第2話 生殺与奪の権利

 少し話が逸れてまったが、いちかは自分の性格である、

「勧善懲悪」

 な部分を、長所だと思っている。

 だから、自粛警察というのも否定はしないし、軍隊のようなものは嫌いであるが、過去の政治家や思想家の人たちを、今の人が見て批判するのと同じ立ち位置から見るようなことはしたくなかった。

 そう、確か話は以前につかさが見た、大東亜戦争前の日本にタイムスリップした人の話を描いた映画の話だったではないか。

 この映画をいちかも見ていたのだが、このことについてつかさはいちかと話をしたことはなかったような気がする。

 だから、この映画をつかさが見たというのをいちかは知らないだろうし、知っていたとして話題になっていたかどうか、疑問を感じていた。

 なぜなら、二人の性格を考えると、話題にすべき点が、それぞれに違っているような気がして仕方がなかったのだ。

 つかさは、いちかと違い、この映画をSFとして純粋に見ていた。いちかのように勧善懲悪な性格であれば、きっと時代背景の方に目が行くであろうことは、分かり切っていると思ったからだ。

 最初につかさが考えたのが、

「タイムスリップというのは、時間を超えるだけで、出てくる場所は座標軸で変わりのないところなのだろうか?」

 というものである。

 つまりは、時間を超えるだけで、場所が別の場所になるということはないだろうという発想であった。

 だから、タイムマシンなどをテーマにした映画では、時間を超えた先のまったく同じ場所に辿り着いているというのが、当たり前のように描かれている。そのことについて誰も問題視もしないし、言及もしない。それを思うと、この考えは、

「暗黙の了解」

 に基づいていると言ってもいいのではないだろうか。

 これを逆に考えると、

「タイムスリップの及ぶ範囲は、時間という軸は超えることになるが、その影響力を及ぼす地理的な範囲は。ごく限られた場所でしかない」

 ということになるだろう。

 となると、タイムスリップした先がどうなっているかということは関係なく、勝手にタイムスリップするというのであれば、これほど危険極まりないものはないと言えるであろう。

 飛び出した先が、溶鉱炉であったり、電車が走るレールの上であり、問い出した瞬間に、列車に轢かれないとも限らないだろう。

 それを思うと、タイムマシンというのも、恐ろしいものだ。その危険を分かっていて、タイムマシンを利用するのは、自殺行為に等しい。タイムマシンを開発したのであれば、同時に、

「行き着く先に危険がないかどうかを見極められる装置まで一緒に開発しておかなければいけない」

 ということになるだろう。

 もし、タイムマシンを開発した人間が、違う時代に飛び出して、そこで死んでしまったらどうなるのだろう?

 もしそこが生まれる前だったとすれば、

「生まれる前に、自分は死んでいた」

 ということになり、一見、敬意を見れば無理のないことに思えるが、焦点だけで見ると、矛盾している。

「果たして、時間というものは、どこまで矛盾と許すというのだろう?」

 ということを考えていくと、タイムスリップであったり、タイムトラベルというものが倫理的に成立できるのであるかというところから、考えないといけないのではないかと思う。

 科学的な発明品である前に、科学の証明になるであろう時間というものを、人間が操ってもいいのかどうか、そのあたりから考えてみる必要があるのではないかと思われるのであった。

