ってもいいようなものだった。
「デジャブというのは、辻褄合わせなんじゃないかな?」
という考えだったのだが、それがどういうことなのかというと、
「以前に、どこかで本当に見たことがあるような絵や写真がどこかに飾ってあったか何かして、無意識に覚えていることというのは、結構あるものだと思っている」
ということは、
「無意識に見た絵や写真を、以前どこかで見たものとリンクさせているということではないか? だから、絵や写真を無意識にとはいえ、意識してしまったということであり、それが無意識であるがゆえの曖昧さが、デジャブという説明のつかない幻想を引き起こしているのかも知れない」
というものだ。
そこが、
「辻褄合わせ」
であり、
「人間というものは、ある意味、このような辻褄合わせを絶えず繰り返す動物なのではないか?」
と言えるのではないだろうか?
そのため、夢の世界と、現実の世界とで頭の中が混乱してしまうことがあり、
「そもそも、現実世界の理不尽さや、不可解なことを感じた時、夢の中でその感情を緩和させるという形で、夢は自分のために役立っている」
と思っていたが、
「実際には、現実世界の方が平和で、夢の世界が感情を煽るような状態になることもあるんだ」
と思うと、夢の世界と、現実世界の境界線が曖昧に感じられ、
「ひょっとすると、この二つには境界線などなく、ただ、どちらかが表に出ている時は、どちらかが裏にいるというだけの。完全な表裏の関係というものと同じだと考えられないだろうか?」
と思われるのだった。
つまりは、この曖昧さがデジャブであり、
「辻褄合わせではないか?」
という思いに繋がっているのではないかと思えた。
夢の中で吊り橋が出てきたのも、ドラマなどを見ていて、
「吊り橋の上や、断崖絶壁などの危険が孕む究極の場所で、刑事が事件解決の口上を垂れているのを見たことがあったが、それは視聴者に対して、事件解決というクライマックスのシチュエーションをいやがうえにも恐ろしさという演出を掲げることで、よりリアルな場面にしようというもので、場所自体に深い意味はないんだ」
と冷静に考えれば、すぐに分かることであろう。
しかも、視聴者である我々が、ドラマ制作側の目論見に乗って、
「断崖絶壁や吊り橋の上では、究極の恐怖が待ち受けていて、それがクライマックスになるのだ」
という思いを植え付けられてしまっていると言っても過言ではないだろう。
特に人間によって言われる、
「三大恐怖症」
の中に、
「高所」
というのが含まれているではないか。
つまり、
「下を見ると、恐ろしいと感じ、すぐに、谷底に落っこちるという場面を創造してしまう」
それが、自分が落ちるという主観的な感情なのか、それともドラマで見るシーンのように、他人事のように映像として見ている光景なのか、夢の中はよりリアルな感じがすることで、前者なのではないかと思うのだった。
三大恐怖症というと、「高所」、「閉所」、「暗所」の三つがあると言われている。
閉所などは、それほど感じたことはなかったが、暗所と、高所はそれぞれに結び付いていると思うのは、松前だけであろうか?
暗いところというと、何が怖いと言って、普段はなかなか遭遇できるわけではないだけに、あくまでも想像の域を出ることはないのだが、
「足元が一番の不安だ」
と考えるものではないだろうか。
つまり、何かを目の前にして歩いているとすれば、その場で急に真っ暗になってしまったことを想像してみればいい。
「今まで見えていたものが、本物だったのか?」
という思いに至るのではないかと思ってしまう。
今まで見ていた光景であれば、少々進んでみたりしても、穴があったり、つまずきそうな歩きにくい場所であったりということは少なくともなかったはずである。だから、普通に進んでも問題ないと思われるが、不安に煽られると、それまで考えていたことと違った不安に苛まれることだってあるのだ。
たとえば、
「前から何かの動物の大群が突っ込んできたり、目の前を車が猛スピードで通過していて、衝突するかも知れない」
と感じるかも知れないではないか。
まったく何も見えないだけに、それを否定する力は自分にはない。そう思うと、一歩も進めなくなるではないか。
そして、
「もし、一歩でも前に進んでしまうと、今度はどの方向が自分の記憶している方向なのか分からなくなってしまい、どこから来たのか、そしてどこに行こうとしているのか、まったく分からなくなってしまうような気がしてならない」
と感じることだろう。
これは吊り橋の上で、どっちに進むのかを迷っている感覚に似ている。そういう意味では、
「高所恐怖症と、暗所恐怖症はまったく違うもののように思えるが、肝心なところで繋がっているんだ」
と思うのだ。
閉所恐怖症にしてもそうだ。
それほど恐怖だと感じていないが、何か昔のトラウマが残っている人には、これほど恐ろしいことはないだろう。
入ることはできたが、出ることができなくなってしまった場所に入り込むというような経験は、子供の頃などに、少々お転婆や、ワンパクな子であれば、ありがちなことではないだろうか。
そのことがトラウマになっているとすると、狭い場所というのは、我々の高所や暗所を怖がる感覚と似ているのかも知れない。
「どこに向かって進んでいいのか分からない」
という感覚に恐怖を感じるのだから、閉所恐怖症の場合は、
「どこに向かって進んでいいのか分からないどころか、それ以上に、動くことすらできない」
ということであり。想像を絶する恐怖なのかも知れない。
そんな恐怖症におけるいくつかの共通点も、それぞれの突出した恐怖には勝てないものなのかも知れない。
例えば高所恐怖症などであれば、これも、
「子供の頃に高いところから落っこちた記憶が残っている」
という経験的なことからトラウマとなり。恐怖を拭い去ることができなくなることなどザラにあるであろう、
「高いところに昇って足元を見ると、そこには、虫ほどの小さな人間が蠢いている」
そんな印象を感じる。
「自分と本当は同じくらいの大きさの人が、あんなに小さく見えるということは、ここから落ちれば、ひとたまりもない」
という意識に駆られるのだ。
さすがに、そんな高いところから落ちたという経験はないので、トラウマの正体は、まるで、
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」
という程度のものであろう。
「高いところにいると、経験がなくても、身体の震えが止まらないくらいの恐怖を感じてしまう」
という話を聞いたが、それはまさしくその通りであった。
下を凝視できるほどの勇気はないが、もし、凝視できたとすれば、眩暈がすることだろう?
