第3話 SMの関係性
「中学生になって妹ができるなんて」
と、最初は自分に弟か妹ができることに、感動も何もなかった。
それよりも、咲江さんの滑稽に見えるお腹がちゃんと前のように小さくなればそれでいいとしか思っていなかったので、それを思うと、、
「せっかく小さくなったのに、何か以前の咲江さんとは違う人のようだ」
と感じたのは、急におばさんのようになったのを感じたからだ。
それでも父親は喜んでいる。
「でかしたぞ、咲江」
と言って、手放しに喜んでいる。
その様子を見ていると、
―ー子供ができるって、そんなに嬉しいことなのか?
と喜んでいる父親の姿が、まるでお腹が妊娠中の咲江さんのようで滑稽にしか見えなかったのだ。
生まれてくる子供が女の子であるということは、数か月前から分かっていた。父も咲江さんも二人して子供の名前を考えていたようで、生まれてきてすぐに、名前を呼んでいた。
「初めまして。いちかちゃん」
と二人で名前おw読んでいたので、すぐに妹の名前がいちかだということは分かった。
さすがに産婦人科の先生も看護婦さんも、いきなり子供の名前を呼んでいる親を見て驚いている様子はなかったので、結構最初から名前を決めている親も多いのだろうと思った。最初から性別は分かっているので、それも当然に思えるが、昔からの命名式のようなものがないのも寂しい気がした。
彰浩が初めて妹を見たのは、ベビールームでたくさんの赤ん坊が並んでいるところであった。
どの子供も同じように、等間隔のベビーベッドに寝かされている。その姿を見た時、
「これじゃあ、名札を付けていなければ、どれがどの子なのかって分からないよな」
と感じた。
それにしても、生まれてきた子供は皆見分けがつかないということは分かっていたが、こうやって十人以上の子供が並んでいると、爽快というか、滑稽というか、ほのぼのした光景に感じられた。
産婦人科というと、他の病院とはまったく違う。病院という雰囲気はまったくせず、子供と母親のホテルと言った赴きに感じられるのはビックリだった。
妹が生まれるまで入ったことがなかった産婦人科という空間には、ビックリさせられるばかりだった。
実際に子供が生まれてしまえば、母親は栄養を取らなければいけないということで、夕食は天ぷらだったようだが、まるでホテルの食事のようで、病院食がどういうものなのかを以前、父親が入院した時に見ていたので、分かったのだが、天と地ほどの差があると言ってもよかった。
さすがに子供を産んだ翌日の咲江さんの姿は憔悴しきった様子で、子供を産むということが本当に大変なのだということがよく分かった。
ドラマなどを見て、妊婦がいきんでいる姿を知っていたので、大変だということは分かっていたが、本当に妊婦というものをずっと見てきていると、よく分かった気がしていたのだ。
いよいよ母親も体力が回復してきて、退院ということになってくると、家の方でも、赤ん坊を迎え入れる体制が整っているので、
「家族が一人増えるんだ」
という感覚が大きくなっていたのだ。
とは言っても、まだ手のひらサイズと言ってもいいくらいで、まるで犬や猫の子供を見ているようで、
「これがお前の妹だ」
と言われてもピンとくるはずもなかった。
それよりも、見ているとずっと寝ているので、子供心に、
「幸せそうに寝ているな」
という思いが強かったのだ。
しかし、そのうちに、夜泣きもひどくなり、ミルクの時間も増えてくる。何が嫌といって、部屋に子供の臭いが充満しているのはたまらなかった。
「よくこんな臭い、我慢できるよな」
と思っていた。
中学生になったことと、妹ができたことで、自分の部屋を別に持てるようなマンションに、やっと引っ越すことができ、自分の部屋にもカギがかかるようになって、やっとプライバシーが守れると思うと、嬉しかった。
小学生の頃までは、そんなに部屋を別にしてほしいとまでは思わなかったが、いざ部屋を別にしてもらうと、もう一人部屋でなければ我慢できないという感覚になってきたのだった。
この思いは、
「思春期になってきたからだ」
と思うようになった。
義理とはいえ、母親の咲江さんと一つ屋根の下に住んでいるというだけで、変な気持ちになった。女として見ているからだとは思っていたのだが、その思いが強いからか、退院してからの咲江さんを見るのは、ある意味堪えがたかった。
