第6話 「パラレルワールド」の発想
隼人はこの間見た映画の内容を、ハッキリと覚えているわけではなかった。つかさの方は結構覚えていて、何が問題だったのかということを考えようとしていた。
あの映画の何が問題だったというのか?
たぶん、タイムパラドックスの問題があったからではないかと思うのだが、そもそもタイムパラドックスというのは何であるかということから考える必要があった。
タイムパラドックスの、パラドックスというのは、「逆説」 という意味らしい。つまり、
「表から見ても裏から見ても、その矛盾を解決できないことをパラドックスというのではないだろうか?」
と、隼人は考えていた。
一種の三段論法のようなものが成立するのかしないのか? しないとすれば、そこに逆説を考えてみて。それでも理屈に合わなければ、タイムパラドックスとして認定していいのではないだろう? それはまるで。
「メビウスの輪」
を見ているようで、すべてが、このパラドックスから始まっていると言ってもいいのではないかと思うのだ。
一番よく例としてのパラドックスは、
「親殺しのパラドックス」
と呼ばれるものであった。
要するに、
「自分がタイムマシンに乗って過去に行くとする。自分が生まれる前の親がそこにいて、親を殺してしまったとする」
というのがタイムパラドックスの考え方である。
「自分が生まれる前の親を殺したのだから、自分が生まれるはずがない。自分が生まれなければ、タイムマシンで過去に行くこともない。だから、親が殺されることはないのだ」
という、三段論法的な考えであるが、そうなると、矛盾が生まれてくるのだ。
辻褄というのは。三段論法のそれぞれが、三すくみのような形になってはいけない。それぞれにけん制し合って、何もできなければ、時間が先に進むことはないのだ。
この中で矛盾を解決するようにするにはどうすればいいか?
ということになるのだが、その答えは、
「タイムマシンなどという存在は絵空事であって、時間をさかのぼるなどということはできっこない」
と考えれば。三すくみではなくなるのではないだろうか?
三すくみというのは、じゃんけんなどのように、それぞれが形成しあうという考えである。
一対一では、明らかにどれが強いのか、絶対的な関係であるにも関わらず、そこに、それぞれを抑止する存在のものが出現すれば、均衡を保つことができる。これが、ひょっとすると、タイムパラドックスを形成していて、その存在があるから、時間においての大きなトラブルが、この世界では認識されないのではないだろうか。
タイムマシンというものが本当に存在し。その存在を人間がうまく扱えるかどうか。それが、SF小説などのネタになるのである。
それに付随した考え方として、
「パラレルワールド」
というものがある。
「過去、現在、未来と、時間が規則的に刻まれていっていれば、未来が現在になり、そして一瞬にして過去になる。未来というのは、無限に存在している。現在から次の瞬間に開かれる未来は、通じているようで、実はその無限の可能性の中から、一瞬にして選ばれたものなのだ」
と言えるのではないか。
つまり、一度過去に戻ってしまうと、戻った過去から、もう一度やり直すことになり、またしても、無限の可能性の中から、一瞬にして、未来が決まるのである。
その未来が、時代をさかのぼる前に選ばれたものを、またちゃんと選んでくれるのかということの保証が、どこにあるというのだろう?
