第7話 無限と四次元の世界
そういえば、昔の特撮番組で、面白いタイトルの話があったのを思い出した。
確か、
「無限への……」
だったと思う。
タイトルはハッキリと覚えていないが、この話のテーマは、
「四次元の世界を作ることのできる怪物」
というものであった。
次元というものの考え方として、まず一次元というのは、
「点や線」
というものであり、二次元は、
「平面である」
というものであり、三次元、つまり我々の存在する世界は、
「平面に高さを持った立体の世界である」
というものであった。
そして四次元というのは、さらに、そこに時間の軸が存在しているというものであり、世界の中で時間というものが存在しているわけではなく、世界を構成するための構成要件として、時間が存在しているというものであった。
「つまり四次元の世界を架空の出来事として創造したその番組では、扉を開けると自分の知らない見たこともない虚空の世界が広がっていたり、どこかに向かって進んでいるのに、また振り出しに戻ってみたりして、結局は同じところをずっと行ったり来たりしている」
という発想であった。
ただ、それが本当に時間を超越しているのかどうかということはよく分からない。
一つ言えることは、自分たちが存在している空間に、実はもう一つの空間が存在し、そこに落ち込んでしまうと、その世界を四次元の世界だという発想にも至っているということであった。
しかも、その世界は一つや二つではないようで、
「無限に存在している空間」
と言えるのではないだろうか。
その無限が時間であって、無限の時間というものが、張り巡らされている。それを考えた時、隼人は、本を思い出した。
薄っぺらい紙が、二、三枚重なったところで、厚みなどまったく感じないはずだったのに、数百枚ともなると、少し厚めの本が出来上がるではないか。どんなに薄いものでも、ゼロではないものを重ね合わせると厚みを帯びてくるものである。
ゼロの正反対の概念が無限であるとすると、無限も有限とどこが違うのかと考えてしまう。
考えられることとすれば、やはり。
「無限にはどんなに細分化しても、無限は無限でしかない」
ということになるのだろう。
二次元が三次元になるには、数が大きな力を持っていたが。三次元が四次元として成り立つには、無限への解釈が必要になる。
四次元を肯定するなら、無限をも肯定しなければなるまい。
三次元の世界を、
「薄っぺらい紙」
だと考えると、出来上がった本は、
「同じ空間に存在している、限りなく広がるパラレルワールドだ」
と言えるのではないか。
パラレルワールドこそ、四次元の世界の入り口であり、その数は無限だと言われる発想であるに違いない。
子供の頃に見たアニメで、四次元の世界とは発想が違うかもしれないが、
「凍り付いた世界」
というものがあった。
光がほとんど当たらず、人間は皆凍り付いたかのように、顔面が蒼白になっていて、身動き一つする人はいなかった。
そんな中で、最初は、
「時間が止まってしまったのではないか?」
と思われた世界であったが、実際にはそうではなかった。
まったく動いていないと思われた世界において、人間の胸くらいの高さのところを、数センチくらいの何かが、ゆっくりと宙に浮きながら進んでいるのだ。
「何だ、これは?」
と思って見ていると、それは何やら回転しながら前に進んでいるようだった。
主人公が口を開いた。
「ここは、まったく凍り付いた街ではないんだ」
という。
それを聞いたもう一人が、
「どういうことなんだい?」
「ほら、ここにあるのは、宙に浮きながら少しずつ進んでいるだろう? これは何だと思う?」
と訊ねると、
「さあ、よく分からないけど」
というので、
「これはピストルの弾丸さ。だから、このように回転しながら前に進んでいるのさ。つまりここは凍り付いているわけではなく、ものすごく遅いスピードで進んでいる世界だということではないのだろうか?」
と言った。
「よく分からないけど」
と聞かれて、
「そうだなあ、四次元の世界だとでも思えばいい。四次元の世界は存在すると言われているけど、それを見たものは誰もいないんだ。だから証明もできないけど、これが四次元の世界だとすると、いろいろと辻褄が合ってくるような気がするんだ」
というではないか。
もう一人の人物は、まだいまいち状況がよく分かっていないようだった。
「四次元の世界を見た人間なんていないんだ。ただ、時間を支配できる、いや時間に支配される世界と言ってもいいだろう。三次元にも時間という概念はあるが、あくまでも、それは規則的に進んでいるものであり、まるで心臓の動きのように、存在していて当たり前だという発想ではないのだろうか?」
というのを聞いて、もう一人の人物は主人公の話についてはよく分からなかったが、
「この男は、きっと事の真相に気づいているんだろうな?」
ということは分かっていたのだ。
その世界は、もう皆さんにも分かったと思うが、
「時間がものすごくゆっくりと経過している世界」
だったのである。
弾丸がゆっくり進んでいることで分かるだろう。凍り付いているように見えているのは、ゆっくりと進んでいるからだった。
だが、どうして彼らはその世界を、
「ゆっくりと時間が経過している世界」
だということにすぐに気づけなかったのだろうか?