それは、子育てをしている咲江さんの姿に、まったく想像もできなかったほどの、やつれた雰囲気を感じるからだ。
「何があっても、物どうじしない雰囲気を醸し出していたのに」
という意識があったからで、その堂々とした佇まいに、
「大人の女:
を感じていた。
大人の女というのは、余裕を感じさせ、絶対に、時間に追われるような素振りを見せないものではないかと思っていた。
本当は時間に追われているにも関わらず、家族や目下の人には絶対に見せてはいけない領域を持っているのだと思っていた。だから、大人の女には余裕が感じられ、人を引き付ける力があるのだろう。
だが、今までそんな雰囲気しかなかったはずの咲江さんが、自分の子供に完全に翻弄されている。
生まれたばかりの子供に、それまでのすべてを否定されているかというほどのその姿に、想像もしていなかった様子は、驚かされるばかりであった。
「咲江さんがあんなになるなんて」
と、それまで感じていた大人の女という雰囲気が瓦解していくのを感じたのだ。
そう思っていると、
「もう、どこにも大人の女なんて存在しないのではないか?」
と思わせ、思春期になった自分のこの気持ちをどこに発散させればいいのか、考えさせられる。
「大人の女を感じることができるように、思春期というものは存在している」
と思っていた。
しかし、今まで感じていた大人の女というものが、自分の中で瓦解したことで、新たな大人の女を果たして感じることができるものなのかと思うようになった。
それはきっと最初に感じた大人の女である咲江さんと同じような相手を本当に探すことができるかという思いに駆られるからだ。
しかし、それは実に難しかった。
そもそも、同じタイプの女性を見つけること自体、難しいことであった。あくまでも、咲江さんへの印象派幻影であり、自分を子供としてしか見ていなかった咲江さんを、自分の理想の女性のように思おうとするのは、無理があった。
もう一度、咲江さんを頭の中からリセットして、自分と同じ高さの女の子に対して、
「大人の女」
を感じさせる相手というものを探す方がきっと、楽なのだろう。
しかも、他の連中は彰浩が感じているような、大人の女を他の誰からも感じたことはないだろう。
大人というものがどういうものなのかを知る前に、大人の女を感じたというのは、背伸びした少年ということであり、背伸びした少年は、大人の女から見れば、可愛い子供でしかないのだ。
「ちょっと遊んでみようかしら?」
などと思う女性も少なくはないだろうが、それは決して大人の女ではない。
思春期の男の子は、そんな大人の女に遊ばれてみたいというちょっと変わった願望を持っていたとしても、それは無理もない。なぜなら、身体が大人になっていくことに気づいていないからだ。
人を好きになると身体が反応する。抑えることができないような欲望が、身体の奥から湧いて出る。ムズムズした感覚が気持ち良かったりもするのだが、これが、精神よりも身体の方が先に大人になっていく感覚であり、アンバランスな生育を初めて感じるこの期間を、誰もが通る時期だということを意識しながら、過ごしているのであろう。
中学生になって、まさか自分が子守をすることになるなど、想像もしていなかった。小学生の低学年で子守をしているイメージは持っていたが、さすがに中学生ともなると、少し恥ずかしかったりする。
まるで、昔話に出てくるような光景を思い出していたが、そんな簡単なものではない。散歩させようとしても、道を歩いていても人がいっぱいで、公園に行っても、結構大変である。
母親とすれば、
「彰浩君は、もう中学生なんだから、大丈夫よね?」
と思っているだろうが、思春期になっているということを忘れているのかも知れない。
クラスメイトの女の子だけではなく、同世代の連中すべてに対して恥ずかしいと思うだろう。
自分が親になるには、まだ早く、妹を持つには年を取りすぎているという中途半端な年齢で、相手は何も分からない子供なのだから、感謝の気持ちなどあるわけもない。
それでも子守をするのは、ひとえに、
「咲江さんに喜んでほしい」
という気持ちがあるからだ。
咲江さんに子供ができると、もう母親になってしまったのだから、咲江さんを女として見ることはできない気がしていた。
しかし、母親として見ることもできず、その悶々とした気持ちは、やはり母親というイメージになってしまうのだ。