「過去に行って、少しでも過去を変えてしまうと、未来が変わってしまうのではないだろうか?」
と言われるのはそういうことである。
過去に戻ることは、果てしない危険を孕んでいることであり、パラドックスの宝庫だと言ってもいいだろう。
二十世紀中盤くらいから、
「未来の大発明」
ということで、二つの双璧となるであろう発明が考えられた。
その一つがこのタイムマシンであり、もう一つがロボットであった。
タイムマシンは、タイムパラドックスの観点から、
「不可能ではないか?」
と言われているが、ロボットの場合は、また違っていた。
ロボットの発想は、実際にはかなり前からあった。日本でも、カラクリ人形などが、江戸時代から存在していた。
だが今のロボットという発想は、
「電子頭脳を持っていて、人間のように自分の意志で判断し、動くことのできるものである」
というものだ。
だから、電子頭脳は、人工知能ということになるのだが、ロボットに思考能力を与えるということは、それだけ人間に近いものでなければならないのだが、悪となるものが入っていてはダメだという考えもある。
つまり、ロボット開発においては、二つの問題がある。
まずは、
「ロボットが、どこまで自分の意志で動くことができるか?」
というものであるが、これは、ある意味、タイムマシンの発想と似ているところがある。
それが、ロボット工学でいうところの、
「フレーム問題」
と呼ばれるものである。
たとえば、ロボットに、
「洞窟の中に燃料があるので、それを撮ってきてほしい」
と命令をしたとしよう。
すると、ロボットは、
「はい」
と言って、洞窟に入り、その燃料を撮ってこようとする。
その燃料の上には爆薬が置いてあり、動かせば爆発することになっていた。ロボットは、
「上の箱を動かせば、爆弾が爆発うる」
ということは分かっていたのだが、命令を最優先として、躊躇うことなく箱を動かし、当然のごとく、爆発して果てたのだった。
これは、ロボットは、
「理解はできているが、危機感を想像できず、ただ命令を遂行するだけの知能しか持ち合わせていなかったからだ」
ということである。
次に、そのロボットに、判断できるだけの知能を与え、そして同じ実験をしてみた。
ロボットは、同じように返事をして、洞窟の中に入っていったが、箱を発見した時点で動けなくなって、そのままタイムオーバーでまたしても、爆発して果てたのだった。
その時ロボットは、自分でいろいろ解釈をしてみたのだが、
「もし、箱に手をかけた時、壁の色が白くなったら?」
などという、まったく関係のないことまで頭の中で描いてしまい、無限に存在する可能性を勝手に思い浮かべてしまったことで、判断するまでに至らなかったのだ。
すぐに爆発してしまったが、爆発装置のない状態にしておけば、ロボットはいつまで考え込んでいただろう?
ひょっとすると永遠に考え込んでいたかも知れない。それだけ可能性というのは、永遠のものなのだ。
そう、この考え方がmタイムマシンの発想に似ているのだ。
「次の瞬間には、無限の可能性がある」
という、パラレルワールドの発想だ。
パラレルワールドの発想があるから、
「タイムマシンで、過去に戻り、また現代に戻った時、本当に自分のいた現代に戻ることができるのか?」
ということであった。
だが、ロボット工学の発想も同じである。
「ロボットが、次の瞬間を考えた時、パラレルワールドとしての可能性を模索してしまう。本当であれば、一つしかない未来を探し当てべ刈ればいけないのに、発送する時点で、無限にあるものだから、きっとロボットも、これで終わりだという妥協を許さないのだろう」
それが、ロボットにとっての命取りであった。
本来なら、命令があって目的に到達するために、考えなければいけないことは決まってくるはずだ。少なくとも、人間にはその判断ができるのだ。
しかも、人間はそれを無意識に行っている。だから、なぜ人間がちゃんと取捨選択ができるのかということが解明できないのであろう。
だが、理屈としては言われていることもある。
「人間には、過去から経験してきて、脈々と受け継がれた本能があり、それが遺伝子によって、代々受け継がれていく。そこで、何が必要なのかということを無意識に判断できるのであろう」
ということである。
それならば、
「ロボットに、人の遺伝子を組み込めばいいではないか?」
と言われるかも知れないが、これは実に危険である。
誰かの遺伝子を組み込むということは、その人の頭の中をそのままロボットに注入するということであり、人間とロボットでまったく同じ発想を持った存在がこの世にあらわれるということである。
そんなことが許されるのであろうか?
