第7話 妹のいちか

 いちかの中学は、セーラー服だった。彰浩はセーラー服もブレザーもどっちも好きだったが、三つ編みにしたいちかには、

「セーラー服が似合う」

 と思った。

 結構髪を長くしているので、普段はほとんど、ポニーテールか三つ編み姿なので、

「セーラー服なら三つ編み、ブレザーならポニーテールだ」

 と勝手に想像していた。

 それは、最初の基準がいちかではあったが、他の女の子にもすべて当て嵌まると感じたのは、彰浩の勝手な妄想に過ぎなかった。

 いちかは、兄からそんな目で見られているということに気づいてはいなかった。

「何といっても、腹違いであっても、血の繋がった兄妹なのだ。変なことを考えるはずはない」

 というのが、いちかの考え方であった。

 いちかは背も高い方ではない。背の順番に並べば前の方だろう。

 彰浩は、年下の女の子であれば、絶対に小柄な女の子が好きだった。特にあどけなさの残る女の子には、

「小柄であってほしい」

 と願っていた。

 いちかは、そんな彰浩にとって、理想の女性になりつつあったと言ってもいいだろう。

 いちかと、彰浩と、どっちが兄妹としての意識が強いのかと言われると、

「彰浩の方ではないか?」

 と言える。

「妹に女を感じ始めた時点で、思い入れの大きさは、かなりのものではないだろうか?」

 と言えるであろう。

 妹がある日帰ってきて、

「お兄ちゃん、この間、クラスメイトの男の子から告白されたんだけど、どう思う?」

 と言われてビックリした。

 何にビックリしたのかというと、まず最初に驚いたのは、

「まだ中学生だというのに、男の子から女の子に告白するなんて」

 ということであった。

 次に気になったのは、

「聞いた女の子がすぐに他の人に相談するということも、度胸を持って告白した少年のことを思えば、何か気持ちを踏みにじられたようで、あまり気持ちのいいものではないな」

 ということであった。

 男の子の度胸の良さと、それをサラリとかわすかのように、さっと避けるのが上手い女の子のしたたかさに、驚かされたのだ。

 彰浩の中学時代というと、女の子を意識は確かにしていたが、告白などできる雰囲気ではなかったような気がした。自分が知らないだけだったのかも知れないが、友達がいなかったわけではないので、話をすれば、少しは情報として流れてくるものだと思っていたので、まったくそんな素振りはなかったので、

「俺は、つんぼ桟敷にされていたのだろうか?」

 と感じるほどだった。

 しかし、それを聞いた女の子のほうも、めくらめっぽうではないが、誰かれかまわずに相談するというのはいかがなものか。

 そんな女の子に対して、

「男の子のことがよく分かっていないのではないか?」

 と感じ、もし自分の彼女がそういうことを平気でする人であれば、付き合うのを辞めたかも知れない。

 だが、本当に辞められるであろうか。どれだけ相手のことを好きになったのかということを考えると、考えれば考えるほど、その理由が分からなくなる。曖昧な感覚の時の方が、

「この人のことを好きだったんだ」

 と感じるようになり、真剣に好きになってしまうと、少しでも自分の理想と違った思いを持てば、自分がどうしてそのことに気づかなかったのかということを、余計な意識として持たなければいけなくなってしまう。

「一体、どんな男の子なんだ? お前は好きなのか?」

 と聞くと、

「うーん、何とも言えない性格かもね。私にはよく分からない性格かな?」

 というではないか?

「じゃあ、そんなに好きではないということなのかい? それなのに悩むのかい?」

 と聞かれて、

「だって、せっかく好きになってくれたんだから、私も彼のことを好きになれるかどうか、確認してみる必要はあると思うの、せっかく告白してくれたんだから、その気持ちには答えないといけないと思ったの」

 というではないか。

「ん? それくらいの意識はあるんだね? でも、お兄ちゃんや他の人は、その男性のことをまったく知らないので、いちかの話だけを中心にして聴いているだけなんだよね。だから何とも言えないんだけど、いちかの方も、何も知らない人に話を聞いて、その人が言った言葉を信じるというの?」

 と聞くと、

「もちろん、二人のことを両方知っている人の意見も聞いているわ。でもそれだけでは片手落ちのような気がするの。何も知らない人が客観的にどう見るかということをしっかり理解したうえで考える必要があると思うのよ」