 タイムスリップしたその先で見たものは、国家総動員法によって、どんどん若い人たちが中国大陸の戦地に送られているという姿だった。

 社会生活は、戦時中、戦後の生活とまではいかないが、ほとんど自由というものはなかったと言ってもいい。

 何しろ、爆発的な人口の増加と、不況、不作により、供給がまったく追いつかない状態では、日本だけで賄っていけるわけではなかった。

 前述の満州の問題もさることながら、シナでの問題も山積していて。二年前に突入したシナ事変において、日本がどのように振る舞えばいいのか、それが問題だったのだ。

 そんな時代にタイムスリップしたことで、まず主人公が慌てたのは無理もないことだ。

 しかし、それ以上に、次から次への信じられないような光景を見せられたことで、いつの間にか自分が、目の前で起こっていることが他人事に思えてきたのだ。

 つまり、

「夢を見ているに違いない」

 という発想に至っているのであって、

「主人公でなくとも同じ発想に至るのは、子供にでも分かることだ」

 と考えたが、映画を見ているつかさは、その時、そこまで考えていなかった。

 ナレーションの中で、主人公が他人事のように夢を見ているようだということを話していなければ、まったく気づかなかったと言ってもいいだろう。

「そっか、夢みたいだって、普通なら思うわな。でもどうして私はその時、そう思わなかったんだろう?」

 と感じたが、とにかく、そこまで発想が浮かばなかったという事実だけを受け止めるしかないようだった。

 タイムスリップということ自体。主人公は受け入れられない。自分で望んだわけでもなく、勝手にこの世界に飛ばされてきた。

 飛ばしたやつがいるのだとすれば、そいつを呪ってやりたいが、呪うだけでは、何の解決にもならない。

 となると考えたこととして、

「俺はどうして、この世界に飛ばされたんだ?」

 という発想であった。

 自分で望んだことでないのであれば、誰かに手によって飛ばされたわけで、そこには自分でなければならない理由。そしてこの世界でなければならない理由が存在しているように思えてならなかった。

 自分が住んでいた時代とはまったく違う軍国主義、国家社会主義と言える世界。学校で習ったり、親から聞かされたりしたことのあった時代なので、悲鳴を上げるほどの驚きはなかったが、そのせいか、他人事に感じることで、やり過ごせるかも知れないという、一縷の望みもあったのだろう。

 そういう意味で、

「これは夢なんだ」

 と思い込もうとしていた。

 夢というものについて、その頃まで、ほとんど気にしたことのなかったつかさだが、映画を見ながら、

「夢って何なのかしら?」

 と思うようになった。

 そして、映画を観終わってから、夢につぃて調べたのは、当然の行動だっただろう。

 もちろん、調べきれなかった部分は自分の経験とを総合して考えたことで、どこまでが真実なのか分からない。

 そもそも、

「夢というものに真実があるのか?」

 と考えたその時、急に矛盾が襲い掛かってきて、気持ち悪さがこみあげてきた。

「夢こそ真実を写す鏡のようなものではないだろうか?」

 と考えるに至ると、今度はそれほど気持ち悪さを感じなかった。

 感覚として、しっくり来ていると言ってもいいかも知れない。

 まず考えたのは、

「夢というのは、目が覚める前の数秒で見るものである」

 ということであった。

 それはどんなに長い夢であっても、同じことであり、この話は、本で見つけた内容だった。このことが基本になっていろいろ思いつくのだが、その一つとして、

「夢は目が覚めるにしたがって、忘れていくものだ」

 という発想であった。

 夢の記憶というと、怖い夢しか記憶がない。記憶があるというのは曖昧でもいいので、どんな夢だったのかを意識できる夢だった。しかし、楽しかったり、いい夢というのは、

「いい夢を見た」

 という思いだけが漠然と残っているだけで、内容はまったく分からない。

 描写も時代背景も何が出てきたのかということも一切、記憶としても意識としても残っていないのだ。

 つかさにとって、何がいい夢なのかというのも分からない。まだ高校なので、あるいは、もう高校生になっているのに、とその両方で言われるが、何か目指しているもおがあるというわけではない。

 もちろん好きなものや興味のあるものはあるが、それを将来において仕事にしようとかいう思いはまったくなかった。

 そういう意味では、

「趣味と実益を兼ねた」

 という言葉は嫌いだった。

「好きなことを仕事にしてしまうと、その瞬間、好きではなくなってしまう気がする」

 という思いと、

「趣味でやっているには気にならないが、仕事で疲れたり、追い詰められたりした時の憩いとして趣味があるのに、その趣味から追い詰められるというのは、それこそ本末転倒というものだ」

 という思いが交錯し、趣味と実益を一緒にしてしまうのは、恐ろしいと思うようになっていた。

「じゃあ、他の趣味を持てばいいじゃないか?」

 と言われるのだが、一つの趣味も極めてしまうと、他の趣味を持てるほど、今度は時間がない。

 実際には、本業があっての趣味なので、趣味にこれ以上時間を取られるわけにもいかないということになるだろう。

 そこまで自分の中で極めていないと、癒しになるわけはなく、

「趣味であっても、真剣でなければ、そのうちに飽きてくる」

 と思っていた。

 さすがに一生できる趣味というのはなかなか難しいだろうが、そんな趣味を探すというのも結構楽しいかも知れない。

 まだまだ高校生なのだから、これからだと言ってもいいだろう。

「これからどんどん、恋愛もして、勉強もして、さらに、仕事という本業に真剣に取り組むことができる環境を作っておくのが、今の高校生という時間なのではないだろうか?」

 という、優等生のような考えを持っていた。

 ただ、自分でどんな趣味が合うのかが、なかなか見つからない。

 やってみてというよりも、齧ってみて、

「これは違う」

 という手探り状態を繰り返す。

 だが、そのうち必ず、自分にとっての本当の趣味が出てくることだろう。それが芸術なのか、スポーツなのか、それとも、その間のレクリエーションのようなものなのか。考えただけでワクワクもしてくる。