いくらロボットとはいえ、同じ知能や記憶、判断力を埋め込むということは、人間よりも強靭な力を持っているだけに危険である。
しかも、、感情というものが入っていないだけに、容赦はしないだろう。それこそ、
「フランケンシュタイン症候群」
というものであろう。
「理想の人間を作ろうとして、怪物を作ってしまった」
という話であるが、要するに、
「感情を持たないロボットが、狂ってしまうと、人間を襲いかねない。そもそも人間の役に立つように強靭に作ってあるので、人間では太刀打ちできない」
ということである。
自分たちのために作ったものが、自分たちを襲うという本末転倒な話が、この、
「フランケンシュタイン症候群」
なのである。
さて、前述の、
「フレーム問題」
というのは、まさにパラレルワールドの発想であり、ロボットがすべての可能性を考えてしまうことが問題なのだ。
「では、思考をいくつかのパターンに分けて、その中で判断させるようにすればいいのではないか?」
という考えが浮かんだ。
つまりは、
「無限にある可能性をいくつかのパターンに分けることで、無限を有限にできるのではないか?」
という発想であるが、それは結構難しいことであった。
どういうことかというと、
「無限の可能性をいくらパターンを決めて、そのパターンごとに考えさせても、結局はまた無限ループに入る混んでしまう」
ということなのだ。
考えてみれば数学の発想と同じである。
「無限をいくら何で割っても、その答えは無限でしかない」
ということであった。
「ゼロには、何を掛けてもゼロである」
という発想と同じではないだろうか。
つまり、いくら細分化しようともm無限は無限でしかないというのが、このフレーム問題の今のところの結論であった。
だから、三回目の実験を行ったのだが、今度は命令に対し、
「はい」
と返事をし、洞窟の前に立ちふさがったが、その瞬間から動くことができなくなってしまったのだ。
最初から、判断ができず、まるでどう動いていいのかが分からず、立ち竦んでいるだけだったのだ。
これらのロボット工学に対しての問題は、タイムマシンにおける、
「パラレルワールド」
と、ほとんど同じ発想だと言ってもいい。
「タイムマシンが開発できるのであれば、ロボット工学も進歩うるだろうし、ロボット工学が進歩することができれば、タイムマシンの開発も夢ではなくなってくるだろう」
というのが、大方の科学者の発想ではないだろうか?
ロボット工学の場合は、もし、フレーム問題がうまくいったとしても、それだけではまだ開発が成功したとはいえない。
前述の、
「フランケンシュタイン症候群」
の問題があるのだ。
つまりは、ロボットの中に、最低でも、人間に害を加えること、人間の命令には従わなければいけないことなどが組み込まれなければいけないというものである。
この原則を、
「ロボット工学三原則」
といい、今から七十年くらい前、つまりは、世界大戦が終了して少ししてから、すでに提唱されていたことだった。
この三原則を提唱したのは、
「アイザックアシモフ」
という人で、アシモフは別に科学者でも、物理学者でもなかった。
彼は何と小説家であり、この、
「ロボット工学三原則」
という発想は、自分の小説のネタだったのだ。
彼はアメリカのSF小説作家であり、ロボット開発に興味を抱き、さらに、
「フランケンシュタイン症候群」
の考えを基礎にして、
「ロボットへの戒律」
を考えたのであった。
この三原則には、歴然とした優先順位がある。まずは最優先であるが、
「ロボットは人間を傷つけてはいけない。人間が危険に晒されるのを見て見ぬふりをしてはいけない」
というものであった。
第二の優先順位は、
「ロボットは人間の命令には従わなければいけない」
というもので、三番目には、
「ロボットは、自分の身は自分で守らなければいけない」
というものだ。
だが、この優先順位にもいろいろな矛盾を孕んでいて、例えば、
「誰かを殺しなさい」
という命令をすれば、優先獣医が働いて、その命令には従わないだろう。
しかし、
「自分を破壊しなさい」
という命令はどうであろう。
その命令がどこまで本気なのかということを理解しておかないと、自分を壊してしまうことになり、本気でもないのに、ロボットを自ら壊すような命令を聞いてしまうとすれば、それは優先獣医に逆らっていることになる。
だからこそ、この発想は、
「小説のネタの宝庫」
と言ってもいいだろう。
ロボット工学は、そういう意味で、まずは、
「フレーム問題の解決」
そして、
「ロボット工学三原則を、矛盾なく遂行できるだけの発想を持ったロボットの開発」
というのが必要になってくる。
どちらにしても、科学の発展に不可欠な、双璧である大発明は、共通の問題が存在している。それが、
「パラレルワールドの発想」
であり、パラレルワールドを解決できれば、科学の進歩は一気に進むことだろう。
さすがに、半世紀以上も研究が続けられてきて、実際に開発ができていないのだ。不可能なことだったとも言えるだろう。しかし、逆にいえば、ひょんなことからとんとん拍子に解決してくるかも知れない。
「忘れている夢を思い出すこと」
と、どちらの方が信憑性があるだろうか?