 というではないか。

「うん、なるほど、そういうことであれば、それなりに説得力があるような気がするね。だけど、両極端になるかも知れない意見を同時に聞いて、ちゃんと自分の中で租借できなければ、どちらかの意見に寄ってしまう可能性もあるよね。それで本当に大丈夫なのだろうか?」

 と考えた。

「お兄ちゃんだって人を好きになれば相談しないと気が済まない性格なんじゃないの? だとすれば、一人でも焚くSなの意見を聞いてみたいと思うのではないかと思うんだけど違うかしら?」

 と言われた。

「確かにそうなんだけど、そのせいで、考えがまとまらないことだって十分にある。それを思うと、人を好きになるのって無理があることなんじゃないだろうか?」

 と、彰浩は言った。

「いちかは、どんな男性が好きなんだい?」

 と彰浩に言われて、

「うーん、これと言って、どんな人が好きっていう感じではないの。でもね、まわりの女の子がキャーキャー言っているような、男性アイドルには興味がないの。まだ声変わりもしていないような子をどうして推しとして、追いかけまわさなければいけないのか、理解に苦しむわ」

 といちかは言った。

「それは俺も同じことを感じるんだ。でも。女性は男性に比べて発育が早いって言われているだろう? だから、同い年くらいの男の子を頼りなく思っているから、逆に自分が主導権を握れるのではないかって思うんだろうね。男性アイドルの男の子たちというのは、女の子が感じる男の子というラインにちょうど乗っているくらいの子が多いんじゃないかな? そう思うと、アイドル事務所にうまく嵌められてしまっているようで、なんだか、情けなく感じるくらいだね。もっともそれは女性アイドルを追いかけまわすヲタクの連中にも言えることなんだろうけどね」

 と、彰浩は言った。

「そうなのよ。私もそれが何か嫌で、特にアイドルというと、私たちとは違う世界で生きている人というイメージがあるでしょう? それがいいと思っているのに、中には、どこにでもいるような女の子がアイドルだって言っていることもあるけど、それって少数派なのよね? 基本的にはアイドルというと、握手会やコンサートなどで、グッズ販売などで収益を挙げるのが商売なのよね。それを思えば、、写真写りも決してあなどれない。だとすると、どこにでもいるような女の子で、グッズが売れるのかって思うんだけど、どうなのかしらね?」

 といちかは、言った。

「俺はあまりアイドル業界については知らないんだけど、十数年前に出てきたアイドルグループで、今ではどこにでもあるような、楽曲に対しての選抜メンバー制というのがあるよね? あれってどうして選抜メンバー制になったか知ってるかい?」

 と聞かれたいちかは、

「分からないわ」

 というので、

「元々、地下アイドルで数十人のグループだったんだけど、ある時、メジャーデビューした時に、ある歌番組で、今話題のアーチストというっコーナーがあったんだけど、その時に、最初は全員で出たんだけど、どうしても、カメラの問題や会場の広さの問題で、プロデューサーから、人数を絞ってくれと言われたらしいんだ。それで、テレビに出るメンバーを選抜制にすればいいのではないかということを、グループのプロデューサーが言ったところから、今の選抜メンバー制というのが始まったというんだ。今でこそ当たり前のようになってきたけど、せっかくアイドルとして一緒に絵ビューしたのに。テレビに出れるメンバーと出れないメンバーで差が生まれるというのもね」

 と彰浩が言った。

「でも、どうやって選ぶというの?」

 と、いちかに聞かれた彰浩は、

「そこは、先ほど言ったように、握手会の人数だったり、チェキを撮る時の券の売り上げであったり、グッズの販売実績などを考慮にしてではないかな? そのうちに、CDを買ってくれた人に、その中に応募券があって、そこに推しの名前を書いて送ると、それが一票になるというやり方をしていたんだよ。ただ、それをすると、熱狂的なファンは、推しのために、CDをたくさん買って、その応募券に推しの名前を書いて送るという、いわゆる組織票というのもあっただろうね。それでCDが売れたりグッズも売れるのだから、事務所としては、ホクホクだったんじゃないかな? だけど、熱狂的なファンは、それで何百万も使う人が出てきたりして、問題になったりしたこともあっただろうね」