映像技術にあるような、拡大や縮小、つまり、遠近感の瞬時の移行が、錯覚として網膜を揺さぶるかも知れない。
眩暈がするというのは、そういう遠近感がマヒしたような錯覚を、足元から先に感じるからではないだろうか。
しかし、下から見ている分にはそれほど怖いとは思わない。しかし、逆に自分が十階建ての建物の屋上にいたとしよう。その時に、下を見た時、三階建ての建物があり、その建物の屋上に誰かがいて、その人が下を見ているのを見た時、どう感じるというのだろう?
普段であれば、三階から下を覗いているのくらい、別に怖いとは思わなくとも、
「十階から下を見下ろしていると、途中の人も自分より低いのが分かっていても、とても危険な気がするんだ。まるで、自分が手を伸ばせば届くはずのない距離であるにも関わらず、背中を押してしまい、そのままその人を突き飛ばしてしまうのではないか?」
という錯覚に襲われるからだ。
「その時に一緒に、自分も落下するような気がする。その人は三階からなので、そこまで大けがはしないかも知れないが、十階から落ちるということは、確実に死を意味している」
と感じるである。
だから、高いところから見る景色というものに、恐怖を感じるのだろうと、松前は感じるようになった。
閉所恐怖症も、暗所恐怖症も、似たような感じなのではないだろうか。
高所恐怖症は同じ高所を同じ次元で感じることが錯覚となり、恐怖を煽ってしまうものなのだろうが、他の恐怖症は、同じ種類の恐怖症ではなく、他の恐怖症に影響を受けるものではないかと感じるのだった。
そのことが分かってくると、自分が恐怖症というものに、感覚がマヒしているように思えてきた。
だから、普段の生活に、恐怖も感じなければ、大きな変化も感じない。危険と裏腹な波乱万丈と言ってもいいような毎日を過ごしているのに、毎日が平穏に思えているのだ。しかもその平穏は普段の生活だけで、夢の中では逆に波乱万丈を感じているからなのか、特に最近、夢をよく見るように思えてきたのは不思議なことであった。
夢というものと現実の境目が曖昧に感じられることで、夢で見たものなのか、現実なのかが分からなくなったしまっていたのは前述の通りだが、夢を見ることが怖いというわけではなく、あくまでもリアルなのは現実であって、その現実をいかに理解しようかというのは、松前にとっての問題だったのだ。
そのことは、自分が研究している開発においても言えることであった。
特にクスリの場合には、
「副作用」
というものがある。
そのほとんどは、薬を飲むことでできた抗体に対してのアレルギーというか、拒絶反応のようなものであるが、よほどのことがない限り、大きな問題になるはずのものではないはずだ。
「クスリを飲んでよくなるはずなのに、副作用に苦しめられるなどというのは、これほど本末転倒なことはないのではないか?」
と言われることだが、実際には、副作用によって、健康被害に遭った人が、販売元を訴えているなどということは結構ある。
そういう意味で、
「医薬品の開発には、副作用の問題は切っても切り離せないものだ」
と言えるのではないだろうか
「副作用をなくそうと考えるのは、土台無理なことで、いかに副作用を抑えるかということが問題なのではないだろうか?」
というものだ。
「副作用がまったくない薬など、もはや、薬としての効果がないと言ってもいいのではないか?」
と言われるほど、副作用は本当に切っても切り離せないものではないだろうか。
それを思うと、自分にとっていかにこの研究を真剣に行わなければいけないものなのかを思い知らされたような気がする。
「治験者になったのも、その覚悟が少しはあるからだ」
と、自分にいい聞かせている松前だった。
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