どうしてなのかすぐには分からなかったが、少しして気付いたのは、もう一人の男の方だった。
「そうか、風は普通に吹いているんだ。だから、ゆっくり進んでいるという自覚がなかったんだ」
ということであった。
それには主人公も納得がいったようで、
「なるほど、そういうことか」
と言ったが、実はその理屈が解明されたことで、余計に別の問題を感じるようになったのだった。
「じゃあ、どうして、風だけが普通に吹いているんだ?」
という問題だった。
すべてがゆっくり進んでいるのだとすれば、風もゆっくりでなければおかしい。何よりも、風だけが今の状態で普通ならば、彼らが感じている風というのは、身体を切り裂くくらいの威力のあるものであってしかるべきだ。それなのに、風が吹いても彼らの身体に傷一つ現れるわけではない。
ということは、
「そうか、この風は向こうの世界のものではなく、我々の世界のものなんだ」
ということであった。
つまり、主人公たちがこの世界に入り込んだ時、自分たちがいた世界からの穴が開き、そこに自分たちと一緒に風が吹き込んできたという発想ではないだろうか。
ここから先はアニメ世界の発想ではなく。隼人が感じていることであった。
「自分が主人公になったつもりで、頭を回転させてみようと感じたことであって、視聴者にも同じような発想をさせようという作者からの挑戦なのかも知れない。
このアニメは、子供が見るというよりも、SF調のものであり、大人の方が視聴者が多い。子供にはついていけないという触れ込みもあり、わざと難しい表現をしているところもあったくらいだ。
「ということは、この世界に自分たちのような異世界の人間が入ってきても、彼らの持っている世界は、絶対に入ることのできない結界のようなものが存在していて、それは時と場合において、臨機応変な対応ができるものなのではないだろうか?」
という考えであった。
「では、その結界はどっちの世界のものなのだろうか?」
と考えると、そこがこの世界を解明する一つの糸口に思えた。
風が向こうに侵入しないようにするためだとすれば、向こうの結界だと言える。確かにこちらの速度に合わせれば、向こうでは可視のできないものであり、防ぎようのないものだろう。
こちらの世界でいう、
「かまいたち」
と言われるものと同じで、
「何が起こったのか分からないが、気が付けば、衣類が裂けていた」
などというのがかまいたちである。
それが風の力によるものだということは、最初から分かっていたわけではない。後から研究されて分かったものだった。
そんなかまいたちというものを、どのように解釈するかは、今の科学だから分かったことである。もちろん、昔の人にも分かっていたかも知れないが、照明するだけの機材もなければ、根拠もない。言い伝えでしかなかったことであろう。
「ということになると、かまいたちというのは、他の世界から、結界を超えてやってきたものだろうか?」
という考えにも至ることができる。
かまいたちの発生は、よほどの気象現象が重ならなければ、実現することはない。それは、
「次元を超える」
という発想のように、限りなくゼロに近いが、まったくのゼロではないという発想に近いものではないだろうか。
ただ、
「次元というものがそんなに簡単に超えられるものなのか?」
という考えもある。
しかし、タイムトンネルという発想では、
「ワームホール」
という考え方がある。
これは、
「何かの自然現象なのか、それとも辻褄合わせによって生じるものなのか、偶然できた穴に、誰かがはまり込むと、そこはタイムトンネルであり、時空を超えて、違う時代に飛び出す」
というものだ。
これは、何か見えない力が働いていると考えられるが、それがひょっとすると、文明を持った未来人が過去にやってきて、いたずらをするからなのかもしれないと言っていいのだろうか?