 と、ため息をつきながら彰浩がいうと、いちかは、怒りがこみあげてくるのか、

「何か釈然としないわね、どんなにお金を使っても、アイドルに近づけるわけもないし、熱狂的過ぎると犯罪になったりしないのかしら?」

 といういちかに、

「それはあっただろう。包丁を持ち出して、切りつけたなんて事件もあったりしたしね。それを見たとき、アイドルというのも、命がけなんだなって思ったんだよ」

「本当にそうよね」

 というので、

「ああ、そうさ。だから、今のアイドルにはいろいろなしがらみがあったりするだろう? たとえば、恋愛禁止という制約ね。あれを見た時、アイドルってそんな思いまでしないといけないのかって思ったけど、アイドルになりたいと思うと、覚悟がいるのだということを示しているようで、理解できた気がしたんだよ」

「どういうこと?」

「恋愛禁止というのは、二つの意味があると思うんだ。一つはファンの期待を裏切らないようにするため。何といっても、アイドルはその容姿であったり、パフォーマンスでファンを魅了するものでしょう? だから、ファンになってグッズやCDが売れる。そして、ファンはお金を使うことで、アイドルと繋がっているという妄想を抱かせることが、事務所とアイドルの務めではないだろうか? それなのに、彼氏がいます。などというと、ファンは失望するよね? ファンはファンであって、誰もが平等だと思っていると思うんだ。だからグッズの売り上げ貢献などで自分が他の人よりも勝っているという小さな自己満足を感じることができる。だけど、彼氏がいるなんていうと、ファンは二の次になってしまい。ファンとすれば、裏切られたと思うに決まっているからね。恋愛したいなら、アイドルになりたいなんて思ってはいけないということ。アイドルになるには、捨てなければいけないものもあるということだね」

 と彰浩は言った。

「何か可哀そう」

 と、いちかがいうので、

「そんなことはないさ。もう一つの理由としては、彼女たちを守るということも含まれているからね。裏切られたと思ったファンは、先ほどのナイフを持ち出した事件のようなことが起こらないとも限らない。だから、アイドルというのは、言い方は悪いけど、アイドルという名の商売道具ということになるんだ。事務所は彼女たちを売り出すために、かなりのお金を使っているだろうし、ファンだって、お気に入りにトップをとってほしいという思いから、相当なお金を使うことになる。それを思うと、かわいそうというのは、少し違うような気がするな」

 と彰浩は説明した。

「今はSNSとかが主流なので、アイドルの熱愛が発覚すると、結構掲示板が荒れたりしているよね。擁護派もいるにはいるが、ほとんどは、裏切られたという思いの人が多いよね、普通に考えれば。規則を守れなかったことと、チームのイメージを損ねたことでの、他のメンバーや事務所に対しての裏切り行為ではないだろうか。でも、中にはね。見つからなければいいんだ。何が悪いと言って、見つかったことが一番悪いという人もいる。そういう意味では、いつどこで、週刊誌の記者がカメラを構えて待っているかということだね。要するにアイドルというのは、どこまで行っても、商品であり、ファンに疑似恋愛を想像させることしかできず、お金を使わせることで、その欲求を晴らさせるというものだと言えるのではないかな?」

 と彰浩は言った。

「うーん、裏の話を聞いていると、本当は聞きたくもなかったような話にも思えるんだけど、それでもアイドルになりたいという人は後を絶たずに、似たようなグループはたくさん出ているもんね。まだまだ今のようなアイドルの形って続いていくのかしらね?」

 と、いちかが聞くと。

「それはそうかも知れないね。今メジャーデビューしているアイドルは結構いるけど、地下アイドルとして活動しているグループはもっとたくさんいるんだろうね。必死になってアルバイトをすることで食いつなぎ、時間があれば、レッスンを重ね、歌やダンスの教室に通い、または、オーディションなども受けたりする。アイドルと言っても、歌って踊るだけがアイドルではないよね。バラエティーに出たり、ラジオや部隊などに活路を見出したりね。勉強していい学校に入って、卒業後、アナウンサーなんて人もいたりする。中には、AVデビューする人だっているくらいだからね」

 というのを聞いて、

「えっ、av女優もいるの?」

「うん、AVというのも結構バカにできないんだよ。AV女優も男優の結構たくさんいて、AVに関わっている人は本当にたくさんいるんだ。AV女優で売れっ子ともなると、年間で百本以上の作品に出ている子だってたくさんいる。ということは、毎日必ずどこかで何組かの撮影が行われているということであり、それを思うと、スケジュール管理は、芸能人や政治家に負けずとも劣らずと言ってもいいかも知れないよね。引っ張りだこの女優になると、半年前くらいまでのスケジュールがびっしり詰まっているかも知れないくらいだよね」

 というのを聞いたいちかは、

「そうなんだ、AV業界というのも、バカにできないものね。蚊が得てみれば、レンタルショップと同じくらいの広さの店に、AVのCDが所せましと置いてあるんだから、当然のことよね?」

 というので、彰浩も、

「そうだよ、彼女たちだって、立派な女優だと俺は思っているんだけどね。絡み以外のべ面でも演技も、結構上手だと思える子だっているからね」

「でも、それだけたくさんの数の作品を撮っているんだから、それだけ男優の数も、監督を含めたスタッフの数もそれだけいるということなんでしょうね」

 といういちかに。

「その通りさ。監督をやりながら、編集や脚本も書いている人は結構いるからね。数をこなそうと思うと、予算の問題もあるので、結構大変なものなんだろうね」

 と彰浩は言った。

「いちかは、AVなんか見ないんだろうな」

 と、そうであってほしいという思いを込めて彰浩は聞いたが、

「えっ、そんなことはないよ。友達のところでたまに見たりするもの」

 と、あっけらかんとしていうので、彰浩は呆れてしまった。

――女の子というのは、そこまであっけらかんとしているものだろうか? 見ていることはいい悪いの問題ではなく、そのことを平気な顔をして、相手に言えるという神経が不思議な感覚にさせるのではないか――

 と感じさせるのであった。

「私はAV女優を見るのが好きなの。そのあたりの女優や、アイドルの女の子よりも、綺麗だったり、可愛いと思う子が結構いると思うのよ。CDのジャケットなんかみると、アイドル顔負けの子って結構いるし、元アイドルの子などは、アイドル時代こそ、地味で清楚なイメージだったけど、AV女優ともなると、完全に性癖が顔に出ているような女の子もいたりするから結構すごいと思うのよ」

 と、いちかは言った。

「いちか、お前、そこまで語れるほど、AVを見たりしているんだね?」

 というと、

「うん、そうね。だって、私は今思春期の真っ只中なのよ。そういうものを見て、、欲求不満を解消させないといけないと思うの。でも一人で見ていると、悶々としてしまうような気がして、皆で見ることにしているのね」

 といちかがいうではないか。

 それを聞いた彰浩は、少し呆れた気もしたが、よく考えてみれば、自分が思春期の頃はもっとすごかった気がする。女の子が気になるというのもあったが、同じ世代の男も意識しないわけでもなかった、

 それは、彼らの顔にできたニキビや吹き出物を見ていると、普段から欲求不満を貯めていて、アダルトビデオくらいでは、発散させることができないのではないかと思えるほどであった。

「俺にもあんな汚らしいものがあるんだろうか?」

 と思うと、あんなやつらと一緒にされても困るという思いが強かった。

 そんな男の子たちを同年代の女の子が好きになるだろうか?

 ハッキリとは分からなかったが、もし相手をするとすれば、お姉さんのような人ではないかと思えて、いわゆる、

「筆おろし」

 をお願いするお姉さんタイプの女性、彰浩の近くにはいなかったような気がしたので、、そんなお姉さんに、筆おろしはしてもらえなかった。

 彰浩が童貞を卒業したのは大学に入ってからだった。

 それまで付き合った女性とは、セックスをするというシチュエーションにはならなかった。

 誰かがお膳立てをしてくれなければ、童貞を卒業することはできないのだと思っていた。それは自分だけがということではなく。皆そうなのだと思っていたのだ。

 だから、付き合いった相手が、彰浩のことを、

「セックスを対象にする男としては見ていなかった」

 ということであろう。

 女性の中には、童貞が好きで、童貞キラーと呼ばれている女性もいると聞くが、その人はほぼほぼ姉御肌で、慕ってくれる男の子に優しくするという自分を思い描くことで自己満足していたと言ってもいいだろう。

 彰浩は、彼女たちが好む相手ではなかったということだろう。もし好む相手であれば、女性の方が放ってはおかない。童貞キラーのような女性は、男性に対して、獲物を探す狩人として自分をイメージさせていたに違いない。

 彰浩の童貞は、大学に入ってから先輩に連れて行ってもらった風俗だった。

 さすがに国立大学。高校生の頃は、受験一筋で、それ以外のことは頭になかった人が多かっただろうが、大学に入ってしまうと、自分が置いてけ堀にされてしまったという感覚で、

「早く追いつかないと」

 と感じていたに違いない。

 妹のいちかのことが頭の中になかったわけではない。むしろ、綺麗になった妹にドキドキしないわけでもなかった。

「中学時代に、子守をしたあの子が」

 という思いがあった。

 もし、血がつながっていない、近所の妹のような女の子であれば、これだけ年の差があっても、気にすることはなkったのかも知れない。むしろ年が離れているからこそ、慕ってくれるのだと思うと、罪悪感が薄れてくるのではないかと感じたのだ。

「はっ、何を考えているのだ?」

 と感じた。

 これでは、年の差のあるカップルを容認しているようなものではないか。よくドラマなどで年の差結婚の話があったりしているのを見ているからか、どこかほのぼのした関係に見えていたので、その分、血の繋がりがなければ、このまま、いちかのことを好きになって、付き合うくらいはあってもいいのではないか? と思うに違いないと思うのだった。

 だが、実際には、いちかも自分に対して兄以外の意識はないように見えるのはよかった気がする。

 もし、言い寄られてしまったら、なんといって拒否すればいいのか、果たして拒否ができるのか。そのあたりが気になるところであった。

 腹違いとは言え、兄妹なのだ。近親相姦であることに違いはない。

 そもそも、女性に関しては晩生であり、初体験も大学の先輩から連れて行ってもらった風俗という、

「童貞にとっての最後の砦」

 だったのかも知れない。

 妹のいちかをそういえば、会社に入ってから誰にも紹介したことがなかった。そもそも、妹がいることを話したこともなかった。昔ならいざ知らず。今は人の過程のことを聞き出してはいけない時代だからである。

 いちかは、どうやら告白してくれた彼と別れたようだ。

 いや、別れたというよりも、

「お付き合いを丁重にお断りした」

 と言った方が正解だったようだ。

「結局、付き合わなかったのか?」

 と聞くと、

「うん、私が好きになれそうな気がしなかったの。やっぱり好かれたから好きになるという感覚はちょっと違うのかも知れない」

 というので、

「どうしてそう思うんだ?」

 と聞くと、

「確かに好かれたから好きになるという付き合い方もありだろうと思うんだけど、でも、付き合うということを考えた時、自分から相手を好きになるというときめきと、告白されたから、初めてその人を見るという気持ちでは、すでに自分が置いて行かれている感覚になるのよね。だから、ずっと彼の背中しか見えておらず、その背中の先にある顔の表情がどういうものなのか分からず、追いかけていると、振り返った時、まるでのっぺらぼうだったというイメージが想像されて。怖かったのよね」

 と、いちかは言った。

「なかなか想像力が豊かだね。でも、いちかはそれでよかったのかい?」

 と言われて、

「ええ、いいの。私は結局その人のことを好きになれるという感情はなかったの。それにね。私はいつも誰かの背中ばかり見つめながら歩いてきたの。この期に及んで他の人に対して同じような感覚になるというのは、嫌なのよ。私の中でその人に失礼だと思うし、そもそも比較するということ自体が間違っているという感じがするのyね」

 と、いちかは言った。

「なるほど、いちかはちょっと話をしていない間に大人になったんだね? まるで芸術家のような言い回しなんだけど、内容は科学的な理屈でありながら、話は非科学的なのっぺらぼうという発想が出てくるというのは、面白い気がするんだよね」

 と、彰浩は言った。

「お兄ちゃんは、私が見ているその後ろ姿って、誰のことだか分かっているの?」

 と聞かれたので、

「いいや」

 と答えた。

 彰浩自身は、嫉妬も半分あるので、本当は軽く聞き流したところであったが、逆にいちかの方が意識するということは、遅かれ早かれ言いたかったのだろう。

 すぐに、

「それは、お兄ちゃん、あなたなのよ」

 と言いたかったのはやまやまだったが、それを言ってしまうことで、兄を悩ませ、結局自分に自己嫌悪を押し付けてしまうことになると感じたいちかは、すぐに何も言えなくなったのだった。

 そんないちかの素振りを見ていて、

「何かがおかしい」

 と感じていた弘彰浩だったが、いちかに何か言えるはずもなく、二人の間に不穏で緊張した、さらに湿気を帯びた重たい空気がその場に充満していた気がした。

 それは、まるで水の中にいるような感覚で、必死になって平泳ぎで手を掻きだそうとするのだが、前に進んでくれない。そんなわだかまりのようなものを感じていたのだ。

「だが、どうして、重たい空気を感じた時、平泳ぎでその場から逃げ出そうとするのだろう?」

 そんなことを考えていると、まっすぐに前を見ているつもりでも、違うところを見ているようだ。

 そんな時ふと、

「吊り橋効果」

 という言葉を思い出した。

 ハッキリとは覚えていないが、確か、人を見て。恋を感じるまでの過程に、二重の感覚があるというようなことを、吊り橋の上で感じることで証明しようという考えではなかったか。

 極限の緊張感の元であれば、それまでにはない感覚を覚えたり、本当の自分を発見できたりする感覚。それが自分にとって、いちかがそばにいることだった。

「俺はいちかを好きなのか?」

 と思った。

 そして、その過程がいかなるものか、考えようとするが、よく分からない。最初の緊張から、このよく分からないという感覚を含めて、そのすべてが恋愛感情なのではないかと思うと、彰浩には、またしても、いちかが妹だということを、妄想の中で、結界があるということを感じさせ、その結界が、

「近親相姦という禁断の果実」

 だと感じるのだった。

「禁断の果実」

 あれは、旧約聖書の中に出てきた、アダムとイブの章でのこと。

 リンゴだと思っているが、果たして何だったのか、今から思えば改めて考えさせられる。

 ちなみに、この、

「禁断の果実」

 というのは、

「善悪の知識を知るものだ」

 ということである。

 それまで神により、楽園にいたアダムとイブは、神から、

「食してはいけない」

 と言われたその果実を、イブが好奇心から食べてしまい、アダムにも分け与えてしまう。

 二人はそれにより、裸を恥ずかしいものとして感じ、イチジクのはで身体を隠そうとしているのを神が見て、

「なぜ、イチジクの葉をまとうのか?」

 と神に聞かれた二人は何も答えられなかった。

 それで神は状況を把握し、二人が禁断の果実を食べたということを理解し。二人に、死という定めを与え、楽園からは追放し、生きるには厳しすぎる環境を与えたということであった。

 この話は、旧約聖書の、「創世記」という話の中にあることであるが、この話には人間の基本的なことが入っている。

 まず一つは、

「恥じらいを感じ、無垢ではなくなった二人は、隠すことを覚えた」

 そして、

「禁断の果実とは、善悪の知識を持ったものであり、二人は善悪の感覚を知った」

 ということ、さらには、

「人間はすべて、死という運命から逃れられない」

 ということが、神の命令に従わなかったことで、課せられることになるというお話であった。

 つまりは、近親相姦という、いわゆる、

「タブー」

 と言われることを犯してしまったら、何が課せられるか分からない。

 それを思うと、近親相姦が禁断の果実であるということは分かっていることだ。

 つまりは、禁断の果実の話は、

「善悪を知ってしまうことで、思考回路が人間にあること、そして、人間には、その善悪の判断をするには、まだまだおこがましいということなのではないか?」

 と言えるのではないだろうか。

 そうやって考えると、人間社会における法律や秩序というものは、本当に正しいものなのかどうか難しい。

 さらに考えられるのは、

「善悪の善というのは、正しいということと、同意語だと考えてもいいのだろうか?」

 という考えであった。

 そもそも、この考え方というのは、

「人間至上主義」

 から来ているものではないだろうか。

 どうしても、人間は、これまで宗教によって、歴史が作られてきたと言っても過言ではない。

 ただ、その宗教を、その時々の、そしてその土地の権力者が巧みに使ってきたというのも、これもまた事実である。

 宗教の考え方によって戦争が起こったというのも事実であり、かつての十字軍であったり、欧州における宗教戦争と言われるものが、その例である。

 最近であれば、中東における戦争も、一種の宗教戦争ではないだろうか。

 そもそも、同じ土地が、まったく違う宗教の、

「聖地」

 だというのも、おかしな気がするのは、彰浩だけであろうか?

 聖書というものも、キリスト教のバイブルであり、宗教とは違うが、

「ギリシャ神話」

 であったり、

「ローマ神話」

 と言われるものも、人間への警鐘のようなものなのかも知れない。

 実際に、聖書とギリシャ神話、ローマ神話の中に、似たような話が出てくることもあり、

「一体この時代、どのような考えの人がいたのだろう?」

 という興味に誘われると言ってもいい。

 ただ、ギリシャ神話などは、神と人間の世界は。近いものであるが、決して見ることのできない、

「結界」

 のようなものがあるのも事実で、ハッキリとその存在を感じている人も多かったのかも知れない。

 その結界は、神の世界にもあるようで、全治万能の神といわれる、

「ゼウス」

 が仕切っているのだが、ゼウスというのがかなりの嫉妬深い神であり、嫉妬によってどれだけの物語が生まれたか、

「ギリシャ神話というのは、嫉妬の文学だ」

 と言ってもいいのではないだろうか。

 ゼウスは、神の中で絶対の力と権力を持っている。わがままし放題と言ってもいいのだろうが、人間社会においても同じように、独裁者が出てくると、世の中の勢力バランスは崩れてしまう。

 その影響は、生態系にも及ぶもので、自然環境破壊にも及ぼすものなのかも知れない。

 今の世界で起こっている、

「自然災害」

 であったり、

「謎の伝染病の流行」

 などは、どこかの独裁者の所業が、人類に対して、巡り巡って、大きなブーメランとなり、戻ってきているのかも知れないと感じるのだった。

 その時感じるのは、

「ハツカネズミやハムスターなどが、檻の中で玉のような回転する中で、必死に走っても先に進まないという、永遠のスパイラルを描いているのと似ているのではないだろうか?」

 そういえば、あれは、かなり昔のテレビで見た覚えがあったのだが、確か何かの特撮であったと思う。かなり昔の放送を、CSで見たのだが、その時に心の中に残ったセリフとして、

「それは、血を吐きながら続ける、悲しいマラソンですよ」

 という言葉が思い出されるのだった。

 あれは確か、時代背景に、ソ連とアメリカによる、

「冷戦」

 というものが背景にあった気がした。

 ちょうどその五年くらい前に勃発した、

「キューバ危機」

 がその根底にあったのではないか。

 つまり、核軍拡競争というものであり、

「相手がこちら以上のものを作れば、こっちも相手以上のものを作る」

 という負のスパイラルであり、さらに、

「持っているだけで、使わなくとも、平和は守れる」

 という、抑止力だということが、軍拡の根本だった。

 しかし。

「いったん、発動されると、そこに待っているのは、一瞬にして破滅しかないことを悟る瞬間が来る」

 ということであり、いかに軍拡がその先にあるものは、破滅しかないということを証明しているということが分かるということであった。

 これも、一種の宗教戦争に似ているのではないか?

 自国を防衛するという理由が、相手を破壊することにすり替わってしまうと、

「攻撃こそ、最大も防御」

 という言葉を履き違えてしまうのではないかと思わせるのであった。

 確か当時の、アメリカ大統領、ケネディを悩ませたのは、

「アメリカを始めとする世界中の子供たちが死んでいくという悪夢を見たことだ」

 というものであったという話を聞いたことがあった。

 相手との交渉もさることながら、一番の問題は、勘違いや錯誤によって、核ミサイルのボタンが押されてしまうことだった。

「自分たちに向かって、核ミサイルが飛んでくるということは、到着した瞬間に、破滅しか残されていないということで、核ミサイルのボタンを押してしまうと、終わりなのだ」

 ということであった。

 こちらに向かって飛んでくる核ミサイルがあれば、もうそれを途中で撃ち落とすことはできない。撃ってしまえば、迎撃しても、そこで核爆発が起こる。それはありえないことだった。

 そうなると残された道は、

「相手も道連れにして、ともどもに滅亡することだ」

 ということで、こちらも核ミサイルを発射することだろう。

 抑止力として持っていただけのミサイルの発射は、破滅しかないということも分かっていたはずだが、そうなっては仕方がない。

 つまりは、

「二匹のサソリ」

 と同じことである。

「自分たちは相手を殺すことができるが、相手もこちらを破滅させるだけのものを持っているので、先制攻撃であっても、死でしかない。つまりは、動いた瞬間に、二匹ともこの世にいないという構図しか残されていないということなのだ」

 というのが、二匹のサソリの考え方だった。

「血を吐きながら続けるマラソン」

 とはそういう意味であり、あれから。五十年以上も経った今でも語り続けられる名言であったのだ。

 そういう意味でいえば、当時からのテレビ黎明期からの拡大期においては、このような教訓的な話が多かったような気がする。

 歴史の勉強にはもってこいなのではないかと思えるが、彰浩はそういう意味で、昔の特撮などを見るのが好きだった。

「どうも今の特撮は話の規模だけは大きいが、説明として成り立っていないので、薄っぺらい気がするな」

 と、考える。

 世の中のタブーと言われるものに真剣に取り組んでドラマやアニメ、特撮につなげようという発想はないのかも知れない。

「難しすぎると、子供がついてこれない」

 と考えるからであろう。

「禁断の果実」

 に手を出すことは一体どういうことなのか、今自分の目の前にあるものとして

「近親相姦」

 というものが、善悪の判断ということになれば、まず間違いなく、悪になってしまうのだろう。

 近親相姦というと、前述のように、忌み嫌われるものとして昔から言われてきた。

 これこそ、イブが口にしたことで、恥じらいという意識が生まれて、その時に齧った禁断の果実の意識が、

「近親相姦というのは、いけないことなのだ」

 として、遺伝子に乗って脈々と受け継がれてきたのではないだろうか?

 遺伝子というのは、元々持っていた人の意識や記憶がどこまで受け継がれるのかは分からないが、少なくとも、その人が感じている本能というものは、人間として共通で受け継がれるものもあれば、

「先祖代々、血の繋がりによってのみ、受け継がれるものもある」

 と言えるであろう。

 その受け継がれるものは、同じ血が混じって、その濃度が濃くなってしまうと、変な化学反応でも起こすと考えられたのか、よく言われているのが、

「身体障害者を生み出してしまう」

 ということであった

 生涯において、生まれながらにして背負わなければいけないことを背負わされるというのは、実に悲惨なことだと言えるのではないだろうか。

「だけど、どうして血が交じり合うことがまずいというのだろう?」

 という素朴な疑問である。

 他の人との交わりであれば、血が薄くなってしまうという方が、よほど、問題は大きいのではないかと思うのだ。

 だが、古来から人間は血の繋がりで自分たちの世界を形成してきたはずだ。今の時代のように個人の問題ではなく、

「先祖代々から続いてきた家系を、自分の代で途絶えさせてはいけない」

 ということで、誰もが結婚を当たり前のこととして、さらには、子供を産むことを仕事だとして考えてきた。

 そこに、血が交じり合うという発想はあってはならない。それが、近親相姦の発想なのだ。

 もちろん、法律でも、

「三親等未満の近親者とは、婚姻をしてはいけない」

 ということになっている。

 昔の小説でも、近親相姦で生まれた子供が、復讐から犯罪を犯すという探偵小説も結構あったではないか。

 それこそ定番ネタであったであろう。

 禁断と言われていることを、小説のネタとして書くのだから、その表現はデリケートなものでなければ、成立しないと言えるのではないだろうか。

 しかし、それを思えば思うほど。彰浩は次第にいちかのことが気になって仕方がなくなってきた。

 ひょっとすると、初恋以来の本当の恋なのかも知れない。

 今まで普通に恋愛をしようと思っても、うまくいかなかったのは、

「このタイミングで、いちかに出会うためだったのではないか?」

 と思ったからだ。

「この人と結婚することになるだろう」 

 と、運命的な出会いをするというが、いちかとは、彼女が生まれた頃から知っている。

 その思いは、他の人にはまずないものだろう。

 幼馴染だと言っても、三つくらいしか離れていなければ、妹が生まれて時から知っているということにもならないだろう。

 少なくとも、小学生に入ってからくらいにしか、生まれた時の意識が残ってはいないのだろうと思う。彰浩には、いちかが生まれた時の記憶が、まるで昨日のことのように思い出される。

 最初に見た時、

「何てブサイクなんだろう?」

 と感じた。

 それは、赤ん坊なのだから当然のことであって、ブサイクだという最低の意識を最初に持ったことで、後はいい方にしか浮かんでこないことは分かり切っていることだった。

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