「ひょっとすると、何かの趣味に没頭していて楽しいと感じている夢を見ていたのかも知れない」

 と思った。

 だから、新しい趣味ができて。それに没頭していると、

「この感覚、以前にも味わったことがあるような」

 という、デジャブに襲われるのではないかと思っていた。

「夢では思い出せないが、本当に最初に感じたことは、必ずどこかで思い出すことになっている」

 とつかさは思うのだった。

 思い出せない夢というのを勝手に想像していると、そのうちに思い出せそうな気がしていたのだが、やはり、

「夢というのは、いいことは覚えていない」

 という思いの方が強く、思い出すことはやはりなかった。

 記憶喪失になった人が、思い出す時に、頭痛に襲われるというが、これも生みの苦しみであり、楽しい夢を思い出すのも、同じようなものではないだろうか?

 夢を思い出すだけで、いちいち頭痛に見舞われていると、それこそ、身体がいくつあっても足りないと言えるのではないだろうか?

 それにしても、夢というのは実に都合のいいものである。思い出したいことは覚えていなくて、思い出したくないようなことを覚えているのだから、何とも皮肉なものである。

 皮肉なことでも、

「都合がいい」

 と判断するのは面白いもので、夢というものを理由に、言い訳めいたことができるのではないかという意味での都合のよさもあるということだ。

 ただし、それには、辻褄が合っていなければならず、自分が最低でも納得していないと解釈できないことである。

 自分にとって、怖いこと、楽しいこと、いいことは他の人にとっても同じだとは限らない。そして一つ考えているのは、自分しか見ていないと思っている夢が、

「本当に自分だけのものなのだろうか?」

 と感じることであった。

 つまり。覚えていない夢の中には、他の人との夢の共有のようなものがあって、夢の世界でも綱駆っているのではないかと感じることであった。

 夢の中で、自分と同じ思いを持った人と、周波数のようなもので繋がっていて、それが夢として意識が表に出ることで、他の人と夢を共有している場合もあるのではないかということだ。

 ただ、それが本当にどちらも夢である必要があるのか? という問題で、片方は夢であっても、片方は実際のことなのかも知れない。

 その時、共有しているという意識と、

「自分は夢なのに、相手は現実だ」

 という意識を認めたくないという自らの意識で、夢の内容を打ち消そうとしているのかも知れない。

 それならば、何も夢を見せる必要もないだろうにと考えるが、どこかにやはり何かの辻褄を合わせようとする理屈が働いていて、その理屈を解釈させる機能が人間にはないことから、夢を忘れさせるのかも知れない。

 こんなメルヘンとも言えるような発想は、さすがに女の子だと言えるだろうが、真剣に真面目な話として考えると、核心をついているように思えてならなかった。

 誰にとっても夢というのは、目が覚める直前の、数秒間に見るものだという理屈を共有している。

 誰かからこの話を聞いたような気がすると思っているのも、記憶に辻褄を合わせようとするからで、本当は最初から自分で納得して理解していたことなのかも知れないと感じている。

 それはきっと、遺伝子が影響しているのだろう。

 遺伝子の働きはまだ科学では証明されていない。先祖から脈々と受け継がれてきたもの以外でも、当然、人間が最低限に保持している本能のようなものも、遺伝子によって受けうがれている。

 これは人間に限らず、生命のあるものすべてである。

 動物は、親から教えられたわけでもないのに、キチンと自分のやるべきことを分かっている。点滴に襲われた時の対処方法であったり、ケガをした時などの再生能力という力は、遺伝子の働きで永遠に受け継がれていくものだろう。