時間にしても、発想にしても、原因があって結果があるわけなので、必ず次のステップが存在する。そこに無限の可能性が広がっているというのが、
「パラレルワールド」
という考え方である。
そのために、タイムマシンやロボットという双璧をなす二大発明が成立を妨げているのだ。
ということであれば、
「もし、次の瞬間に広がっているパラレルワールドが、無限ではなく、限られたものだったとすればどうなるだろう?」
という考えが生まれてくる。
ロボット開発における、
「フレーム問題」
というものも、
「無限をいくら細分化しても、元が無限なのだから、無限でしかない」
という考え方になる。
「ゼロに対して、何をやっても、ゼロにしかならないように、無限に対しても、何をやっても、無限でしかない」
だからこそフレーム問題は解決しないのだ。
タイムマシンだってそうである。
一旦過去に戻ってしまうと、再度やり直しになる。
「現在は、過去が確定していくことで形成された、まだ確定していない時間」
と言えるだろう。
それを強引に過去に戻ってしまい、過去が現在になってしまったのだから、今まで過去だった世界も、未来に変わってしまうのだ。ということは、
「過去に確定されたことが最後ご破算になってしまい、未確定になると、再度無限の可能性が広がって、自分が元いた現在が、違った形での現在になってしまう可能性が限りなく大きなものとなる」
と言えるだろう。
一度確定した過去を再度空にしてしまい、再度新たに作るための可能性が無限であれば、最初に確定したと思っていた過去が、まったく同じように進むという可能性は。
「無限分の一」
と言っていいだろう。
つまりは、無限であるということだ。
「一度過去に戻って、、それまで確定してきた過去をすべてぶち壊してしまうと、今までいた世界に戻れる可能性は皆無である」
と言わざる負えないであろう。
可能性とすれば、
「限りなくゼロに近い数字」
と言えるだろう。
「無限を掛けると一になる」
数学的に考えると、そういう理屈になるのだった。
だが、考えてみれば、
「無限というのは、本当に存在するのだろうか?」
この発想は、ゼロというものの存在意義と似たところがある。
確かに数学的には、ゼロというものが存在しないとなると、いろいろと辻褄の合わないところがたくさん出てくる。つまり、ゼロの存在が、不可能であるとか、数式で解を求めるのに、ゼロという概念がなければ解き明かすことのできないものがあるということで、
「ゼロの存在意義」
は、実際に認められていると言ってもいいだろう。
では、無限という考えはどうなのだろう?
これも確かに無限という考えがゼロの存在のように、いろいろ辻褄が合わないことに繋がっていくと言えるだろう。
無限というものは、果てしないもので、どこまでいくか分からない。
逆にゼロというものは、あくまでもゼロでしかなく、たった唯一無二のものだ。しかも、他の整数である、一、二と言った個別の数字とは別に、その単独で数字の種類として立派に存在できるものである。
無限には限りがないのだが、これもゼロと同じように、実は唯一無二のものなのかも知れない。
しかし、限りない、あるいは果てしないというような曖昧な形にしておいた方が、理屈的にいいだろうという考えが生まれてくる。
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