そもそも、パラレルワールドの発想から、
「過去に行くことは危険だ」
と言われていることもあり、素人の我々でも、
「過去に行くことはタブーだ」
と言われているのに、それを悪戯をしてできるようになるということは、未来においては、それらの諸問題をすべて克服し、
「どういうことをすれば、今の時代に影響を及ぼさずに済むか?」
ということまで解明されていなければいけないだろう。
しかも、
「この時から狂ってしまった歴史を元に戻す必要がある」
という考えを持っているとすれば、その時点においては、いたずらではなく真剣そのものだと言えるだろう。
「今、ここで過去を変えなければ、自分たちの未来はない」
というほどに切羽詰まったものだと言えるのだろう。
実際に未来では、
「どのように行動すれば、未来を変えないでいいか?」
という計算ができるほどの、スーパーだか、ウルトラだか知らないが、巨大なコンピューターが瞬時に計算しているのかも知れない。
ただ、行動するのは人間なので、間違いが絶対にないとは言えないだろう。
それだけに、シュミレーションもバッチリとできた状態で送り込んできているのだ。まさにSF映画を見ているがごとくなのではないだろうか。
未来から来た人であっても、今考えられているような、
「人間が時間を操ったり、未来や過去を変えるというようなおこがましいことができないように世の中は作られている」
という考え方であるならば、一体時間を操れるのは誰なのか? ということである。
まさか、
「神様が存在し、神々の赴くままに操られ、人間はそのレールの上に載せられているだけだ」
ということを信じるだけの信憑性があるのだろうか?
無限という発想を頭に描いて、果たして無限の奥がどうなっているのか? ということを、誰が証明しようというのだろう?
無限という言葉を考える時、宇宙を思い浮かべるであろう。
我々のいる地球は、太陽系の中にあり、そのまわりには銀河系という星雲が存在している。
しかも、他にも島宇宙は存在し、マゼラン星雲なども存在するという。
SFなどの中には。自分たちのいる宇宙の裏には、暗黒の宇宙が存在していて、そこがトンネルのようになっていて、その向こうには、光り輝くこちらと同じような宇宙が広がっているという考えである。
その宇宙はひょっとするとこちらと同じ構造になっていて、もしかすると、あちらにも自分と同じ人間が存在しているのかも知れない。
ただ、そうなってくると、
「宇宙というのは果てしないものだ」
という考えを、どのように証明すればいいというのだろう?
果てがないということは、どこまで行っても宇宙は広がっているということである。
だが、考えてみれば、最初に過去の人は、空を見て、その星が皆同じように瞬いているので、遠くにあるものだという感覚はなかったのかも知れない。
そもそも、天動説が主流だったわけなので、
「地球が止まっていて、まわりの星が動いている」
という考え方は、完全に、空を見上げた風景をそのまま解釈したところからであろう。
だとすると、星は皆同じ距離だと思っていたとしても無理もないことだ。
天空は届くものであり、まるでプラネタリウムのようなものだと考えられているのだとすれば、無理もないことだ。
「ひょっとすると、プラネタリウムのあの構造は、天動説のあの発想から出てきたのではないだろうか?」
とも考えられる。
しかし、あのプラネタリウムの機械は何と歪な格好であろう。ある意味、恰好がいいと言ってもいいくらいのもので、天体を揺るがすには、素晴らしい機械だと言っても、差し支えないだろう。
昔は、
「地球の端っこ」
という発想があった。
「海が世界の果てまで続いていて、その先には滝のようになっていて、あまり奥にまで言ってしまうと、そのまま滝つぼに飲み込まれて、戻ってこれなくなってしまう」
と言われていた。
これには、二つの意味があった。
「元々、無限に続いているものなので、果てなど存在しないはずだから、どんな世界が広がっているかなど、何とでもいえる」
というもおと、
「滝つぼに呑まれることにしてしまえば、誰も怖くて近づかないだろう。もし果てがあったとしても、それを見に行くものは誰もいないだろう。そうすれば、自分たちが創造した端っこが、本当の世界の果てになるに違いない」