「だったら、妹を兄として可愛がるのも無理もないことだ。それによって、咲江さんが喜んでくれるのであれば、それでいい」
と思うようになると、子守も苦にならない気がしていたのだ。
だが、実際に子守をしてみると、母親としては、
「お兄ちゃんなのだから、子守は当然の仕事だ」
とでもいうような態度を取られてしまうと、せっかく咲江さんを母親としてみてやろうという気持ちだったのが、またしても、そうもいかなくなってくる。
そんな思いを抱きながら、不本意な気持ちの中でも子守をしていると、子供に対して開いちゃうが湧いてきた。
「これが俺の妹なんだな」
という感覚である。
自分が高校生になると、やっと彼女もできた。中学時代は、悶々とした思春期を過ごしてきたが、子守がその気持ちを和らげてくれていたような気が、高校生になってからしてくるようだった。
子守をしているおかげで、彼女がいないことへの、自分に対しての言い訳になったのではないかと思うと、言い訳ではあったが、妹のいちかに感謝だと覆っていた。
そういう、気持ちに余裕が持てるようになったことで、気持ちの余裕が自分に彼女を与えてくれたのだろう。
彼女ができてから少しして、
「気持ちの余裕というのは、彼女ができてから振り返ると、最初からあったように感じたもので、いつ彼女ができるのかということも、予感としてあったような気がする」
と感じたほどだった。
できた彼女というのは、咲江さんのイメージとは正反対だった。
似ているところというと、控えめなところくらいであるが、見た目は、咲江さんに感じた、
「大人の女」
というイメージをまったく彷彿とさせないもので、あどけなさは明らかに子供がそのまま成長しただけのものだった。
彰浩も純情だったので、
「お互いに純情なところが、気が合うところだったのだろう」
というものであった。
だが、彼女に対してのイメージは、虚空に過ぎなかった。見た目と本質は想像以上に差があり、そこには溝があるくらいの気持ちだったのだ。
大人というのが、どのようなものなのか、彼女を見ていると分かると思っていたが、そうでもなかった。あどけなさが、子供を思わせるわけではなく、彼女にはあどけなさの中に、人には譲れない頑固なところがった。それまのに、まわりの連中からは、
「あんなに純情で、大人の世界を知らないような、三行半のような女性は、そうはいないぞ。羨ましい限りだ」
と言って、羨ましがられるが、本当はそうではないと言いたいのに、意地なのか、言えないところが、悔しかった。
ただ、彼女は、強引なところがあった。
今まで接してきた女性に、自が強い女性もいたが、強引な人はあまりいなかった。
相手を立てるという意識が欠如していると言えばいいのか、それとも。性質がサド気性だと言えばいいのか、少し考え込んでしまっていた。
いわゆる、
「サディスティック」
と言われる性格であるが、彼女は最初に見た時、Mに見えた。
まわりの男性からも、今でもMに見えているはずではないだろうか? 彼女のSっぽいところが見えている「にも関わらず、この自分でさえ、彼女がMだということに変わりはないと思っている。
異常性癖と言っていいのかどうか分からないが、SMの両極とも言える性格は、曖昧ではないかと、高校生になってから、彰浩は感じた。
彼女と付き合い始めてからと言ってもいいのだろうが、Sであっても、Mに見えたり、Mであっても、Sに見えたりするというのが多いような気がした。
要するに、見た目と、接している人とでは隔たりがあるということで、隔たりだけではなく、接している人間には、
「Sなのか、Mなのか、どちらなのか分からなくなってきた」
と感じられることが多いということである。
それだけ性質が怪しいということで、
「性質と性格の不一致というのがあるのではないか?」
と思うようになっていた。
性質というのは、接している人が感じる見た目であって、これは、他人事として接していない人が見ているその目と同じではないかと思うのだった。
逆に性格というのは、ただ見ている人には分かるものではない。一緒にいて、付き合ってみないと分からない、肌で感じるものではないだろうか? 他人が、
「その人の性格だ」
と思っていることは、実は性質であって、確実な性格ではない。
だから、あまり接していない人の見る目が悪いというわけではなく、
「性格を見ているつもりで、性質を見ている」
ということであり、勘違いの一種なのではないかと思っている。
そういう意味で、SMのどちらかの性質を持っている人は、性格、つまり本質と言ってもいいかも知れないが、そんな性格を捉えるのは難しいと思っている。
それはどういうことなのかというと、
「SとMというのは、両極というべき、正反対のものではない」
と言ってもいいのではないだろうか。
正反対のものというと、
「どんでん返し」
に使われるものの礼として、歌舞伎などの舞台装置で、上から垂れ下がっている紐を引っ張ると、痴情が反転するようなカラクリを用いたものを思い出させる。
つまりは、一方が表に出ている時は、必ず、もう一方は後ろに隠れているという考え方である。
これは、昼と夜の関係にも似ている。昼間太陽が出ているから蛭であり、日が沈むとそこからはとばりが降りてきて、夜になってしまうのだ。つまりは、夜と昼というのは、じ決して共存することはない。
それを考えてのことなのか、夜を支配する神、夜を支配する神がそれぞれいて、共存しえない世界の代表のように考えられてたりする。それを思うと、これも、どんでん返しと同じではないかと思う。
もう一つ、これは性格的な発想と言えるのではないかと思えるもので、これはかつて書かれた小説であるが、
「ジキル博士とハイド氏」
という、二重人格をテーマにした小説がある。
これは、元々の性格だけではなく、誰もが持っていると考えられている、
「裏の性格」
を、表の性格と同じくらいの大きさにするという実験的な要素を持った話と言えるイメージのものであった。
本当のテーマは違っているのだろうが、話を聞いている限りでは、そのテーマこそ、
「裏のテーマではないか?」
と思い、SMの関係に結びつけたくなるのも無理のないことに感じられた。
どんでん返しにしても、昼夜の関係にしても、ジキルとハイドにしても、片方が表に出ている時と、裏にいるときとでは、同じ世界にそのどちらかしか存在することができないと考えると、そこにもう一つの仮説が生まれてきたのだ。
その仮説というのは、
「その二つは、それぞれが直線を表している」
というものであった。
つまりは、
「決して交わることがないという発想というのは、平行線を描いているからだ」
と感じた。
つまりは、直線でなければ、永遠に交わらないということはないのだ。規模が大きくなってしまうが、一見、遠くに離れていくように見えたとしても、地球を一周すれば、もう一度同じところに戻ってくるので、永遠である限り、絶対にお互いが交わることがないと言えるのは、一直線を描いている平行線でしかありえないのだ。
それを考えると、それぞれが、ブレることがなく、堂々としている必要がある。
カラクリであったり、自然減諸王であったり、小説の中とはいえ、人間の本質という言いで考えると、この考えに対しての信憑性は、かなりのものではないかと思うのだった。
SMの関係というのも同じようなことが言えるのではないだろうか?
「Sに見えるM。Mに見えるS」
という人は結構な確率でいるような気がする。
逆にノーマルに見えている人には、その対極となるものがないので、ノーマルでしかないのだろう。もし、ノーマルの後ろに、SMの性格が潜んでいるとすれば、一度どちらかの性格が表に出てしまうと、もうノーマルには戻れないと思う。それだけSMというおのは強いのので、表に出てくると、ノーマルを裏に封印してしまい、下手をすると、その性格を抹殺しかねないと言えるのではないだろうか。
だが、SとMの関係性は正反対でありながら、力は均衡している。だから、どちらかがどちらかを小説させやり、凌駕するということはできないのだろう。
「SにみえるM」
と、
「MにみえるS」
とではいかに違うのか、考えてみた。
どちらが多いのかというのは、分からないが、そもそも、
「SとMのどちらが多いのか?」
ということすら分かっていないので、それを解明することは難しいに違いない。
ただ、彰浩には、
「SにみえるM」
というのは、何となく分かる気がするが、
「Mに見せるS」
という感覚は分かりにくいと思っていた。
実際に、Mというのは、従順でご主人様には、絶対服従なのではないかと思われているが、実際にはどうなのだろう?
最近のMというのは、わがままだという人もいる。
それは、ご主人様の立場だから言えることだと思うのだが、従順であるわりに、注文が多いというのだ。
「ここは嫌だから、ここを触って」
などという言い分である。
従順であれば、ご主人様がすることは、どんなに我慢できないことであっても、一応は我慢してみようとするものではないだろうか。それを、他の部分では従順なので、自分に譲れないところは、絶対だという考えである。
主従関係としては、犬と人間のようなペットと飼い主の関係と言ってもいいのではないだろうか。
イヌはご主人様に対して従順だが、結構わがままをいう。そういう意味ではSMのような関係ではないと言える。
「SMの関係は、人間同士においてのみ形成できる」
と言ってもいいだろう。
あくまでもSMの関係というのは、お互いを何でもかんでも、主従関係だけで縛るというわけではない。
これは封建的な考えと似ているのではないかと、彰浩は感じていた。
封建的というのは、基本的に武士が台頭していた、鎌倉時代から、江戸末期までをいうのだ。
どういうものなのかというと、基本的に、主従関係があり、主は従に対して、土地を与えたり、給金と与えたり、戦争などにおいての論功行賞で、防備を与えるという責務を持ち、それに対して従者は、主人に年後を収めたり、戦争では兵士として、兵役に就いたりと、主従で互いに双方向での義務を負うということをいうのであろう。
それにより、主従の間で、決して犯すことのできない関係性というものが存在し、それが差別を呼んだり、自由、平等というものが生まれない領域を保っている。
ただそれも致し方のないことで、主人がそれだけの権力を維持していないと、統制が取れなくなり、隣国や別の世界から責められた時、一致団結して国を守ることができないのだ。
一種の独裁政権のようであるが、この体制も、当時としては画期的なものであり、ただの、
「古臭いだけの風習」
ということで片づけられないものだと言ってもいいだろう。
時代というのは、決して疎かにしてはいけないものであり、過去に学ぶものは決して少なくはない。それが歴史であり、歴史は決して暗記物ではないと言えることに繋がるのではないだろうか。
そして、その方形制度において一番大切なことは、
「主従関係は信頼関係と同じだ」
ということであろう。
主従関係に信頼関係が備わっていないと、従者が感じる思いは、
「搾取されている」
あるいは、
「独裁国家に蹂躙されている」
などという、負の要素しか生まれてこない。
封建制度において、少しでも負の要素が生まれてくると、その思いはどんどんマイナスにしかなっていかず。崩壊しか道はないのではないだろうか。
つまりは、封建制度というのは、キッチリとした制度にみえるが、信頼関係というものがなくなれば、あっという間に瓦解してしまうという、、薄氷を踏むような関係であると言ってもいいだろう。
実際に、全世界的に、封建制度はすたれていった。それはまるで、現代における共産(社会)主義国のようではないだろうか。
いろいろな社会制度が存在し、消えていったが、そもそも、封建制度や共産主義などというのは、既存の精度に対しての反省と教訓から生まれたものだった。
そもそも、元からあるものに対して、新たに出てくるものなのだから、少なからず、今の制度に対しての教訓のようなものでなければいけないだろう。
共産主義は、資本主義における欠点である、貧富の差をなくすというのが最大の目的であったはずだ。それを、国家が経済に大きく介入することで、貧富の差を少しでも少なくしようとするもので、その弊害として、
「自由」
というものが迫害されることになった。
それが、国家の最大なる干渉という社会主義の考え方で、政治的にも国家がすべてを掌握することで、独裁の色が深くなってくる。
そうなると、独裁者が一番に考えることとして、
「自分に逆らうやつを粛清していくしかない」
というものであった。
粛清というのは、自分に逆らう連中や、社会主義に対しての反政府性ry区の弾圧や抹殺である。
これは、共産主義においては、ほとんどなされていることで、
「かつてのソ連、北朝鮮。中国」
などの社会主義国で行われてきたことだった。
これは、封建制度においてもありえたことであり、江戸幕府などが、鎖国をしたのも、そのあたりに大きな影響があったのではないか。
日本国を方形的に収めていくのに、ここに外国の干渉があってしまうと、それは国家が崩壊をもたらす危険性があるというものであろう。
話は逸れたが、封建制度における双方向への考え方、そして、それぞれが抱く信頼関係がちゃんとしていなければ、氷が壊れて、冷水の中に落ち込んでしまう。
一種の、
「諸刃の剣」
と言ってもいいのではないだろうか。
それを考えると、自由というもの、あるいは、太平であるという平和というものが保たれているというのがいいことなのか、どこに真実あるいは、それぞれの求めるものがあるのか、分からないと言えるだろう。
SMの世界にも同じことが言えて、その性格を全否定する考えこそ、恐ろしいのではないだろうか。
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