 条件反射であっても、無条件反射であっても同じこと。そうやって、自然界は回っているのだ。

 よう言われている。

「弱肉強食」

 というのも、生態系という意味で、ちゃんとした平衡感覚が保たれているから存在しているのだ。

 そういう意味で、

「命あるものは、必ず死ぬ」

 という理屈になる。

 しかし、それではあまりにもというべきなのか。宗教としての、輪廻転生という発想が生まれてきたに違いない。

 さらに、そこに、

「生殺与奪の権利」

 という発想が入ってくると少し面倒だ。

「生命のある者の生き死にを誰かに与えたり奪ったりできる権利」

 ということなのだろうが、もしそんな権利を持っている者がいるとすれば、神様しかありえないということで、逆にいえば、

「生殺与奪の発想を正当化させるために。神という存在が必要なのだ」

 と言えるのかも知れない。

 そもそも生殺与奪の権利というと、古来に存在した、国王や統治者によって、臣民や奴隷に対して。刑罰や懲戒として裁判をせずに、死刑に処することであったり、国王や統治者がその権利を掌握していることをいう。

 明らかな階級差別があった時代のことであり、支配者においては、奴隷というものを虫けら以下という発想から来ているのだろう。

 我々だって、人間に対して、

「殺めてはいけない」

 という発想は持っていても、昆虫や一部の動物に対して、殺すことに一切の罪悪感を感じない場合だってあるだろう。

 ただ気持ち悪いという印象しか持っていないゴキブリなどに対しては。反射的に潰してしまったりしても、罪悪感を感じたり、

「ゴキブリが可哀そう」

 だなどと、考える人がいるだろうか。

 つかさの知り合いで、以前子供の頃、

「ゴキブリは疎まれて殺されるのは可哀そうだ」

 と言って、母親に話をしたことがあったが、その時母親は虫の居所でも悪かったのか、

「何を言ってるの。ゴキブリが可哀そうだなんて口にしちゃあ、他の人からバカにされるわよ。そんな発想は捨て七位」

 と言われて、子供心に大きなショックを受けたという。

 まだ小学生の低学年の頃で、誰もがこの発想をする時期ではないかと思うその時、母親から相手にされずに、世間体だけを気にされたということが、すごくショックだったという。

 そのせいで、その人は、

「そっか、死ぬってことは可哀そうでも何でもないんだ」

 と思うようになり、祖母が亡くなっても、悲しいとは思わなかったという。

 それが中学生の頃だったので、まわりからは、

「あの子、おばあさんが亡くなっても、気丈に振る舞っている。なんて大人なんだろうね」

 という人もいれば、

「おばあさんが亡くなった時くらい泣いてもよさそうなのに、悲しむこともなく。ただの無表情、あれは気丈に振る舞っているわけではなく、冷徹な性格なのかも知れないわね」

 と言われていた。

 そもそも、彼女にそんな気持ちを植え付けた母親も、

「あの子は冷徹な子だ」

 と思わせていたのだから、母親もいい加減である。

 そんな冷徹だと思われている彼女だったが、

「ふふふ、どんどん私を冷徹だと思えばいい。どうして私が冷徹になったのか、あんたたちにはどうせ分かりっこないのさ。そこで皆に目立たないように振る舞っている母親に、皆騙されて。洗脳されればいいんだ」

 と感じていたようだった。

「私は、これからも、誰が死んでも悲しいなんて思わないだろうな。お義母さんが死んだら、赤飯でも炊くかもしれないわ」

 というくらいだったようだ。

 人から洗脳されるというのは、直接洗脳する意識で、相手に言い聞かせる場合がほとんどなのだろうが、それ以上に、本人には意識がなく。ただ、相手に、

「自分の都合で言っていることだ」

 と思わせながら、相手がショックを受けるだけのことを平気で言い放つことで、相手の性格を変えてしまうだけの力があるということを知らないと、相手は洗脳を受けたことで、まわりを恨むような性格にならないとも限らないだろう。

 そして、その人はいつしか。

「私には生殺与奪の権利があるのかも知れない」

 という妄想に駆られ、そういう妄想に駆られた時、自分が本当に誰かを殺さなければ、我慢ができない。

 つまり、

「生殺与奪の権利は、持ってしまえば、一度は絶対に実行しなければ、結果として、自分に向かって行使することになってしまうのではないか」

 と思うようになる。

 実に恐ろしい発想であり、普通はほとんど誰もそんなことを感じることではないと思っているのに、この権利を取得したと思った瞬間から、自分以外の皆にも持っているものだと感じるようになり、そうなると、抑止力のようんあ、

「二匹のサソリ」

 のようになりかねないだろう。

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