という考えの二つである。
それだけ、誰にも知られてはいけない世界だということなのだろう。
しかし、そんな世界がありえないことだということを、今の人間には分かっている。しかも、言い伝えのように、世界は果てしなかった。しかもそれは、地球が本当に果てしないことであるということを証明もしている。地球という名のごとく、
「地平線は、球のように丸いものなのだ」
ということで、
「どこを通っても、一直線に進んでいけば、また元の場所に戻ってくることになるのだ」
ということを示していたのだ。
それが分かると、天動説が地動説へと変わってくる。
しかし、なかなかその説が受け入れられず、地動説が、ずっと迫害を受けてきた。どうしても、宗教的な発想が、それまで絶対的だということで信じられてきた天動説を間違いだったと認めるわけにはいかなかったのだろう。
「頭が固い」
と言われればそれまでだが、科学が発展する際には、どうしても、最初はなかなか認められないというのも、無理のないことであるのも事実だった。
宇宙の果てについては、まだ誰も証明できるものではない。何といっても、まだ人類は火星くらいまでしか行けておらず、太陽系すら脱出できていないではないか。しかも、今は経済的に、宇宙開発を行えるほど裕福でもない。
何と言っても、宇宙の広大さは学生でも知っている。
「何万光年もの彼方」
というのが星の世界である。
「何万光年というのは、光の速さで、何万年という遠さである」
ということなので、
「今空に輝いている星は、今から何万年も前に光ったものを見ている」
ということになるのだ。
ということは、今本当にその星が存在しているのかも分からない。
万が一、人類が光の速度を超えるロケットを開発し、宇宙に向かって飛び立てばどうなるだろう?
数年宇宙を飛び、地球に戻ってくるということを考えると、その時に地球はどうなっているというのだろう。
もちろん、この発想は、アインシュタインの、「相対性理論」のことを考えたうえでの発想なのであるが、SF小説やアニメなどは、基本的にその発想を無視した話が多いことも事実だった。
昔のアニメで、地球の放射能汚染を食い止めるために、マゼラン星雲にまでいって、一年で戻ってくるというような話があった。
普通に考えれば不可能であったが、光の速度を遥かに超える船の設計図が手に入り、それを元に作ったエンジンを搭載した船でその星に向かうという話であった。
どうしても、子供が見るアニメということで、相対性理論を無視した話になるのはしょうがないことなのだろうが、SFが好きで、相対性理論のことを分かっている人間にとっては、どうにも納得できない話であり、勝手にいろいろ想像してしまうのだった。
相対性理論というのは、
「光の速度を超える乗り物に乗って、地球を離れた場合、地表の時間の流れと違った速度でしか、時は進まない」
というものであった。
高速になればなるほど、実際の時間よりも遅くなるというもので、地球を離れて数年で、また戻ってくるとすれば、地表では、すでに数百年が過ぎているという計算である。
この話を聞いて、
「あれ? どこかで似たような話を聞いたことがなかったか?」
とふと感じる人も多いことだろう。
そう、浦島太郎のお話だ。
カメに乗って海中にある竜宮城に行ったが、数日の宴会ののち、元の世界が恋しくなった太郎が、元の世界に戻ると、そこは、七百年が過ぎた世界であったというのがオチだったではないか。(実際には、その続編があるのだが)
つまりは、浦島太郎がいった竜宮城という世界は、
「時間の流れが極端に遅い世界だった」
ということである。
その証拠に地表に戻った浦島太郎は、まったく年を取っていないではないか。七百年近くも経っているのだから、自分が知っている人は誰もいないのは当たり前だ。
人間はどんなに生きても、百歳とちょっと。特にあの時代は、さらに寿命が短かったではないか。
それを思うと浦島太郎の話は、
「おかしな話であるが、ところどころ辻褄は合っている」
という意味で、科学的には実に興味のある話であることは間違いないだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます