第5話 歴史学
前述のタイムスリップの映画は、いちかとつかさだけではなく、隼人も見ていた。
こういうSF映画は男の子の方が好きなもので、隼人は中学時代に友達とレンタルで借りた映画をよく一緒に友達の家で見ることが多く、その時も一緒に見ていた。
「タイムスリップってすごいよな」
と友達がそういった。
「それはどういう意味mでだい?」
と、言葉が漠然としていたので、思わず、そう聞き返した。
「だって、タイムスリップものの映画っていうのは、まあ、映画に限らず小説に関してもそうなんだろうけど、いろいろな伏線が引かれていて、その引き方が絶妙だと、秀逸した作品になるだろう? だけど、伏線回収がうまくいかないと、どこにでもあるような、陳腐な作品に成り下がってしまう。せっかくの大スペクタクルとも言えるような大作であったとしても、伏線一つで台無しなんだ。しかも、その伏線というのは、ある一点を覆すことができれば、すぐに見えるものなんだろうけど、その線が難しいんだ。まるで結界があるかのように見えるのは、私の思い込みなのだろうか?」
とその友達は言っていた。
「なかなか面白いじゃないか。お前のそういう発想が俺は好きなんだよ」
と、賞賛の言葉を浴びせ、彼は、
「いやあ」
と言って照れていたが、彼は、きっとお世辞だと思ったことだろう。
「まんざらでもない」
と思ったことだろうが、それ以上に、他の人には受け入れられない考えだという思いが強いからではないだろうか。
えてして、こういう考えをする人は、頑固なところがあり、自分の考え方を分かってくれる人はそうはいないという頑なな思いを持っている人も多かったのだ。
だが、隼人はそんな友達の言葉に、普段から考えていて、なかなか答えの出ない話題に、彼が切りこんでくれることで、何かのヒントが現れそうになるのを、心底喜んでいたのだった。
隼人は、賛美のつもりというよりも、
「自分の気持ちを素直に表しただけだ」
と思っていたことだろう。
それに対して友達がどう感じるかは別問題であり、彼が与えてくれたヒントを甘んじて受け入れようというのが、隼人の考え方だったのだ。
隼人にとって、
「伏線」
という言葉は、まるで、目からうろこが落ちたかのように感じられるものであった。
映画であったり、小説で、SFと言えば、どこかに伏線が隠れていて、ラストシーンでいかにその伏線を読者に思い出させるかということが大事であった。
シーンとしては、さほど印象的なものではなく、ラストに近づいてくる頃には、ほとんど忘れてくれている方が効果は高いと思ってもいいだろう。
「ああ、そんなセリフがあったの、すっかり忘れてしまっていたではないか。まさかこれが伏線だったなんて、やられたと言っておいいくらいだ」
とまで思わせてしまえば、作者の勝ちだというものだろう。
小説というのは、しょせんは、
「読者と作者の勝ち負けが、作品の評価を決めると言ってもいい」
と言われるほどだが、小説に比べて、映像作品は不利ではないかと思っている。
小説であれば、イメージを頭に浮かべることで、その伏線が意識から消える可能性は高いだろう。特に伏線が最初の方にあったりすれば、ほとんど覚えていない場合が多い。しかもプロローグでは、読者は、この作品がどういう作品であるかが分かっていない。
それを見越して、あらすじを書いているのだとすれば、この作者の、作品に込める思いがいかなるものなのかが分かってくるというものだ。あらすじの中に、プロローグをミスリードするかのような書き方をしているとすれば、確信犯ではないだろうか。小説に関していえば、確信犯は、決して悪いことではないだろう。
前に見た映画にも、伏線が敷いてあった。ただ、これもミステリーにおける、
「殺害トリック」
と同じで、よく言われていることとして、
「ほとんどのトリックはほぼ出尽くしているので、後はストーリー性や人間関係に織り込ませて、バリエーションを膨らませることだ」
という話があるが、SFに関しても同じである。
特にタイムスリップ系の話はパターンがいくつもあり、バリエーションを膨らませるには恰好なのかも知れない。
そもそも、SF小説というのは、ある意味、広義の意味でのミステリーの分割したものだと言ってもいいだろう。
元々のミステリーというものは、探偵小説と言われていて、今のミステリーよりもさらに幅が広いものだったのではないかと思われる。
そこから、SFやホラー、オカルトの内容が独立していき、それぞれのジャンルになっていったのだろう。
「ミステリー」
などと言われているのも、謎という意味では、SF、ホラー、オカルトなどと、小説の材料になりそうな話はすべて、ミステリーの範疇ではないかと思われる。
タイムスリップなどという話もそうである。タイムパラドックスものであったり、パラレルワールドものなど、時間をテーマにしたものは結構たくさんある。
確かに、ほとんどのトリックというべき題材は、ある程度出尽くされているのだろうが、その時々の場面であったり、時代背景を織り交ぜることで、いかようにも話を盛ることができるというものだ。
そういう意味で、歴史の勉強をするというのは、タイムスリップものを書くのに、最低限必要なことではないだろうか?
どのような時代背景があり、史実としてどのようなものが残っているかというのが大切なのだ。
歴史というのは、必ず、線で繋がっているものだ。何かの事件があって、誰かによって解決されると、その人物が権力を握る。その人物の性格が野心家で、横暴な人であれば、まわりからの反感を買い、いずれは、滅びることになる。
だから、ある意味、
「歴史はなるようにしてなっているのだ」
と言えるのではないだろうか。
もちろん、歴史を勉強することで、後追いとしての事実が分かるので、
「後からなら何とでもいえる」
と言われるかも知れないが、歴史を知っていることが勉強になって、今後の自分たちの道を踏み外さないようにするための術を知ることになる。
それが、歴史から学ぶということで、本当の歴史を勉強する意義だと言えるのではないだろうか。
そんな歴史の勉強において、最近のテレビ番組では、歴史に興味を持ってもらおうという主旨からか、いろいろな視点から見る番組が増えている。
昔であれば、歴史バラエティというと、クイズ番組か、教育テレビの学生向けの番組かくらいだったのだろうが、ある時、
「歴史というものを、もしも? という観点から見た場合、どうなるか?」
ということをテーマにしたものがあった。
これは一種の、
「タブーへの挑戦」
であった。
「歴史にもしもということはない」
という言葉を聞いたことがあると思うが、一度起こってしまった事件や出来事は、もうどうしようもないというのが昔からの考え方だった。
しかし、歴史に興味を持ってもらうために、史実を教材として使うという方法に、結構視聴者がついていて、視聴率も結構あったりした。
たとえば、
「坂本龍馬の暗殺がなければ」
「本能寺の変がなかったら」
「関ケ原で西軍が勝っていたら」
などと、大きな事件や戦争の勝ち負けの中で、もしもが存在すればどうなるか、それが歴史というものに謎を与え、かなりの時代が過ぎ去ってしまってからではあるが、
「検証しよう」
というのが、テーマであった。
ラストで、テーマソングに載せて、その人物がどうなり、その後の時代にどのような影響を与えたかということを、史実に則って、ミニドラマにして流していた。
それまで、散々、
「もしも」
を描いておいての、最後の史実。
これこそが、歴史の醍醐味なのではないかと思わせた。
そんなもしもだけでも、数年毎週続くという人気番組になっていた。
その番組が終わってからというもの、他の企画で歴史を斬るというキック番組が製作されていった。
城であったり、人物、地域と言った切り口から、逆に史実を見るという話しであったりと、切り取り式のような話題から歴史を見るというのも、面白いのだろう。
考えてみれば、本でもあるではないか。城に関しての本であったり、歴史上の人物などは、一人一人、文庫本になり、伝記のような形で記されている。それをテーマにバラエティを作っているというもので、それほど難しいものではないかも知れない。
それでも、面白く感じるのは、スタジオに歴史に詳しくないタレントやアイドルなどを読んだり、逆にアイドルなのに、歴史に詳しい人を呼んでみたりして、視聴者の気を引こうというものだ。
歴史を知らないアイドルなどが、トンチンカンな話をして、笑いを誘うと、大学教授がその話に答えているのだが、その答え方が、あたかも、視聴者の歴史を知らない連中に対して、腰を低くして答えているという様子に、歴史に興味のなかった人が引き込めらたりするのだった。
どうしても、歴史が嫌いな人は、
「歴史とは、暗記ものの学問だ」
と思っている人が多いのではないか?
どうしても、年代であったり、事件に対して、誰が登場してくるか? であったり、年表の穴埋めのような形をイメージする人が多いからであろう。
しかし、実際にはそうではない。
「歴史というのは、人の考えであったり、本能で行動する人間が引き起こす事件であったり、そのようなものに、時間の流れが絡むことで、次々に、事件と呼ばれるものが生まれてくる」
と言えるのではないだろうか?
逆にいえば、今のこの瞬間というのは、過去のどこからか分からないが、その瞬間から脈々と受け継がれているもので、それが自分の先祖から続く歴史なのか、それとも、人類の第一歩からの歴史として考えることなのかの違いだけであって、そのどちらも、同じ歴史であることに変わりはないのだ。
歴史というものをどの時点で区切るかというのも大きな問題である。
日本史などでは分かりやすいように、平安時代、鎌倉時代、江戸時代などと言った分かりやすい形に分類した形が歴史としての学問となっている。
そもそも、歴史がどこから始まったのかということが謎なので、歴史の授業の最初としては、
「原始時代」
から始まるのだ。
人類が生まれてからを歴史とするのか、それとも、人類が文明を持つようになってからが歴史とするのかが難しいところである。
しかし、考えてみると面白いもので、文明を起源とするのであれば、ほとんどの国では、最初に、神話なるものが存在する。
日本でいえば、「古事記」、「日本書紀」などと言った、八百万の神々であったり、欧州であれば、「ギリシャ神話」、「ローマ神話」などと言ったものがある。
そこまで親交があったのか、ギリシャ神話とローマ神話ではかなり酷似したところがある。
神々も、
「海の神」、「美の神」
などと言われているものが、それぞれにいて、
「まるでマネをしたのではないか?」
と思われるような話があったりする。
そういう意味で歴史というのは面白い、
「来たアフリカと、南米とまったく違ったところなのに、同じようにピラミッドが存在していたりするのは、どういうことなのか?
ということである。
コロンブスがアメリカ大陸を発見する前に、エジプトと、メキシコで交流があったというのか? これも歴史の謎の一つである。
そういう、
「歴史の七不思議」
と言われるものは、結構昔に多かったりする。
「宇宙人説」
が出てくるのも、無理もないことだ。ピラミッドにおいても、神話にしてもそうでありゅが、南米ペルーのインカ帝国なども宇宙人説が根強いところである。
「ナスカの地上絵」
であったり、
「マチュピチュの天空の要塞」
であったり、まるで空から何らかの力がないとできないことである。
さらに、ピラミッドにおいても、太陽の光と微妙に結びついているようで、綺麗な正三角形であったり、幾何学的な証明がなければできるはずのない作りであったりが、数千年前の古代にできるはずはない。
それを可能にするのが、宇宙人の飛来ではないかという意見であるが、無謀な意見として片づけられるであろうか?
タイムスリップなどの話や、歴史上の七不思議などを考えてみれば、そのすべてがSFであり、ミステリーであり、少なくとも、何かの力が働いていなければ、成立しえないことではないかと言えるのではないだろうか?
そんな歴史の神話の世界にまでさかのぼってしまうと、テーマが壮大すぎて、小説にするのも難しいだろう。
ただ逆にいえば、あまりにも壮大すぎて、昔過ぎるので、何が正解なのか誰も分からないとも言えよう。それだけにいかにでも発想が作れるというものでもある。何が正解なのか誰にも分からないだけに、果てしないテーマとして宇宙と結びつけてみたり、
「歴史全体を人の一生に見立てて、輪廻転生のように、歴史自身に、前世や後世が存在するのではないか?」
という考えも成り立つのではないだろうか。
かつて、アインシュタインが提唱した、
「相対性理論」
というものがあるが、果たして、それ以前にも、相対性理論のような考えが存在したのではないか?
と思われることがある。
アインシュタインは、主に二十世紀の人間であるが、今から約五百年くらい前に書かれた日本の御伽草子に、
「浦島太郎」
という話がある。
浦島太郎の話は、いかにも相対性理論に則ったような話であり。ラストで浦島太郎が丘に上がった時の世界は、自分の知っている世界の七百五十年後だというではないか。
七百五十年というのがどこから出てきた理屈なのか分からないが、数日間で七百五十年を進むという考えは、果たして、光速よりどれくらいの速さで進まなければいけないものなのか、よく分からない。
浦島太郎という話が、本当に相対性理論を表しているのかどうか、作者ではないので分からない。あくまでも、勝手な想像をしたことが、相対性理論に酷似していただけだということなのかも知れない。
そもそも、浦島太郎の伝説というのは、おとぎ草子に書かれているものが有名ではあるが、昔から各地に、
「浦島伝説」
のようなものがあり、浦島太郎の話は、それらを総合的に解釈して書かれたものではないだろうか。
そうなると、この発想はさらに昔、五百年などと言わず、千年、二千年という昔のことなのかも知れない。
ひょっとすると、数千年前に一度世界は滅んで、今は世界からすれば、
「後世」
なのかも知れない。
歴史における、
「前世」
では、今よりももっと発達した文明がそこにはあり、一瞬にして世界を破滅させる兵器を持っていたとして、それを使ってしまったのではないかという発想は、奇抜ではあるが、前世、後世、あるいは輪廻転生という考えに担えば、決して無理な発想ではないのではないか。
浦島太郎の話は。明治時代に、明治政府が教科書やおとぎ話の本を編纂した時、
「どこまでの話にしようか?」
ということになったという。
本来であれば、悲惨な話になりそうなところを、無難な結末にするという話もいくつかあるのに、この話だけは、本来であれば、ハッピーエンドの話であるにも関わらず、最後には中途半端なところで終わっているという結末になっていた。
誰もが、
「何かすっきりしないな」
と感じていたことであろう。
その理由として、
「浦島太郎は、カメを助けたといういいことをして、竜宮城に連れて行ってもらったのに、どうして最後は玉手箱を開けて、おじいさんにならなければいけなかったのか?」
ということである。
「昔話というのは、何か恩を売れば、それを誰かが返してくれる。だから、恩を売っておくのは悪いことではない」
というのが基本的な考えである。
つまりは、カメを助けたのに、何故、おじいさんにさせられるのか? ということが読んだ人にとっての違和感なのであった。
これは専門家の意見によれば、
「乙姫様から言われた、『決して開けてはいけない』と言われたことを守らなかったことに対してのお仕置きとして、おじいさんにさせられた」
ということである。
実際の話は、おじいさんになった太郎に対し、太郎を好きになった乙姫様が、カメになって地上にやってきて、おじいさんになった太郎は鶴になって、二人は、長寿として幸せに暮らしたということだったという。
「なぜ、それではいけなかったのか?」
確かに日本の昔話に限らず、神話や寓話などにも、
「開けてはいけない」
あるいは、
「見てはいけない」
というものを見てしまったことで、大いなるバツが与えられるということは古今東西にあることであった。
聖書なのでは、
「振り返ってはいけない」
と言われて振り返ったために、石になってしまったという、
「ソドムの村」
という話もある。
さらには、
「食べてはいけない」
と言われて食べてしまったイブの話としての、
「禁断の果実」
の話もあるではないか。
日本の昔話でも、浦島太郎以外にも、
「鶴の恩返し」
であったり、
「雪女」
などの話に代表されるものである。
これらのものを総称して、
「見るなのタブー」
と言われている。
その例として、ギリシャ神話、聖書。さらに、ローマ神話、日本の神話、昔話に至るまで、
「見るなのタブー」
は存在すると言われている。
ただ、そのあたりも、少なからず、政治体制が影響しているのではないかと思われる。
一緒にプロパガンダであったり。教訓であったりであるが、果たしてどこまで歴史と比較して考えられるものなのだろうか。難しいところである。
映画や小説を見る時。その基礎として、歴史を勉強しておくというのは、基本なのではないかと思うのだった。
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